第9話 玖

 頭はぼうっとして、視界はゆらゆらと陽炎でも見るかのようにぼやけている。そして、意識は波のように寄せては引いてを繰り返す。


 だが、そんな状態でもはっきりと思い出すことができた。あの愉悦に満ちた彼女の瞳を。果たして、あれはあんな女であっただろうか。


 私が彼女について知っていることなど、本当は最初から何もなかったのだ。それどころか、私は自分という人間についてすら、何もわかってはいなかった。今の私は邪な欲望を成就させることに取り憑かれた、ただの肉塊にすぎない。


 一度認めてしまえば元に戻ることはできないというのに、シロは私を弄ぶように煽っただけで、決してそれ以上を許さなかった。


「そういったことを、センセは否定されていませんでしたか?」


 柔らかなその身体を弄る私の手を捕まえると、シロは侮蔑するように眼を細めながらそう言った。


「再びこの身に戻ってきてしまった。どうしようもないんだ。それに、これはお前の望んだことじゃないか。なぜ今になってそんなことを言うんだ」


「センセ、それは誤解ですよ。わたしはそのようなことは望んでおりません。わたしはセンセのあらゆる欲望に抗う、高潔なお姿を尊敬してやまないのです。己の独りよがりな情欲になど決して身を落とすことのない、鋼のような魂の在り方を見届けたいのです」


 シロは甘く湿った吐息を洩らしながら、屹立した私をゆっくりと撫でる。そして最後に付け加えた。


「そして信じたいのです。人間というものの正しさを」


 そんな物があるはずもない。シロはありもしない物を望んでいるのだ。人間にそんな物を望むことは罪だと言ってもいいだろう。


 ありもしない正しさに、どれだけの人間が期待し、苦しんできたと思っているのだろうか。当然、私にだってそんな正しさなどあるわけがないし、私自身が一度もそれを望んだことがないとでも思っているのだろうか。


 身の内に渦巻く怒りと劣情が、大蛇のように大きく太く蜷局を巻いていく。しかし、それとは反対に、屹立していた私は、まるで口実を見つけでもしたかのように萎えていってしまう。


「センセ。そんなお顔をなさらないでください。そういう時もありますから。大丈夫ですよ。私はちゃんと存じております」


 心の底から慈しむように発せられる、鈍痛にも似たシロの言葉。


 いったい、私はどんな顔をしていたというのだろうか。シロは柔らかくなってしまったことを確かめるように、いつまでも指先でそれを撫で回していた。


 そして、私は朦朧とした意識の中で、自分が酷く熱に冒されている事を理解した。

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