第5話 伍
何処をどう歩いたのか、自分でもさっぱりわからなくなった頃、私はようやく自宅へとたどり着いた。
せっかく湯を浴びて来たのにも関わらず、私の身体からは珠のような汗が噴き出していた。肩で息をしながら玄関の引き戸を開けると、部屋の中からほんの僅かだが、薄っすらと暖かい空気が流れてきた。
火鉢も炬燵も火を落として出かけたはずなので、屋敷の中は冷え切っていなければならない。私が訝しく思いながら廊下を進んでいくと、入側縁で火鉢にあたるシロの姿に出くわした。
「あらセンセ。おかえりなさいませ」
私の顔を見上げながら、シロは暢気にそう言って微笑んだ。
「シロ。おまえは先程、千人町の辺りを歩いてはいなかったか?」
後ろ姿だけだったとはいえ、私がシロを見間違えるとは思えなかった。煙のように突然消えたカラクリを聞き出してやろうと、私は勢い込んで尋ねてみる。しかし、
「千人町? 嫌ですよセンセ。誰とお間違えですか? 私はあの辺りへは今日は行っておりませんよ」
シロはそんな私の勢いを軽く往なすかのように、さらりとそれを否定した。
「いや、確かにいたはずだ。そうだ、羽織を見せてくれ。そうすればわかる」
「羽織なら、ほらそこに」
シロが視線で指し示した方向を見ると、そこへ羽織が掛けてあった。しかし、
「これは……」
その羽織は私が先ほど見かけた女の物とは別の柄をしていた。
「羽織がどうかなさいましたか? センセ」
シロが薄い笑みを唇に浮かべて目を細める。だから言ったでしょう? そんな言葉を今にも言い出しそうな、挑発的な気配を漂わせる。
「いや、なんでもない……」
では、あれはシロではなかったのだろうか。人は姿形の他にも、その所作や纏う空気など、様々な特徴を持っているものだ。そうした特徴を捉えたからこそ、私は先ほどの人物がシロだと確信したのであり、他人の空似や見間違いなどとは到底思えなかった。
「着替えてくるよ……」
私はシロから視線を逸らすと、腑に落ちない心持ちで自室へと向かい、汗と雪とで不快に湿った服を手早く着替えた。
それから縁側へと戻ってくると、シロが慣れた手つきでお茶を淹れていた。
「センセはよっぽど私の事ばかりお考えになられているのね」
シロはくすりと笑いながら、満更でもなさそうな表情をみせてくる。
「いや、あれは間違いなくおまえだと思ったんだがな……」
首を傾げながら座布団へと腰を下ろすと、シロが茶を差し出してきた。
「そんなに私のことを想ってくださっているだなんて、なんだかとても嬉しいですわ」
「しつこいようだが、本当に千人町へは行っていないのだね?」
鬼の首でも獲ったかのように喜色を隠さないシロの態度に、どうしても自分の非を認めたくない私は、つい食い下がってしまう。
「えぇ、本当に」
クスクスと笑いを堪えるシロの表情が、私に羞恥の感情を湧き起こさせる。
「センセ。お顔が赤くなってらっしゃいますけど、どうかされましたか?」
意地の悪いことを訊いてくる。
私は無言のまま袂から煙草を取り出すと、手荒な動作で火を付けて、その煙を深く身体の中心へと吸い込んだ。そして、大きく息を吐き出しながら、宙空へと視線を彷徨わせる。
仄かな温もりの広がる室内を、紫煙がゆっくりと絡み合うように揺蕩っていた。
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