第4話 肆

 手脚を伸ばして温まりたいという衝動から、私はこの雪の中を湯屋へと出向いた。すると、ご同輩はそれなりにいるようで、湯気の向こうには存外に人の姿がちらほらとあった。


 中へ入って手早くひと通り洗うと、たっぷりの湯へ身体を沈めながら、手脚を思う存分に伸ばしてやる。寒さに縮こまった全身がゆっくりと弛緩していくのが感じられた。


 私は大きく息を吐くと、わずかばかりの幸福感が身に湧いていることに気付く。人の一生とは、こうした小さな刹那の喜びを掻き集めなければ、形すら保っていられないものなのだと、あらためて思う。


 それは喜ばしいものなのか、悲しむべきものなのか、その捉え方で日々の生活は色味を変えていく。しかし、理屈ではわかっていても、実感として信じることができないのが人間の業というものであろう。


 私も人間をやっている以上、その業からは逃れることができずにいる。湯屋の壁に描かれた壮大な富士が、決して実物以上にはなれないのと同じように、描くだけでは空想が本物になることはない。


 全身がたっぷりと温まると、私は掛け湯をして浴室を後にした。そして、誰もいない脱衣所に鎮座している扇風機を独占すると、汗が引くまでの間、硝子戸の向こうで降り続ける雪を眺めていた。


 肌を撫でていく、ひんやりとした風と、上気して火照る身体。舞い散る綿毛のような雪と、高く響く浴室の音。小さく脱衣所に流れるラジオの天気予報が、明日の降雪を淡々と伝えていた。


 身体が熱を失わないうちに着替えて外へと出ると、来るときに付けたはずの足跡はすっかり雪に覆われてしまい、あたり一面、銀箔を塗り直したかのようだった。


 そんな積りたての柔らかな雪を踏み締めながら、私は自宅への道のりを歩きはじめる。


 するとしばらくして、前の角から人が現れて私と同じ方向へ歩きはじめた。それは羽織姿に傘をさした女だったが、遠目でも、その後ろ姿には見覚えがあった。


「シロ」


 私は少し声を張って、前を行く背中へ呼びかけてみたが、降り積もる雪に音が吸い込まれてしまい、彼女へは届いていないようだった。女はそのままゆっくりと、しかし、確かな足取りで雪の中を苦もなく歩いていく。


 私は少し歩みを速めると、彼女の後をついていった。私の屋敷へ来るつもりなのだろうか。そういえば、シロを外で見かけるのは初めてかもしれない。そんなことを考えていると、女はひとつ先の角を急に曲がっていった。


 屋敷はまだ先だ。そもそも方向が違う。そこを曲がったら、いったい何処へ着くのだろうか。私は俄然興味が湧いてきて、彼女の後に続いて角を曲がってみた。


 すると、女が次の角を曲がって行く後ろ姿が、一瞬ちらりと見えた。見失ってしまわぬように、私は更に足を速めて次の角へと急ぐ。


 勢いよく曲がってみると、また見切れるように消えていく女の姿が少しだけ視界に入る。それはまるで付かず離れずの絶妙な間を測っているかのような塩梅で、そこには彼女の意図が感じられるような、そんな気すらしてきた。


 私はどんどん進んでいく。彼女へと確実に近づいている。そんな確信を深めながら、幾つ目かの角を曲がると、突然、目の前に無機質な板塀が現れた。


 行き止まりだった。


 女は何処にも見当たらない。そんなはずはない。途中、他に道はなかったのだ。いったい何処へ行くというのだ。


 振り返ってみると、雪道には私と彼女の足跡がしっかりと残っている。しかし、その足跡は、この角を曲がったところでぷっつりと途絶えていた。


 私は慌ててあたりを見回してみるが、あるのはただ、降り積もった雪ばかりで、ここに誰かがいたという痕跡すら見つけることはできなかった。


 私は狐につままれたような心持ちで暫し呆然としていたが、ふと、ここが何処だかわからないということに気がついた。


 こんな所へは一度も来たことがない。


 再び来た道を振り返ってみると、もう雪が私と彼女の足跡を覆い隠そうとしていた。さっきよりも雪の勢いが増しているようだ。


 私は失望を感じながら、来た道を戻って行く。そして最初の角を曲がった所で私は自分の眼を疑った。


 ほんの数分だったはずなのに、既に誰の足跡もなくなっていたのだ。

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