第7話 漆

 雪の弱まるのを見計らって、煙草を買いがてら近所にある馴染みの蕎麦屋へと顔を出す。店内ではそれなりの人数の客が、各々蕎麦を手繰り、肴をつついては酒を呑んでいた。


 こう寒いと、温かい蕎麦と熱燗が至高の贅沢になるものだ。私も先客たちに習い店主へと注文を告げる。しばらく塩気の効いた白菜の漬物を頬張りながら熱燗を舐めていると、熱々の湯気を立ち昇らせた鴨蕎麦がやってきた。


 待ってましたとばかりに早速丼を持ち上げて汁を一口啜る。節の香る豊かな出汁と、甘みの強い鴨の脂が渾然一体となった旨味が口中に広がっていく。


 たかが一杯の蕎麦に、気を抜くと刹那の幸福感が込み上げてくる。些細な出来事では到底満たされることのない底の抜けた空っぽの器。それが私のはずだった。


 どんなに幸福という水を継ぎ足していっても、意識の暗闇が勝手に底を抜いてしまう。まるで水が溜まっては困るかのように幸福を目の敵にし、忌み嫌い、直視せず認めない。


 私の望む世界というものは、同時に、私にとっては実現しては困る世界なのだろう。大いなる矛盾を自分で創り出し、その矛盾に踠き苦しむ。


 人生は悲劇なのかと思っていたが、その実、滑稽な喜劇だったという訳だ。ぐい呑みを一気に呷る。


 急に酒が辛く感じられてきた。臓腑に滲みわたる温かさが、私の身体を蝕むように広がっていく。


 もっと酒が必要だった。私は追加の注文を店の奥へと向けて大声で告げた。その瞬間、店に居た他の客たちから不快そうな視線が向けられてきたが、私はそんなことには構わなかった。


 どのぐらい呑んだのか、気がつくと私は家の前にいた。店を出る前あたりから、ここまでの記憶がない。玄関の引き戸を開けて、ふらつきながらも中へと入っていくが、頭はガンガンと激しく痛み、もう今すぐにでも横になりたかった。

 

 今日は寝床の布団を上げずにいたので、奥の間へ行きさえすればそれでいいはずだった。しかし、襖を開けてみると、私の眼には上掛けからはみ出した白い腕が映っていた。枕の横へ回り込んでみる。案の定、シロだった。


 どういう経緯があったのかはわからないが、シロが私の布団に潜って眠っていた。


 しかし、こうして無防備に晒されている彼女の寝顔は、なんだかとてもあどけなく、艶麗とでも言えそうな、いつもの危うさみたいなものがそこには見られなかった。年相応の、と思って、私は彼女の年齢を知らないことに気が付いた。いままでにこの話題が出てきたことはなかっただろうか。どうにもよく思い出せなかった。


 シロがあまりにも気持ちよさそうに眠っているので、私は他に寝る場所を探さねばならなかった。寝具はシロが使っているものしか用意がないので、私は仕方なく炬燵で半纏を被って寝ることにした。風邪をひかなければいいのだが。


 次に気がつくと、いつの間にかシロが私の懐へ入り込んで、丸くなりながら寝息を立てていた。それはまるで気ままな猫のようだ。


 時間を確かめようと首を巡らすと、窓硝子の向こうに降り落ちる、羽毛のような雪の華が見えた。空はただ暗く、夕暮れがとっくに過ぎてしまったことを教えてくる。


 私はため息を吐くと、懐で蹲るシロへあらためて視線をやった。そして、眼前にある彼女の髪へと指を梳き入れる。


 その水底のように深く蒼みがかった黒髪は、艶のある光沢を帯びて美しく、さらりと溢れるように流れていく。


 そして、寝相を変えるのかシロが身じろぎをすると、彼女の匂いがふわりと立ち昇ってきた。初夏の果実のような、まだ青さの残る甘い香り。それは私の胸を騒つかせる遠い昔の記憶。心を殺す普段の私の言い訳を、一瞬にして意味のないものへと変えてしまう、残酷で獰猛な欲望。他人の肉を貪り、己の血肉を喰い破る。


 私は未だにこんなことをやっている。もう終わりにしたいはずなのに。私はシロの背中に回していた右手を、ゆっくり下へと滑らせていく。


 熱く柔らかい彼女の曲線を掌に感じながら、私は身の内に湧き上がる興奮に息を詰まらせた。彼女の肌の匂いが、湿り気を帯びた微かな吐息が、私の理性と辛うじて残った最後の尊厳を侵食していく。


 わかっていたのだ。認めてしまえば、楽になれると。

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