第11話 拾壱
シロが何かを言ってくることがあれば、あの日のことはよく覚えていないと言うつもりでいた。
しかし、彼女がその話題に触れてくることはなかった。私は言い訳をする機会を失してしまっていた。それは想像以上に落ち着かないものであり、どうにか伝えようと何度か彼女の名を呼んではみても、最後にはみっともなく言葉を呑み込んでしまうばかりだった。
そして、それよりも問題なことがあった。屋敷にシロがやって来ると、反射作用のように見窄らしい欲望が頭をもたげてくるようになった。無意識のうちに私は彼女の首筋や胸元、豊かに流れていく曲線に眼を奪われている。あれほど口の中で呟いていた言い訳は、どうやっても喉の奥から出てきてはくれない。
あの日以来、シロは私を警戒しているようだった。緩い断絶とでもいうような、見えざる薄い膜が我々の間には張られている。そして私は、あの日のようにまた拒絶をされたらと思うと、どんなに欲望に突き上げられても、膜の向こうへ手を伸ばすことができなかった。私は怖くなってしまったのだ。拒絶される。ただそれだけのことが。
シロは私の眼に欲望と怖れの色を認めると、一瞬だけ口許に笑みを浮かべてみせる。その微笑は、私の心を芯から凍らせるのと同時に、抗いがたい蠱惑的な魅力を多分に含んでいた。私はもう、進むことも戻ることもできず、ただ、悶々とする他はなかった。
そんなある日、雪道を煙草屋から帰ってくると、屋敷の前でシロが男と立ち話をしていた。雪曇りの空色と傘に隠れて、はっきりと顔を見ることはできなかったが、それは女の様に綺麗な顔立ちをした若い男だった。
男が何事かを口にすると、シロはコロコロと明るい表情をしながら笑う。その顔は、私の前では見せたことのない種類のものだった。胸がざわりと波立っているのがわかる。私はみっともなく嫉妬をしているのだろうか。客観的に見てみれば、あの青年の方がシロの相手としては適切であろう。二人並んで睦まじく語らう姿は、何の違和感も感じさせない。
反対に、私とシロが並んで歩けば、おそらく、大半の人は親娘だと思うことだろう。私は自分がそこに引け目を感じている事にいまさら気付かされた。私は薄汚れた情欲でもって彼女を眺めている。
しかし、それはとうの昔に彼女に見透かされ、今はいいように嬲られるままだ。あの青年はどうなのだろうか。シロとは寝たことがあるのだろうか。あの温かく柔らかい身体を抱きしめ、透けるように白く滑らかな肌へ指を這わせたのだろうか。その立ち昇る淫靡な匂いを嗅ぎ、纏わりつく卑猥な粘液に身を沈めたのだろうか。
いますぐに彼の胸ぐらを掴み、罵声を浴びせかけながら、それを問いただしたい衝動に駆られる。でも、きっとそんなこと出来はしないだろう。私はこうして息を殺して、物陰から二人を見つめるしかない。彼らの間ではどんなことがやり取りされているのだろうか。私には知りようがない。
自宅の玄関先なのだ。堂々と歩いて行って、軽く挨拶してやればいい。それだけの話のはずだ。しかし、あの二人に姿を見られることは、とてつもない恥辱のように感じられる。シロは彼に私の事を話しているのだろうか。だとしたら、どのように言っているのだろうか。
あぁ、私はもう、こうした煩わしい心の動きとは無縁になっていたはずなのに、いったいどうしたという事だろう。これではまるで、呑めぬ酒に悪酔いをする浅慮な若者のようではないか。
しかし、現実に私が重ねてきた年月を考えれば、この感情は悍ましさ以外の何物でもない。
わかっている。私はもう恋慕の情に陶酔できるほど若くはない。自分自身でも気持ちが悪いのだ。
それはあまりにもグロテスクで、切り開いた臓物のように生々しく脈を打つ。そして、いつそこから腐臭が漂ってくるのか、私は恐怖に怯えながら、それでいて、どういう訳か期待をしていたりする。
私は本当に自分という人間の事がわからない。いや、正確に言うのであれば、私は誰のこともわからない。
わかりなどしないのだ。
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