雪は白く腐りゆく

藍澤ユキ

第1話 壱

「人間をやめたい」


 その台詞は、今やすっかり私の口癖になっていた。


 入側縁に置かれた火鉢に覆いかぶさるようにしながら、庭に積もった雪をぼんやりと眺めていると、炭がパチンと小さく音を立てた。


「じゃあ、センセは死んでしまいたいのですか?」


 すると、鼻にかかった甘えるような声音が、冷たい空気の間を縫うようにして響く。私は火箸で爆ぜた炭を均しながら、その声の主へと視線を上げた。


「いや。死にたいというのとは違うよ」


 いつの間にかやって来ていたシロへ、私は何度も独りで反芻してきた理由を説明してやる。


「すべてをご破算にするという意味では、死はとても魅力的だ。きっと私は死に憧れているのだと思う」


 私は火鉢に鉄網を乗せると、続いて湧水の入った鉄瓶を火にかけた。


「けれど、憧れるのと同時に、私は死を怖れている。死んだらどうなるのかなんて、死んだ者にしかわからないからね。死後が平安であるだなんてことは、誰も保証してくれない」


 湯呑みを二つ並べて、急須に茶葉をたっぷりと入れる。寒い時には渋味が強い方が私の好みだ。


「だから、私は人間をやめることで、死とは違う終わりを手に入れたいんだ」


 火鉢の上では、すぐに鉄瓶の口から湯気が昇りはじめた。


「終わりのわからない苦痛に耐え続けることが、どれだけ辛いことかなんて、想像するまでもないことだからね」


 私は湯を一旦湯呑みに注いで温度を下げてると、ゆっくり急須へ移し替えた。


「センセにとって、人間であり続けることは苦痛なのですか?」


 シロは睫毛の長い大きな瞳で私の顔を覗き込みながら、からかうように尋ねてきた。


「人間であるということは、本質的に苦痛でしかないのだよ。誰であろうと」


「センセは可哀想ですね」


「そうでもないさ」


 十分に茶葉を蒸らしてから、丁寧に湯呑みへとお茶を注いでいく。黄金色をした最後の一雫が水面へ滴り落ちて波紋が広がる。


「どうぞ」


「ありがとうございます。センセの淹れてくださるお茶が一番美味しい」


 シロはそう言って柔らかく微笑むと、少し腰を浮かせて座り直した。あらためて揃えられた脚先は足袋も履いておらず、寒々しいまでの素足だった。


「シロ。それでは寒くないのかい?」


 そう言ってシロの脚へと視線をやると、メリンスの着物の裾から、新雪を想わせる幻想的な白さを湛えた足首と、形の良い脹脛が見えた。


 その瞬間、とうに眠らせたはずの苦い衝動が、私の胸の奥で強く脈打つのを感じた。


 若い頃の私は、それなりの年齢になれば情欲も次第に衰え、心安らかな日々が来るのだと何の根拠もなく考えていた。でも、それは間違いだった。むしろ歳を取るほどに事態は悪化をしていく。


 身体の衰えに逆らうかのように煩悩は身の内を暴れまわり、出口のない迷路をあてもなく盲目的に突き進む。そこに終わりなどないのだ。


 そんな苦悩から私は早く解放されたかったはずなのに、これが死ぬまで続くのだと想像すると、凍りつくような怖気が背筋を這い上がってくる。


 それなのに。


 それなのに私は、シロの透けるように白い脚から目を逸らすことができなかった。それは妖しく輝く宵月のように、狂おしく艶めかしい肢体。私に纏わりつき、離してなどくれない、遠くいつか見た過去の残滓。


 私が目を離せないことを十分に理解しているシロは、座ったまま脚をゆっくりと伸ばしてくる。シロの脚が私へ近づくにつれて、着物の裾は少しずつ捲れあがり、肉付きの良い滑らかな太腿までが露わになっていく。


 そして彼女の脚先は、次第に胡座をかいた私の股の間へと静かに分け入ってくる。とてもつめたく冷え切ったシロの脚先は、私の腐敗した腑へ突き立てられる氷柱のようで、それはおそろしく、心地がよかった。


「こうすれば温かいですから。大丈夫ですよ。センセ」


 シロは春の陽に咲く、桜の花びらのような唇で薄く笑うと、つま先を私の下腹部へと押し込んできた。


 その瞬間、私は我に返る。


「シロ。せっかくのお茶が冷めてしまうから早くおあがり。どれ。この雪景色にあったお茶請けを何か持ってきてあげよう」


 私は逃げるように腰をあげると、彼女へ一瞥もくれずに台所へと向かった。


 無様に暴れる胸の鼓動をやり過ごしながら、誤魔化すように台所の戸棚を覗いてみると、練り切りの寒椿が咲いていた。


 シロはもう帰ってしまったかもしれない。そう思いながら菓子器を手に縁側へ戻ってみると、彼女は居住まいを正して雪の降り積もる庭を静かに眺めていた。


 そんなシロの横顔は冴えざえとして美しく、そして、溢れ落ちるような若さに満ちていた。


 私が立ち止まったまま呆けたようにシロを見つめていると、その視線に気付いた彼女が柔らかく微笑む。


「雪に咲く椿の赤……とても綺麗。でも、すごく寂しい」


 彼女は立ち上がって硝子戸を開けると、凍えた空気へ向かって「はぁっ」と息を吐きかけた。


 淡い唇から吐き出された煙のような白い息は、まるで彼女の魂であるかのように一瞬だけその場を漂い、未練も残さずに消えてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る