第14話 慈恩の刀と竹内流

 前回に引き続き、戦国時代の柔術、捕手とりて小具足こぐそく腰廻こしのまわりについてです。今回はどのような流派が存在していたか、という点についてとなります。


 南北朝時代に成立した念阿弥慈恩ねんあみじおんの弟子たちの目録に、かたなと言われるグループがあります。(第3話の南北朝時代で言及した、塵荊抄じんけいしょうの目録にもあります)


 これは、江戸時代、冨田とだ家から別れた複数の系統の資料を比較してみると、互いに鞘に刀を納めた状態、帯刀から始まる技の総称だったようです。刀といっても、江戸時代以降で言う所の刀(日本刀)のことではありません。太刀以外に腰に差す短い刃物、江戸時代で言うところの脇指わきざし短刀たんとうの事です。


 これには四手よつで相押あいおし切違きりちがい必死ひっし…というような名称で十本ありましたが、大部分は互いに座っている想定で行われたようです。前回書いた小具足こぐそくの説明と似たような技でした。


 例えば四手よつでというのは、右手で自分の刀に手を掛け、左手は抜刀させまいと敵の右手を押さえる(結果として互いに相手の右手を自分の左手で抑えている、四つの状態)という想定の技だったようです。


 ここからどんな技法が使われたかと言えば、(刀を抜く事をあきらめ)押さえられた右手を抜き外し、すかさず敵の喉を右手で押さえ、右足を踏みだしながら後ろに突き倒すような技だったようです。(バリエーションがいくつもありました)


 相押あいおしは互いに左手で胸を取り、右手で抜刀ばっとうする、という技で、切違きりちがいは互いに座っているところから抜刀して切り合う、という技だったようです。


 また、中條流の流派の中心となる小太刀こだちの技の中には、相手を投げたり倒したりする技や、敵の腕に関節技を掛ける技がいくつも含まれていました。


 残念ながら冨田家以外の系統での内容がわからないため、念阿弥慈恩ねんあみじおんの頃からこういったかたな(今でいう脇指わきざし)を使った内容の武術があったかわかりません。ですが、念阿弥の回で少し名前を出した念阿弥の弟子の一人、堤宝山つつみほうさんという人の伝えた武術を考えると、おそらく素手に近い技も当時から含まれていたと考えられます。


 この堤宝山という人は関東下野しもつけの(栃木県あたり)の武士で、組討くみうちの名人だったと伝えられています。堤宝山流つつみほうざんりゅうは戦国時代の記録が今の所見つかっておらず、わかっているのは江戸時代初期、中国地方に柏木清三郎かしわぎせいざぶろうという人がおり、堤宝山流の太刀・槍(十文字槍じゅうもんじやり鎌槍かまやり素槍すやり)・長刀なぎなた和良やわら鍍棒くさりぼうなどを教授していたことだけです。


 詳細は省きますが、この流派の太刀目たちもくろく(剣術の目録)は念阿弥の目録と共通点が多く、しかも中條流(冨田流)のものではなく、塵荊抄じんけいしょうにのみ出てくる芝引しばびきという名称も使用されており、中條流と関係無い流派の可能性があります。


 この流派の体系のうち、もっとも多数の技があるのが和良やわらです。


 江戸初期の時点で居合いあい居合執手いあいとりて立合たちあい立合執手たちあいとりてという目録があったようです。居合いあいは現代でいうところの抜刀ばっとう術ではなく、互いに座った状態での組討くみうちです。立合たちあいは互いに立った状態での技、とりて手は前回説明した、こちらから敵を捕らえる捕手とりての技のようです。柄取つかどり大小柄取だいしょうつかどり胸刀むねのかたな入違刀いれちがいのかたな提刀さげがたな鐺返執こじりがえしどりなど刀に関わる形名があることから、帯刀した状態での技だったように考えられています。


 また、極意として互いに槍・太刀と甲冑で武装した状態から組討する技を伝えていました。この技は槍や長刀なぎなた、太刀以外に、右腰に右手指めてざしを差しておこなわれていたようです。槍や長刀なぎなた、刀での攻防からはじまり、敵に武器を掴まれたら武器を投げ捨て組討になる、というような技でした。


 ただし先ほど書いたように、堤宝山流の柏木清三郎が活躍したのは安土桃山末から江戸時代初頭(16世紀末~17世紀初頭)です。そのため、それら和良やわらの技が戦国時代のいつ頃に成立していたのか不明です。個人的には念阿弥のかたななどを元に、戦国時代には成立していたのではないかなぁ、と感じていますが、今後の研究に期待です。



 -----竹内流-----


 さて、今回のもう一つの主題になります、竹内流腰廻小具足たけのうちりゅうこしのまわりこぐそくです。


 この流派の創始者、竹内中務大輔久盛たけのうちなかつさかだゆうひさもり文亀ぶんき3年(1503)に美作国みまさかのくち久米郡くめぐん垪和はが一之瀬城いちのせじょう城主、竹内播磨守幸治たけのうちはりまのかみゆきはるの子として生まれました。城主の一族だというのは、新陰流しんかげりゅう上泉信綱かみいずみのぶつななどと共通しています。


 竹内流ではその創流の様子を伝えています。久盛ひさもりは若年より諸流の兵法・捕手などを修行しますが、五尺に満たない小男だったため、剛強の敵でも組討に勝ち、座敷などでも捕りひしげる事を願います。そして天文てんもん元年(1532)、山に籠って二尺四寸(約72cm、柄部分を含めるので長さとしては小太刀の類ですね)の木刀を振るい木々を打ち、飛び上がって修行しました。


 そして執行が続いたある時、ふと気が付くと目の前に一人の山伏が居ました。久盛はこんな深山に人とは、といぶかしげに思い、声を掛けると山伏は


「汝、常に武勇を好み、非力にして剛強をひしぐ事を願いて我を頼んでいる。その志に答えて来たり」


 と答えたので、久盛は喜んで望みを話しました。山伏は木刀を半分の長さ、一尺二寸(約36cm)に割り、


「これを帯せば小具足こぐそくなり」


 と言って二十五種類の腰廻こしのまわりを教えました。


 またかずらを七尺五寸(約225cm)に切って久盛へあたえ、早縄はやなわ(※1)の五つの捕手を教えた、とあります。

 実際に久盛が神秘体験をしたかどうかはともかく、竹内流ではこのように伝わっていました。


※1 早縄はやなわとは本縄ほんなわに対する言葉で、仮に縄を掛け、敵の自由を素早く奪い捕縛する技術の事です。本縄は既に捕らえている相手に掛ける縄で、時間をかけてしっかり結びます。


 久盛の子、久勝は以下のように書いています。

「久盛は数百の流派を修行したが、どれも杭に繋がれた犬が廻っているようなもので、全く役に立たない。それに対して久盛の捕手は樊カイや張良(※2)の妙術に勝るものである」

 つまり、久盛の時代にすでに捕手などの技が存在していたと考えれられており、自流がそれらより優れた武術であると主張しているわけです。


※2 樊カイも張良も劉邦の武将で、樊カイは武勇剛力の者として、張良は軍学の祖として武術関係の伝書でよく出てきます。


 中条流関連の資料にあったとおり、竹内久盛以前にそれなりに体系化された捕手や脇差での組討の技はあったと考えられます。久盛もそういった技術を学んで、それらを土台に腰廻を創始したのだと思われます。



 久盛の創始した腰廻小具足こしのまわりこぐそくの最初の形も、小脇差こわきざし(短い脇差)を腰に差し、座敷で向かい合って座ったところから始まります。中條流の刀とほぼ同じ想定です。

 その他に、後ろから人質に取られる、二人に両側から掴まれる、腰の刀の柄を掴まれる、後ろから抱きかかえられる、など二十五種類の様々な想定の技があります。久盛の修行の逸話にあったように、竹内流の特徴として大きく前後に跳躍する動作がある事が知られています。一説では山深く足場の悪い土地での戦闘を想定しているなどと言われています。


 竹内久盛は腰廻こしのまわりを創始した以降も一之瀬城の城主として戦乱の時代を闘っています。おそらくその間は一族のものに教えていたのだと思われます。実際に竹内流が歴史に登場するのは、安土桃山時代になってから、一之瀬城が宇喜多氏の攻撃で落城して以降、久盛の三男、久勝ひさかつの時代になってからです。




 ところで室町時代までの日本刀(※3)は、剣術で使用される場合


大太刀: 二尺五寸~三尺一寸以上(約75cm~約93cm)

太刀(中太刀): 二尺二寸~二尺五寸(約66cm~約75cm)

小太刀(脇差): 一尺二寸~二尺三寸(約36cm~約69cm)

小具足(小脇差): 九寸五分前後(約28cm前後)


の四種類ほどに分けられます。以上は刃の部分の長について、ざっくりとしたものですので「だいたいそんなもん」くらいに考えてください。とくに小太刀は流派によってかなり長さが違う場合があります。

 ちなみに、剣術の資料を見ていると、真剣の場合は刃の長さで書いていることがほとんどなのですが、何故か木刀の場合は全長を書く場合と刃の長さを書く場合が混在していてよく混乱します。


※3 日本刀の分類としては太刀と小太刀、打刀などは形状、こしらえなどの違いによる定義があると思いますが、この連載では基本的に武術の世界での言葉の使い方にしたがい、太刀たち打刀うちがたなも区別しません。


 太刀(中太刀)は新當流しんとうりゅう新陰流しんかげりゅう、小具足は竹内流、大太刀と小太刀は中條流(冨田流)が代表的な流派です。


 小具足については今回書いたので、次回は残っている小太刀と大太刀についてです。関東の話にはまったく登場しなかった中條流。戦国時代にどこで何をしていたのか?というところを話します。



 追記

 竹内流は、現在伝わっている流派の中で、文書で歴史が確認できる最古の柔術流派です。もうすぐ創流から500年経とうとしています。しかし、現代でも毎年古武道大会で竹内流の腰廻や棒術、剣術(斎手さいでというそうです)などの演武が披露されています。youtubeなどでも演武を見る事ができますので、興味がある方はぜひ戦国時代の腰廻・小具足の技を見てください。




参考文献:

森田栄(1999)「堤宝山流秘書」NGS

高橋賢(1982頃)「幻の日本柔術 第21回~第25回」月刊空手道

「中条流兵法手鏡」富山県立図書館

「中条流兵法手鏡」個人蔵

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