第11話 新陰流その2

 前回の続きです。


 前回書いたように、上泉信綱かみいずみのぶつな(今回以降は信綱表記とします)は高弟を伴い上洛しました。記録に残っているのは疋田豊五郎ひきたぶんごろう鈴木意伯すずきいはくの二名です。


 疋田豊五郎は天文てんぶん6年(1537)に信綱の甥(姉の子)として産まれたとされています。おそらく少年時代より信綱に師事して兵法を学んでいたのだと思われます。永禄6年に上洛したとすると、その時26歳です。豊五郎の活躍は、戦国末期から江戸初期になるので、今回は簡単な紹介に留めておきます。永禄3年(1560)の「関東幕注文」に大胡おおご氏と並んで引田伊勢守ひきたいせのかみの名前があるため、この一族なのではないか?と思われます。


 鈴木意伯、神後伊豆守じんごいずのかみとも吉田小伯よしだこはくともあり、同一人物かどうか不明なところもあります。江戸時代から詳細は不明だったようですが、安倍立剣道あべりゅうけんどうの伝書「鎬言集こうげんしゅう」によると、信綱門下で次回話題にします丸目蔵人佐まるめくらんどのすけと並ぶ実力があり、京で指南していたが早くに亡くなった、そうです。


 上泉信綱の門下では、柳生・丸目・疋田・神後(鈴木、吉田とも)の四名が傑出していたとされ、現在でも新陰流の四天王などと言われる事があります。


 1、上洛途中で柳生やぎゅう宝蔵院ほうぞういんを弟子にすること。

 信綱は上洛途中、今の奈良県で柳生宗厳やぎゅうむねとし(※1)・宝蔵院胤栄ほうぞういんいんえい松田織部之助まつだきおりべのすけなどの地域の有力者を弟子としました。この時、柳生宗厳は上泉信綱に三度挑み、三度破れたとも、最後には無刀の技で信綱に太刀を取り上げられたとも言われています。(また、信綱は勝負を辞退し、変わりに弟子の豊五郎と勝負させた、という話もあります。これは岩明均「剣の舞」のラストシーンに採用されていました)ともかく、こっぴどく破れ、実力差を痛感した宗厳は信綱に入門します。

 これが永禄6年(1563)頃とされています。その後、京に向かうため弟子の疋田豊五郎を柳生に留め置き、指導にあたらせたという話があります。この時、柳生宗厳は36歳、宝蔵院胤栄は40歳です。(ちなみに上泉信綱は55歳、疋田豊五郎は26歳、神後伊豆守は年齢不明)

 柳生宗厳と宝蔵院胤栄はその2年後、印可を得ています。


 信綱についての確かな一次史料として、言継卿記ときつぐきょうき国賢卿記くにたかきょうき(※2)などの永禄12年(1569)~元亀げんき2年(1572)の記述があります。それには信綱は鈴木とともに登場し、疋田の名はありません。また、後述しますが、疋田は永禄9年(1566)に伊勢雲林院いせうじい雲林院弥四郎うじいやしろうに入門しています。ですので、疋田が信綱に同行せず、柳生で指導にあたっていた、というのは可能性が高そうな話です。


 柳生一族は、江戸初期の剣術を語る上では省く事が出来ない存在ですが、この時点ではまだ地方の豪族、新陰流の一高弟にすぎません。活躍するのは関ヶ原以降になってからです。


 ※1 なお、柳生と新陰流については「やる夫で学ぶ柳生一族」という名作がWEB上にあります。柳生一族や新陰流の歴史に興味がある方は読まれる事をお勧めします。

 ※2 言継卿記、公家の山科言継が戦国時代50年近くにわたって書かれた日記。国賢卿記、同じく公家の船橋国賢の日記。(こちらはなんらかの論文に引用されていたのですが、コピーしか持っていないため、出所が不明、いま確認中です)



 2、柳生と疋田、それから雲林院の関係

 先ほど書いたように、疋田豊五郎は塚原卜伝つかはらぼくでんの弟子、雲林院弥四郎うじいやしろう(別名を工藤弥四郎)に永禄9年に誓紙せいし(※3)を出して新当流兵法しんとうりゅうひょうほうに入門しています。雲林院弥四郎は伊勢の雲林院城主(現在の三重県津市雲林院)の一族だそうで、塚原卜伝が上洛途中、北畠具教きたばたけとものりなどに教えていた時期に入門し、免許を得ています。


 ※3 誓紙は武芸では入門や免許などの時に師へ提出するもので、最後まで稽古を続けること、師の指示に従うこと、他人と争わないこと、などを誓い、違反した場合は全国の神々の神罰が下るという形式で書かれます。


 雲林院は槍の達人として有名で、江戸時代幕臣たちが稽古した真當流槍兵法しんとうりゅうやりへいほうという流派の開祖となっています。疋田豊五郎はおそらく鹿島新當流の槍や薙刀を学ぼうと思ったのではないかと思います。疋田豊五郎は後に新陰之流槍しんかげのりゅうやりという名前で、鹿島新當流そっくりの内容の槍術を教えていたりします。この槍術、のちに疋田豊五郎の弟子、猪多伊折佐いのだいおりのすけが改良し疋田流槍術ひきたりゅうそうじゅつとして大成します。この槍術は日本各地に広まりました。


 また、雲林院弥四郎の息子(この人も弥四郎と名乗っています)は柳生家の門弟となっていますから、雲林院・柳生・疋田の三者にはつながりがあったのだと思います。


 柳生と疋田の関係ですが、柳生宗厳の嫡男新次郎(宗矩むねのりの兄)は疋田豊五郎から免状を貰っています。他に村山作右衛門むらやまさくえもんなど柳生宗厳と疋田豊五郎の両名から学んでいる人物もいました。後世の記録になりますが、有名な柳生十兵衛やぎゅうじゅうべえがその著書「月之抄つきのしょう」で疋田豊五郎の技として、扇団せんだんの打や紅葉観念こうようかんねんについて語っている部分があります。これらの記録から想像するに、疋田豊五郎が他の兄弟弟子たちと比べても柳生宗厳と付き合いが深かったのは間違いないと思われます。


 3、神後伊豆守と無刀

 上泉信綱の上洛中の逸話については、様々な逸話が語られています。有名なのは近江坂本おうみさかもとで子供を人質に籠もった犯罪者を捕えた話です。信綱は旅の僧から袈裟を借りて僧の格好をし、握り飯を渡す様に見せかけ、油断した相手を素手で捕えた、というものです。これは有名な無刀むとうとも絡めてよく知られている話です。映画七人の侍でこの逸話がほぼそのまま使われています。


 この時僧から借りた袈裟は、感心した僧から信綱に授けられたそうです。上記の話は武芸小傳ぶげいしょうでん(※4)に書かれているもので、藝州の浅野綱長に仕えた三谷正直(※5)が語ったものとあります。この袈裟は後に高弟の神後伊豆守(鈴木意伯)に授けられたとされています。

 この逸話が事実かどうかわかりませんが、神後伊豆守系の流派では事実とされていたようです。


 ※4 武芸小伝 天道流の日夏繁高が正徳4年(1714)に出版した、全国の武芸流派について記載した書です。武芸小伝の影響はこの後に出版される武芸関係の書籍、武術の伝書における記述に大きな影響を与えました。現代の諸流派の記述もこの書籍の記述を元にしているものがまだまだあります。ただし、日夏個人が知りえた情報を元にしているため、九州や四国、中部、東北などの流派の記述はあまりありません。(日夏は関西、江戸、あとは一部東北に関係があるとか)

 ※5 新陰流から一旦流剣術を編み出した剣術の達人だそうです。神後伊豆守とその弟子について詳しく語っているので、神後伊豆守の新陰流の使い手だったのかもしれませんが、広島の古文書類は原爆で失われたものが多いため、不詳です。


 また、尾張柳生に伝わる話としては、また別の話があります。尾州明光寺に信綱が滞在している時に、背後から切り掛かってきた乱心者の太刀のムネを両手で捕り、引き倒して踏み抑えた、という話です。この話を信綱は柳生宗厳に語り、無刀を完成を依頼して別れたとされています。


 無刀、一般的に真剣白刃捕しんけんしらはどり無刀取むとうどりの名前で知られ、創作作品や一部空手の演武では刃を両手で挟むような技で知られています。まぁ、刀を両手で挟む技は単なる一発芸みたいなものですから置いておくとして、実際の無刀はそういった荒唐無稽なものではありませんでした。


 また、柳生石舟斎によって完成した、という説が一般的です。


 ですが、実際のところ、上泉信綱と鈴木が無刀を稽古している記録(※6)があり、中條流ちゅうじょうりゅうにも既に無刀の技(※7)がありました。第5話 室町時代で書いたところでもありますが、襲われた際に敵の太刀を奪い取って撃退した細川勝元ほそかわかつもとの例などもあり、それほど特殊な技術というわけではありません。また、この頃には捕手とりて腰廻こしのまわり小具足こぐそくなどと言われている、刀を鞘に納めた状態、帯刀たいとうでの武術や、短刀や小脇差を使った組討くみうちの武術の流派が発生し始めています。(この種類の武術は非常に重要なので、また別に話します)

 柳生と無刀の話は、剣術的な意味で、さらに高度なレベルで無刀を完成させた、と認識するのが良いのではないかと思われます。


 ※6 三術みじゅつという名称で、身を低くして敵の大太刀おおだちに向かって駆け、敵の腕を取り背後に回り込む。または敵の腕を担ぐ、もしくは面を打つ、というような、敵の身際に寄って組討になるシンプルな技だったようです。

 ※7 国賢卿記 元亀二年七月十一日に上武・鈴木来、兵法格位真砂(妙?)無刀迄遣了との記述があります。上武が上泉武蔵守(信綱)、鈴木は鈴木意伯(神後伊豆守)、信綱と鈴木が来て自分(國賢)と稽古をした、真妙剣しんみょうけんと無刀まで稽古が終わった、ではないかと思います。


 次回、京都での上泉信綱上泉信綱丸目蔵人佐まるめくらんどのすけに続きます。


 参考文献:

 今村嘉雄 編著(1982)「日本武道大系第3巻」同朋舎出版

 近藤義雄(2010)「箕輪城と長野氏」 戎光祥出版

 全日本剣道連盟(2003)「剣道の歴史」

 花岡興史(2009)「新史料による「天草・島原の乱」」九州文化財研究所

 柳生厳長(1957)「正傳新陰流」

 中世古祥道(1998)「上泉武蔵守信綱傅私考」南伊勢町教育委員会

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