第10話 新陰流

 今回は、剣術史において実質的に三大源流の一つとなる、新陰流しんかげりゅうが創始される話です。


 剣術史上で新陰流がなぜ重要なのか。それは現在の剣道で使われている竹刀の原型となる、シナイ(現代では一般的に袋竹刀ふくろしないと言われる)を使うようになった最初の流派ということです。新陰流と創始者上泉信綱かみいずみのぶつな(この項では秀綱ひでつなと表記します)がいなければ、剣道も存在していないわけです。

 実際は、念流ねんりゅう新當流しんとうりゅうも、どの流派も存在しないと剣道には至りませんけども、まぁ、おおざっぱに言えばそれくらい重要な流派ということです。


 新陰流の創始者、上泉伊勢守秀綱かみいずみいせのかみひでつな(こういずみとも)、のちに武蔵守信綱むさしのかみのぶつなは、上野国の大胡おおご氏一族で上泉城主でした。(この項では秀綱と名乗っていた時代の記載が主ですので、以下秀綱と表記します。)


 生年は不明のようですが、一般的に「正傳新陰流」にある、著者柳生厳長が推定した永正えいしょう5年(1508)とされる事が多いようです。秀綱は若年より兵法・軍学を学びました。江戸時代の記録では新当流を松本備前守に学んだとも塚原卜伝に学んだともされています※1。


 新陰流伝書の一つ、燕飛えんぴの巻の序文に、

上古流じょうこりゅう中古念流ちゅうこのねんりゅう、新當流、またまたま陰流かげのりゅうあり」

とあるため、念流も学んだとされている事が多いようです。

 これらの流派を修めたのち、陰流と出会い、陰流から「奇妙※2」を見出して新陰流を創始したとされています。また、学問や紙漉や薬学※3などにも堪能だったようです。新陰流の技の段階の一つ、三学さんがくは禅語より命名されているため、(当時のそれなりの位の武士としては珍しくないでしょうが)文学的素養もあったようです。


 ちなみに、燕飛の巻の文章(上古流中古念流云々や懸待表裏など)は新當流の伝書の文章と酷似しているため、上泉秀綱が新當流を学んだというのは事実だと思われます。


※1 塚原卜伝が上泉信綱(秀綱)の弟子だ、とされているものまであります。

※2 この奇妙は陰流の一手猿廻えんかいから見出したとも、この奇妙が尾張柳生家でいうまろばしだとも言われています。

※3 日記では兵法(剣術)や軍配(いわゆる兵法・軍楽)以外に、愛洲薬方や紙漉きを伝授している。



 では陰流を誰から学んだのでしょうか。


「正伝新陰流」では、14、5歳でまず新當流と念流を学び、その後鹿島住の陰流の開祖、愛洲移香あいすいこう(1452-1538)から陰流を学んだび、22歳で全て学び終えた、としています。秀綱が15歳頃から学んだとして移香は70歳ほどの頃でしょうか。

 ただ、秀綱の弟子で、甥とも言われている疋田豊五郎ひきたぶんごろうが残した伝書では、秀綱の師は移香の子、愛洲小七郎あいすこしちろうとなっています。


 愛洲小七郎※4は愛洲移香の晩年、永正16年(1519)に生まれました。秀綱の生年を通説の永正5年(1508)年とすると、秀綱より10歳以上年下です。常識的に考えれば、剣聖と言われる上泉秀綱の師としては、やはり老齢の達人である愛洲移香の方がふさわしいと考えられるのでしょう。近年放送された上泉信綱のドラマでも、若い秀綱が老齢の愛洲移香より学んでいました。有名な「剣聖上泉信綱詳伝」や「正伝新陰流」などでは、小七郎の名が疋田系でしか見られない事から、傍流の伝承で事実ではなく、愛洲移香が師であるとしています。


※4 のちに愛洲元香斎宗通あいすげんこうさいむねみちと名乗ります。永禄7年(1564)に常陸の佐竹義重に仕えることになり、後に愛洲家は所領の平澤の名前を名乗るようになります。佐竹家が秋田へ転封になる際に秋田に移住、今も子孫は秋田にいらっしゃるようです。



 では小七郎から学んだ場合はどうでしょうか。愛洲家子孫の平沢家に伝わった平沢家伝記によると、小七郎は兵法修行で関東に至り、弘治こうじ初年(1555年頃、36歳)に常州(茨城県)に住んだ。とあります。

 平沢家伝記によれば愛洲移香は関東へ移動した形跡が無いことから、小七郎は父移香が死んだ後に回国修行に出たのでしょう。小七郎が常州に住んだ頃、上泉秀綱は居城の上泉城が落城し、この後箕輪みのわ城の長野氏に仕える事になります。とすると、学んだ時期は2パターン考えられます。


 1.関東回国修行中の小七郎に学んだ(小七郎20代、秀綱30代)


 2.上泉城落城から箕輪城に仕えるまでの間(小七郎が常州に住居を定めた30歳頃。秀綱40歳頃。愛洲氏の研究家、中世古詳道なかせこしょうどう先生は上泉城落城後ではないかとしています。)


 1と2、どちらにしろ秀綱は30代~40代で、おそらく新當流と念流を学び、すでに一流の兵法家だったと思います。時代は数十年後になりますが、示現流じげんりゅう開祖東郷重位とうごうちゅうい善吉和尚ぜんきちおしょうとの話を思い出します。

 東郷重位は27歳、すでにタイ捨流しゃりゅうの使い手です。それに対して善吉和尚は23歳程でした。善吉和尚の剣技に感銘を受けた重位は、年齢差にも関わらず善吉和尚の弟子となりっています。現代でも一流の師範が他流に入門して、年下の師匠につく事はあります。その話のような雰囲気だったのではないでしょうか。




 師匠が愛洲移香、小七郎のどちらだったのか、また、全く別の人物から学んだのか、実際のところはわかりません。あくまで私個人としての考えですけども、愛洲小七郎だったのではないか?という気がしています。



 さきほど例にあげた燕飛えんぴの巻に次のようにあります。


上古流じょうこのりゅう中古念流ちゅうこのねんりゅう新當流しんとうりゅう、またまた陰流かげのりゅうあり。その他は計るにたえず。予は諸流の奥源を究め、陰流において別に奇妙を抽出して新陰流を号す」


 つまり、諸流の奥源を究めたが、陰流から別の(優れたもの)を抽出したと言っています。

 10代の時に2、3年で諸流を学び、10代後半から20代前半に陰流の老達人に学んだ人物が書いた文章というより、既に成人した一流の兵法者が、陰流に出会ってそれまで学んだ流派に無かったを見出した、という話の方が通りが良いように感じます。(まぁあくまで印象論に過ぎません)


 なんにしろ、陰流を学んだ上泉秀綱は、修行工夫を重ねて新陰流しんかげりゅうを創始することになります。上泉秀綱と新陰流が剣術・剣道の歴史でひときわ大きく名を遺した理由、それはシナイを作り出した事です。


 シナイは撓・品柄・革刀などなど色々な字であらわされますが、よくしなる事からシナイと呼ばれるようになったそうです。竹の先を数~十数片に途中まで割り、元は割らずにしておき、革や布の袋に入れて制作します。竹の割り方、袋の作り方など流派によって工夫されていて、柔らかくてよく撓るものから、分厚い竹を少し四つに割っただけの固いものまで、様々です。また、割った竹片を数本から十数本を袋に詰めて作るようなものもありました。

 このシナイの一種が現在剣道で使用されている竹刀です。剣道の竹刀が一般化したため、昔のシナイを現在では袋竹刀ふくろしないと呼ぶようになりました。


 上泉秀綱がシナイを考案するまで、兵法(剣術)の稽古は木刀でおこなわれるのが普通でした。木刀は真剣や刃引はびきの刀で稽古するより安全とはいえ、固い木ですので、実際に打てば良くて打撲、悪くて骨折やそれ以上の怪我のおそれもあります。必然的に当てないか、軽く当てる稽古になりますし、怪我をせず本気で打ちあう事は出来ませんでした。

 永禄えいろくより以前の話となりますが、冨田流小太刀とだりゅうこだちの名人、冨田勢源とだせいげんの逸話に、試合の際に棒に袋をかぶせている例があるので、怪我させない工夫はさらに昔からあったと思われます。ですが、割竹に革袋をかぶせ、本気で打っても大怪我をせずに打てるシナイの登場は剣術における革命だったと思われます。シナイは江戸時代初期には全国的に使われるようになっていたようですが、タイ捨流を創始した丸目蔵人佐まるめくらんどのすけ(1540-1629)は、晩年弟子に


「上泉師に出会うまでシナイを見たことがなかった」


と語っているところを見ると、やはり上泉秀綱が考案した可能性が高いのだと思われます。


 シナイの発明によって木刀に比べてはるかに安全に、実際に力を込めて打ち込む事や、互いに打ちあう試合的な稽古を安全におこなえるようになりました。おそらく木刀でのみ稽古していた流派に比べて、圧倒的に多く経験を積めるようになったと思われます。


 上泉信綱が上洛した際、弟子となった柳生新左衛門やぎゅうしんざえもん(のちの石舟斎せきしゅうさい)や丸目蔵人佐まるめくらんどのすけのどちらも、信綱もしくは弟子の疋田豊五郎と試合をして圧倒されています。柳生も丸目も当時一般的な流派を修めていた、一流の兵法者でした。ですが上泉信綱や高弟たちにはかなわなかったようです。(このあたりの話は疋田豊五郎が主役となっている、岩明均の漫画、「剣の舞」で描かれています。)



 話を戻します。

 上泉秀綱は新陰流を創始したのち、箕輪みのわ城主長野業政ながのなりまさに仕え、武将として活躍します。また、その時期に甥の疋田豊五郎や長野配下の神後伊豆守じんごいずのかみ鈴木意伯すずきいはくとも)などの弟子を育てていたようです。

 ちょうどその頃、鹿島の新當流の達人、塚原卜伝つかはらぼくでんが上洛し、足利将軍や北畠俱教きたばたけとものり雲林院弥四郎うじいやしろうなど、機内の武士たちに新當流を広め、関東に戻ってきました。おそらく上泉秀綱も塚原卜伝の上洛や、その活躍についての噂を耳にしていたのではないでしょうか。この後言及する上泉信綱の上洛ですが、そのルートは塚原卜伝をなぞっているという説もあります。


 さて、上泉信綱の上洛です。

 一般的には箕輪城落城後、武田信玄からの仕官の誘いを断り、兵法弘流のために上洛したとされています。信玄はその時、他の武将に仕えない事と信の字を与え信綱のぶつなと名乗る事を命じたと言われています。

 ですが、箕輪城落城は永禄えいろく9年(1566)であり、すでに信綱(秀綱)が上洛した後の話になりますので、武田信玄との逸話も含めて、おそらく後世に想像された話なのではないでしょうか。

 実際は長野が没し、長野氏が劣勢になりつつあった永禄6年(1563)頃、上泉信綱は上洛を決意し、高弟とともに旅立ったのだと思われます。大胡一族は京都に親戚がいたため、上洛しても何とかなるとの算段もあったようです。


 長野家が劣勢になるのを見て、自分の残りの人生は兵法弘流のために生きると考えたとすると、なんだか主君を見限っているようで、ちょっと剣聖のイメージとはズレてしまいますけども、戦国時代の武士としては普通だったのかもしれません。


 次回は上洛からの話です。



今回の参考文献:


岩明均(2001)「雪の峠・剣の舞」講談社

熊本大学文学部附属永青文庫研究センター 編(2014)「永青文庫叢書 細川家文書 故実・武芸編」

近藤義雄(2010)「箕輪城と長野氏」 戎光祥出版

全日本剣道連盟(2003)「剣道の歴史」全日本剣道連盟

中世古祥道(2009)「愛洲移香斎久忠傳考」南伊勢町教育委員会

中世古祥道(1998)「上泉武蔵守信綱傅私考」南伊勢町教育委員会

前田英樹(2014)「剣の法」筑摩書房

柳生厳長(1957)「正傳新陰流」

?(?)「冨田勢源仕合之巻」

?(?)「安倍立剣道伝書」

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