第10話 新陰流
今回は、剣術史において実質的に三大源流の一つとなる、
剣術史上で新陰流がなぜ重要なのか。それは現在の剣道で使われている竹刀の原型となる、シナイ(現代では一般的に
実際は、
新陰流の創始者、
生年は不明のようですが、一般的に「正傳新陰流」にある、著者柳生厳長が推定した
新陰流伝書の一つ、
「
とあるため、念流も学んだとされている事が多いようです。
これらの流派を修めたのち、陰流と出会い、陰流から「奇妙※2」を見出して新陰流を創始したとされています。また、学問や紙漉や薬学※3などにも堪能だったようです。新陰流の技の段階の一つ、
ちなみに、燕飛の巻の文章(上古流中古念流云々や懸待表裏など)は新當流の伝書の文章と酷似しているため、上泉秀綱が新當流を学んだというのは事実だと思われます。
※1 塚原卜伝が上泉信綱(秀綱)の弟子だ、とされているものまであります。
※2 この奇妙は陰流の一手
※3 日記では兵法(剣術)や軍配(いわゆる兵法・軍楽)以外に、愛洲薬方や紙漉きを伝授している。
では陰流を誰から学んだのでしょうか。
「正伝新陰流」では、14、5歳でまず新當流と念流を学び、その後鹿島住の陰流の開祖、
ただ、秀綱の弟子で、甥とも言われている
愛洲小七郎※4は愛洲移香の晩年、永正16年(1519)に生まれました。秀綱の生年を通説の永正5年(1508)年とすると、秀綱より10歳以上年下です。常識的に考えれば、剣聖と言われる上泉秀綱の師としては、やはり老齢の達人である愛洲移香の方がふさわしいと考えられるのでしょう。近年放送された上泉信綱のドラマでも、若い秀綱が老齢の愛洲移香より学んでいました。有名な「剣聖上泉信綱詳伝」や「正伝新陰流」などでは、小七郎の名が疋田系でしか見られない事から、傍流の伝承で事実ではなく、愛洲移香が師であるとしています。
※4 のちに
では小七郎から学んだ場合はどうでしょうか。愛洲家子孫の平沢家に伝わった平沢家伝記によると、小七郎は兵法修行で関東に至り、
平沢家伝記によれば愛洲移香は関東へ移動した形跡が無いことから、小七郎は父移香が死んだ後に回国修行に出たのでしょう。小七郎が常州に住んだ頃、上泉秀綱は居城の上泉城が落城し、この後
1.関東回国修行中の小七郎に学んだ(小七郎20代、秀綱30代)
2.上泉城落城から箕輪城に仕えるまでの間(小七郎が常州に住居を定めた30歳頃。秀綱40歳頃。愛洲氏の研究家、
1と2、どちらにしろ秀綱は30代~40代で、おそらく新當流と念流を学び、すでに一流の兵法家だったと思います。時代は数十年後になりますが、
東郷重位は27歳、すでにタイ
師匠が愛洲移香、小七郎のどちらだったのか、また、全く別の人物から学んだのか、実際のところはわかりません。あくまで私個人としての考えですけども、愛洲小七郎だったのではないか?という気がしています。
さきほど例にあげた
「
つまり、諸流の奥源を究めたが、陰流から別の奇妙(優れたもの)を抽出したと言っています。
10代の時に2、3年で諸流を学び、10代後半から20代前半に陰流の老達人に学んだ人物が書いた文章というより、既に成人した一流の兵法者が、陰流に出会ってそれまで学んだ流派に無かった奇妙を見出した、という話の方が通りが良いように感じます。(まぁあくまで印象論に過ぎません)
なんにしろ、陰流を学んだ上泉秀綱は、修行工夫を重ねて
シナイは撓・品柄・革刀などなど色々な字であらわされますが、よく
このシナイの一種が現在剣道で使用されている竹刀です。剣道の竹刀が一般化したため、昔のシナイを現在では
上泉秀綱がシナイを考案するまで、兵法(剣術)の稽古は木刀でおこなわれるのが普通でした。木刀は真剣や
「上泉師に出会うまでシナイを見たことがなかった」
と語っているところを見ると、やはり上泉秀綱が考案した可能性が高いのだと思われます。
シナイの発明によって木刀に比べてはるかに安全に、実際に力を込めて打ち込む事や、互いに打ちあう試合的な稽古を安全におこなえるようになりました。おそらく木刀でのみ稽古していた流派に比べて、圧倒的に多く経験を積めるようになったと思われます。
上泉信綱が上洛した際、弟子となった
話を戻します。
上泉秀綱は新陰流を創始したのち、
ちょうどその頃、鹿島の新當流の達人、
さて、上泉信綱の上洛です。
一般的には箕輪城落城後、武田信玄からの仕官の誘いを断り、兵法弘流のために上洛したとされています。信玄はその時、他の武将に仕えない事と信の字を与え
ですが、箕輪城落城は
実際は長野が没し、長野氏が劣勢になりつつあった永禄6年(1563)頃、上泉信綱は上洛を決意し、高弟とともに旅立ったのだと思われます。大胡一族は京都に親戚がいたため、上洛しても何とかなるとの算段もあったようです。
長野家が劣勢になるのを見て、自分の残りの人生は兵法弘流のために生きると考えたとすると、なんだか主君を見限っているようで、ちょっと剣聖のイメージとはズレてしまいますけども、戦国時代の武士としては普通だったのかもしれません。
次回は上洛からの話です。
今回の参考文献:
岩明均(2001)「雪の峠・剣の舞」講談社
熊本大学文学部附属永青文庫研究センター 編(2014)「永青文庫叢書 細川家文書 故実・武芸編」
近藤義雄(2010)「箕輪城と長野氏」 戎光祥出版
全日本剣道連盟(2003)「剣道の歴史」全日本剣道連盟
中世古祥道(2009)「愛洲移香斎久忠傳考」南伊勢町教育委員会
中世古祥道(1998)「上泉武蔵守信綱傅私考」南伊勢町教育委員会
前田英樹(2014)「剣の法」筑摩書房
柳生厳長(1957)「正傳新陰流」
?(?)「冨田勢源仕合之巻」
?(?)「安倍立剣道伝書」
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