第9話 陰之流
今回は戦国時代の剣術、兵法三大源流のうち陰流について解説したいと思います。
兵法三大源流の回で書いたとおり、
移香の創始した陰流(影流と書かれる事もあります)と愛洲移香については、
「倭寇の剣術である」「明国の軍隊に採用された」「倭刀術は影流である」「愛洲移香は水軍の出身で倭寇であり、明に渡たった事もある」
などの話があります。大正時代の頃まで移香斎は奥州の出身であるとされる場合や、日向国の鵜戸神宮の神官※1であるとされるなど、様々な説がありました。
では実際どうだったのでしょうか。中世古祥道「増補 愛洲移香斎久忠傅考」に江戸時代から現代までの愛洲移香斎の生誕地、伝記についての諸説がまとめられています。
それによると、江戸時代から大正までは出身地不詳説、奥州説、常州説、九州説(日向または筑前)の四つの説がありました。また、この頃までは愛洲移香が倭寇や水軍という説は見られません。
実は現在の通説となっている伊勢出身説は、昭和九年に大西源一が、昭和十年に青柳武明が平沢家伝記を発表した事で広まりました。それまでは愛洲氏が常陸の佐竹に仕えた後、佐竹が秋田へ移転したので常陸と奥州の二つの説が、愛洲移香が日向鵜戸大権現で陰之流を開眼したため九州説があったようです。
秋田の平沢家は愛洲移香の子孫(平沢に領地を得て改名した)です。その家の代々の伝記「平沢家伝記」によれば、愛洲移香斎は伊勢の出身であり、若い頃から
※1 鵜戸神宮の神官 肥後細川藩に伝わった新陰流の文献では鵜戸神宮の神官となっています。
さて、先ほど書いたとおり愛洲氏の研究者、中世古先生が五ヶ所城愛洲氏および愛洲移香についての著書をいくつか出されています※2。中世古先生によると、移香が倭寇説、水軍説は柳生厳長「正伝新陰流」の中での
「若くして渡海に長じ、水軍の将として遠く九州、関東、或いは明国までその足跡を伸ばした
という記述が初出であり、武道史研究家の綿谷雪の著作によって広まり、さらに後の剣道史や古武道史、剣豪本に引用、孫引きされて通説になってしまったようです。
正伝新陰流の出版以前、昭和十年の大西源一の著書により、愛洲氏水軍説はすでに知られていました。
これらの通説に対して、中世古先生は移香について、出身は五ヶ所城の愛洲氏、修験者だったのではないか?としています。愛洲移香が生まれた前後に名前が残る五ヶ所の愛洲氏には、愛洲三河守忠氏、親忠、教忠などの記録があり、移香の諱「久忠」と関連があるそうです。
※2 中世古先生の陰流関係の著書には先程紹介した「愛洲移香斎久忠傳考」以外に「愛洲物語 : 伊勢愛洲氏の歴史」「上泉武蔵守信綱私考」などがあります。
また、移香直筆の書「まりしてんししゃの書(摩利支天使者の書)」が平沢家に残っていました。この内容は旅の安全・吉凶に関する呪術的内容で、密教に関係あるものです。伊勢(志摩)の愛洲移香の時代の武家の記録をみると、次男三男で山伏となっているものが見られるそうです。愛洲移香もそのような立場だったのかもしれません。中世古先生は、平沢家文書に書かれている移香の経歴、また鵜戸神宮で修行した点※3などを信ずれば、移香は修験者(もしくはそれに関わりのある立場)だった可能性もあるのでは、とされています。
これら愛洲移香斎については、上記の記述の出典である「増補愛洲移香斎久忠傅考」をぜひ読んでほしいと思います。三重県南伊勢町の郷土資料館「愛洲の館」で昨年(2023)にはまだ置いてあったと思います。80ページほどの小冊子ですので興味のある方はぜひ読んでください。
※3 移香の時代、鵜戸が「西の高野」とも呼ばれ、熊野とならぶ修験者の聖地でした。
では、陰流は戦国時代、どの地方で学ばれていたのでしょうか?この記録は残っておらず、不明です。愛洲移香は鵜戸神宮で修行した点や、後述する倭寇との関係をみると、九州だったのかもしれません。唯一残っている天正10年(1582)の陰流目録は、宇喜多氏から湯原氏へ伝授されています。この両名とも現在の岡山あたりの武士の姓だそうです※4。そのあたりに伝承されていかもしれません。
また、次回解説する、移香の晩年の子、愛洲宗通(愛洲小七郎)は二十代以降、修行の途上関東に移ったため、関東でも陰流は学ばれていた記録がいくつかあります。
※4 宮本光輝,魚住孝至(2012)「愛洲陰之流目録(東京国立博物館蔵)の調査報告」
さて、影流と言えば倭寇、と言われるのはなぜか?という話に移ろうと思います。
室町時代から戦国時代にかけて、中国沿岸部で日本人を中心とした倭寇が活動していました。明側の記録でも、その勇敢な事、日本刀や鳥銃(火縄銃)を使った戦闘能力が高い事などが記録に残っています。
明の武将、戚継光(1528-1588)が著した兵書、
1584年、日本では天正12年ですから、愛洲移香の弟子ではなく、おそらく孫弟子かひ孫の世代のものだと思われます。
近年までこの写しのみが影流に関するほぼ唯一の史料でした。これは江戸時代から昭和時代まで、様々な人物が引用しています。しかし、明国人によって写されたもののため、字の判読も難しく、何が書かれているかよくわかっていませんでした。
平成二十一年に出版された「愛洲移香斎 増補改訂版」で国立東京博物館に愛洲陰之流の目録が所蔵されている事が発表されました。その後、国立東京博物館のWEBサイトでの画像公開され、また新陰流等の研究をされている、国際武道大学の研究者が伝書を調査発表された事※3などで現在ではその存在が知られています。
前述の研究などによって、紀效新書のの内容が、東博の愛洲陰之流目録とほぼ一致している事、また紀效新書に掲載されていない、山陰以降の部分の途中までが新陰流の燕飛と同じであること、新陰流には無いさらに後半部分が載っていた事がわかりました。また、猿飛(伝書では初段と表現されているようです)の次の段階として、武士と天狗が対峙した絵図があり、これが新陰流の
せっかくですので、紀效新書の内容と陰流目録の同じ部分の内容を比較してみます。
影流之目録
猿飛
此手はてきにすぎれは意分太刀たり
虎飛青岸陰見
又敵の太刀を取候はんかかり何造作もなう
先直偏からず彼以大事子切を意婦偏幾なり
いかがにも法ににぎりて有偏し
猿回
此手も敵多ちいだす時わが太刀を敵の太刀阿者す時取偏なり初段のごとく心得べし
第三 三陰
次に、愛洲陰之流目録です。
愛洲陰之流目録
第一 猿飛
此の手は敵かよけれは切太刀也
又虎乱清眼陰剣哥之太刀をつかいて掛る心少も動顛すへからす
以傳大事可切納む
いかにもつよく切て懸て後へさるへし
第二 猿廻
此の手も敵切出す時我太刀を敵の太刀に切縝て太刀をはつす時切也初之如く心得へし
第三 山陰
このように、紀效新書では文章の意味が取りにくかった部分が、陰流目録では文章として意味がわかります。
なお、東博の愛洲陰之流目録は
第一 猿飛
第二 猿廻
第三 山陰
第四 月影
第五 浮舟
第六 浦波
第七 獅子奮迅
第八 山霞
第九 陰剣
第十 清眼
第十一五月雨
となっています。
「愛洲陰之流目録」で検索すれば画像を見ることができるので、興味がある方はご覧ください。
ところで、陰流の目録を見て、第話で紹介した中條流(冨田流)目録との共通点に気が付かれた方もいると思います。
えんひ(燕飛)
えんくわい(燕廻)
つばせめ
ゆううん
さしあい中手
うきふね(浮舟)
うらのなみ(浦波)
むかばき
ししふんじん やま陰(獅子奮迅 山陰)
(以下略)
陰流目録の中に出てくる名称とかなり一致します。
また、猿廻の解説部分に出てくる「
最初に述べたように、愛洲氏が京都と縁のある伊勢の豪族だという事を考えると、中條流などの京都の兵法と縁があるのは不思議ではないと思います。
次回、陰流第二回は陰流と上泉信綱についてです。
上泉信綱という、日本の剣術において不世出の人物が陰流に出会う事によって、陰流は兵法三大源流としてその名を残す事になりました。もし信綱が陰流に出会わなければ、陰流は京流や吉岡流などと同じく、名前だけは残っているが実態のわからない流派の一つになっていたと思われます。
(2024/09/29 改訂)
参考文献:
大石順子,酒井利信(2012)「『紀效新書』における日本刀特性を有する刀剣の受容について」武道学研究 45-2
中世古祥道(2009)「増補愛洲移香久忠傳」
柳生厳長(1957)「正伝新陰流」
宮本光輝,魚住孝至(2012)「愛洲陰之流目録(東京国立博物館蔵)の調査報告」国武大紀要第28号
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