第9話 陰之流


 今回は戦国時代の剣術、兵法三大源流のうち陰流について解説したいと思います。


 兵法三大源流の回で書いたとおり、愛洲移香斎久忠あいすいこうさいひさただ(1452-1538)(以下、愛洲移香)が15世紀末に創始した流派です。陰流(影流と書かれる事もあります)は、倭寇の剣術である、明国の軍隊に採用された、倭刀術は影流である、愛洲移香は水軍の出身で倭寇であり、明に渡たった事もある、という話まで様々な話があります。

 では実際どうだったのでしょうか。昭和から平成にかけて新たな史料の発見などもあり、定説と異なる研究なども出てきています。(そもそも現在の定説が大正から昭和初期の定説とあまり変わっていないのですが)

 それらによると、移香は伊勢の豪族出身で各地を修業し、九州鵜戸神宮で陰流に開眼、その後も亡くなるまで西国にいたのではないか?とされています。水軍出身や海賊、明への渡航などの経歴は後に追加された創作である可能性が高いようです。以下ざっと解説します。



 愛洲移香ですが、太郎左衛門や日向守と書かれる事もあります。大正時代の頃まで移香斎は奥州の出身であるとされる場合や、日向国の鵜戸神宮の神官※1であるとされるなど、様々な説がありました。

 ですが、昭和初期に愛洲移香の子孫、平沢家の文献によって伊勢(志摩)の出身である事が明らかになりました。(何故か、wikipediaの愛洲久忠の頁には移香が若いころに明まで渡航したと平沢氏家伝文書にある、とありますが、平沢家傳記にはそのような内容はありません)


 ※1 鵜戸神宮の神官 肥後細川藩に伝わった新陰流の文献では鵜戸神宮の神官となっています。


 さて、先ほど書いたとおり愛洲氏の研究者、中世古先生が五ヶ所城愛洲氏および愛洲移香についての著書をいくつか出されています※2。中世古先生によると、移香は五ヶ所城の愛洲氏で、修験者だったのではないか?という事です。愛洲移香が生まれた前後に名前が残る五ヶ所の愛洲氏には、愛洲三河守忠氏、親忠、教忠などの記録があり、移香の諱「久忠」と関連があるそうです。


 ※2 中世古先生の著書には「愛洲物語 : 伊勢愛洲氏の歴史」「愛洲移香斎久忠傳考」などがあります。


 また、移香直筆の書「まりしてんししゃの書(摩利支天使者の書)」が平沢家に残っていました。この内容は旅の安全・吉凶に関する呪術的内容で、密教に関係あるものです。伊勢(志摩)の愛洲移香の時代の武家の記録をみると、次男三男で山伏となっているものが見られるそうです。愛洲移香もそのような立場だったのかもしれません。中世古先生は、平沢家文書に書かれている移香の経歴、また鵜戸神宮で修行した点※3などを信ずれば、移香は修験者(もしくはそれに関わりのある立場)だった可能性もあるのでは、とされています。


 ※3 移香の時代、鵜戸が「西の高野」とも呼ばれ、熊野とならぶ修験者の聖地でした。


 では、陰流が戦国時代、どの地方で学ばれていたのでしょうか?この記録は残っておらず、不明です。愛洲移香は鵜戸神宮で修行した点や、後述する倭寇との関係をみると、九州だったのかもしれません。唯一残っている天正10年(1582)の陰流目録は、宇喜多氏から湯原氏へ伝授されています。この両名とも現在の岡山あたりの武士の姓だそうです※4。そのあたりに伝承されていかもしれません。(偶然にも岡山を発祥とする、竹内流腰廻小具足の竹内久盛の剣術も陰流であったという話があります。愛洲移香の陰流と関係があるかは不明ですが…)

 また、次回解説する、移香の晩年の子、愛洲宗通(愛洲小七郎)は二十代以降、修行の途上関東に移ったため、関東でも陰流は学ばれていた記録がいくつかあります。


 ※4 宮本光輝,魚住孝至(2012)「愛洲陰之流目録(東京国立博物館蔵)の調査報告」


 さて、影流と言えば倭寇、と言われるのはなぜか?という話に移ろうと思います。

 室町時代から戦国時代にかけて、中国沿岸部で日本人を中心とした倭寇が活動していました。明側の記録でも、その勇敢な事、日本刀や鳥銃(火縄銃)を使った戦闘能力が高い事などが記録に残っています。

 明の武将、戚継光(1528-1588)が著した兵書、紀效新書きこうしんしょの1584年版に、戚継光が倭寇との戦闘で入手したという、影流目録の断簡の写しが掲載されています。

 1584年、日本では天正12年ですから、愛洲移香の弟子ではなく、おそらく孫弟子かひ孫の世代のものだと思われます。


 近年までこの写しのみが影流に関するほぼ唯一の史料でした。これは江戸時代から昭和時代まで、様々な人物が引用しています。しかし、明国人によって写されたもののため、字の判読も難しく、何が書かれているかよくわかっていませんでした。


 平成二十一年に出版された「愛洲移香斎 増補改訂版」で国立東京博物館に愛洲陰之流の目録が所蔵されている事が発表されました。その後、国立東京博物館のWEBサイトでの画像公開され、また新陰流等の研究をされている、国際武道大学の研究者が伝書を調査発表された事※3などで現在ではその存在が知られています。

 前述の研究などによって、紀效新書のの内容が、東博の愛洲陰之流目録とほぼ一致している事、また紀效新書に掲載されていない、山陰以降の部分の途中までが新陰流の燕飛と同じであること、新陰流には無いさらに後半部分が載っていた事がわかりました。また、猿飛(伝書では初段と表現されているようです)の次の段階として、武士と天狗が対峙した絵図があり、これが新陰流の天狗書てんぐのしょ(天狗抄)と似ています。東博の目録が知られる前から、燕飛と天狗抄は影流の太刀である、と柳生系新陰流では語られてきましたが、それが史料によって裏付けられたことになります。


 せっかくですので、紀效新書の内容と陰流目録の同じ部分の内容を比較してみます。


  影流之目録

 猿飛

 此手はてきにすぎれは意分太刀たり

 虎飛青岸陰見

 又敵の太刀を取候はんかかり何造作もなう

 先直偏からず彼以大事子切を意婦偏幾なり

 いかがにも法ににぎりて有偏し


 猿回

 此手も敵多ちいだす時わが太刀を敵の太刀阿者す時取偏なり初段のごとく心得べし


 第三 三陰



 次に、愛洲陰之流目録です。


  愛洲陰之流目録

 第一  猿飛

 此の手は敵かよけれは切太刀也

  又虎乱清眼陰剣哥之太刀をつかいて掛る心少も動顛すへからす

 以傳大事可切納む

 いかにもつよく切て懸て後へさるへし


 第二 猿廻

 此の手も敵切出す時我太刀を敵の太刀に切縝て太刀をはつす時切也初之如く心得へし


 第三 山陰



 このように、紀效新書では文章の意味が取りにくかった部分が、陰流目録では文章として意味がわかります。


 なお、東博の愛洲陰之流目録は


 第一 猿飛

 第二 猿廻

 第三 山陰

 第四 月影

 第五 浮舟

 第六 浦波

 第七 獅子奮迅

 第八 山霞

 第九 陰剣

 第十 清眼

 第十一五月雨


 となっています。

「愛洲陰之流目録」で検索すれば画像を見ることができるので、興味がある方はご覧ください。


 ところで、陰流の目録を見て、第話で紹介した中條流(冨田流)目録との共通点に気が付かれた方もいると思います。


 えんひ(燕飛)

 えんくわい(燕廻)

 つばせめ

 ゆううん

 さしあい中手

 うきふね(浮舟)

 うらのなみ(浦波)

 むかばき

 ししふんじん やま陰(獅子奮迅 山陰)

(以下略)


 陰流目録の中に出てくる名称とかなり一致します。


 また、猿廻の解説部分に出てくる「虎乱・清眼・陰剣」の三つは、冨田家の古い中條流の目録で、念阿弥慈恩の極意として出てくるものです。上記であげた共通点を見ても、陰流が念阿弥の兵法の影響下に成立したのは間違いないと思われます。

 最初に述べたように、愛洲氏が京都と縁のある伊勢の豪族だという事を考えると、中條流などの京都の兵法と縁があるのは不思議ではないと思います。


 次回、陰流第二回は陰流と上泉信綱についてです。


 上泉信綱という、日本の剣術において不世出の人物が陰流に出会う事によって、陰流は兵法三大源流としてその名を残す事になりました。もし信綱が陰流に出会わなければ、陰流は京流や吉岡流などと同じく、名前だけは残っているが実態のわからない流派の一つになっていたと思われます。



 参考文献:

 大石順子,酒井利信(2012)「『紀效新書』における日本刀特性を有する刀剣の受容について」武道学研究 45-2

 中世古祥道(2009)「愛洲移香久忠傳」

 宮本光輝,魚住孝至(2012)「愛洲陰之流目録(東京国立博物館蔵)の調査報告」国武大紀要第28号

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