第3話 南北朝時代(室町初期)

 南北朝時代、足利三代将軍義満あたりまでの時代に剣術、この時代はまだ兵法(へいほう、ひょうほう)と言われていましたが、剣術の流派らしきものが登場しはじめる時代です。


 この時期の文献では、太平記に兵法についての記述があるので引用してみます。観応2年(1351年)、「将軍上洛事付阿保秋山河原軍事」にある秋山新蔵光政の名乗りの部分です。


「是は清和源氏の後胤に秋山新蔵光政と申者候。出王氏雖不遠已に武略の家に生まれて数代只弓箭を取て名を高せん事を存ぜし間、幼稚の昔より長年今に至まで兵法を弄び嗜む事すきなし。但し黄石公が子房に授し所は天下の為にして、匹夫の勇に非ざれば吾いまだ学ばず、鞍馬の奥僧正が谷にて愛宕高雄の天狗共が九郎判官義経に授けし所の兵法に於ては、光政残らず伝え得たり処なり。仁木細河高家の御中に吾と思わん人々名乗りて是へ御出候へ。声花なる打物して見物の衆の睡醒さん」


 自分は黄石公が子房(張良のこと)に授けた(いま一般に言われる兵法と同じ意味、軍略・軍学の事です)は学んでいないが、鞍馬の天狗から義経が学んだを伝承している、我こそはと思うものは出てきて花々しく打ちあって勝負せよ、と名乗っています。


 後世の武芸者風に言えば俺は義経流兵法の免許皆伝だ、とでも言っているようなものです。(なお光政はこの場面で太刀ではなく六角棒で戦っています)


 太平記が成立したのはもう少しあとの時代と言われていますが、1370年頃には現在の形に成立していたそうです。どちらにせよ、南北朝の時代、足利将軍三代目まで時代です。この時代にはすでに義経が天狗に兵法を学んだという話が流布していた上に、その流れをくむという兵法が存在していた事がわかります。


 この時代には室町時代の文化が発展した時期で、前回話題に出した武家の弓馬・故実・礼法はもちろん、多くの芸能が発展しました。猿楽の観阿弥・世阿弥が有名ですが、この頃、阿弥衆・同朋衆という阿弥号を持った人々が連歌・作庭・猿落・能面師・香・立花・茶など様々な芸能で活躍しています。


 やっと阿弥号まで話が進みましたが、剣術・兵法で阿弥号をもつ人物と言えば念阿弥慈恩ねんあみじおんです。最古の剣術流派と言っていい念流の創始者で、中條流(富田流)・一刀流・堤宝山流つつみほうざんりゅうなど多くの流派の祖とされています。


 念阿弥慈恩は一般的には以下のように知られています。


 陸奥相馬の人、念流の開祖。父の仇を討つために剣法をならい、応安元年(1368)筑紫の安楽寺で剣の奥義をさとる。のち父の仇を討ち、信濃波合に長福寺をひらき念大和尚と称した。俗名は相馬義元

(デジタル版日本人名大事典+Plusより)


 上記によると慈恩は14世紀半ばの人物で相馬氏の出身、父の仇を討ち、信濃波合に住んだ、とのことですが、これはこのまま信じることはできません。この伝承は江戸時代の馬庭念流樋口家の史料が元になっており、俗名が相馬義元であること、父の仇討ちをしたこと、信濃波合の長福寺に住んだこと、安楽寺で剣の奥義を悟ったこと、これらは室町時代の文献および中條流各派の伝書にあらわれる話と全く違います。


(以下第4話 念阿弥慈恩に続きます)

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