第4話 念阿弥慈恩

 まず最初に、この項については大部分を

・堀口育男「中世兵法伝承一班」(中世の文学散文編,明治書院,1994)

・森田栄「源流剣法平法史考」NGS,1996

の二冊を参考にしています。詳しく知りたい方は是非そちらをご覧ください。


 今回は念流の開祖、念阿弥慈恩ねんあみじおんについてです。

 前回書いたように、慈恩は一般的に


 陸奥相馬の人、念流の開祖。父の仇を討つために剣法をならい、応安元年(1368)筑紫の安楽寺で剣の奥義をさとる。のち父の仇を討ち、信濃波合に長福寺をひらき念大和尚と称した。俗名は相馬義元(デジタル版日本人名大事典+Plusより)


 とされています。これは念流樋口家の江戸時代の史料に書かれている事が大元になっています(前回記載忘れましたが、樋口家でも相州寿福寺で神僧より伝授されています)。では、もっと古い記録ではどうでしょうか。


 文明14年(1482)頃に成立したと言われている塵荊抄じんけいしょうの中の武経兵書之事に神僧と念阿弥慈恩についての記述があります。それによると、建武の頃、どこの人かわからないが神僧と云う人が相陽の寿福寺におり、歴応(1338~1341)の頃に慈恩と出会い兵法を教えはじめた。康永2年(1343)にことごとくすべてを伝授してその年の三月に姿を消した。神僧は摩利支天の化身である。と書かれています。


 また、中条流冨田九郎左衛門とだくろうざえもんの弟子、印牧かねまき弥次郎吉家が持っていた九郎左衛門の寿像に月舟寿桂が書いた賛があり、そこに冨田九郎左衛門の兵法が、相陽寿福寺の神僧より慈恩へ伝わった兵法である事が書かれています。(これが書かれたのは塵荊抄より数年から数十年あとの時代だそうです)


 なお、塵荊抄では慈恩以降の伝承者にも言及されていますが、中条兵庫助や中条判官などの中条流の伝系に出てくる人物はまったく触れられておらず、別系統の伝承と思われます。


 塵荊抄では康永2年にことごとくを伝授されたとされる慈恩ですが、馬庭念流樋口家の伝書では正平22年(1366)、中条流長谷川宗喜の系統の戸田流伝承者、宮川忍斎の覚書では応安2年(1369)となっています。どれが正解か不明ですが、おそらく14世紀中ごろには念阿弥慈恩は兵法家として独り立ちしていたのではないかと思われます。前回話題に出た、義経の兵法を伝授されていたと自称した秋山光政とほぼ同時期の人物と言って良いと思います。


 さて、この念阿弥陀慈恩ですが、弟子として知られているのは

・中條兵庫助(中条流・冨田流)

・神崎修理亮

・二階堂右馬助

・赤松三首座(慈三蔵主とも。念流・首座流)

など室町期の資料に名前が出てくる人物がいますが、樋口家などの史料に出てくるものとしては坂東八人・京六人の弟子として


二階堂右馬助・舎弟三首座・猿御前・堤法賛(堤宝山)・祖父畠山古泉入道・沼田法印・堀私豊前守・甲斐豊前守・三河国氏中条判官・土岐近江守・京極民部少輔・四宮弾正左衛門・出雲国士潮肥後守・畠山駿河守


の名前が挙げられています。他に、史料によっては円明房などの名前が入っている事もあります。また、元史料が不明ながら、歌人・美濃篠脇城主の東益之とうますゆきの兵法の師、玄心も念阿弥慈恩の弟子ということです。

 正確なところはわかりませんが、すくなくとも14世紀後半から15世紀初頭にかけて活躍した弟子が数人はいた事から、念阿弥慈恩が14世紀中ごろの実在の人物である事は確実だと思われます。また、前回も書きましたが相馬氏出身であること、仇討や波合の寺の事などはまったく書かれていません。

 一般的に兵法三大源流として、新当流・一刀流・陰流の名前が挙げられますが、新当流の飯篠長威は元中4年(1387)生まれ、陰流の愛洲移香は享徳元年(1452)の生まれとされています。伊藤一刀斎はさらに百年近くあとの人物です。飯篠長威は慈恩の孫弟子あたりの世代、愛洲移香はさらに三代くらい後の世代です。(飯篠長威については、個人的には弟子や孫の活躍時期から考えて、もう20年はあとに生まれたのではないか?と考えています)

 なんにしろ、流派や武術として、現在までその影響がはっきりたどれる人物としては、念阿弥慈恩こそが日本兵法(剣術)の祖と言って良いのではないか?と思います。また、弟子の二階堂や中條などはそれなりの地位の武士で、中央とも関係があります。中條兵庫助は歌人として有名ですし、次回少し言及しますが、中條氏、二階堂氏ともに京都で活動していた形跡があります。やはり、念阿弥は他の阿弥を名乗った猿楽などの芸能者と同じような、芸能その他で武家に仕えた立場の人物(念阿弥の場合は兵法)だったのではないでしょうか。


 その技術はどのようなものだったか?今となってはまったくわかりませんが、幸い弘前に冨田流の要素を色濃く残している當田流剣術が現存しています。さらに馬庭念流や肥後新陰流の小太刀など赤松三首座の流れの流派も残っているため、現在でもその一端に触れる事はできます。

 なんと言っても数百年経過しているので、当時の技法との関係は簡単に断言できませんが、この三流派ともに流派一本目の形が、敵の正面打ちを真っ向で受け止める技を使っているのは、何らか念阿弥の兵法(剣術)の痕跡を示しているのではないか?と個人的には思います。


 ところで、念阿弥の時代から、そんな武芸流派らしい体系が存在していたのか?と疑問に思われる方も多いかと思われます。これまた幸いなことに、最初に話題にしています、塵荊抄じんけいしょうの中にとして、文明14頃の念流の目録が載っています。これを読んだ時は個人的には信じられなかったのですが、冨田流の目録と九割以上同じ、ほとんどおなじものと言って良いものです。

 日本の剣術や武術において目録というのは、流派の技、形を順番に名称を書いたもの(目録)で、その流派の体系を表わしている場合が多いものです。

 念阿弥慈恩の全く別の二人の弟子が伝えた、何代もあとの目録がほとんど同じということは、おそらく念阿弥慈恩のころから目録はほぼ変わっていない可能性が高いと言えます。

 と言ってもよくわからないので、塵荊抄と冨田流の目録の一部分(剣術部分と思われる場所)を書き出してみます。


・塵荊抄

四箇、燕飛、燕廻、遊雲、鍔攻、本手、指合、蜻蛉返し、鳴車、切崎返し、浮船、竜毛、履回し、行騰、折入、浦の浪、十人一得、角手、獅子奪迅、山陰、無縄自縛、夜構へ、壺枕、身曲、鸚鵡返し、横太刀、懐中、手の外、臥竜、玉芳、光剣、芝引、千金莫傳、面影、十三方、八天、三術、止(とめ)太刀、枕屏風


・平法手之次第(加賀藩中条流師範、矢野家の文献より)

しかのかまへ、えんひ、えんくはひ、つはせめ、ゆううん、さしあい中手、うきふね、うらのなみ、むかはき、ししふんしん、山かけ、くつかへり、せんきんまくてん、めいしゃ、とうはうかへり、十人一とく

ひれう、くはひちゅうての外、よこたち、よるの太刀、かくて、むたう、つほまくら、あふむ返し、らつかう、身のきよく、くはうけん、きつさき返し、きょくはう、をり入、おもかけ、十三方、八てん、みしゅつ、こらん入、せうてう、とめ太刀、まくらひょうふ

 

 たくさんあってめんどくさいですけども、ほとんど同じ名称で、順番も同じ部分が多い事がわかると思います。

 読み飛ばした方も多いと思われますが、ここで言える事は、念阿弥慈恩の段階で既に形・技が数十以上あり体系化された武芸流派として出来上がっていたのではないか?ということです。

 いきなり体系化されたものが出来上がるはずもないので、慈恩の先代、先々代、と何代か前から既に流派化の動きがあったと思われます。その一例が太平記の秋山光政ではないでしょうか。


 次回は室町時代の記録に出てくる兵法と、その後の念阿弥の弟子たちの記録になります。新当流についてはそのあとでしょうか。







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