第6話 飯篠長威斎家直

 ところで、ウィキペディアなどでは香取神道流の開祖として有名な飯篠長威斎家直いいざさちょういさいいえなおも、元中4年(1387)生まれとされ、前回話題にした、15世紀初頭から応仁の乱までに活躍した人物になります 。ただし、前回書いたとおり、飯篠長威の生年が間違っている可能性が高いのではないかと思います。


 飯篠家の伝書では、長威から巻物を授かった直弟子として松本備前と門井主税の二人の名前が載っています。松本備前守は応仁元年(1467)生まれであり、長威が1387年生まれなら師匠との年齢差は80歳です。また、もう一人の弟子である門井主税、その直弟子沢永存が1554年に島津義久に免許を授けています。ですので、門井も松本と同じような時代に生まれていたのではないかと思われます。いくらなんでも、80~100歳の老人が若者たちに教えるというのも考え難いと思います。


 ここで例によってデジタル版 日本人名大辞典+Plusからの引用になりますが、飯篠長威とは、


下総しもうさ香取郡飯篠村(千葉県多古町)の人。香取神宮や常陸ひたち(茨城県)の鹿島神宮につたわる武芸から、天真正伝新当(神道)流を創始。松本政信、塚原安幹らをそだて、近世武術の源流となる。長享2年4月15日死去。享年は68歳とも102歳ともいわれる。名は長意ながおき、家直。通称は山城守(かみ)、伊賀(いがの)守。(※長享2年は1488年)


 となっています。おそらく享年68歳、1420年あたりに生まれたというのが実際に近いのではないでしょうか?そうすると松本備前守との年齢差も48歳になり、60代の長威から10代~20歳の備前守が学んだと考えればそれほど不自然さもありません。ちょうど先にあげた池田禅祐の17歳入門、22歳で皆伝という話に似ています。


 ところで、飯篠長威斎の没した年齢については、江戸時代の記録になりますが、面白いものが残っています。松平伊豆守の甥、天野長重(1621-1705)という人が40年以上に渡って書きとめた「思忠志集」という書物に、松林蝙也まつばやしへんや(※1)の話として、飯篠長威の辞世の句が載っています。


 飯坂長意太刀詠哥 午の冬書

 太刀のめいじん鹿島之飯坂長意入道相果時弟子寄合暇出の節遺哥之由 松林蝙也入道 咄也

 六拾に なるまてくゑと いひ(飯)の あち(味)つかえとしらぬ 兵法のあち


 これは寛文6年(1666)の冬の記録となっており、松林蝙也の最晩年の頃になります。蝙也は1593年生まれ、1667年没。新當流を学び工夫し、夢想願立むそうがんりゅうを立てた人物です。おそらく、江戸初期の新當流の一派には飯篠長威は60代で亡くなったという話が伝わっていたのだと思われます。


 日本人名大辞典では飯篠村の人で香取神宮や鹿島神宮につたわる武芸から新当流を編み出したとありますが、飯篠家に伝わった新當流兵法書を見ると、飯篠長威は若狭の住人で、奥山慈恩の兵法を伝えていたが実法が無く(実戦的でなく?)、神社に籠って修行し応安2年(1369)に御神の秘術を授かった、とあります。若い時代に足利義政に仕えたとある古文書もあります。

 また、新當流のいくつかの伝書の序文によると、

「上古流、中古念流はいずれも待具足であり勇が無く(敵の攻撃を待って反撃する技?)、この両流をことごとく学んで懸待表裏けんたいひょうりの二種の根元を改め新當流を始めた。」

とあります。

 ところで、上古流、中古念流とは一体なんだったのでしょうか?

 塚原卜伝つかはらぼくでん(※2)の高弟、松岡兵庫助まつおかひょうごのすけ(※3)の子孫が伝えた天真正伝新當流伝脉によると、上古流とは坂上田村麻呂や八幡太郎義家などの太古から伝わる兵法としています。そして鬼一法眼、九郎判官義経の兵法、鞍馬流、京流、吉岡流や日置流弓術(※4)などが中古流や中古念流であり、それらに新意を加えたので新當流であるのだとしています。


 これらを見ると、飯笹篠長は香取鹿島の刀槍だけでなく、中央(京都)に出て念阿弥慈恩の兵法など中央の兵法を深く学ぶ機会があったのではないか?と思われます。応安2年(1369)に長威斎が御神の秘術を授かったというのも、中條流長谷川家の伝承にある慈恩が神僧から秘術を授かった年と同じです。念阿弥の伝承の影響が感じられます。(そもそもまだ長威斎が生まれていない時代です)

 実際、門井主税の系統では念流小具足こぐそくという体系が目録の中にあり、松本備前守や塚原家の系統では前回話題に出した目録の中にある、獅子奮迅ししふんじん虎乱入こらんにゅう飛鳥翔ひちょうのかけりなど念阿弥慈恩の兵法にあるものと同じ名称が採用されています。飯篠長威と念阿弥慈恩の兵法(もしくは京都の兵法)との間に何らかの関係があったのは間違いないと考えられます。


 さて、剣術の技法や稽古方法の話となりますが、この時代はまだ竹刀(袋竹刀ふくろしない)の類いは無く、木刀や木の枝で稽古していましたと考えられています。当然、思いきり打つと危険ですから、寸止めや軽く打つ、当てて止めるような形式で稽古していたのではないかと思われます。ただ、記録は何もないので、この当時どのような稽古をしていたか不明です。現在の竹刀につながる、シナイ(今でいう袋竹刀)を作ったといわれる上泉信綱の登場はまだ数十年以上先になります。


 このあとの時代、応仁の乱から16世紀初頭にかけて登場し、盛んになるのが新當流や愛洲陰之流あいすかげのりゅうです。次回は応仁の乱以降の戦国時代初期、冨田家の活躍、新當流と陰之流の登場についてです。


※1 松林蝙也まつばやしへんやは一部に有名ですが、老齢になってから将軍家光の前で兵法を演武し、その際弟子の太刀を踏んで飛び上がる足譚という技で、袴が屋根のひさしに届いたと言われるほどの身の軽さで有名な剣豪です。剣術、小具足、捕手、槍長刀などを含む夢想願立の開祖です。夢想願立むそうがんりゅうは仙台藩に伝わり、末流は幕末まで存在しました。その分派は岩手県で大正から昭和初期まで稽古されていたそうです。


※2 塚原卜伝つかはらぼくでん、香取鹿島の新當流を学び、京都に上り数多くの弟子を育てました。後世に大きな影響をあたえた武芸者です。卜伝の養父は飯篠長威の弟子だったようですから、飯篠長威の孫弟子の世代になります。詳しくは次回以降に言及します。


※3 松岡兵庫助、塚原卜伝の弟子で、徳川家康にも指南しました。塚原卜伝は晩年を松岡家で過ごしたそうです。明治以降まで新當流松岡派として残っていたそうで、大量の資料が残っていたようです。


※4 京流は山本勘介が使ったとされる流派で天流斎藤傳輝坊の目録にも言及があります。吉岡流は京の剣法家吉岡家が伝えたとされる流派で宮本武蔵との決闘が有名です。日置流 日置弾正が15世紀末頃に創始したと言われている弓術です。京流と吉岡流については、戦国時代のあたりで言及する予定です。



・第5話では以下の資料を参考・引用しました。

日本武道大系第3巻,同朋舎出版,1982

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