第6話 飯篠長威斎家直
ところで、ウィキペディアなどでは香取神道流の開祖として有名な
飯篠家の伝書では、長威から巻物を授かった直弟子として松本備前と門井主税の二人の名前が載っています。松本備前守は応仁元年(1467)生まれであり、長威が1387年生まれなら師匠との年齢差は80歳です。また、もう一人の弟子である門井主税、その直弟子沢永存が1554年に島津義久に免許を授けています。ですので、門井も松本と同じような時代に生まれていたのではないかと思われます。いくらなんでも、80~100歳の老人が若者たちに教えるというのも考え難いと思います。
ここで例によってデジタル版 日本人名大辞典+Plusからの引用になりますが、飯篠長威とは、
となっています。おそらく享年68歳、1420年あたりに生まれたというのが実際に近いのではないでしょうか?そうすると松本備前守との年齢差も48歳になり、60代の長威から10代~20歳の備前守が学んだと考えればそれほど不自然さもありません。ちょうど先にあげた池田禅祐の17歳入門、22歳で皆伝という話に似ています。
ところで、飯篠長威斎の没した年齢については、江戸時代の記録になりますが、面白いものが残っています。松平伊豆守の甥、天野長重(1621-1705)という人が40年以上に渡って書きとめた「思忠志集」という書物に、
飯坂長意太刀詠哥 午の冬書
太刀のめいじん鹿島之飯坂長意入道相果時弟子寄合暇出の節遺哥之由 松林蝙也入道 咄也
六拾に なるまてくゑと いひ(飯)の あち(味)つかえとしらぬ 兵法のあち
これは寛文6年(1666)の冬の記録となっており、松林蝙也の最晩年の頃になります。蝙也は1593年生まれ、1667年没。新當流を学び工夫し、
日本人名大辞典では飯篠村の人で香取神宮や鹿島神宮につたわる武芸から新当流を編み出したとありますが、飯篠家に伝わった新當流兵法書を見ると、飯篠長威は若狭の住人で、奥山慈恩の兵法を伝えていたが実法が無く(実戦的でなく?)、神社に籠って修行し応安2年(1369)に御神の秘術を授かった、とあります。若い時代に足利義政に仕えたとある古文書もあります。
また、新當流のいくつかの伝書の序文によると、
「上古流、中古念流はいずれも待具足であり勇が無く(敵の攻撃を待って反撃する技?)、この両流をことごとく学んで
とあります。
ところで、上古流、中古念流とは一体なんだったのでしょうか?
これらを見ると、飯笹篠長は香取鹿島の刀槍だけでなく、中央(京都)に出て念阿弥慈恩の兵法など中央の兵法を深く学ぶ機会があったのではないか?と思われます。応安2年(1369)に長威斎が御神の秘術を授かったというのも、中條流長谷川家の伝承にある慈恩が神僧から秘術を授かった年と同じです。念阿弥の伝承の影響が感じられます。(そもそもまだ長威斎が生まれていない時代です)
実際、門井主税の系統では念流
さて、剣術の技法や稽古方法の話となりますが、この時代はまだ竹刀(
このあとの時代、応仁の乱から16世紀初頭にかけて登場し、盛んになるのが新當流や
※1
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※3 松岡兵庫助、塚原卜伝の弟子で、徳川家康にも指南しました。塚原卜伝は晩年を松岡家で過ごしたそうです。明治以降まで新當流松岡派として残っていたそうで、大量の資料が残っていたようです。
※4 京流は山本勘介が使ったとされる流派で天流斎藤傳輝坊の目録にも言及があります。吉岡流は京の剣法家吉岡家が伝えたとされる流派で宮本武蔵との決闘が有名です。日置流 日置弾正が15世紀末頃に創始したと言われている弓術です。京流と吉岡流については、戦国時代のあたりで言及する予定です。
・第5話では以下の資料を参考・引用しました。
日本武道大系第3巻,同朋舎出版,1982
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