戦国時代 兵法三大源流

第7話 兵法三大源流

 今回は応仁の乱(1467~1477)以降、16世紀初頭までの概要です。


 この時代に現代で兵法三大源流と言われる、念流・新當流・陰流が出そろう事になります。また柔術の祖と言われる竹内久盛もこの時期に誕生しています。

 江戸時代以降、数百とも言われる多くの剣術流派が誕生しますが、その多くが上記の三流派のいずれか(もしくは複数)に起源を持ちます。例えば幕末に活躍した流派で考えてみると、一刀流系は念流系とされますし、直心影流や神道無念流は陰流系、天然理心流は新當流系です。心形刀流などは全部のハイブリットになりますね。

 wikipediaによれば、新陰流の開祖、上泉信綱の目録にある、「上古の流有中古念流新當流又陰流有」という言葉から兵法三大源流と言われるようになったとか。


 この兵法三大源流という言葉ですが、たしかに戦国時代以降の時代から見れば三大源流と言って良いと思いますが、実際のところ、新當流も陰流も念阿弥慈恩の兵法、もしくは義経の兵法の影響を多大に受けていると思われます。ですので、個人的には兵法の源流は念阿弥慈恩である、とも言えるのではないか?と考えています。(陰流と念阿弥慈恩については陰流についての回で解説します)


 いずれにしろ、この時期が現代に直接つながる剣術流派が発展しはじめる時期と言って良いと思います。また、今まで刀剣については言及してきませんでしたが(正直あまり知識が無いので語ることもできないのですが…)、剣術で使用される刀剣が、現在に繋がる形式、刃を上にして帯刀されるようになった時代でもあります。


 この時期のできごとを見てみます。

 新当流関係では、長威斎(長享2年(1488)没)の弟子たち、松本備前守や門井主税などが活躍し、新當流が鹿島香取の武士を中心とした、関東近辺で広がり始めています。また、長威斎の孫、飯篠若狭守盛近も新當流を伝承し、飯篠家の門弟からは槍・薙刀に優れた人物が多数現れます。

 ちなみに、新當流は陰流や念流に比べて、槍や薙刀の技量に優れていたのか、後世槍・薙刀流派の多くが新當流の系譜となっています。有名な十文字槍の宝蔵院流も新當流の流れとなります。また、戦国期の新當流の剣術・槍薙刀の絵巻物も甲冑着用姿で描かれているものもいくつも残っており、戦場で使われる長物に強かった点などから見ても、中条流や陰流に比べて、甲冑着用、戦場での兵法の要素が強かったのではないか?と思います(根拠があまりない、個人的感想ですが)。

 

 飯篠長威斎が亡くなった同年、愛洲移香久忠あいすいこうひさただが日向国鵜殿権現で愛洲陰之流あいすかげのりゅうを創始しました。(陰流の創始は文明10年とも)。

 愛洲移香は享徳元年(1452)生まれで、伊勢(志摩)五ヶ所の愛洲氏の一族ではないか?とされています。のちほど記載しますが、一説には明まで渡航したと言われ、倭寇や明国剣術との関係、それから何といっても新陰流の元となった流派として有名です。新陰流を伝承した尾張の柳生家、柳生厳長の著書正傳新陰流によると、晩年に常州鹿島に住み、青年時代の上泉信綱を教えたとしています。ただし、個人的にはこれは違うように思います(別の回で記載します)


 念流関係を見てみると、永正6年(1509)、中条流の冨田九郎左衛門長家とだくろうざえもんながいえが没します。生年は不明です。有名な冨田勢源とだせいげんの祖父にあたる人物で、越前朝倉家に印牧弥次郎を筆頭に多くの門人がおり、小太刀の名手として有名でした。

 彼の出自は不明ですが、越前朝倉家臣の山崎右京亮昌厳の食客(?)で、山崎右京亮および師の大橋勘解由左衛門から中条流を学びました。

 九郎左衛門は戦死した山崎右京亮の二人の息子の後継人になり、中条流を伝授するとともに、息子の冨田治部左衛門や印牧弥次郎などの弟子を育てたそうです。(なお、大橋勘解由左衛門は第5話で言及した中條実伝源秀の弟子、甲斐豊前守の弟子です)


 ほかに兵法に関わる記録では、明応3年(1492)に細川政元(勝元の子)が『於鞍馬寺令修兵法、世人行天狗之法云々』と言われた山伏、司箭院興仙より兵法等を学んでいます。司箭院興仙は貫心流剣術の開祖とされています。貫心流は江戸時代中期以降、大正昭和期まで中国地方および徳島で盛んで、剣術・長刀・柔術を含む流派でした。剣術と居合については兵庫県および島根県で現存し、稽古されています。(おそらくこの連載では江戸後期で話題とする流派になると思います。)


 ところで、話は変わりますが、○○流という言い方はいつ頃から使われ始めたのでしょうか?

 だれだれのやり方、だれだれの関係、という意味で自然発生的に使われ始めたのだと思いますが、目録や巻物に流派名を記載したのは飯篠長威斎の新當流が最初、もしくは初期の例ではないか?と思われます。

 新當流より古い中条流など念阿弥慈恩の系統では、目録の最初に流派名を書くという事がなく※、単に兵法、もしくは念阿弥慈恩系独特の表現ですが平法と書いている場合が殆どです。

 新當流以降の陰之流でも、目録の最初に陰之流と記載しています。


 新當流、陰流ともに流派名が人名ではなく、ある理念を表わす単語を使っている事と、流派名を名乗り始めた事には関係があるのではないでしょうか。開祖が何らかの思いを流派名に込めたからこそ、流派名を目録に記載したのではないか?と感じます。(これらの流派より古いとされる中条流や念流、また日置流が人名を流派名としているのと対照的です)


※ 実際は馬庭念流や彦根藩の未来記念流に伝わる念流正法兵法未来記目録(未来記念流では正法念流未来記兵書目録)の題に念流とありますが、この伝書自体が戦国時代中期末の友松偽庵以降ものしか残っていないため、当初から題に念流とあったかどうか不明です。



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