第8話 新當流
第7話の続きです。
今回は、新當流の視点から戦国時代の剣術の動向を見ていこうと思います。
前回言及した通り、飯篠家に伝わった新當流兵法書によると、飯篠長威の有力な弟子として、松本備前守と門井主税(主悦とも)の二人がいました。
松本備前守(兵法伝書では政信、常陸国地史では尚勝)は1468年生まれとあります。正確かどうか不明ですが、大永4年(1524)の高天原合戦(※)で戦死したとあります。
当時鹿島氏には四宿老(松本氏・小神野氏・吉川氏・額賀氏)という有力家臣がいましたが、これらの家から新當流の伝承者が出ています。松本備前守はこの四宿老の一人でした。飯篠長威との年齢差を考えると、十代から二十頃に学んだのではないでしょうか。
松本備前守については、「東国剣記」というブログで様々な資料から解説されていますので、ご興味のある方は検索してみてください。私が書いたものを読むより勉強になると思います。
※ 高天原合戦 謀反によって鹿島を追われた鹿島の領主、鹿島義幹と謀反側との合戦。塚原卜伝も参戦していたとか。
先ほど書いたように、大永4年(1524)に討ち死にしますが、
・息子の松本右馬助
・小神野越前守
・有馬大和守
などが松本備前守の新當流を学び伝えていたようです。鹿島新當流開祖、塚原卜伝も松本備前守から学んだとされていますが、卜伝の生家も松本家と同じく四宿老の吉川家ですので、ありえそうな話です。(卜伝直弟子の雲林院弥四郎が卜伝から授かった伝書では、卜伝は塚原新左衛門から学んだ事になっています。なお、現在まで鹿島新当流を伝承されてきた吉川家は、卜伝が生まれた吉川家です)
余談となりますが、直心影流の開祖とされる神影流杉本備前守政元が松本備前守と同一人物とされています。また、それと関係があるのか無いのかわかりませんが、新陰流開祖の上泉信綱も松本備前守から新当流を学んだとされる事があります。(上泉信綱は松本備前守が戦死した頃には十代半ばでした。)
先ほどあげた、塚原卜伝を含む四名の弟子が伝えた新當流は、戦国時代に鹿嶋を離れ、広く伝わっていきます。
このうち小神野越前守幹通(播磨守定勝とも)は松本備前守と息子の右馬助から学んだようです。小神野家も四宿老の一つとしてあります。後世の伝書史料の系図を見ると、小神野の弟子として、小倉上総守、桜井大隅助、古宇田不問斎などがいたことがわかります。桜井大隅助は現在の茨城県桜川市真壁あたりの武士で、 天正15年(1587)に天流の開祖、斉藤伝輝坊と決闘した桜井霞之助の関係者のようです。桜井家は後に戸田氏に仕え、大垣藩に移ります。古宇田不問斎も真壁氏に仕えていたそうですが、子孫は宇都宮で奥平家に仕え、奥平家の転封によって中津に伝わりました。中津では明治以降も新當流が伝行われていたようです。また奥平家の減封の際に暇を出された継承者によって南部藩にも伝わっていました。
次に、有馬大和守ですが、この人の新當流は通称有馬流と言われ、大和守のあとを継いだ有馬満盛は徳川家康に仕え、家康もこの新當流を学んだそうです。子孫は紀州徳川家に仕えていて、この系統では流派の系図に家康を入れています。
ところで、飯篠長威のもう一人の弟子、門井主税ですが、この人物は謎だらけです。主税の弟子沢永存は天文23年(1554)、島津義久に新當流を伝授し、その免状類は島津家文書に残っています。また、タイ捨流丸目蔵人が若いころに学んだ流派の一つとして門井流を挙げている事や、江戸初期に黒田藩で伝承されていたらしい事から、戦国時代には西国に伝わっていあたのではないか?と思われますが、門井主税の実態は謎です。松本備前守と並ぶ飯篠長威の弟子だった事だけがわかっています。
では、長威斎の子孫、飯篠家では新當流はどう伝承されていたのか?というと、多くの飯篠家系の新當流では、系図上の二代目は孫の若狭守盛近となっています。孫という事は、松本備前守などと近い世代だったのかもしれません。前回述べたように、飯篠家の門下からは薙刀・槍で名を残す人物が戦国時代・安土桃山時代にかけて多数現れます。彼らの活躍時期は安土桃山時代になるので、その際に言及する事になると思います。また、示現流流祖
さて、この時期の新當流を語る時に忘れてはいけないのが塚原卜伝です。
卜伝は鹿島四宿老、吉川家に生まれ、塚原家へ養子へ行きます、実父より鹿島伝来の太刀を、養父より新當流を学んだとされています。戦場で戦果をあげるとともに、各地を回国し兵法を広めたとされています。残念ながら私は何年ごろに京へ上ったか知りませんが、将軍足利義輝や北畠具教といった近畿の武士へ新當流を伝授しています。塚原卜伝についてはwikipediaが十分詳しいので、そちらに書いていない事を中心に記載します。
塚原卜伝から免許を得た伊勢の武士に
以下、個人的な推測になりますが、後に新陰流を継承する柳生石舟斎宗厳もこの時期に卜伝(もしくはその弟子)から新當流を学んでいたのではないか?と想像します。
石舟斎が元々学んでいた流派については、トダ流等いくつかの説があります。そこで、新陰流各派の伝書を比較してみると、他派新陰流に比べて柳生系新陰流の用語は、塚原卜伝の新當流と用語および用語の意味が一致するものが非常に多くあります。
また、宮本武蔵と対決した、京都の吉岡一門の吉岡流ですが、この一派も塚原卜伝の影響を大きく受けていた可能性があります。吉岡流は京流とされていますので、室町時代の状況を考えると、中条流なり念流系であろうと推測できます。ところが、名古屋の蓬左文庫に所蔵されている吉岡流兵法書の内容を見ると、小太刀は念阿弥の兵法と同じようですが、それ以降の大部分が塚原卜伝の新當流そのままだそうです。(森田栄「源流剣法平法史」より)
つまり、吉岡流というのは、念阿弥の兵法(京流?)に、足利将軍も学んだ当時最新流派である鹿島新當流を加えたものだったのではないか?と思います。(もちろん、吉岡家以降の段階で鹿島新當流を取り入れた可能性も考えられます)
ところで、なんで松本備前守や門井主税の新當流ではなく、塚原卜伝の系統と言えるの?と思われる方もいるかもしれません。かなり多くの新當流目録を見てきましたが、塚原卜伝の新當流の目録は、松本備前守系や門井系の目録とよく似ています。ですが、それらに存在しない卜伝系独自の項目として「高上奥意十箇」という十種類の教え・技を示したものがあります。この教えは他の新當流に見られないため、卜伝が工夫したものではないか?と思います。
このあたりについては、非常に狭いマニアックな話なのでこの程度にしておきます。
つぎに、新當流がどの程度広まっていたか、について。永禄(1558~1570)あたり以降の剣術伝書には、他流極意の太刀や
それらの記述の中で頻繁に登場するものとして、
有馬の無一剣
卜伝の一太刀
松本の大(小)手裏剣
門井の三段仕合
一羽の玉簾
などが見られます。有馬は有馬大和守、卜伝は塚原卜伝、松本は松本備前守、門井は門井主税、一羽は師岡一羽と、これらはすべて上記にあげた新當流の関係者の得意技になります。それだけ新當流が広まって知られていたのだと思います。
では日本のどこまで広まっていたのだろうか?というのはよくわかりませんが、タイ捨流の開祖、丸目蔵人佐が新陰流以前に学んだ流派として有馬流・門井流などを挙げている事や、島津義久が新當流の免状を得ていること、16世紀半ばの九州の武士が得た新當流の伝書が現存している所を見ると、その頃にはすでに九州まで新當流が広まっていたと思われます。
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