安土桃山時代から徳川幕府成立期

第17話 支配層と剣術

 前回まで主に応仁の乱以降~室町幕府の滅亡あたりまでの兵法三大源流へいほうさんだいげんりゅうを中心に書いてきました。


 念阿弥の兵法に代表される室町時代前期からの古い兵法の他に、新當流しんとうりゅう、次いで陰流かげりゅう新陰流しんかげりゅうが登場、この時代に広まりました。また、体術・柔術の原型である捕手とりて腰廻こしのまわり小具足こぐそくの流派も登場したのもこの時代です。


 この時期まで兵法は木刀や木の枝などで稽古していたと思われますが、竹刀の原型であるしない袋竹刀ふくろしない)が登場し、稽古方法にも変化が現れた時代だと考えられています。


 兵法の伝承者たちは主に地位のある武士であり、竹内久盛たけうちひさもり上泉信綱かみいずみのぶつな松本備前守まつもとびぜんのかみ塚原卜伝つかはらぼくでんや彼らの弟子たちを見ても、地方の領主出身と言える身分の人々がみられます。この傾向は安土桃山時代にも見られますが、この後の時代、特に江戸時代に入ってから登場する武芸者には、武芸の教授で身を立てたと思われる人物が見られます。おそらくその先鞭と言えるのが塚原卜伝と上泉信綱ではないか?と思えます。


 さて、今回から安土桃山時代ですが、武術流派を語る場合は元和げんな元年頃(1615)が一区切りになりますので、そのあたりまでとします。


 安土桃山時代は信長、秀吉、家康と権力者が変わっていく時代です。この時代に武士が両刀(刀と脇差)を腰に差すことが一般化したと言われています。この時代までは庶民も一般的に帯刀していました。


 細かい流儀や人物の話をする前に、この当時の支配者層と兵法流派の関係についてみていきます。


 まず、織田信長ですが、信長自身についてはあまり武芸についての記録は無いようですが、相撲を好んでいた事は記録にあるようです。また信長公記によると信長は弓を市川大助に、鉄砲を橋本一巴に、兵法を平田三位について稽古をしたとあります。


 それに対して、信長の子、信忠と信孝については兵法の起請文(兵法について神々に誓う証文)が残っています。


 信忠は疋田豊五郎ひきたぶんごろうに天正5年(1577、20歳頃)誓紙を出して新陰流しんかげりゅうを、三男の信孝が雲林院弥四郎うじいやしろうに天正6年(1578)誓紙を出して新當流しんとうりゅうを学んだ記録があります。


 天正10年(1582)に本能寺の変があり、織田政権から豊臣政権へと変わっていきます。秀吉自身と武芸に関しては何か記録があるか存じていません(ご存知の方がいらっしゃいましたら教えてください)。ですが、甥で養子となった秀次は武芸好きで知られていました。


 秀次は天正17年(1589)に疋田豊五郎にも入門し、新陰流の刀槍を学んでいます。また、天正19年(1591)には戸田治部左衛門とだじぶざえもん宛てに証文を出しています。


 その内容は

「小刀(小太刀)の秘法を一つ残らず伝授終わり非常に喜んでいる、今後も稽古を怠らず、後日小法師こほうし(冨田治部左衛門の幼い孫)に返伝する」

と誓っているものです。


 一つ残らず伝授されていたという事と、師の孫に返伝すると書いているところをみると、おそらく秀次は中条流のすべてを相伝されていたのだと思われます。


 また、長谷川宗喜はせがわそうき(※1)からも戸田流(中条流)を学んでいたようです。そのほか、伝承では片山伯耆守久安かたやまほうきのかみひさやすから居合を学び、また神後伊豆守じんごいずのかみに師事もしていたとされています。




 秀次に仕えていたとされる武芸者に、長谷川宗喜と疋田豊五郎から剣術を学んだ武芸全般の達人中江新八なかえしんぱち、家伝の香取流槍術の達人でこれまた疋田豊五郎の弟子の香取兵左衛門かとりへいざえもんなどがいました。


 長谷川宗喜や片山伯耆への師事や中江新八や香取兵左衛門が仕えた事についてははっきりした史料がありませんが、冨田治部左衛門や疋田豊五郎への秀次の起請文や証文が存在しているので、武芸好きだったのは間違いないと思われます。

 文禄4年に秀次は処刑され、秀次に仕えていた武芸者たちはちりぢりになっています。当時疋田豊五郎は丹後の細川家に仕えていたと言われていますが、秀次が亡くなった年に剃髪し栖雲斎せいうんさいと名乗り、数年に渡る廻国をはじめます。長谷川宗喜も牢人になり、その子孫は松平家(福井藩)に仕える事になります。中江新八は唐津の寺沢広高に仕え、その後は立花宗茂に仕えています。(冨田治部左衛門は秀次に仕えていたわけではありませんが、秀次より前に亡くなっています。)



 次の徳川家康ですが、時期は不明ですが、有馬大和守ありまやまとのかみの弟子で養子となった有馬大炊頭ありまおおいのかみより新當流を学んでいます。


 有馬家は後に紀州徳川家の家臣となっており、紀州藩の流儀の一つとして伝承されていました。家康は生涯通して水練等武芸で鍛錬していたようで、武芸に価値を見出していたものと思われます。また、直心影流じきしんかげりゅう※2の資料では上泉信綱の弟子とされる奥山に誓紙を出し、神影流を学んでいたとされています。(※3)


 家康の子で二代将軍となる秀忠が天正20年頃(1591、20歳頃)に疋田豊五郎に誓紙を提出して新陰流を学んでいます。


 疋田豊五郎の兵法を見た家康が「匹夫の技であり、自分の求めるものではない」とした逸話がよく知られていますが、秀忠が豊五郎に入門しているところや、後述の小野次郎右衛門おのじろうえもんを秀忠の師範としているところを見ると事実ではないのかもしれません。


 家康は文禄2年(1593)、江戸近郊で人を殺して立て籠っていた武士を切り倒した小野次郎右衛門忠明ただあき一刀流いっとうりゅう)を召し抱えます。小野次郎衛門は秀忠の剣術師範となったと言われています。


 家康は翌文禄3年(1594)に黒田長政の紹介で柳生石舟斎やぎゅうせきしゅうさいの無刀取を演武を見ています。この時に柳生石舟斎に誓紙を提出、師弟となっています。


 この出会いによって、石舟斎の子、柳生宗矩やぎゅうむねのりが徳川家に仕える事となり、将軍家の御流儀ごりゅうぎ新陰流の誕生へ繋がります。なお、宗矩が秀忠の指南役になるのは慶長6年(1601、秀忠30歳頃)という事ですので、それまで秀忠の剣術は一刀流と疋田豊五郎の新陰流だったのかもしれません。


 また、家康は慶長4年(1599)、前田家中となっていた冨田越後守重政とだえちごのかみしげまさやその甥の山崎内匠やまざきたくみ山崎次郎兵衛やまざきじろうひょうえの三人に中條流平法ちゅうじょうりゅうへいほうを上覧させた記録もあります。新當流の免許を持っていて、新陰流に入門、さらには小野次郎右衛門を召し抱えていますし、かなり兵法が好きだったのでしょうか。



 さて、ここまで書いてきましたが、以上の話は支配者層が兵法を学ぶ、もしくは兵法を上覧する、というものです。諸大名と兵法(剣術等)との係わりも、上記で上げた例と似たりよったりです。


 兵法の使い手を召し抱えて一門に流儀を指南させるという話はほとんどありません。武士は近代的な兵士ではなく、個人の武勇で戦う戦士でした。

 武士は弓馬の道、文武を習練するべき、というような話はこの時代の逸話にもありますが、この時代でもまだまだ鎌倉時代などと同じく、特定の流派を学ぶのではなく、刀や槍長刀などの扱いを覚える(≠武芸・兵法・剣術を学ぶ)、だったのではないでしょうか。兵法を学ぶ学ばないは個人の自由だったようです。(この後言及している林田左門はやしださもんのいつわのように、主君が「習った方が良い」と個人的に勧める例は見られます)


 後世に書かれた逸話ですが、黒田藩に仕えた戸田流の林田左門(冨田勢源とだせいげんの孫と言われています)に力自慢の若い武士が挑戦する話があります。

 その若い武士は「兵法など知らなくとも、一心あれば戦場で活躍できる」を左門を挑発するのですが、これに対して左門はこれを一応肯定しています。(そのうえで兵法が出来ればなお良いと反論していますが)

 この逸話では、若い武士は当然勝てず、主君の薦めもあって左門に入門、上達し高弟となったそうです。


 また、これも黒田藩での話ですが、黒田二十四騎の一人で、戦場で多くの武功をたてた野口一成のぐちかずなりの逸話も当時の兵法についての考え方が現れています。江戸時代以降の話ですが、野口が兵法家が試合した時、野口が兵法家に比べて技が単調で見劣りし、左手で兵法家の木刀を受け止め「そんな事ができるか」と批判される話があります。この時野口は、批判した武士たちに戦場で使った小手や太刀を見せ「戦場では筋金入りの籠手をしているから受け止められるのである」と答えたそうです。


 この二つの逸話には、戦乱の時代を生きた武士たちにとって、戦場で活躍するために必要な事と兵法を学ぶ事がイコールではないという考えがあった事が現れています。(ただし、兵法家と戦で活躍した野口を試合させよう、という発想があるので、戦場での強さ=兵法での強さ、という考えがあったのもわかります)



 ※1長谷川宗喜、宗右衛門そうえもんともいい、冨田勢源とだせいげんの兄、郷家さといえの弟子。


 ※2 直心影流は、防具着用試合を始めた流派の一つで、17世紀半ばには東都一、江戸一番の流派と言われた流派で全国に広まりました。現代剣道にも大きな影響を与えています。


 ※3 これに関しては直心影流の資料しかないようです。また、多数ある小笠原源信系の流派で直心影流でのみ奥山の名前が出てくるので、個人的には直心影流と奥山の関係にも疑問を感じています。



参考文献:

今村嘉雄「日本武道全集 第一巻」人物往来社,1966

今村嘉雄「日本武道大系 第2巻」同朋出版,1982

富永堅吾「剣道五百年史」

「細川家文書 故実・武芸編」吉川弘文館,2014

「山崎軍功記」金沢市立図書館蔵

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