安土桃山時代から徳川幕府成立期
第17話 支配層と剣術
前回まで主に応仁の乱以降~室町幕府の滅亡あたりまでの
念阿弥の兵法に代表される室町時代前期からの古い兵法の他に、
この時期まで兵法は木刀や木の枝などで稽古していたと思われますが、竹刀の原型である
兵法の伝承者たちは主に地位のある武士であり、
さて、今回から安土桃山時代ですが、武術流派を語る場合は
安土桃山時代は信長、秀吉、家康と権力者が変わっていく時代です。この時代に武士が両刀(刀と脇差)を腰に差すことが一般化したと言われています。この時代までは庶民も一般的に帯刀していました。
細かい流儀や人物の話をする前に、この当時の支配者層と兵法流派の関係についてみていきます。
まず、織田信長ですが、信長自身についてはあまり武芸についての記録は無いようですが、相撲を好んでいた事は記録にあるようです。また信長公記によると信長は弓を市川大助に、鉄砲を橋本一巴に、兵法を平田三位について稽古をしたとあります。
それに対して、信長の子、信忠と信孝については兵法の起請文(兵法について神々に誓う証文)が残っています。
信忠は
天正10年(1582)に本能寺の変があり、織田政権から豊臣政権へと変わっていきます。秀吉自身と武芸に関しては何か記録があるか存じていません(ご存知の方がいらっしゃいましたら教えてください)。ですが、甥で養子となった秀次は武芸好きで知られていました。
秀次は天正17年(1589)に疋田豊五郎にも入門し、新陰流の刀槍を学んでいます。また、天正19年(1591)には
その内容は
「小刀(小太刀)の秘法を一つ残らず伝授終わり非常に喜んでいる、今後も稽古を怠らず、後日
と誓っているものです。
一つ残らず伝授されていたという事と、師の孫に返伝すると書いているところをみると、おそらく秀次は中条流のすべてを相伝されていたのだと思われます。
また、
秀次に仕えていたとされる武芸者に、長谷川宗喜と疋田豊五郎から剣術を学んだ武芸全般の達人
長谷川宗喜や片山伯耆への師事や中江新八や香取兵左衛門が仕えた事についてははっきりした史料がありませんが、冨田治部左衛門や疋田豊五郎への秀次の起請文や証文が存在しているので、武芸好きだったのは間違いないと思われます。
文禄4年に秀次は処刑され、秀次に仕えていた武芸者たちはちりぢりになっています。当時疋田豊五郎は丹後の細川家に仕えていたと言われていますが、秀次が亡くなった年に剃髪し
次の徳川家康ですが、時期は不明ですが、
有馬家は後に紀州徳川家の家臣となっており、紀州藩の流儀の一つとして伝承されていました。家康は生涯通して水練等武芸で鍛錬していたようで、武芸に価値を見出していたものと思われます。また、
家康の子で二代将軍となる秀忠が天正20年頃(1591、20歳頃)に疋田豊五郎に誓紙を提出して新陰流を学んでいます。
疋田豊五郎の兵法を見た家康が「匹夫の技であり、自分の求めるものではない」とした逸話がよく知られていますが、秀忠が豊五郎に入門しているところや、後述の
家康は文禄2年(1593)、江戸近郊で人を殺して立て籠っていた武士を切り倒した小野次郎右衛門
家康は翌文禄3年(1594)に黒田長政の紹介で
この出会いによって、石舟斎の子、
また、家康は慶長4年(1599)、前田家中となっていた
さて、ここまで書いてきましたが、以上の話は支配者層が兵法を学ぶ、もしくは兵法を上覧する、というものです。諸大名と兵法(剣術等)との係わりも、上記で上げた例と似たりよったりです。
兵法の使い手を召し抱えて一門に流儀を指南させるという話はほとんどありません。武士は近代的な兵士ではなく、個人の武勇で戦う戦士でした。
武士は弓馬の道、文武を習練するべき、というような話はこの時代の逸話にもありますが、この時代でもまだまだ鎌倉時代などと同じく、特定の流派を学ぶのではなく、刀や槍長刀などの扱いを覚える(≠武芸・兵法・剣術を学ぶ)、だったのではないでしょうか。兵法を学ぶ学ばないは個人の自由だったようです。(この後言及している
後世に書かれた逸話ですが、黒田藩に仕えた戸田流の林田左門(
その若い武士は「兵法など知らなくとも、一心あれば戦場で活躍できる」を左門を挑発するのですが、これに対して左門はこれを一応肯定しています。(そのうえで兵法が出来ればなお良いと反論していますが)
この逸話では、若い武士は当然勝てず、主君の薦めもあって左門に入門、上達し高弟となったそうです。
また、これも黒田藩での話ですが、黒田二十四騎の一人で、戦場で多くの武功をたてた
この二つの逸話には、戦乱の時代を生きた武士たちにとって、戦場で活躍するために必要な事と兵法を学ぶ事がイコールではないという考えがあった事が現れています。(ただし、兵法家と戦で活躍した野口を試合させよう、という発想があるので、戦場での強さ=兵法での強さ、という考えがあったのもわかります)
※1長谷川宗喜、
※2 直心影流は、防具着用試合を始めた流派の一つで、17世紀半ばには東都一、江戸一番の流派と言われた流派で全国に広まりました。現代剣道にも大きな影響を与えています。
※3 これに関しては直心影流の資料しかないようです。また、多数ある小笠原源信系の流派で直心影流でのみ奥山の名前が出てくるので、個人的には直心影流と奥山の関係にも疑問を感じています。
参考文献:
今村嘉雄「日本武道全集 第一巻」人物往来社,1966
今村嘉雄「日本武道大系 第2巻」同朋出版,1982
富永堅吾「剣道五百年史」
「細川家文書 故実・武芸編」吉川弘文館,2014
「山崎軍功記」金沢市立図書館蔵
独断と偏見による日本の剣術史 @kyknnm
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