7. 河に棲んでいる歯のない魚たちは、いつだって飢えている

「やっと晴れたねぇ!」

 アンリはカフェから飛び出して空を仰いでいる。彼女の上半身は光を浴びて鮮やかに輝きだした。濡れた足元のタイルが、わざとらしいほどにぎらぎらと光っている。一方ウラノは眼前の光景を信じられないでいた。そのまま目を丸くして椅子から少女を見ている。

「これで洗濯物が干せる!」そんなことを叫びながら少女はどこかに走り去っていった。

 雨が終わった。ウラノのその言葉を頭の中で何度も反芻していた。――ということは、呪いが終わったということなのだろうか。時間が経って、僕の父が遺した負は、霧散して消えていったのだろうか。氷がじっくりと解けていくように、かんかんに熾った炭がやがてその内なる炎と一緒に、白く終わっていくように。

 カップに残ったコーヒーを震える手でひと口飲んだ。もうそれは温くなっている。熱が失われていた。

 やはり呪いの負性も雨の継続力も時間が解決してくれるものだったのだ。もしかすれば、生き続けていればそのうち全てが、勝手に解決されるかもしれない。時間の問題だったのかもしれない。ウラノは、多くの世俗的懊悩がそうであるように自身の呪いについても、そういう類のものなのではないか、と内心考えているところがあった。楽観的に、いつか僕が大人になれば、全部まるっきり助かるんじゃないだろうか、と。彼がずっと夢見ていた光景があった。そして、絶対にこれは夢ではなかった。――今僕は、太陽の光を見ているんだ。

 すぐにでも駆け出して、身体一杯にそれを浴びたいと彼は思った。今にも、立ち上がらんとする瞬間だった。椅子を引く音がした。

「さて」それは店主だった。先ほどまで、アンリが腰かけていた場所に座って、ウラノを見つめている。手元にはコーヒーカップがある。中には真っ黒なコーヒーが注がれていた。そしていつの間にか、ウラノのカップにも新しい、出来立てのコーヒーが注ぎ直されていた。店の中は、濃い豆の匂いが充満していた。ラジオの曲は、いつの間にか止められている。とても静かで、ゆっくりとした重い時間が流れ始めていた。

「君はウラノくんというのだったかね? 私はミンという。この喫茶店の店主をしている者だ。どうぞよろしく」穏やかな声だった。いきなりだったので青年はやや驚いたが、それでも落ち着いた雰囲気で挨拶を返した。

 ミンはとても大きな男だった。ウラノもかなり上背はある方だが、それでも青年よりはるかに大きい。手や足が頭、身体の末端の部分が常人と比べ割合としても大きい。頭を綺麗に剃り上げているが、額の生え際のところだけ、ひょろりと長い毛を一掴み残している。天然の癖がついて丸まっているその毛を、大きな指で器用に撫で付けて、彼は言った。

「それでだけど、君はいったい、何なんだ?」

 それはウラノもよく知る声だった。頭の奥で、ぱちん、とスイッチを切り替える音が聞こえる。ミンは明らかに、青年のことを快く思っていなかった。

「僕はただの旅行者ですよ。たまたまこの広場に出てきたところを、アンリからお茶に誘われたんです」

 大きな身体の男が二人、カフェの小さなテーブルをはさんで睨みあっていた。口を開いたのはミンの方だった。

「いいか、私は君が何者かを知らない。でも君がどういう者なのかは、分かっているつもりだ。君には心当たりがあるはずだ。そうだろう。ここはお互い、フェアに本心をさらして語り合うべきでないのか?」

「僕にはミンさんが何をおっしゃっているのかわかりません。何度もいうように、僕はただの旅行者です。アンリもどこかに行ってしまった。せっかく新しいコーヒーを淹れてくれたみたいですが、そろそろ失礼します」

 少女が飲み捨てていったサイダーと、二杯分のブレンドコーヒーの代金、それらを合わせても少し多いくらいの金をテーブルに置いた。そして彼は立ち上がった。しかし、ミンの大きな手が青年の手首を固く掴んでいた。

 握られる手に痛みはない。だがその一方で、巨大で確固とした意志を感じさせる力が込められていた。――私はその気になれば、あっさりと君を傷つけて駄目にしてしまうことだってできる。でもあえてそれをしていないんだ。だから大人しく、座っていなさい――。そう考えているのが伝わった。店主の無感情的な眼が、昆虫のような冷たさでウラノを捉えていた。

 ウラノは腰を戻した。彼が店主に向き直すと、大きな手はなにか人間とは別の独立した生きもののようにゆっくりと元の場所に帰っていった。ウラノのジャケットの袖口には、巨人に握られた跡がくっきりと残っていた。淡い痺れもあった。早くここを出たい。あの太陽の光の下に身を投げ出したい。ウラノは強烈にそう思った。

「わかりやすく話を進めるには、こちらから何か言った方がいいのか? それらしいものについてだが――たとえば雨か」

 ウラノは、驚きを顔に出さなかった。だが、雨についてミンが言及するのなら、彼もある程度応じなければならない。

「雨がどうかしたんですか」

 ミンはつるりとした頭に手をやって、苦い顔をしてから、静かに言った。

「――やれやれだな。子供は嫌いだ。どこまでも大人が言葉を尽くしてくれると信じている節がある。特に、世間を知っているつもりになっている子供は、そういうところが顕著だ。私をいらいらさせるんじゃない。君が今も平然としていられるのは、なぜかアンリが君を気に入っているらしいからだ。本当なら君をここで裏方まで引っ張っていって、しっかり叩きのめしてから、会話を始めてもいい。そのあとだって私は困らない。いくらでも勝手はつく。国境沿いの河に棲んでいる歯のない魚たちは、いつだって飢えているんだよ」

「だから雨がどうかしたんですか」

 ミンがその大きな掌で青年の頬を打つのと、ウラノが手元の熱いコーヒーを店主に向かって投げつけたのは同時だった。二人は別々の痛みを喰らって、短い悲鳴を上げる。

 ――このくそがき。ミンが特大サイズのエプロンで顔を拭きながら毒づいた。その間に、ウラノは店から飛び出して、噴水の横を駆けて逃げた。背後から待てと呼びかける声がしたが、彼は一切構わない。

 青年は雨上がりの蒸し暑い夏の午後を疾走した。陽光が彼の目を焼いた。それは心地よい眩しさだった。走りながら彼は笑った。こんなに嬉しい気分は久しぶりだった。自分が傘をカフェに忘れてきていることを思い出した。でももう傘は必要なかった。両手を思い切り振って走った。走りながら、ジャケットとシャツを脱いで小脇に抱えると、肌に直接光があたった。自分の身体が見たこともないような色に照らし出されていることが、嬉しかった。

 肺がきりきりと痛み始めた。怪我の跡も鈍く痛む。それらすべてが愛おしく思えた。濡れた地面に滑って転んだ。掌と胸をすりむいたが、直ぐに立ち上がってやはり走り出した。

 ――呪いは終わった! 僕はもう自由だ! これが僕の世界なんだ! 息が切れて走れなくなるまで、彼は身体をいっぱいに動かして、全身で光を感じていた。


 日が暮れても空は晴れたままだった。ホテルで聴くことができる街のラジオチャンネルでは、一週間ぶりの晴れが最初のトピックとして取り上げられている。星の広がる夜空を宿のバルコニーから見上げながら、ウラノはそれを聴いていた。月明りが冷たい息を彼に投げかけている。太陽とは違ったその星の光は、青年の心を優しく落ち着けさせた。太陽も月も幼いころの記憶の端にしかなった。父か消えてからずっと、呪いの雲の下にいた彼にとって、それらはほとんど初めてのようなものだった。太陽か月かを選ぶなら、自分は月の方が好きだろうな。そんなことを考えていた。

 穏やかなノックが、彼の部屋のドアを叩いた。ただでさえ、孤独に生きていて、また旅先であるこの地では、夜に誰かが彼を訪ねてくるようなことはまずなかった。昼間のこともあったので、ウラノは警戒しながら、足音をたてないようにドアに近づいた。小さなのぞき窓から、向こう側を見ると、案の定、ミンが立っていた。顔の半分以上を、真っ白の包帯で巻いている。彼は不満げというか、すねた子どものような感じの表情をしていた。ウラノはやはり少し怖く思ったので、そのまま放置していた。もう一度、ミンはドアをノックした。それから「いるんだろう」と抑えた声で言った。

 ウラノはザックの中から、一度も使ったことのない護身用の果物ナイフを取り出して、抜き身にした。彼は今までの人生で、多少なりとも荒っぽいことを経験していたが、その全てが、ナイフのような直接的な暴力装置ではなく、純粋な逃走によって解決するものだった。いざというとき、ザックの隅に転がるナイフを取り出すチャンスはない。でも今はなんとなくそれができた。

 ゆっくりとドアを開けると、大男は昼間のエプロン姿とは違った感じの、落ち着いていてカジュアルな服装で立っていた。ぱりっとしたグレイのジャケットと淡いクリーム色のパンツの組み合わせは、カフェでの姿よりも彼を若く見せた。この男は、自分が思っているよりもずっと若いのかもしれない。ウラノはそう思った。

 青年が固く握り込んでいる小さなナイフを見て、すごくうんざりした風にため息をついてから、ミンは言った。「入っていいだろうか」

 ウラノが許可すると、身体を丸めて狭そうに、部屋の中に入り込んできた。

「狭いな」彼はそう呟いてから、部屋に一つしかない椅子を引っ張ってきて、それに座った。

 持ってきた鞄の中から、魔法瓶を取り出した。蓋を開ける。外蓋と内蓋がそれぞれ一個のコップになっていた。それを小さなテーブルの上において、魔法瓶の中身を注ぎ始める。昼間のコーヒーと同じ香りが、部屋の中に広がっていった。一個にだけ注いで、それから、「お前は飲むか?」とウラノに尋ねた。青年がかぶりを振ると、ミンは何でもなさそうに自分の分を飲み始めた。彼の大きな手で握られる魔法瓶の蓋コップは、ショットグラスのように小さく見える。一服つくと、目を瞑ってリラックスし始めた。人のホテルの部屋で。

「まったくいつまでそのオモチャみたいなナイフを構えているつもりだ? 私は何もしない。ここにはお前と会話をしに来ただけだ。それがなきゃ怖くてたまらないというなら、そのままでも構わんが……」

 ウラノはナイフを握ったまま、ベッドに浅く腰掛けた。視線はミンから少しからも離れない。

「私がいったい何者なのかとか尋ねたり、あるいは昼間の下らないドタバタの続きをやろうとか、考えるんじゃないぞ。私はお前と話をしに来ただけだ。私の顔面を焼いたことは許してやる。こんなものは丁寧に処置をすればすぐに治る。だから、私がお前を打ったことももう許せ。わかるな?」

 薄暗いホテルの一室の巨人からは、昼間のようなひりひりする感覚はなかった。男の穏やかな目つきは、大海を泳ぐ鯨を連想させるものだった。

 ウラノはナイフをベッドシーツの上に裸で置いた。「じゃあ、どうぞ。僕に何か聞きたいんでしょう。あなたが僕に要あるんだ。僕にはない」

 やれやれ、という感じに眉間を押さえてから、ミンは言った。

「もちろん雨の話だ。お前がこの街に持ち込んできた雨について、私たちは詳しく知る必要がある」

「あなたは、僕の呪いを知っているんですか」ウラノが言うと、ミンはよそに向けていた視線を青年に戻した。

「呪いだと? やや物騒な話になってきたな。――私はお前の呪いとやらについては知らない。だが、昼まで降っていたあの雨がお前のもたらしたものだというのは分かる。そもそもこの町は気候的に雨が少ない。それはお前も知っているはずだ」

 ウラノは頷いた。それから尋ねる。「でもそれは、雨が僕に由来するものだという確信にはならないはずだ。ごく一般的に考えて、雨の理由を個人に同定することは、まずない。そうでしょう」

 コーヒーを一口飲んでからミンは言った。

「それはお前の一般の話だろう。私たちにとってそれは難しいことではない」

「つまりどうやって分かったんですか?」

「『ごく一般』に合わせた表現をするなら、宗教的預言による認識だ」

「あなたは僕を担ぎにきたんですか?」

「おい、まったく自分の世界だけで話そうとする癖があるなお前。いいか、お前たちにとって、宗教が齎すものが超自然的な形で現れたら、すぐにトリックか冗談かに見えるか知らないが、私たちには全部本当だ。神がいないとか、神秘がどうとかみたいな寝ぼけた話は、暇な連中だけがやればいい。私は、現実としてそうあるものについて正直に話しているんだ。お前は呪いを受けていて私たちはそれを認知した。それが事実だ」

 夜の幾分冷えた、だかそれでも湿った空気が開け放たれた窓から流れ込んできていた。コーヒーの匂いの代わりに一瞬だけ、濡れた土の匂いがした。

「彼女は、アンリは僕の呪いについて知っているんですか」

「知らない。彼女はまだ子供だ。なにも知らなくていい」ミンの言葉にウラノは安堵した。

「呪いとは何だ。お前のもたらした雨はどういう雨なんだ。お前は自分のことについて、どれだけを知っている?」改まってミンが尋ねた。

 どこまで話すべきか考えたが、それが面倒になったので、ウラノは思いつくまま事実を並べた。

「僕は雨男なんですよ。子供のころに死んだ親父が遺した呪いのせいで、ずっと雨雲に追っかけられてるんです。物心ついたころから僕は雨の中で生きてる。ただそれだけです。ここには本当に観光でやってきたんです。あの広場にたどり着いたのも、アンリに出会ったのも偶然です。僕の行動には宗教的意味も経済的意味も政治的意味もない。サンタウンに来てからの行動は全部、気まぐれです」

 剃り上げられた頭を撫でながら、ミンはじっとウラノの顔を見つめていた。顔面全体にちくちくと視線が刺さるような感覚がした。さっと目をそむけたくなったが、ウラノは意地でも彼の目を見つめ返し続けた。

「なぜ僕の雨が、あなたたちにとって問題になるんですか」

「それは、私たちの信仰が太陽に関係しているからだ。太陽を半永久的に失わせることができるお前の呪いが、我々には看過しえない危機であるという預言が下ったのだ」

「でももう、呪いは終わりましたよ。あなたも知っての通り、昼には雨が止んだんです。時間制限が切れたんだと僕は考えています。もう全部終わったんです」

 ミンの目の色が変わった。

「呪いが終わった? 時間制限だと? 馬鹿を言うな。『呪い』は、勝手に消えてなくなったりしない。だからこその『呪い』なのだ。対象が死ぬまで残り続けるものを『呪い』と呼ぶんだ。お前の呪いは今もお前にしっかりと残っている。それはお前がいつか死ぬか、あるいは自覚的に、自分の意思でもってそれを克服しない限りなくなりはしない」

 ウラノはすがりつくように窓の外を見た。空は先ほどよりか、幾分曇り始めた気配がある。星の海が幾らか、黒い幕に飲み込まれていた。しかし雨は降っていない。完全から少し欠けた月は、しっかりと輝いている。

 青年の背中にミンの声がかけられた。「今の晴れは我々の祈祷によるものだ。だがお前がこの町に滞在する限り、いずれまた雨は降り始める。次の雨はもう止まないだろう。呪いを解かない限り、お前はやはり雨男なのだ」

「……だったら僕にどうしろというんですか? あなたは結局、僕を混乱させに来ただけだ」

「この街を出ろ。ひとの世界に呪いを持ち込むな」ミンは相手の顔を見ないで言った。

 しばらくの絶句のあと、――やっぱりね。と、ウラノは吐き捨てた。卑屈な笑みが浮かんでいた。

「そうなんですよね。みんな他人なんだから。いえ、責めるわけじゃないんですよ。僕だってあなたの立場なら同じことを言うでしょうから。みんな自分の周囲のことで手一杯ですよね。あなたに何か期待した僕が幼いだけだった。僕が自分の呪いのことを打ち明けた人間はあなたを除いて二人いましたが、結局全員があなたと同じ事を言いましたね。街に続く雨の理由が僕だと知ったら、彼らは当然のように僕を拒絶しました。一人目の時に死ぬほど後悔しました。二人目の時には死んでしまいたいとまで思いました。でも今はなんとも思わない。やっぱりねという感じですよ。

 ええ。言われなくともじき出て行きます。もともと長居するつもりでもなかった。観光地としてもそんなに華のある場所じゃない。ただ地図を眺めているときに、なんとなくここに行ってみようと思っただけです。この街で晴れ間なんか見ちゃったせいで、何かあるんじゃないかと思ったけど、それは幻想でした。晴れは僕に希望の光を見せて、絶望の闇の濃さを際立てただけでした。

 人生っていうのは、ちょっとずつ闇の深いところに潜っていくものなんでしょうね。一人用の潜水艦に入って、初めに、ぼとんと海面に落とされるんです。それから少しずつ重力に任せて沈んでいく。どんどん光が届かないところに落ち込んでいくんだ。たまに光が見えたと思ったら、それは奇怪で恐ろしい魚が頭の先から垂らしている偽のランタンでしかない。近づいていったらぱっくりやられちゃうんでしょうね。そういうのを避けてずっと潜っていくとやがて本当に真っ暗な場所に着くんですよ。海の底です。何も見えてないし、聞こえない。それでも、自分が地面の到着した感触だけはあるから、もうこれ以上潜れないことは分かる。つまり終わるんです。どこにも行かないけど何もない。それが死です。何もないから、怖くないんです。

 ねぇ。昼間の話を覚えていますか。僕とアンリの会話です。死ぬことについての話。僕は死ぬことは眠ることと同じだと言った。だから怖くないんだと。僕はあの時までそう思っていたし、そのおかけで死ぬことは怖くなかった。でも彼女は言いましたよね。本当に怖いのは愛するひとたちとの別れなんだって。僕は本気で彼女が何を言っているのか分からなかった。でもしばらく考えて、その意味するところを理解したとき、僕はこの世界との間に大きな断絶を覚えたんです。僕はまったく盲でした。他の人達には愛すべきものがあるんですね。あの子はきっと自分も、友達も、おばあさんも、たぶんあなたのことも愛していて、だからこそ死が恐ろしいんだ。それは別れだから。今ある大切な幸福をなくしてしまうものだから。あの子は僕と話していて、僕がどんな人間か気づいたんだと思います。僕は初め、恥ずかしくてたまらなった。それからとても悲しくなった。最後には空しさだけが残った。僕が意識的にかどうにか、全く目を向けようとしなかったものを彼女ははっきりと示したんです。それは悪意でも善意でもない。ただ彼女の生に意味を見つけるには、彼女は僕の世迷言を断ち切らざるを得なかった。それだけなのに、僕は打ちひしがれました。

 でもね、呪いが終わったから、僕には新しいものを手に入れられると思ったんですよ。だってそうじゃないですが。僕があの場所にきて、あなたたちに会って、それで空が晴れたんだ。とても運命的だった。――ああよかった。そう、思った。僕があなたのカフェで晴れ間を見たときに感じたのは、安堵だったです。もしかしたら一生このままかもしれないなんて本気で思いかけていたところだったんですから。いや、本当のところ思ってましたよ。もうなんにもないと思ってたんです。でもそうじゃなかった。ここから先はちゃんと僕にも幸福が用意されているんだと、そう思い直せたんです。まぁそれも、あなたがはっきりと打ち壊してくれましたけどね。

 明日ここを出て行きます。街を去ります。そしてもう、ここにはこない。それで満足でしょう。あなた方は暖かな太陽の光と、素晴らしい信仰を取り戻せるんです。僕についてはなにも変わりません。いつも通りの日々が続くだけです。根無し草というも楽しいもんです。この一週間はいろいろと楽しかった。人生たまにはこういう変調があった方がいい。あなたにコーヒーをかけたことをお詫びします。すみませんでした。いくつかの失礼な態度についても、申し訳なかったと思っています。あなたは、最低限であっても僕に礼を尽くしてくれたのに、僕は幼稚に反応してしまった。火傷が早く治ることお祈りします。まだ雨は降り始めていないみたいですね。じきに降り出すようですから、早いうちにお帰りになった方がいいのでは?」

 ミンはウラノの顔を見ないで、床の木目を見つめたまま、こめかみ辺りを神経質に撫でまわしていた。コーヒーを飲み干し一息ついて、魔法瓶を鞄にしまう。そのあと立ち上がって彼は言った。

「ではさらばだ」

 ミンはほとんと音をたてずに部屋から出て行った。

 ウラノは窓辺に腰かけて、夜空を見上げた。月が少し雲に隠れ始めていた。彼は、滲んで見えにくくなった月が、雲に完全に隠れるまで見つめ続けた。 

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