6. 自分の中にだけで一生抑え込んで処理すべきもの

 ミシェルとジョージの二人は、約束通り土曜日にデートをした。映画を観て、ハンバーガーを食べた後、カフェでコーヒーを飲んで、それで別れた。ミシェルにとってそれは、今まででもっとも淡白なデートだった。キスやセックスをせがまれることはなかった。会話も少ない。パーティのときから分かっていたが、ジョージは寡黙な男だった。でも半日一緒に過ごして、やはりジョージの心の奥にあるものが気になった。――なにかがあの人の心と固く結びついていて、それであの人はずっと過去の出来事に囚われている。それを知りたいと彼女は思った。その気持ちは恋心ではないと、彼女は自覚していた。そう思い込んでいた。退屈なデートでも、もうしばらくこの人を見ていたいと思った。そうして何度か、二人で遊びに出かけた。

 付き合いが続いたある時、彼女は、ジョージが自分にしか笑みを見せていないことに気が付いた。ごくまれだが、彼はにっこりと笑うことがあった。でもその笑みは、互いに唯一の友人である兄のトーマスにも見せないものだということに気付いたとき、無性に嬉しく思った。そしてすぐにその喜びを自覚したとき、わたしもじゃないか。と分かった。初めて出会ったパーティから、二か月ほどが経っていた。


 ミシェルは短大を卒業したあと、建築会社に就職して、事務員として勤めを始めた。その時にはジョージとの交際が始まって一年が経っていた。二人は同棲を始めた。そしてそのままもう一年が経ったところで、結婚することになった。二人にとってごく自然の成り行きのように思えた。ウラノの家族も二人の結婚に賛成だった。ジョージはちゃんと勤めについていたし(彼は町のスーパーマーケットのデリカコーナーの責任者になっていた)、家族は数年の付き合いで、彼という男によく慣れていた。いきなり見知らぬ男を連れてくるより、ずっと良かったのだ。二人の報告のあいだ、トーマスは少し寂しげにしていたが、ジョージと彼の、なんでもないふうに共有されて、二人をあるべきところへ引き上げた大切な友達の関係は、結局ジョージの死の一ヶ月前まで続いた。

 しかし、ミシェルは大切なことを忘れていた。それは、彼女が初め彼に抱いた好奇心についてだった。彼が囚われている過去について、時折その端緒が生活の中に見えることがあっても(例えばジョージは、なぜか音楽というもの全く好んで聴こうとしなかった)、愛のせいか彼女はできるだけそれに触らないようにしてしまった。彼女の好奇心が夫の残酷な過去を暴いたとして、全てが良い方向に進むわけでもなかったが、それでも、夫婦の関係が、ジョージの人間性が崩壊するきっかけはやはり、彼の過去にあった。

 

 結婚のあとは当然のように子どもができた。二人の息子は伯父のトーマスによって、リチャードと名付けられた。そこからの二年間は、一家にとって、最も幸せな時間だった。夫婦はすくすくと育っていく息子に、他の多くの父母と同じようにあらゆる期待と愛を込めた。リチャードはよく泣く赤ん坊だった。  

 両親は週末になると、彼をつれて祖父母と伯父の住む家に遊びに行った。おじいちゃんとおばあちゃんは初孫をたっぷりと甘やかして、溺愛した。名付け親の伯父は「赤ん坊は苦手なんだ」と言って近づこうとしなかった。それでも、育児教本を母親に贈ったり、ベビーベッドをプレゼントしたり、赤ん坊のために自分ができそうなことなら、誰にも頼まれないうちにやった。やがてリチャードは勝手にあちこち歩き回るようになり、言葉も覚え始めた。両親以外で初めて彼が懐いたのは、トーマスだった。


 リチャードが二歳の誕生日を迎えた、その翌日、暑い夏の日曜日の朝のことだった。幸せがはっきりと、音を立てて壊れ始めたのはそれからだった。

 キッチンで朝食のサンドイッチを作っていた妻は、居間の方から飛んできた夫の怒号を聞いた。まったく意味を為していない、激情だけの叫びだった。ミシェルは、それが夫のものだとはとても信じられなかったが、とにかく料理を放り出して様子を見に行った。なにか尋常でないことが起きていた。

 居間では、父親の急変に怯えた幼い息子が激しく泣いていた。ミシェルは彼を抱き上げた。リチャードは母に抱かれたまま、泣き続ける。

 ジョージは、今までに一度も見せたことのないような、憤怒の表情でテレビの画面を見つめていた。画面の向こうでは、豊かな髪を後ろに撫で付けた若手の政治家が手を振っていた。ミシェルには何が起きているのか、さっぱり分からなかった。


《……新たなキューランド市長に選ばれたロメオ・ネグリ氏は、長年市政に携わってきた前市長のアルバート・ネグリ氏の甥で、アルバート氏の支持者を引き継ぐ形で今回の市長選に勝利しました。前市長の近親者がその後を継ぐということになった今回の選挙には、批判の声も集まっています。


〔ロメオの演説のシーンに切り替わる〕


「今回の選挙に不満を抱くひとは必ずいることでしょう。選挙とはそういうものです。だが、市長というのは、政治というものは、世襲のような簡単な再生産の構造から運営されるほど、都合のいいものじゃない。それはこの共和国に生きる全ての人達が知っているはずです。

 もし私が、たまたまの運命の巡り合わせでここに立っているような、何でもない人間だとしたら、その物語の結末は小学生にだって分かるでしょう。

 ――適していない者が、適していない場所に立つ時間は、本当に短いものです。私はそれをよく知っている。社会には、世界には淘汰のシステムがあります。そのシステムは容赦なく私にも降りかかるのです。だから私は宣言します。この一度目の任期で全てを変えてみせる。この街を、もっと豊かで、強力で、安心な場所にする。子供たちが笑って過ごすことができる街にする。より力強い経済が生まれる場所にする。あたたかな繋がりと伝統がいつまでも繁栄しつづける社会を作り上げます」


 ……ロメオ・ネグリ氏の就任式は来年一月に予定されています。慣習に従って、大統領と両院の議長が参加することが見込まれており……》


 その日を境にして、ジョージは変わった。いつもは仕事が終わると、妻と息子のためになるべく早く帰ってくる男だったのが、例の激昂以来、毎日遅くに帰って来るようになった。妻が何をしているのか聞いても、彼は教えなかった。  

 酒や女という雰囲気ではなかった。もう彼には、そういう心の余裕から生まれるものは全て失われていた。昔以上に寡黙になった。夫婦の会話ほとんどなくなった。ミシェルの方からなにか呼びかけても、適当な返事しか返ってこない。幼いリチャードは常に父親に怯えるようになった。


 ミシェルは人が変わってしまった夫に対して、どう振舞えばいいのか分からなかった。そして彼女は兄に相談した。兄のトーマスは、すぐにジョージに会いに行った。本当のところでジョージの絶望に共感できるのは、やはり彼しかなかった。

 二人はいつもの公園に来ていた。トーマスの呼び出しに対して、ジョージは意外にも律儀に応じていた。

「やぁ。ジョージ」トーマスは至って通常の雰囲気で挨拶した。

 ――よう。と短くジョージは返した。しわがれた声だった。

 トーマスが彼に会ったのは一週間かそこらぶりという程度だったが、彼は友人の著しい衰弱っぷりに戦いた。ジョージの目は酷く落ちくぼんでいて、頬は激しく痩せこけている。もじゃもじゃの髪の毛はかなり薄くなっているし、肌はゾンビのような色をしていた。

「ねぇ君……いったいどうしちゃったんだい? 妹から聞いたよ。最近なんだか生活がおかしくなってるらしいじゃないか」

 ジョージは何も答えなかった。夏の暑さの盛りが二人の間の空気をぐにゃぐにゃにしていた。少なくともトーマスには、友人との間に実際の障壁があるのが感じられた。

「昔のことなんだろ」トーマスは本質を突いた。ジョージは黙ったままだったが、今度の肯定を意味した沈黙だった。

「君は今でも、ずっと昔のことを忘れられずにいるんだ。君はそのことを僕に教えようとはしなかった。ミシェルにも教えていないだろう。それは僕も同じだ。僕だって、僕がこうなった理由について全く自覚はあるけど、そのことを誰にも教えたりはしてない。世の中には、どんなに信頼できるひとや愛するべきひとがいたとしても、自分の中にだけで一生抑え込んで処理すべきものは確かにある。でも君は、それをすっかりそのまま心の中に残してるんだ。君の中で、その過去を全く風化させられてないんだよ」

 トーマスは怯えていた。彼が恐れていたものは、妹夫婦の関係の破綻でも、親友の荒廃した様子でもない。トーマスは、一個の人間にここまで踏み込む自分の行為そのものに怯えていた。そして同時に思った。――僕が彼を救わなければ、今度こそ僕はなんでもなくなるだろう。

 ジョージは自分の足元をずっと見つめていた。くたびれた革靴の、その爪先に人生最高の価値が引っ付いているかのように、食いつくようにしてそこを睨んでいた。その双眸が、小さく濡れ始めていた。

「オレにはどうしても許せない奴がいる。そいつのせいでオレの人生は滅茶苦茶になった。そいつのちょっとした、酒の気まぐれみたいなのが、簡単にオレの夢と大切なものをぎたぎたに切り刻んで駄目にしたんだ。なぁ、お前なら分かるはずだ。そういう奴らは、オレたちのことなんかすっかり忘れて自分の人生を歩いてるんだ。いや、きっと思い出したってなんとも思わないんだよ。オレたちだけが一生引きずるんだ。こないだテレビで見た。そいつの人生は間違いなく成功だった。オレはずっと、そういうのは下らない価値なんだって思ってた。オレにはミシェルもリチャードもいる。ケントもナオミも、お前だって、みんながオレを素晴らしい場所に引き上げてくれたんだと本気でそう信じていた。小さな幸せが少しずつあれば、それが本当の幸せなんだってさ。でもな、そんなの全部、嘘なんだよ。オレはもう駄目だ、見えちまったんだ。そういう感情じゃ、絶対に乗り越えられないものが人間にはあるんだ。ないことは、あることの素晴らしさの全部を、全部を――」

 崩れ落ちる友を、トーマスは抱きしめた。二人とも、激しく震えていた。

 夕暮れの、一日最後の赤が二人の男を照らしている。一人は悲哀に顔を歪めていて、そしてもう一人は、自分の頭の中の地獄で溺れていた。

「大丈夫だよ。ジョージ、僕たちはちゃんと幸せを掴んでるんだ。君の最初の考えは間違っていない。君は一時的に、心が痛んでいるだけなんだよ。確かに苦しみは残り続けるけど、そんなのはいつか、いつかどうでもよくなるんだ。そんなのは、ほっとけばいいんだよ。君はいつも通りに家に帰って、家族三人でテレビを観ていればいいんだ。ねぇ、神様だって、きっとそう言うさ。君がその苦しみを、ちゃんと乗り越えることができるなら、神様はきっと君により素晴らしい幸せを与えてくれるはずだ。そのための神様じゃないか」

 ――ちがう、お前は分かってない。そう言って、ジョージは友の手を振りほどいた。

 そしてそのまま、一人で立ち上がった。

「だ、駄目だよジョージ。それじゃあ、一人じゃあ駄目なんだ。僕たちは、一人じゃ生きていけないんだ」跪いたまま、トーマスは唸った。

「すまない。本当にすまない」最後に泣きながら、彼はトーマスに背を向けて言った。そうして歩き出した。トーマスは、やせ細った悪鬼のような親友の背中をずっと眺めていた。やがてそれが見えなくなってから、地面に突っ伏して、わき目も降らず大声で泣き始めた。


 ジョージ・サンダンスがその人生を終える一ヶ月前の出来事だった。

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