5. 宗教的な場所

 ウラノはそれからの日々を、午前は観光に、午後は件の図書館で読書に費やすことにした。少し早めに起きて、目を覚ますためのシャワーを浴びてから、買い置きしていた食糧で簡単に朝食を摂る。パンとか、チーズとか、そういう調理しなくてもおいしく食べられるものを彼は好んだ(博物館で買った「太陽クッキー」もそうだった)。大きな黒い傘を掴んで、ウラノは街に出る。

 その日は隣国との国境線になっている運河を見に行った。雨のせいで、河の水が濁っていた。

 河の向こう側は旧帝国である。政治体制としては、あちらも今は共和制になっていた。大きな橋が架かっていて、トラックがひっきりなしに往来している。五十年前は戦争をしていた国でも、今ではお互いにいい商売相手になっている。

 数十年前、この河を渡って、グレゴリー・マン大佐は帝国に亡命した。彼は向こうでも隠遁生活を送らざるを得なかった。戦争は続いていたし、帝国にとって彼は敵国の指揮官だったから、たとえ亡命とはいってもそれはごく内密のものだったとされている。それでも、自国にいるより敵国に居た方が安全だったというのは、皮肉な話だった。

 ウラノは、グレゴリー・マンが夜半にこの河を渡るところを想像した。彼は階級バッジや勲章が一杯ついた軍服ではなく、その辺の農耕民と同じシャツとズボンを着ている。ベルトにはリボルバー拳銃が一丁だけ差しこまれているが、彼自身は直接の殺人をしたことはなかった。ただ指揮官として勤めた戦場では、作戦の内に敵兵を数千人単位で殺している。味方も同じくらい死なせた。

 しばらく河を眺めていたが、それにもやがて飽きて図書館に向かった。雨脚は弱ってきていたが、それはウラノの雨男的降雨の、程度範囲内に収まるものだった。彼は自分の身体をすっぽりと覆う蝙蝠傘に守られながら、歩き始めた。

 昨日とは別の司書にグレゴリー・マンの伝記を出してもらった。昨日と同じ窓際の席に座って、続きを読み始める。


 グレゴリー・マン中佐は大戦において活躍した。軍人にとって、最も手っ取り早く昇進する方法は戦功を挙げることである。彼は自身をもってそれを示すことになる。建国以来、戦争らしい戦争を経験していなかった共和国陸軍だったが、グレゴリーに天賦の才があった。それは平時にはまったく発揮されないもので、ややもすれば彼はそれを自分でも知るまえに軍隊を去っていたかもしれなかったが、運命としてその機会は訪れたのである。グレゴリーには戦争の才能があった。軍事訓練や国境警備ではその才能が露わになることはなかった。本当の組織的な殺人行動においてのみ、彼の感覚は激しく研ぎ澄まされた。彼の感性と悟性と理性の大部分が、効率的に敵部隊を滅ぼすことに費やされた。

 しかし、彼は決して戦争を肯定していたわけではない。当時グレゴリーが妻に宛てた手紙で、結局戦時中の混乱のせいで届かず、後年に発見されたものがある。その中で彼はこう記している。


《今度の戦争では、自分はかなり酷いことをやっている。味方も敵もたくさん死なしてしまった。こんなことは早く終わらせてしまいたい。しかし指揮官としての手前、弱った本心を部下たちに打ち明けるわけにもいかず日々煩悶としている。》


 数々の戦功を残し、一度は劣勢になった戦況を互角以上のところに戻した彼は、ついに大佐の階級に昇進した。開戦から一年が経った頃のことだった。

 彼が軍隊に入った時と比べて、組織の空気は変わってしまっていた。そのことについて、彼の日記が残っている。


《昔は、もう大きな戦争はないだろうという穏やか空気が国中にあって、その感じは兵隊たちの中にも通用していた。確かに軍人なのだから、戦争が始まれば国を守るために戦う気はあったが、まず戦いはないだろう。そういう気分があった。私が軍隊に入ったのもそんな風の吹いた時代だった。それでも、外交の失敗が戦争に繋がって、いざ陸続きの帝国との戦いが始まると、これまでとは別の、気持ち悪い風が吹き始めた。私自身のように、戦争のおかげで新しい地位や価値を獲得した人間がたくさん生まれた。そこに戦争の恐ろしさがあった。敵にも味方にも、戦争を道具としてしか見ていない人間がいることに気が付いた。内地での政治の雰囲気は、こちらでは分からないが、大統領も実のところ、この戦争で上手く帝国をブン奪りたいと考えているらしい。今、戦況は悪くないのだ。だから勝ってるのに止める筋はないというわけである。戦線に近くいる方としてはたまらない。

 私は何千人かの兵隊を与えられて、ただ勝ってこいと命じられる。勝たねば内地の家族や友人、それに共和国民が危ないわけで、もちろん必死に勝てるように頑張る。ただ頑張るといっても、私は地図を眺めて、あそこに戦車隊を引くだとか、ここに陣を置くだとか、そういうのを部下に命ずだけで、本当に命をさらすことはまずない。やがて、遠くに砲の音が始まって、そこからは適宜、指示を出す。一旦落ち着いて、報告が来るときにはやはり、身が固くなる。必ず死人が出る。戦争なので当たり前だが、本当に生き死にがある。近衛の部下なぞは全然平気という感じをしていて、だからやはりこちらも平気な風でいなくてはならんが、その実、心は恐ろしい。自分は本営で温かい汁を飲んでいるが、ちょっと丘を越えたところでは、上は五十過ぎの老兵から下は十八、十九というところの、まだ女も知らない子供が、土に埋もれて冷たくなってあるわけだ。こんな風に思うのは、やはり自分は軍人には向いていなかったのかと痛々しく感じる。しかしだからといって帰りたいと言えるわけもない。いつ終わるのか皆目分からないのが、また辛い》


 グレゴリーは戦争を本当に嫌がっていた。戦時中の彼は、自分も知らないところで、母国奪還の英雄、「電撃作戦のマン」などと、ヒーローの扱いを受けていた。彼を主人公にしたコミックや小説さえ、内地では出版されていた。

 確かに大佐は戦争を嫌ったが、彼は軍人として命令を遵守し、やはりいくつかの戦闘で結果を残していく。そして突然、彼の帝国側との内通の疑いが、司令部に上がる。それが一体どういう内容のものなのか、資料は残っていない。伝記の執筆者によれば、グレゴリーは当時の陸軍内の政治的競争の中に巻き込まれて、嵌められたのではないかとされる。戦況が良くなってからは、軍の指導的幹部たちは戦争が終わってからのポストに目が向かっていて、陸軍内部はかなり重度に腐敗をしていた。その一連の騒動でグレゴリー・マン大佐は、偽りの疑いをかけられ、政治的な失脚に追い込まれたのではないかと一部の歴史家は考えていた。

 内地への出頭命令が当時大佐が滞在していたサンタウンに到達するときには、もう既に、彼は共和国を去っていた。


 そこまで読んだところで、ウラノの肩を誰かが叩いた。昨日の司書だった。

「申し訳ありません。本日は書庫整理のため、あと十分で閉館となりますので……」

 昼過ぎだった。図書館を出た後、適当に街を散歩した。腹が減るまで歩き回るつもりだった。街はしっとりと雨に濡れていた。性懲りもなく、空を睨んで晴れ間がそこにないか探した。建物の形に切り取られた空に、太陽の気配はない。

 思いつくままにあちこちを覗いて回っていると、レンガ造りの古めかしい広場のようなところに出た。中心に汚らしい噴水の台があるが、水は流れていない。ただ長い雨のせいで、溜まっている分の水がある。そして噴水の台の真ん中に、等身大の女性像があった。白い石造りの像で若い女の姿をしていた。柔らかな長布を身体に纏っていて、その顔は優しく微笑んでいる。なんとなく母性を感じさせる造形だ。ウラノはそう思った。

「太陽の女神像だよ!」

 誰か後ろから大きな声で呼びかけられたせいで、青年は叫んで飛び上がった。反動で胸の傷がまた痛んだ。息が詰まって、唸る。

「あれ、大丈夫? どこか悪いの? ああ、ごめんなさい」

 息を落ち着けるとすぐに良くなった。ウラノは声の主に手を向けて言った。

「大丈夫、もうほとんど治ってるんだ。気にしないで……」

 ウラノに後ろから声をかけたのは、なんとも美しい女だった。ただ女と呼ぶにはまだ幼い雰囲気で、表情にどこか子供らしい柔らかさがあった。夏らしい涼しげな水色のTシャツと、白いショートパンツという格好で、黄色い傘を差していた。肌はよく陽に焼けている。薄い色の髪は青々とした若木のように豊かなロングヘアで、そして大きな眼と耳が印象的な娘だった。

「あなた……旅行者?」娘が尋ねた。

「そうだよ」青年は答えた。

「へぇ、よくここにこれたね」娘は感心したように言った。皮肉とかいうわけではなく、ただ単純に驚いているらしい。

「それはどういう意味だい?」ウラノは訊いた。

「ここは観光地じゃないからね。たぶんどの観光パンフレットに載ってないはずだよ。それに大通りに面している場所でもない。普段は旅行者がやってくるところじゃないの。街の人だって、そうそうこないよ」

 娘は大きな眼で噴水の女神像を見つめた。その視線には、ある種の尊敬の色があった。

「もしかしてここは宗教的な場所なのかな」ウラノは言った。

「そう! あなた勘がいいのね。この場所はわたしたちの祈りの場所なの。れっきとした聖地だよ。あ、でもでも! 別にどっか行ってとかそういうわけじゃないんだよ。今日は雨だから礼拝はお休みだし、わたしも、ちょっと誰かとお喋りしたいなーって気分だし」

 彼女はにっこりと、太陽みたいな笑顔ではにかんだ。


 アンリというのが娘の名前だった。歳は十六で、近所のアパートに八十三歳の祖母と二人だけで住んでいるという。――生まれたときからずっとこの街に住んでるの。彼女は誇らしげに言った。

 アンリとウラノは女神像の裏手にある小さなカフェに席を取っていた。少女は冷えたサイダーを瓶で直接飲んでいる。ウラノは濃く淹れてくれと注文したコーヒーをちびちびと傾けていた。カップからは湯気が出ている。

「ねぇ、ウラノ君はこんなに蒸し暑い夏の雨の日に、熱々のコーヒーなんか飲んでおいしいの?」

「ここのコーヒーは博物館のカフェのよりずっといい」

「こんなに暑いのに?」

「僕は熱いコーヒーが好きなんだよ」

 ふうん、と珍しいものを見るような顔をして、アンリは自分の瓶を咥えた。

「あの場所が祈りの場所ってことは、君たちにはあの女神についての信仰があるの?」ウラノは訊ねた。サイダーを飲み下してから彼女は答える。

「そう。太陽の女神様が私たちの生活を守ってくれてるのよ」

「それって、この街で昔あった太陽神信仰と同じだったりするのかな」

「あ、よく知ってるね。そう、古代から続いてるんだよ。もう今はこの区画一帯の人達だけになってるけど、昔はもっとたくさんの人が女神様を崇めてたんだってさ。おばあちゃんがそう言ってたよ」

 サンタウンに古代からあった太陽信仰については、博物館で少し知っていた。ただそれが女神信仰だったとはウラノも知らなかった。

「晴れの日はいつもお昼に礼拝してるんだけど、ここのところ雨続きでさ。さっぱりお祈りできてないんだよね。これじゃ不信心だよ」そう言ってアンリが笑うと、カウンターの向こうで新聞を読んでいた店主がウフンと咳払いした。

 彼女は声を潜めて言った。「ここのマスターは特に熱心だから、今みたいな冗談は嫌がるの」それから、少女らしくくすくすと笑った。

「君は平気なのかい? しばらくお祈りできてないんだろう?」悪戯心でウラノはそう言ってみた。すると少女は全然平気な顔で答えた。

「だって、お祈りなんか本当な関係ないんだもんね」

「というと?」

「お祈りは、私たちの方から女神様に向かってアピールしてるだけなの。私たちが女神様を忘れないように勝手にやってるだけなの。やってもやんなくても、女神様は怒ったり悲しんだりしない。彼女はただ、あるだけなの。凄腕の弁護士が、ずばばーっと書類をさばくみたいにして、私たちの運命を全部決めちゃって、そのあとはもうじっと見てるだけ。たぶん雲の上で寝っ転がって、頬杖ついてるんだと思う」

 どこからが教義の内容でどこからが少女の微笑ましい空想なのか分からなかったが、神経質に店主がこちらをちらちら見ている様子から、アンリがかなり雑なことを言っているのだとウラノは思った。

「似たようなこと言ってるお爺さんが病院にいたよ。その人は生まれたときから死ぬこと決まってるから、死にそうになってから怖がったりするのは意味のないことだって言ってた」

「それ、ウェンさんだよ」アンリは伏目がちに言った。

「彼を知ってるんだね」

「ご近所さんだもん。あの人、一人暮らししてるんだけど、もう癌がかなり進んでて、それでそんなこと言うんだよ。ちょっぴり悲しいね」

 少し間をおいて、ウラノは言ってみた。

「君は、人が死ぬことについてどう思う?」

 アンリはウラノの顔をじっと見つめた後、ふいと窓の外に目をやった。マスターはグラスの曇りをチェックするフリをしながら、こちらを見ている。

「わからないよ。そんなこと。でも私たちは死んだら、女神様がいる天上に連れて行ってもらえるんだよ。だから、たぶん怖くない」

「あのお爺さん――ウェンさんは、直接に君たちの女神様のことは言わなかったけど、たぶん同じことを考えていたんだろうね」

「ウラノ君はどう思うの?」少女が尋ねた。その声には、ウラノを責めるような色があった。

「僕は、人間は死んだらそこで消えてなくなると思っている。それでも死ぬことを怖いとは思わないよ」

「なんで?」

「僕は死ぬって言うのは、結局眠ることと同じだと思ってるからだよ。眠っている間は夢を見ることもあるけど、大体意識はないだろ? ぐっすり眠っているときは、暑いとか寒いとかない。考え事もしてないし、何も見えないし聞こえないし、憶えてない。そうだね?」

 少女は頷いた。青年は続ける。

「それで、朝になると勝手に目が覚める。眠っている間に自分の身の回りで起きていたことがあったとしても、それについてはほとんど何も知らない。例えば自分の枕元に知らないおじさんがやって来て、顔に落書きして帰って行っても、そのことに気付かずに眠っている」

 アンリは何か考えている風に、青年の手元を見つめていた。きっと自分の寝顔に落書きをしている怪人の姿を思い浮かべているのだろう。ウラノはそう思った。

「つまり、寝ている間は意識がない。少なくとも、自覚できるものはないんだ。意識のない時間が、何時間か続いて、それからまた意識のある時間に戻る。それが眠るということだ。となると、今度は死ぬことについて似たような考え方ができる。人間が死ぬのは、ベッドに入ってそれから、ただもう起きないということなんだよ。ずっとベッドに入っている時間が続くだけなんだ。だから全然怖くない。死に方によっては、苦しんだり、痛かったりするかもしれないけど、死んだらその瞬間から、僕らは絶対に誰にも邪魔されないベッドの中に潜り込むだけなんだ。自分が無くなるというのは結局そういうことなんだよ。僕たちは毎日、死ぬ練習みたいなことをしてるんだ」

 少女は深刻な顔つきでウラノの顔を見つめていた。それから少し目を逸らして、また窓の外を見た。細かな雨が降っていた。店主は冷蔵庫からサイダーを出して、グラスに注いでから、自分で飲んだ。

「ねぇ」か細い声でアンリは呟いた。

「でも死んだら、家族にも友達にも会えなくなるよ」

「それは当然、そうだね」ウラノは首肯した。

「私たちが、死ぬことが怖いと思うのは、本当はそういうところなんじゃないのかな? 自分の生きている世界で、大切にしているものや、ひとと、最後には絶対に離れ離れになっちゃうのが決まっているから、悲しいし想像がつかなくて怖いんだよ。もし、それが怖くないひとがいたら、世界と離れるのが怖くないひとがいたら、そのひとは今も、生きてるんだか死んでるんだか分からない、死ぬよりももっと悲しい生活をしているんじゃないのかな」

 今度はウラノの方が沈黙を作った。そして、――そうかもしれない。と小さな声で言った。

「君にはおばあさんがいるし、友達もいる。だから、死んでその人達と離れ離れになってしまうことは、やっぱり怖いと思うわけだね」

「うん。私は、死ぬのが怖い。本当はすごく怖い。ウェンさんの考え方も、ウラノ君の考え方も、考え方としては正しいかもしれないけど、私は悲しいからそういう風には割り切れない。女神様が、天上に連れて行ってくれるのだとしても――私は死ぬことが怖い」

 ――君がそう思うのは、人間としてすごく自然なことだ。一方で僕の考えは、ただの屁理屈みたいなものだったね。そう言おうとしても、ウラノにはそれができなかった。なぜなら彼は、やはり死について恐怖を感じていなかったし、その理由について、自分が構築していた理論よりも、もっと妥当な心理を、目の前の少女に突きつけられていて、それが彼を、大きく揺さぶっていたからだった。

「ウラノ君って不思議だね。ちょっとだけ……ううん。マスター、サイダーもう一本! それと、ラジオ流してよ!」アンリが少し強引に笑った。

 店のスピーカーから、ラジオの音楽が流れ始めた。若い男が、アコースティックギター一本で弾き語りをしている曲だった。悪くない曲だ、ウラノはそう思った。アンリも同じ感想だったらしく、ご機嫌に、歌に合わせて小躍り始める。やがて店主がサイダーをもう一本持ってきた。冷えた瓶を咥えたまま、依然として肩を上下させる少女は、目を輝かせて言った。「見て!」

 ウラノは自分の眼を疑った。世界が明るい。そうとしか表現のしようがなかった。窓の外ではどこからか、鋭い光が差し込んでいて、女神像の影が、地面の濡れたタイルの上にはっきりと浮かび上がっている。雨が止んでいた。

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