4. 大きな流れについて考えるのは、ときどきでいい

 ジョージ・サンダンスの物語において特筆すべきものは、ここまでの彼の失敗譚と、それから彼の妻であるミシェル・ウラノに出会い結婚すること、そして彼の命の終りを飾る「呪い」についてである。ギターを棄てた彼は、共和国西部の小さな町で暮らしていた。一日中働いて、夜は酒を飲みながらテレビを眺める生活だった。

 彼は一時自殺まで考えていた。そして一度だけ、ふと魔境に陥ったある夜に、鉄道のプラットフォームから降りて、線路に横たわったことがあった。しかしその試みは、他の客や駅員に助けられたことで失敗に終わった。そのとき彼を助けた乗客たちの一人で、彼と同様に人生についてある種の絶望を抱いていた男は、ジョージに対して強烈なシンパシーを覚えていた。男はジョージの身体を抱いてボロボロ泣きながら言った。「わかる。わかるんだよぉ。ボクもなんだよ。いつだって死んじまいたいよなぁ」眼鏡を掛けた、痩せ型で小柄な男だった。これがトーマス・ウラノとジョージの出会いだった。

 トーマスは無職だった。三十手前という年齢で実家に暮らしていて、それなりに名のある大学まで通い高等教育を受けた人間だったが、いざ社会に出るとその競争的雰囲気に押しつぶされて結果的にドロップアウトした。それ以来、実家で肩身の狭い思いをしながら、日がな一日読書をして過ごしている。両親にはいつも背を突っつかれていたし、ただでさえ少なかった友人たちは、彼の社会的脱落を期に、彼から離れていった。彼は孤独で、無力で、未来に対してなんら期待がないという点において、ジョージと共通していた。

 意気投合と呼ぶには、いささか陰鬱なコンビが生まれた。彼らのこれまでの人生は、幻のような成功を途中まで見ていながらも、それを断ち切られたという類似性があったし、お互いにその点についてあまり語りたがらないものの、陰鬱さの裏側には、それなりの苦しみがあることが、同族のテレパシー(のようなもの)で伝わっていた。ジョージの仕事が休みのときは、公園のベンチに並んで語り合うでもなく、二人で時間を過ごした。


 ある日トーマスが言った。

「ねぇ、ジョージ。僕たち親友だよな」

 ジョージは答えた。「分からない。でもお前の他に、オレには友達はいない」

 しばらくの緊張のあと、トーマスは言った。

「僕たち、恋人にはなれないかな」

 とても長い沈黙があった。公園の池では、まだら模様を背負ったカモが池を右から左へ泳ぎ渡っていた。暖かな日差しが二人を照らしている。いい歳をした男が二人で並んで座っているのを見て、通りがかりの子連れの母親が鋭く眉をひそめた。

「オレにはそういうケがないから、きっと駄目だろうな」ジョージは静かに言った。

「そっか……」トーマスは悲しそうに笑った。

 こんなことがあっても、二人の仲が終わることはなかった。

 二人は精神的な推進力を失っていたが、友達として一緒に過ごす時間が、彼らの人生を少しでも、素晴らしかった時代へと引き戻す役割になった。やがて二人は、稼ぎのいい仕事とは言えないものの、それぞれが別の定職に就くようになった。

 トーマスが社会的な価値観から見てまともになったことで、その立役者として認識されたジョージは、ウラノの家族とも付き合いをするようになった。家長のケント・ウラノとその妻ナオミ・ウラノは、自分の息子を「正道に戻した」男に興味を持っていた。ジョージは二十九という歳の割には、相当くたびれた雰囲気の男になっていたが、本来彼のもつ心根の優しさや、穏やかな人格を失ったわけではなかった。ウラノ夫婦はジョージを気に入った。


 それはトーマスの三十歳の誕生日と就職を祝うパーティだった。ウラノ家の人間と、ジョージだけのこじんまりとした集まりだった。ジョージはそこで、トーマスの歳の離れた妹であるミシェル・ウラノと出会った。ミシェルはまだ若かった。その若さのせいもあったのかもしれない。彼女はジョージの瞳の奥の、くすんだ鈍い光が気になって仕方なかった。そのときジョージは二十九歳で、ミシェルは十九だった。パーティの途中、二人はよく目が合った。ミシェルが料理の皿を運んでくるときや、ちょっと会話が途切れたりする瞬間、なぜかその二人はふとお互いの方を見た。

 二人を比べれば、恋愛の駆け引きなんかについてはミシェルの方が何枚も上手だった。処女だけは硬く守っていたが、彼女はハイスクールでそれなりの経験はしていた。先に相手の好意に気が付いたのは、ミシェルの方だった。一方で、自分が持つ相手への好意に先に気が付いたのは、ジョージの方だった。

 ジョージの方はというと、彼は全く、恋愛の作法を知らなかった。今まで女の子のことが気になったというのは何度かあったが、その時だってどうすればいいのか分からなかった。彼はパーティのかなり初めの方から、ずっとミシェルのことが気になっていたが(しかもそれは、ごく無自覚の、少年のような恋心だった)、なにもできなかった。トーマスとケントの親子と、台風の時の川幅の変化について語るほか彼にできることはなかった。

「台風というのは恐ろしいものだ。毎年やってきて、かならず幾人の命を奪っていく」ケントがビールを傾けながら物々しく言った。

「別に台風の方に人間を殺そうという意識はないんじゃないかな」トーマスが言った。

「殺すのではない。あれらは『大きな流れ』に沿って人間を減らそうとしているのだ」

「SFムービーみたいな話だ」ジョージが言うとトーマスが笑った。

「ジョージ、でも実際のところそうだろう。一年に何度か、南の方で自然に出来上がった雨と風の塊が、狙ったようにこの国に上陸して、人間の営為と生命を破壊して、そして役目を終えて消えていくのだ」

 三人とも黙った。向こうのキッチンの方からは、女たちの、くすくすという笑い声が聞こえていた。ジョージは、ちょっぴりそっちが気になっていた。

「父さん、それは違う。台風に意志なんかない。あれは自然現象なんだよ。地球の太陽からの距離とか、地軸の傾きとかのせいで、ああいうものが生まれては消えていくようにこの星は出来てるんだ。その進行ラインの上に、僕たちの生活があるに過ぎない」息子が彼の意見を否定した。どうやら親子は、こういう議論を好む人種らしい。ジョージはそれを面白く思った。

「目に見える範囲ではそうだ。でもそれは、現象として台風を見たときの結果でしかない。我々の生活にどのようにそれが関わってくるかを考えたとき、あれはやはり、人間を攻撃するものなのだ」

「変なこと言わないでくれよ」トーマスは笑った。

「台風は自然現象ではある。でもその自然現象は、どうして自然現象なのに人間を殺す? 人間のいないところで勝手に暴れていればよいのにだ。毎年決まった季節にやってきて、お決まりのように何人か殺す。地震も、津波も、噴火も、竜巻も、雷も同じだ。なぜ全くなんの作為でもないものが、ぴったり人間を殺すか。たまたまなどではない。それは、大きな流れがあるからなのだ」

「大きな流れって?」ジョージが尋ねた。彼は一時的にだが、ミシェルのことよりも、この年老いた人物の語りに興味を惹かれた。

「そう、運命だ。運命が全てを固く決めている。運命が前もってあるから、私たちの人生はそれをなぞるように進行していく。そしていつか終わる。人間のうちいくらかは、運命によって災害で死ぬように定められているのだ。だから自然現象が人間を殺すのだ」

「神がそれを決めていると考えるんですか?」ジョージには信仰があったが、それは完全予定の運命を支持するタイプのものではなかった。

「神ではない。運命はただあるだけだ」ケントは煙草に火を付けてそう言った。

「不思議な話だ」ジョージは心の底からそう思った。なぜかこの老人の言葉に、奇妙な説得力を感じていた。

「ごめんよ、父さんはたまにこうなんだ」トーマスが耳打ちした。

「運命がただあるだけなら、オレたちの人生ってヤツは、一体なんなんですか? なんの意味があって生きてるんですか? 不幸とか、誰かの暴力とか、そういうものがあらかじめ決まっていると考えることに、なんの意味があるんですか?」

 ジョージは食いついた。彼には、それを尋ねないわけにはいかない理由があった。

 老人は若い友人に対して、何かを見て取った。そしてゆっくりと口を開いた。

「つまり人生はなるようにしかならないということだ。幸せも、不幸せもそれはそうなるべくしてなったということだ。努力や抵抗は、功を成そうとそうでなくても、意味はない。人間にできることや決められることは、本当にごく一部の些細なことでしかない。意味として語るなら、結局は生き方に繋がる。受け入れる人生を送るということだ。私は戦争で死ななかったが、弟と親父は死んだ。結婚して息子と娘を授かったが、息子はふにゃふにゃの軟弱者だった。もうこいつは一生駄目だと思ったら、君みたいな不思議な人間が現れて、なぜかまた歩き始めるようになった。トムの再起に、私たち家族はほとんどなにもしていない。ただ家に住まわせていただけだった」

「別にオレが、トムに何かしたわけじゃない」ジョージは老人の言葉を訂正した。

「だったらなおさらだ。トムは勝手に自分で生きるようになっただけだ。君に会ったことでなにかのスイッチが押されたのは確かに思えるがね」

 トーマスが咳払いをした。父親は続けた。

「人間が生きているのも、またそんな風に生きているのも、多くは全部自分でやってるだけだと思っている。でもそれは、そうじゃない。自分で決めていると思っていても、色んな世の中の作用が、そうさせているだけで、しかも偶然によって簡単にたくさんのものが左右される。そしてその偶然さえも、定められたものでしかない。それが運命だ。我々は運命の大きな流れの中にたゆたう水草のようなものだ。隣の水草が流されても、自分は流れないことがままある。その逆も同じくらいよくある。どっちが流されるのか、あるいは流されないのかは、水草には決められない」

 ジョージにはよく理解できなかった。自分の人生を思った。十年前にあのバーで起こった事実は、果たして彼の言うところの運命だったのだろうか。――オレがギターを失ったのも、またトーマスに出会ったのも、どこかよそで勝手に決められたことなのだろうか。あの夜、あの男がいなければオレはまだスタンドの前に立っていたかもしない、あるいはトーマスがいなければ、オレは列車に轢かれて終わっていたかもしれない。

 ジョージは、今ここに座っていることが、どれ一つとして、自分の決定でなかったような気がした。

「大きな流れについて考えるのは、ときどきでいい」老人が言った。

「それは考えても、結局なにか自分に出来ることがあるわけじゃない。だったら、自分で決められるものについて考えた方が、人生は楽しくなる。たとえば、次の一杯に何を注ぐかとか……」そう呟いてから、大きな声で「――おい、こっちに来るときに、ウィスキーソーダも頼む!」と叫んだ。

 キッチンから、はぁいと声が返って来た。それから、ナオミとミシェルの母娘がスパゲティの盛られた大皿と、薄い小金色のグラスを抱えてやって来た。ミシェルのショートヘアが揺れて、前髪の下の大きな目がジョージを捉えた。

 ジョージはそれを見て思った。――オレが自分で決めたことなのか、もしくは運命に決められていたことなのか分からないが、オレはこの子に一目惚れしたんだ。

 酒の力か、ケントの運命論に感化されたせいか、ジョージは普段なら決してできなかったようなことをした。つまり、パーティの最中で、ミシェルと二人きりでテーブルにつくうまいタイミングがあって、その時に彼女に言い寄った。

「君のことが気になる」至極真面目な顔で、ジョージは言った。

 ミシェルは飲んでいたサイダーを少し噴き出した。それから辺りを見回した。父親はソファの上でうつらうつらしている。母親はキッチンで洗いものをしていたし、兄はトイレにいた。今の言葉を聞いたのは間違いなく自分だけだった。

 湿っぽい暑さが残り続ける夏の夜だった。ジョージは物憂い顔で、答えを待っていた。ミシェルはどう答えるべきか分からなかった。ミシェルが彼について知っているのは、歳と名前と、兄とよく似たろくでもない人生を送ってきたことと、そして奇妙な目の光だけだった。状況は余りにも唐突だったし、率直に言って、ジョージは魅力的な異性というわけでもなかった。イエスを言える相手ではなかった。でも彼女は、この静かな男に何かしら惹きつけられるものを感じていた。

「今度の土曜日に、映画でも行かないか」ジョージが声を震わせて言った。少しの間があってから、行ってもいいと彼女は答えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る