22. ぐっすりと眠れるはず - (終)
その場所からはあらゆる肯定的な営みが失われていた。そして長い時間だけがあった。しかし、そこには時計もなければ太陽もないので、人間が数を数えるにはやはり不適切な環境だったと言えた。また永遠が告げられている以上、彼にとって時間を数えることは無意味だった。
ただ長い時間が、そしてやはり本当に長い時間があった。闇の中には自己の肉体さえも存在しない。ただ意識があり、感情と時間だけがあった。その無限に拡大された時間と、硬直した世界のなかでも、彼の魂は錆びつくことはなく、いつまでも新鮮な苦しみで並々に満たされていた。
ジョージ・サンダンスとかつて呼ばれていたものは、自分はこの場所にいることの理由も、もはや自分が何者であるかも忘れていた。ただ生きていたころに犯した罪と、それが招いた取り返しのつかない失敗に対する後悔のみがあった。命を失って、物体になった肉体に縛り付けられた彼の魂は、ただ存在しながら、この後悔の感情を反復し続けるだけで、他の行為をする手段や要因はない。不定形で、不確実な存在が、己の内から湧き上がる悔悟に、蝕まれ燃え上がる時間が過ぎていくばかりだった。
自分は人生の中で大切なもの掴み損ねてしまった。何か、はっきりとした具体的なものを一度、手にしていたはずだった。そしてまた、それを大事に抱えなおして、傷だらけであろうとも、多少の文句をつけたくなるものであっても、かけがいのない、素晴らしい生になるはずだった、少なくともその希望にあふれていたなにかに、立ち戻るチャンスはあったはずだった。
だが、それを手放した。確かに自分による選択であったような気がしたが、一方で逆らい難い大きな流れの中に、自分が溺れてしまったかのようでもあった。
彼には何一つ、それらの名前や意味を思い出すことはできなかった。それだけの長い時間が過ぎていた。魂に宿る自我が、記憶を失い、一つの感情だけが残って、それがどこにも行けず、何にも触れられない存在となって、ただ唸っていた。これから先においても、時間はたっぷりとあった。なにしろそれは永遠に続く手筈になっていた。終りがないという決定のなかで、かつて人間であったものは感じること、考えることをやめようとも試みたが、それは許されなかった。苦しみ続けることが彼に課せられたものであって、それから逃れるということは、まったくどういう形においても用意されていないからだった。彼には何もできない。硬く、乾いてしまった彼の身体は、土に還ることもできないまま、薄暗い場所に置かれていた。その場所に誰かが訪れるようなことはなく、そして死んだままの肉体に囚われた魂は、全ての生の感覚から分断されている。彼は彼以外の全てから、疎外された状態にあった。
自分は何もかもを駄目にしてしまった。それは自分自身についてもそうだし、加えて他の何かも大きく損ねてしまった。自分が生きていたことで生まれたなにかに対して、全く償いようのない傷を負わせてしまった。まったく容赦のない攻撃でもあれば、陰湿かつ排他的な裏切りでもあるそれが、もっとも彼の良心を深くえぐった。もちろん彼がそれをしたのである。そのことがなによりも彼を苦しめていた。――そしてとても長い時間。
それが起きたとき、初めはなにも理解できなかった。そもそも彼は、とても長い時間のせいで理解という動きさえも忘れていた。なにかあると思ったときから、しばらくの間があって、そしてようやく、目の前(彼にはもちろん、もう目玉のなどないのだが、とにかく視覚的なイメージとしての目の前)には、大柄な青年が立っていた。
一見した年齢の若さとは対照的に、その表情は見た目の歳に似合わず老成したような、無害で優しい、大きな獣を思わせる落ち着いた雰囲気を醸し出していた。ハンサムとは言えないがどこか愛嬌のある顔だとも言える。眠そうな目つきと、腫れぼったい唇。黒く柔らかい髪の毛。くたびれたジャンパーとジーンズを身に纏っていて、また擦り切れた革靴は、彼の大きな足にぴったりと収まっている。
青年が何か言った(こちらももちろん、耳のない彼にとっては聴覚的イメージでしかない)。それを彼が理解するまで、またしばらくの間があった。そしてどうやら、青年はなにか挨拶をしているようだった。
しかし、彼がそれに応答することはできない。魂だけの存在になってしまった彼には、ただ目の前の青年がこちらを見続ける情景――あるいは、これは、幻想なのだろうか――を眺めるほかなかった。
青年がしばらくこちらの様子を伺っていた。そして、ちょっと照れくさそうに、でもなにか大きな自信があるように、つまりなにかが終わったことを知っているような、優しい微笑みを浮かべて、言った。
「いろいろ大変だったけど、もう、全部終わりました」青年はやはり恥ずかしそうにして、その柔らかな頭髪を掻いた。
終わったとは何がだろう。彼は考えたが、よくわからなかった。
「不思議なことがたくさんあって、怖いことと嬉しいことがありました。でも、全部意味があったんだと思います。僕はそう思いたい」
彼には青年の言葉の意味が分からなかった。
「どう言えばいいんだろう……。とにかく、今の僕は、とりあえずは、希望を持てているということです。つまりあなたが損なったものについては、僕たちは自分で、なんとか埋め合わせているということです。色の違うパテだから、跡は残るけど、こちらは復帰しているんです」
――それは、それは……。
ジョージは言った。
「それはオレのことなのか?」
「そうです。あなたのことです」青年が言った。そして続ける。
「誰もあなたを恨んだりはしていません。確かにあなたには罪があるかもしれないけど、そのせいで傷ついたりしたものはあったかもしれないけど、もう大丈夫です。あなたが、死んでからも苦しみ続ける必要はないんです」
ジョージは、頬から垂れ落ちる涙に気付いて、それを拭った。――涙? 涙だって? そう思って、少し笑った。それらはみな、とても新鮮な感覚だった。そしてまたどうやら、青年も同様に、涙を少し浮かべていた。
「僕も、もろいんです。あなたと一緒で」そう言って、笑う。
青年が歩みよってきて言った。「手を」
ジョージが右手を差し出すと、彼がそれを握った。間近で青年の、くしゃっと笑う顔を見て、それでようやく、ジョージは自分が誰と話をしているのか、わかったような気がした。
「おやすみなさい。ぐっすりと眠れるはずです」
「ああ、おやすみ」
おやすみなさい。青年がもう一度繰り返した。その時には、ジョージはもう眠っていたので、青年の言葉は聞こえていなかった。
Good night, Rain man @isako
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