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読書ノート03『わたしを離さないで』カズオ・イシグロ


 小さい箱庭を作る。人形をいくつか立てて、誰かに説明する。
「こいつはどうで、あいつがこう。それでたぶん、これが僕」
小説を書くというのは、だいたいそんな感じのことなんだろう。

***

 カズオ・イシグロの小説は人間関係がすごく繊細に描かれている。友情の裏には常に背反の気配があって、尊敬のそばにはいつも軽蔑がくっついている。こまかな目くばせや、あるいは語り手の過剰な思い込みにしか見えないようなものが、小説のなかにたくさんある。読者はそれをひとつひとつ手に取って、じっくり見つめて、気に入るものだったらそれを鞄の中に入れて物語を進める。

 小説には未来のない、あらかじめ未来を奪われた子供たちが現れる。物語は彼らの革命の物語ではない。革命など存在しない世界、あるいは革命の残り香だけが漂う場所で、やはり奪われたままの子供たちはが静かにその運命を受け入れる。
 これは誰のための物語なんだろうか。おれは、この物語は比喩的に読むには、舞台は安易に過ぎるし、こころはあまりに広いと思う。
***

 昔、山田悠介の小説で「自分を一瞬で死亡させることができるスイッチを持った子供たち」の物語(『スイッチを押すとき』)がある。ガキのころのおれはその物語に心底心惹かれて、それを父親に勧めた。父親は読み終わったあと、おれに言う。「何のための物語だったのかわからない。何のために書かれて、何のために読んだのかわからん」おれはそのとき父になにも言えなかった。子供だったからね。

 おれは大人になって、大人になったと思って小説を書くようになった。小説を読めるようになり、書けるようになったおれは、親父に言いたかった。
「小説を書く意味や読む意味なんてものはなくて、ただそこに作り物のお話があるだけなんだよ。でもその作り物に、泣いたり笑ったりできるってすごいことなんだぜ」と。結局、そんなことは言わなかったけど。

 おれはもっと大人になって、あの頃よりはいくぶん疲れていて、くたびれた大人になったと思っている。小説はまだ書いていたけどあの頃よりもわからないものは増えたような気がする。けっしてそれはいい意味なんかじゃない。そしておれは『わたしを離さないで』を読む。気づくとあの頃の親父とまったく同じ感想を持っている。

 何のための小説なんだ?細部が美しくても、こんなどうしようもない小説を書いちまっていいのか?滅ぶことや諦めることは美しい。美しいかもしれないけど、でも、今のおれには、あんまりにも苦しい物語だった。

 物語には祈りの機能があるという話を、近く聞いた。どんな悲しくても、もしもその物語が誰かの悲しさと重なるなら、そんな物語があること自体が祈りで、それが正しく届くことが祈られている、まぁそんな風におれはその話を解釈した。

 この小説が祈りなら、それでいいと思う。いつかどこかで、あるいはすでにどこかで祈りとして機能して、誰かの心を暖めるなら、それならこんな悲しい物語も、おれは受け入れられるんじゃないかな、と思えそうな気がする。潜り込むに値するくらいの深さは当然ある。あとは祈りが届くかどうかだ。

 この物語が、この悲しさや寂しさが、誰かに届くこともあったし、あるいはこれからある。


20220411

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