スーパースターでもなく、与えられた使命もなく、なおさら生を強制させられているわけでもないおれたちが、なぜ、平然と生き続けられるのか。 そんな自問よりもはるかにイケてることを、誰かに教えてもらったからだ。
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最近親と子の関係について考える。どっちかというと親目線になる。少なくとももう子供だと言える年齢じゃない。 親は子に何を与える(べきな)のか。
まぁ、愛だろ。とは思う。愛です。そりゃ愛。愛されて育った子供は愛されること愛することを知り、大人になった時、他者との関わりの中でその再分配のサイクルに参加できる。 具体的にいうなら、誰かに親切にしたり、誰かを誰かより優先したりすること自体や、それに付随する他者からの感謝や尊敬を糧に活動ができるということだ。そういう能力によって、友達とか恩人とか恋人とか言う関係性が作られて、そういう関係性が人間同士の無価値な社会を繁栄させていく。
「人間同士の無価値な社会」がクソだとオマエは言うかもしれないが、オマエの大好きな物語や音楽、詩、その他もろもろの生産物はそういうクソから生まれている。間違いなく。
もしオマエがいうクソが、社会ではなく、親の愛に、親から与えられるはずだった愛に向けられた言葉だったとしたら、それが「オレにはそんなもんなかった」と言う意味の咆哮なのだとしたら、ごめんな。でも、ちょっとでも悲しい気持ちになったんだとしたら、オマエはオマエが思っている以上に、誰かに愛された経験があるよ。間違いなく。
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おれは友達いないから、「今週のワンピース読んだ?」って言ったことない。別に毎週律儀に読んでるわけじゃないしな。でも今週のは良かった。本当に良かった。今週のワンピース読んだ?じゃなくて、読んで。読め。と言いたいくらいだ。
おれは頑張ってるやつが好きだ。頑張るという意志の向きそれ自体が、生きることを肯定し、讃えているからだ。ジョジョでよく引用される「人間賛歌」っていうのは、そういうことだ。わかってないやつが多い気もするが、目的が間違っていようと、カスだろうと、悪だろうと、頑張るという心意気が良いんだ。「俺は頑張ってやるぞ」という覚悟がナイス。つまりはそういうことだ。
ここ最近のワンピースは世界の秘密が明らかになり、いよいよ大注目という感じだが、その辺はわりとどうでもいい。面白いが、そんなに重要じゃない。とりわけ今週素晴らしかったのは、ボニーだ。頑張っていた。いや、ずっと頑張っていたのだが、彼女がこれからも頑張ることを強く表明していたことがなにより美しかった。おれはワンピースだと赤足のゼフがかなり好きだったんだけど、ボニーもすごく好きになった。そのくらいよかった。
「頑張ることを表明」と言ったが、ただ、「ガンバリマァス!」と言うのにはあんまり価値はない。そのくらいならおれも毎日会社で言っている。ボニーがよかったのは、なぜ頑張るのかという意味を見つけ出していたからだ。意味がなくては、おれたちは頑張れない。頑張るのは辛く険しい道だからだ。頑張らない方が楽だし、頑張りが空ぶってダサくなることもしばしばだ。勘違いしないでほしいんだけど、ここで言う「頑張る」は一般的な努力の話じゃない。生き方の話だ。真剣に自分の人生に向き合って選択をすることの話だ。
つまり話はこういうことになってくる。
「おれたちが真剣に自分の人生に向き合うことに、いったいなんの意味があるんだい?」という問い。これついての話だ。
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永井均っていうひとがいる。哲学やってるじいさんで、たまにバズる。こないだも彼の引用がバズっていた。こんな感じ。原著確認してないのでホントに言ってたかどうかはしらん。
「子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり自己の生が根源において肯定されるべきものであることを、体に覚え込ませてやることなのである。」(永井均『これがニーチェだ』からの引用らしい。)
これは愛の話だとおれは思う。肯定とはつまり愛の哲学的表現というわけだ。おれたち大人は子供たちに教える必要がある。親子に限らず、この社会で頑張る一個の精神として。「お前がお前の人生を心から愛することに、どれほどの価値があるのか」を。ボニーはそれを教えてもらえたのだ。不幸な、壮絶な人生を送ってきた女の子だが、ただそれにおいては、彼女はとんでなく幸せな子供だったといえる。
最後に引用。ONE PIECE 第1121話“時代のうねり”より
「ホントは3人で暮らしたかった‼ 1人ぼっちならもう死にたいとも思った‼ だけど生きるんだ‼ 2人があたしを‼ 祝福してくれたから‼」