21. ちょうどいいくらいが一番
肩が裂けるように痛んだ。頬にも何か、激しく擦ったような感覚がある。服は水気を帯びた重さで身体を地面に押し付けていた。ウラノはぼんやりする頭をゆっくりと上げた。冷たい灰色の石壁が、彼の周囲をぐるりと、高く囲っていた。彼は枯れ井戸の底にいた。見上げると、丸い形に空が切り取られている。雨雲だった。そして冷たい雨が井戸の中に降り注いでいた。ウラノは雨を口に取り込んで、中に入り込んでいた泥を吐き出した。鼻が詰まっているような感覚があったので、ふん、と鼻を鳴らすと、そこからも泥が噴き出た。
まだ重い頭で彼は思考した。――僕は戻って来たんだ。あの恐ろしい地下の世界から、現実の地上に。いや、あそこも確かに現実の一つではあるんだ。ただ普段は見えないようになっているだけで、あそこにあったものはまだあそこにあるし、あそこで起きたことはやはり、本当に起きたことなのだろう。
雨に顔を打たせながら、ウラノは長く深い息を吐きだした。冷たい雨が、火照っていた彼の身体を優しく冷ました。そして自分のそばに目をやった。
そこには胎児のように身体を丸めた、人間の木乃伊があった。何か服を着ているようだが、もうぼろぼろになっていて、どういうものだったのか想像はつかない。まだ発育途中の子どものような大きさだったが、それが大人の男の身体が干からびたものであって、またそれが父の肉体であるということは、ウラノにも分かっていた。
そしてさらにその隣には、 アンリが膝を抱えて座っていた。雨でぐずぐずになった地面に、直接腰を下ろしている。虚ろな目で地面を見つめていた。豊かで長い髪の毛が、雨にしっとりと濡れて顔に張り付いていた。肌は血色が悪く、青ざめている。薄手のシャツとショートパンツという格好で、雨の中を過ごしていたのだと考えると、ウラノは少し心配になった。
「アンリ、大丈夫かい。僕の声は聞こえてる?」ウラノは少女に話しかけた。
とろん、とした彼女の目がウラノを捉えた、少し口をぱくぱくさせてから、無表情に彼女は言った。
「私はね、パパとママに捨てられた子どもだったんだ。邪魔だから置いて行かれたんだよ。たぶん、まだ小さいころだったんだけど、急に二人がいなくなったんだよ。寂しかったけど、そんなになんとも思わなかった。おばあちゃんも、ミンさんも、他の友達もいたからね。でもここに来て分かった。私は一番辛いことを、ただ忘れようとしていただけだったんだよ。それを思い出したんだ。私が本当に大好きだったひとたちは、私のことなんか本当に全然どうとも思ってなかった。私なんか簡単に置いて捨てていけるくらいの、どうでもいいものだったんだよ。それで捨てられた」
彼女は泣きも笑いもしなかった。どうしようもない悲しみにそのまま心を凍りつかせた人間の顔をしていた。もう心と身体を結びつけることを止めた人間の顔だった。涙を流しさえもしない。顔は雨でびっしょりと濡れているが、その目だけは、悲しく乾いていた。
ウラノは彼女の手をとった。冷たい手だった。力なく垂れていて、生きる意志を失っているようにさえ感じられた。
「はしゃいでたって、本当は、全部嘘なんだから。もう取り返しのつかない、とても悲しいことが私にはあるんだって思い出したよ。私はそれを忘れようとして、それでもだめだった。もうどうしようもないんだもん。一度悲しいことがあったら、もうずっと悲しい気分が晴れないんだよ。どんなに楽しいことがあっても、私の心の奥で、パパとママが私を捨てたことが、ずっと残っていて、それがふっと顔を出すだけで、つらい、悲しい気分でいっぱいになっちゃうんだ。私ね。もう死んじゃおうかなって思うんだ。だって、悲しい気持ちが、私の心の一番最後のところにあって、いつだって結局それからは逃げられないんだから。そんな人生なら、終わらせちゃったほうが楽だと思わない?」
ウラノは涙を流していた。なぜ彼女ではなく、自分の方が泣いているのか。その理由はきっと、今の彼だからこそ分かるものだった。ウラノは自分が選んだものの意味に触れていた。
青年は、少女の言葉に応じた。
「そうだね。確かに君の言う通り、悲しい気持ちが誰かの心に一生残り続けることはある。いや、もしかすればみんな、なにか自分のとっても悲しい思い出を抱えているのかもしれない。みんなが自分の悲しさに、いつも苦しんでいるのかもしれない。でもね、君の言うように、だから人生を終わらせちゃうのは、それはもっと悲しいことだと僕は思う。誰かが悲しむとかそういうことじゃなくて、君自身が、悲しさに押しつぶされて、自分から死ぬことを選ぶというのは、それ自体が、最後まで君を悲しませてしまう。死んだら楽かもしれない。でも自分から死ぬことは、君の人生を最後の最後まで悲しい気分で終わらせることになる。君は僕の大切な友だちだから、そんな死に方をしてほしくない」
アンリの手が動いて、ウラノの涙を拭った。彼女が言った。
「どうしてウラノくんが泣いてるの?」
「君が悲しんでいるからさ」彼は答えた。
ウラノは冷たい少女の身体を抱いて言う。
「街に戻ろう。熱いシャワーを浴びてから、なにか温かくて甘い飲み物と、おいしいお菓子を食べるんだ。難しい話は、そのあとでもいい。そうだろ?」
少女は応えの代わりに、ウラノの背に手をまわした。
二人を助け出したのはミンだった。街でアンリを探すのに手応えを感じなかった彼は、ウラノを追うようにして隣国に仲間を連れて入り、件の貧民街で多少乱暴な聞き込みをしたあと、井戸のゴーストタウンに辿りついて、ウラノとアンリを発見した。彼らが井戸に近づいたとき、気味の悪い太った老人が彼らに襲い掛かったが、老人は容赦なく叩きのめされた。井戸の底でうずくまる二人を見つけたときに現れた老人は、どうみてもアンリの誘拐犯だったから、彼らの怒りの矛先としても、男たちにとってその暴力は当然だった。
「お前、井戸から出る方法を考えずに、井戸に潜り込んだのか?」ミンがウラノに尋ねた。
「そういえばそうですね。なんでなにも考えなかったんだろう。ミンさんが来てくれて助かりましたよ」ウラノがそんなことを言ったので、ミンは頭痛を抑えるように眉間にしわを寄せた。
「下に、人間の木乃伊が一体あるんですが、そいつも引っ張り上げてもらえませんか」
ミンたちは詳しいことは聞かずにそれを引き上げた。本物の人間で作られた木乃伊に、何人かが呻き声をあげた。
「これは誰だ」ミンが尋ねた。
「たぶん、僕の父です」ウラノが答えた。
ミンは顔をしかめてから言った。「こいつをどうするつもりなんだ?」
「焼いて灰にしてから、埋葬しようと思います」
「なぜおまえの父は、こんな辺境で木乃伊になってるんだ?」
「それは僕にも分からない」
妙な沈黙のあと、ウラノが言った。
「さぁ、帰りましょうよ。これ以上アンリを雨に打たせるのはよくない。それに僕も、ちょっと冷えてきた」ぱんぱん、と手を叩いた。周りの連中もそれに合わせてぞろぞろと歩き始める。ぐったりと項垂れるアンリをおぶっていた男が、ぶしゅん、とくしゃみをした。
「お前、なんだか嬉しそうじゃないか。もしかして、例の呪いは終わったのか」ミンが言った。
「雨については、もう、どうでもいいんです。今はとにかく、熱いシャワーが浴びたい」
ミンは特に返事をしなかった。皆疲れていた。
ウラノとアンリが街に戻ったその翌日、ジョージ・サンダンスの身体が火葬場で焼かれることになった。二十年前の行方不明者で、かつ余所者の木乃伊を焼くことについて、いくらかの問題があったが、死者の無残な姿を放置することはできないという関係者たちの共通した感情によって、制度や規則を無視した形で火葬が行われることになった。ジョージの身体を焼いたあと、ようやく疲れが出たのか、ウラノは激しい眠気に襲われ明るいうちから、ホテルのベッドに倒れ込んだ。そして、ほとんど丸一日を泥のように眠って過ごした。次の日の朝に目覚めるまで、眠りが中断され目を覚ますことは一度もなかった。穏やかで、温かい雨の音を聞きながら、彼はなにか優しい夢を見た。だがその内容は、目覚めたときにはすっかり忘れてしまっていた。
ウラノは街から出ていくことにした。まだ雨は降り続いていた。彼は街で知り合った人達に別れを告げて回った。といってもそれは、アンリとミン、そしてとりあえずアンリの祖母であるハルの三人だけである。それでも彼らは、青年の今までの人生において、もっとも濃密で個人的な関係を築くことができた人々だった。
青年は、まずは父の身体を母のもとに連れて帰るのだということ、そして、また必ずこの街に訪れるつもりだということを伝えた。ミンは静かにうなずいた。彼らの間には、アンリを中心にした奇妙な友情が生まれていた。
アンリはウラノに言った。
「ちゃんと帰ってきてくれるよね?」
「もちろん」ウラノは答えた。
アンリはなにか、恥ずかしい秘密を話すように、小さな声で言った。
「私、あれからずっと、変なことばっかり考えてるんだ。パパとママが私を捨てたんだったら、私は何のために生まれてきたんだろうとか、これから何のため生きていくんだろうとか、そういうこと。友達とおしゃべりしたり、テレビを観たりするのは、今までと変わりないと思うけど、ぼーっとしてると、そういうことを考えるようになっちゃったんだ。これって変なのかな」
ちょっと考えてから、彼は返した。同じように、小さな声で。
「変じゃないと思う。僕もたまにそういうことは考える。ろくな答えは出ないけどね。そういうことをずっと考えているのは、疲れることだし、君のようにつらい思い出と繋がってしまうこともよくある。だから、そういう大きな問題について考えるのは、ときどきでいいんだ。全く考えないよりは考えるほうがいい、一方で考えすぎで疲れちゃったら、また大変だ。だからちょうどいいくらいが一番なんだ。君は変になったんじゃない。今まで考えなかったことに触れ始めたんだよ。あるいは大人になったと言ってもいい」
彼女は、これまでとは違ったタイプの微笑みを浮かべて言った。
「……ありがとう。私、ウラノくんに会えてよかったよ」
「それじゃまるで、永遠のお別れみたいだ」ウラノが笑った。
「でもそうじゃないでしょ?」
「うん。そうじゃない」
騒動が落ち着き、ウラノが街を去った後も、アンリはしばらく落ち込んだ様子だった。やがて他人にも笑顔を見せるようになった一方で、もうこれまでのように、いつも元気に振舞うような少女ではなくなっていた。しかし、そういった彼女の変化を、単純に「暗くなった」と評する人間は、一人もいなかった。自分の、暗い部分に目を向けることを始めた彼女は、ある意味での美しささえ獲得しつつあった。無邪気な笑顔の代わりに、静かな微笑みを浮かべるようになった。しかし時には、下らないジョークで大笑いすることもあった。アンリの不思議な変化を、多くの人は成長であると捉えた。そしてそれが、雨の日の短い家出と、街から去っていったあの陰鬱な旅人の影響によるものであることを知る人は、少ない。
ウラノは、街を出発した。やはり雨は降り続いている。景色は灰色に染まっていて、冷たく濡れていた。なにかを一つ乗り越えたが、雨は結局止まなかった。彼はまだ晴れ間を見ていない。でも彼は、もう雨のことなんか気にしない。彼の中で、何かが変わった。ないことではなく、あるものについて、思いを馳せることができるようになっていた。雨か晴れかは、大切なことじゃない。
――これでいいんだ。僕はちゃんと掴んでいる。何も手放してはいない。
彼は雨のハイウェイを、古いレンタカーで走っていた。フロントガラスに生まれる水滴が、その数を減らし始めた。雨が弱まってきている。音楽が聴きたくなって、彼はカーラジオのスイッチを入れた。周波数の合わない、錆びついた音が車内に響いた。つまみを左右に振って、ポイントを探す。やがて音がクリアになる。女性の声がする。やれやれ、と彼は頭を振った。天気予報が放送されていた。
こればかりは、聞き続けるべきか迷ってしまう。
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