19. なんにせよ対決

 町から人が消えていた。ウラノの目につくところには、まったく人影が見られなかった。本当にそっくりそのまま、人間が一瞬にして消えさったはずはないので、きっと皆、どこか家の奥に忍び隠れているのだろう。彼はそんなふうに思った。たださきほどまでのように、窓や玄関先から、頭だけを覗かせてウラノを見張るようしていた人々は、確かにその姿を見せなくなっていた。

 町の中に充満していた、原始的な調理や、未開発な下水などの有機的なあれらの臭いもまた消えていた。ただ雨が地面を蒸らす、根源的な土の匂いが立ち込めている。だがその匂いの奥、どこかからかすかに流れてくる、彼の胃をむかつかせるひどい臭いがあった。それが鼻腔の奥くすぐるたびに、肺がひくついて、空の胃臓が大きくうねった。

 不思議なことに、ウラノはその臭いの方向性を見つけることができた。彼はまるで犬のように鼻をひくつかせて、より強い臭いがする方に頭を向けた。彼は惹きつけられるようにして、より臭う方に進んだ。彼は当然のようにして、町のよりみすぼらしい、より貧しい地域に進んでいくことになった。そしてどんどん臭いは強まっていった。

 ウラノは考えていた。――雨男協会が、確かに僕の行動を妨げるために、あるいは脅しとしての意味でアンリを攫ったのだとして、そういう直接的なことが、彼らにできるのだろうか。今までずっと、電話や夢をまるで魔法のように使って僕に語り掛けてきたけど、何一つ僕に触れるようなことはしてこなかった。それに、ミンも言っていた。彼女は、ふらりと自分で病院を出て行った。彼女は、死に触れてしまったのだ。昔からの友人のその死が、彼女を境界のこちら側に引き寄せたのではないだろうか。彼女は、その振る舞いから想像するほどに、明るく活発で、ある意味無思慮な女の子というわけではないのかもしれない。心の奥には、なにか暗いものを抱えている、そう考える方が自然な気がした。そしてそういうところにこそ、彼らの付け入るポイントがあったのではないだろうか。

 考えながら歩いているうちに、すっかり臭いが消えていることに彼は気が付いた。そして自分が今、どこを歩いているのかも分からなくなっていた。薄暗い、人の気配のない町の中で、彼は途方に暮れていた。どこを歩いても同じ形の建物が立ち並んでいて、またそれらは空を全部同じ形に切り取っているから、もう全くの迷路にいるような状態だった。

 また空気の重さも、彼を苦しめた。雨は長らく彼と共にあったが、ここで彼が吸い込む空気は、いつもの湿った空気よりもはるかに重く、なにか別の粒子を含んでいる。それが彼の肺の内側にひっついて、呼吸を苦しくしていた。妙な頭痛さえ感じる。徐々に思考は曖昧になっていった。しかし、足は、何かに導かれるようにして、進んでいく。僕はどこに向かおうとしているのだろうか。ウラノにはそれは分からなかった。

 ついに彼は、行き止まりの、長く薄暗い路地に入り込んでしまった。ほとんど光が届いていない。だが、その路地の奥に何かがあるようにも見える。気になって彼はそこを歩き進んでみた。

 路地の奥には、薄汚れた小さなテントがあった。キャンプで用いられるような、ハイテクな化学繊維や軽い骨で作られたものではない。歪な形の太い木の枝を軸に、動物の皮、麻袋を裂いて広げたようなものが幕に使われている。

 テントの中から、著しく太った老人が現れた。頭は完全に禿げあがっていて、顔面のあらゆる皮膚がだらりと垂れ下がっていた。腹に溜まった脂肪のせいで身体全体が前に引っ張られていた。背骨が酷く前傾していて、それを支える力が弱いのか、歩く度に上半身がぼと大きく前後する。杖を突かない代わりに、手を前に突き出して、それをふらふらさせることでバランスをとっているようだった。

「やぁ、どうも、こんにちは」老人は言った。

「こんにちは」ウラノも返した。

 老人は、口からぽたぽたとよだれをこぼしながら言った。

「あんたここに来るっちゅうことは、まぁ、私も、聞かされておるから。あんたも、分かっているだろうし。じゃあ、ついてきなさいよ」

 言うと老人は、ウラノの横を通って、路地から通りの方に向かって歩き出した。ウラノが応じきれずに彼の背中を見続けていると、振り向いて、「置いていきますよ」と怒鳴った。

 老人は雨の中、傘も差さず、そして相変わらず手を前に突き出したおかしな歩き方で、ウラノを案内した。最初の挨拶以来、老人は口を開こうとしなかった。ウラノが何か質問をぶつけても、それに答えることはなかった。ただ歩き続けて、ときおり、苦しそうに咳をするだけだった。

 ゆっくりとしたペースで歩き続け、そして二人は町の外に出た。雨に濡れた荒野の上、湿った土の上を歩いて、いくつかのなだらかな丘を越えると、ウラノは、あの夢で見た、柵に囲われた町を見つけた。老人が鍵を開けて、二人は中に入った。町の中心部に向かう。今度こそ町は一人の人間もいない。建物のつくりや外観は、かなり古いもので、ウラノが覗いてみた限り全部の家の中は、何十年もの間に積もったものと思しい分厚い埃で覆われていた。

 二人は井戸の前に到着した。全ては、ウラノの夢の中で見た景色と同じだった。

 あの夢で起きたことがそのまま事実なら、この井戸の底には、あの痩せ細った男の死体があるのだろう。そしておそらくその人物は……。ウラノは井戸の底を覗いた。

 井戸の底は無限に闇が続いていた。つまり底は見えない。頭上から降る雨が、ウラノの差している傘から垂れて、井戸の中にだくだくと注ぎ続いている。ウラノはコインを一枚、中に放り投げた。一度壁にぶつかって、高い音を立てたが、以降コインが何かに当たる音はしなかった。もしかしたら、下で誰かがキャッチしたのかもしれない。

「あの――」そう言って振り返ったとき、硬い何かがウラノの顔を打った。鼻っ柱に熱い衝撃が走って、そして鈍い音と痛みが残る。傘を地面に落とした。涙をにじませながら目を開くと、老人が険しい顔つきで、火が入った鉄のように赤い頬を震わせながら、こちらを睨んでいた。手には木製の野球バットが握られている。

 ――お前も、父親といっしょに、みんなといっしょに、沈んでしまえ。

 老人が叫んだ。そしてバッドを大きく構えて、ウラノの頭を打った。 

 ウラノは両手を頭上で組んでそれを防いだ。そして器用に、老人からバットを奪い取った。腕には痛みが残るが、それはまったく致命的なものではない。

「あなたは、あの時のでぶだ。十八年前、僕の父をこの井戸に放り込んだ張本人だ。そうだろう」

 青年の言葉を聞いて、老人は、うくくと、卑屈に笑った。

「違う違う、そうじゃない。私が彼をあそこにいれたんじゃない。彼は自分で入っていったんだ。彼自身が望んでいたことだから、それには意味があった」

 老人は懐から、大きなナイフを取り出した。雨粒に濡れ始めたそれは、驚くほどに美しい輝きを見せた。老人はそれを繰り出した。先ほどまでの、歩くのにも手を使わなければいけない老人の動きとは思えない、すばやい動きだった。ウラノは抵抗することもできず、ただ後ろにどんどんと追いやられる。

「お前たち、アンリはどこにやったんだ」ウラノが叫んだ。

「わはは! あの娘も同じだ。あれも自分から井戸に入っていった」

 ウラノは奪い取ったバットで、老人の手を打った。鈍い音がして、老人はナイフを落とした。手の骨が折れているかもしれない。ウラノは殴打の感覚が、振動がバットから自分にも伝わってきているのを、気味悪く思った。

 老人は唸りながら言った。

「彼らだけじゃない。井戸の入るのは、お前も同じだ。そして私もそうだ。みんなが井戸に入るんだ。そしてみんな一緒に、つながるんだ」

 老人は突如、笑いだした。愉快なものを見たのでも、何かを皮肉るでもないその笑いは、ただ純粋な恍惚・よろこびを表現していた。自分は、幸せの極致にあるのだと言わんばかりだった。そして振り返って、彼はへこへこと変なふうに走り出した。ウラノを避けて井戸の前まで走ると、その石塀を乗り越えて自分から井戸の中に落ちていった。落ちていく間も、狂った笑い声が響き続けた。

 ウラノは駆け寄って、井戸の中を覗いた。老人が闇の中に落下して消える最後の瞬間を目で捉えることができたが、それきり、コインと同じように、彼が地面に到達したような音は聞こえなかった。不気味な笑い声が、聞こえなくなってもなお、ウラノの耳にこびりついたまま残った。

 雨がウラノの身体を濡らしていた。丸く切り取られた闇は、その縁を井戸の内壁に伝って拡散させていた。領域は曖昧になっているが、確かにここが入り口になっていた。

 ――僕はいかなくてはならない。そうウラノは思った。

 井戸の縁に腰かけた。手足を壁に突っ張らせながらやれば、ゆっくり降りていけそうだった。冷たく湿った井戸の石壁に力を込めて、ウラノは井戸を降りていった。雨が強まった。まるでウラノを奈落へ叩き落そうとせんばかりに、雨は彼を打った。徐々に闇の領分を増していく井戸の中で、ウラノは考えた。

 この先で、井戸の底で僕は、何に出会うんだろうか。あの悪魔か、それとも、呪われた父親の魂か。なんにせよ対決なんだろう。変えるために、僕は何かと対決しなくちゃいけないんだ。

 突然、壁が消えた。ウラノは手足を滅茶苦茶に振り回したが、それはどこにも引っかからなかった。そうして彼は、井戸の底に向けて、真っ逆さまに落ちていった。

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