18. それはなんとも素敵なことではないですか
ジョージはロメオの死を感じ取っていた。井戸の底で全ての雨男と接続している彼にとって、遠く離れた土地で起きたことを知るのは難しいことではない。静かに、膝を抱えて、彼は人生の目的を果たして、そして死に至りつつあった。
身体の感覚はなくなっていた。ただまだ残っているというものだけが、ぼんやりと感じ取れるのみだった。そのことについて、悲しいとか、寂しいとかいう気持ちを浮かべることもなかった。全てを果たした彼が今思うのは、家族のことだけだった。地獄のような憤怒が、意趣返しによって発散させられた今、彼に残るのは、あの小さな町で自分の帰りを待っているであろう息子と、身勝手な夫に失望している妻のことだった。
――これから、オレなしで彼女たちは生きていくんだろうか。それは難しいことかもしれないな。だが彼女らには、家族がいる。トムや両親がミシェルたちを支えてくれるだろう。オレはここで、ゆっくりと死んでいくだけだ。
そう思い切ったら、ぐっと意識が沈んだ。井戸の深さとは別の次元の深みだった。その深みに潜れば、もう誰も浮かび上がってくることはできない。そして、生きるもの全てが、そこに帰ることを自然によって約束させられている。
彼が至る、その最後のぎりぎりのところで、呼び止める声があった。その声には、根源的ではなくとも、一時的に終りを延期させるだけの力があった。
「この度は誠におめでとうございます。サンダンス様の悲願が果たされたことは、私にとっても喜ばしいことでございます」
ジョージには、もう言葉を返す力は残っていなかった。お構いなしに、声は続いた。
「雨男協会の新たなる礎として、サンダンス様がここにおられることは、私どもにとっても大変な名誉でございます。あなた様の命が終わることになろうとも、我々は、これからは常に一緒にあるのです」
――それはどういう意味なんだろう。ジョージはぼんやりとそんなことを考えた。
「わかりやすい表現に直すなら、あなた様は本物の雨男、すなわち『名誉雨男』に選ばれたわけでございます。雨男は雨男たるままで死に至るとき、永遠の雨男として存在を残し続けます。魂は永遠に肉体にとどまり続け、そして生命が終わったその肉体は、木乃伊と化し、私どもの聖遺物として、こちらもまた永遠に井戸の底で鎮座することになるのです」声が答える。
――そんなことは頼んでもいない。
「ええ、でもそうさせていただきます。どうせあなた様の身体は、ここで朽ちていく他ないのですから」
じゃあしょうがないな。ジョージには、ほとんど思考の力は残っていなかった。
「はい。それでは確かに、サンダンス様の身体は私どもが責任をもって守らしていただきます」
声はそれだけでは終わらなかった。
「それと、あともう一つお話がございます」
「私どもの調査によりますと、どうやらサンダンス様には、ご子息がおられるようですな。ああ、なんとおっしゃいましたか。あの子の名前は」
彼は、息子の名前を応えようとした。だがジョージの心に、そのどこかに残っていた何かが、声の主に息子の名前を教えるのを妨げようとした。ぎりぎりに現れたその抵抗力が、音声ではなく、もはや思念のみで会話しているジョージの、言葉の想起を中止させた。
「サンダンス様、ご子息のお名前は何とおっしゃいましたでしょうか」悪魔が笑った。悪魔は知っていた。ジョージがもはや後戻りのできない場所にきて、それを後悔していることを知っていながら、事を運んでいた。まるでイノセントな態度で。
答えない、ということはできなかった。もうどうにもならなかった。ジョージの意思や願望とは関係のないところで、彼についての裁定が行われる段階にまでことは進んでいたのである。大きな流れは、彼を一つのどん詰まり、ある澱みに導いていた。
――リチャード・サンダンス。彼は答えた。
「ああ、そうでした。リチャード様。いや、勝手なことをして、そのことはお詫び申し上げます。で、そのご子息のことなのですが、どうでございましょう。もしサンダンス様が同意していただけるならば、私ども雨男協会が、ご子息のお世話をして差し上げることができます。サンダンス様の、雨男協会への貢献が大変なものでございましたから、私どもとしてもその恩返しとして、ご子息には手厚いサポートを考えております。おそらく彼が、寿命を終えるまで、十分に暮らせるだけの資金を定期的に提供したりなどができます。かなり、よいものになると」
ジョージはその申し出を、断ろうと考えた。自分の肉体や魂が彼らにないがしろにされることには、もはや何の関心もなかったが、息子や妻にまで負が及ぶ可能性があるとなると、彼はそれを認めるわけにはいかなかった。確かに声の言い分は聞こえのいいものだが、この存在が、そしてあれが、生きているものに、世界をどういうつもりであれ肯定的に進んでいこうとするものたちに対し、なんの貢献もできない、あるいはそういったものをすべて打ち壊していくことしている意志の集まりだと知っている。どんな言葉で取り繕うともそれらが邪悪なものであること知っているジョージは、家族とそれらを結び付けたいと思うはずかなかった。残った家族には、もう自分の呪われた人生とは、もうこのいかれたものごとから、関係のない場所で生きて欲しいと思った。だが、この執拗な、雨男協会と名乗る邪悪な何かが、決して彼らを逃さないことも同時にして分かっていた。もうここで、言葉の上だけでも反抗することになんの意味もないことも。
つまりジョージは、人生の最後において、本当の絶望に陥っていた。
「ですが、ただ一つ条件がございまして、それがご子息にも、雨男協会に会員として参加していただく必要があるのです。もちろん、サンダンス様の場合となにも変わりはありません。ただ雨男としてあるだけで、十分にその条件を満たしていただけます」
彼の肉体と精神が、まとも機能している頃であれば、悪魔の提案を打ち棄て、罵倒の一つや二つを投げかけることもできただろう。きっと身体は震え、涙が出て、噴き出す感情に身を悶えさせる、とても人間的な振る舞いができただろう。だが今の彼にあるのは、彼の中で何かを決定できるだけの力をもつのは、冬の乾いた、凍り付くような心の痛みと、今この時間をさっさと終わらせたい。もう死んでしまいという思いだけだった。やはり彼は、雨男だった。
「親子そろって、雨男。父の魂の在り方を息子が継承するわけでございます。それはなんとも素敵なことではないですか」
「それでは、契約の成立ということでよろしいですかな?」
ジョージは答えない。
「契約は成立でよろしいですかな?」
――よろしい。成立だ。彼はそれを認めた。何かが終わる。そう感じた。
「ああよかった。それでは後のことは私どもにお任せください。そしてこれからの、無限の時間をどうぞお楽しみください。ただここにあるだけで価値のある存在に、あなたは成りました。普通の人間ではそうはいかないでしょう。私は、心からあなた様のことを尊敬いたします。では、また何かの機会があれば、お会いしましょう」
声が消えた。
そして、最後に彼の身体に残っていたはずの、自分があるという感覚も、線香が燃え尽きるようにして、消えてなくなった。こうして、ジョージ・サンダンスは死んだ。
だがジョージの魂は、悪魔が宣言していた通りに彼の、もう腐らなくなった死体の中に留まり続け、その自我は他の多数の死者たちのように消え去ることもなく、井戸の底に縛られつづけることになった。彼はもう、誰の言葉を聞くこともなければ、誰かと話をすることもない。全ては彼の招いたことだった。
彼は自分の呪いを、息子に継承してしまったことを悔いた。だがその悲しみも、悔恨も、それらはどんな形であれ、どこにも表出されることも、認識されることもないままに、井戸の底で滞留していた。
滅びた町の、乾いた井戸の底に、一個の人間の木乃伊が膝を抱えて座っている。
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