14. 本物の雨男
「はい、はい。おつかれさん」宿店主がジョージに語り掛けた。
――まぁ、まずは一杯やんなよ……。彼はそう言って酒瓶を手渡す。
ジョージはそれを一口飲んでから、胃の焼ける痛みに唸った。そして、涙も出ないほどに乾いた目で、宿店主の隣にいる奇妙な存在を見つめた。
それは、大体においては、人間の形をしていた。青白い肌のせむし男で、背丈はそれほどだが、頭が著しく大きい。黒いタートルネックのセーターを着ていて、全く似合っていなかった。ところどころ毛がほつれていて、小さなごみが目立ってくっついている。その怪異な存在には服飾の概念がみじんも適応しないのだということを、セーターが明らかにしている。そして何よりの特徴というのが、大きなその頭である。それはうらなりのきゅうりのような、ひん曲がった形をしていた。小さな目玉は、じっとジョージを見つめている。巨大な口からよだれが垂れて、地面に落ちた。
「こちらが例の……」宿店主は、彼の精いっぱいの畏敬を込めた態度で恭しく呟いた。それだけで、この「何か」が、これまでの怪人たちとはかなり意味の違った存在であることが分かる。あの「夫人」や「男爵」とは違って、このうらなりには、超人間的なものがあった。それは宿店主の態度からも示されているし、もちろんそれ自身が放つ気配が、語っていることでもあった。
うらなりの口は、ちょっとした小動物、例えばうさぎや子犬などなら、簡単に一口で飲み込めるくらい大きい。そしてそこには、歪な配列の大きな歯がはちゃめちゃな方向に突き出していて、口を完全に閉じることができないようになっている。その汚らわしい空洞からは、絶えずよだれの糸が垂れていた。それが、ゆっくりと、つつつ、と登っていって、そして口の中に収まったとき、うらなりは話し出した。幼い子供に、あるいは難聴の老人に語り掛けるように。
「はじめましてこんにちは、サンダンス様。この者から、あなた様のお話よく聞いております。私は雨男協会から参りました、オカクラと申します。あなた様にお目にかかれて光栄でございます。私ども雨男協会は、あなた様のような、救われない方々が集まってできた、相互的で、やさしい組織でございます。もちろん私どもは、金だとか、身体だとか、あるいはしみったれた怪談の類のように魂だとかいうものを要求することは決してありません。私どもは、ただ一緒にいるだけで、その意味が成立するものどもなのです。一つの正しさのあり方として、私どもは、あるのでございます。」
そのやけに丁寧な話し方と、甲高い老人のような声で、オカクラと名乗る怪物は言った。それは人間の形を模しているだけで、まったく明らかに人間ではなかった。
ジョージは、今にも倒れそうなくらいに疲弊していた。身体に詰め込まれた不自然な・不適合な・邪悪なものが、内側から彼の生命をじわじわ蝕んでいる。身体の不調を示すあらゆる信号が、全身に現れていた。オカクラの奇怪な風貌も、もうそんなに気にはならない。あらゆる論理的思考は、物質としての肉体のこれ以上ない不調のせいで、建築された傍から解体されていた。
でぶの宿店主が、ジョージの肩を助けた。壁に手をついて、反対の腕を宿店主に支えられて、なんとか彼は斜めになりながらも立つことができる。
「サンダンス様は、誠実にこの男の言う事をお聞きになって、ここまでいらっしゃいました。それは大変誉れ高いことでございます。あなた様には、本物の雨男になる資格があるのです。それは私どもにとって、とても喜ばしいことでございます。もうあと少しでございます。あなた様の悲願成就と、新たなる雨男の誕生、そして雨男協会の更なる躍進、全てが一斉に為されようとしております。これは歴史の一歩でございます。総体としての雨男協会は、更にその存在を大きく致します。サンダンス様の貢献あっての進歩でございます。今日はここには、私は、お礼に参上いたしました」
ジョージが何かを言ったが、それはもう意味を持たない、ただの音声だった。人間の会話の形式をなんとなく覚えている脳髄が、それを実現しようとして反射的に行った声帯の振動に過ぎず、そしてジョージには、もうまともな理解は存在しない。
――かなり弱ってらっしゃるようだ。オカクラはそう言うと、自分の顔を、シミと皮膚病的斑紋だらけの大きな手で、ぐにゅぐにゅ揉みしごき始めた。常に半開きになっている口から漏れ出す唾液で、オカクラの顔面は汚く濡れてゆく。顔中をぬるぬるにしながら、うぷ、あぷと苦しそうな息を続けた。そしてオカクラが手を止めたとき、それの大きな頭が、ずるりと首から滑り落ちて、地面に落ちて重い音を立てた。
ぎょっとして、宿店主は息を呑んだ。ジョージも、曖昧な意識の中であるものの、目の前の怪現象に表情を変える。
オカクラの頭が、ロメオ・ネグリのものに差し代わっていた。オカクラの、醜いせむし男の身体の上に、ロメオの薄ら笑いが乗っかっている。「うっ」と宿店主は、短い悲鳴を漏らした。
突如として、ジョージが発狂者の唸り声をあげて暴れはじめた。どうやらオカクラに掴みかかろうとしているようだが、宿店主がそれを妨げるのと、また彼の身体機能が著しく低下しているのもあって、目的自体はなにも達成されなかった。ただ彼の中の、井戸の底から、どす黒いものがいきおいよく噴き出して、辺りをめちゃめちゃにしてしまうだけだった。そして、それが悪魔の目的でもあった。
――はい。はい。大変よろしいことでございます。
オカクラはそう言うと、足元に落ちているうらなりの頭を拾い直して、ヘルメットのようにして、すっぽりとかぶり直した。一度身体をぶるりと震わせると、頭と首のところが急速に癒着を始めた。やがて頭が身体に馴染むと、その大きな口元から、よだれが再び垂れ落ち始めた。宿店主に搾り上げられているジョージのそばに近づくと、オカクラはどこからか取り出した針と麻糸で、彼の口を閉じて縫い合わせ始めた。ジョージは力なく抵抗したが、結局、ぴったりと口は閉じられてしまった。穴のあいた唇から、どろりと、少しばかりの血が出た。
「目も、目もいけませんね。それも邪魔でしょうな」
次には瞼が縫い合わされた。ジョージはもう抵抗もしなかった。痛みはどこか遠くに押しやられてしまっていて、ほとんど感じるほどにもならなくなっている。言葉と、映像を失われた彼は、怪物の声を聞いた。
「耳と鼻は残させていただきます。鼻は呼吸のため、耳を残すのは、つまり音と闇というのは、想像を掻き立てるのにとても良い組み合わせになるからです」
オカクラは針と糸をしまうと、目の見えない男に対して深く一礼をした。そして言う。
「それでは、サンダンス様。次に会う時を楽しみにお待ちしております。あなた様は必ずや、井戸の底にいらっしゃることでしょう。その時には、我々の目的が達成され、あなたは本物の雨男になるのでございます。それはとても素晴らしいことなのでございます。では、井戸の底でお待ちしております。深くて暗い、みんなが一緒にいるあの場所でございます。ではさようなら」
足音もなにもなかったが、悪魔が消え去ったことが、ジョージには分かった。熱く籠った、空気の流れる音と、宿店主の荒い呼吸の音が聞こえた。
宿店主がジョージを引っ張って言った。「今から、井戸に行くよ」ジョージは答えない。その術を彼はもう失っている。ほとんど宿店主引きずられるようにして、彼は歩き出した。
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