11. 現代によみがえる呪い大全

 二人がコーヒーを飲み終えたころ、カフェの隅にあった黒電話が鳴った。静かな時間を切り裂く警笛のような音だった。ミンが立ち上がって、受話器を取った。「もしもし」彼はなにも聞かなかった。通話が終了していた。

「切れていた。たぶんいたずらだろう」ミンが席に戻ったとき、再びベルが鳴った。もう一度店主がそれを取ったが、やはりまたもや、通話は切れていた。

 同じ事がもう一回起こった。そろそろカフェの店主は、苛立ちを見せ始めていた。そして四度目のベルがなったとき、ウラノは言った。

「僕が出てみよう」

 青年は受話器を耳に当てて、応答した。「もしもし」

 今度の通話は切れている様子ではなかった。空気の流れの小さな音が、受話器の向こうに確かに聞こえてた。相手は沈黙を保っているらしい。

「どちらさま? いたずらなら、切りますが」ウラノがそう言うと、微かな音だが、かちっ、と何かスイッチを入れるような音が聞こえた。誰かいる。そしてこれはいたずらなんかじゃない。ウラノはそう直感していた。

「おはようございます。こちらは、雨男協会です」機械的な録音音声が流れ出した。

「リチャード・ウラノさまへの、反協会的行為の告発が、行われました。一週間以内の、協会事務局への、出頭を、要請します」

「僕はそんなところには行かない」

「一週間以内の、協会事務局への、出頭を、要請します」

「行かない」

「一週間以内の、協会事務局への、出頭を、要請します」

 ウラノは電話を切った。すると即座に追いかけて電話がかかってきた。それを取ると、再び、機械的な音声が続いた。

「一週間以内の、協会事務局への、出頭が、確認されない場合、リチャード・ウラノさまの、自由協会員の資格が、剥奪、されます。ご注意ください。……雨男協会からの、お知らせでした。どうぞお電話をお切りください。どうぞお電話をお切りください。どうぞ――」

 受話器を下ろした。今度こそ、電話は鳴らなかった。

「いったい誰だったんだ? なんの電話だ」ミンが尋ねた。

「僕にも分からない。でも、僕が雨を終わらせようとしているのを、快く思っていない何かがあるらしいんです」

「何者だ」

「それも分からない。曖昧な話だけど、どうやら彼らは、人間ではないものが関わっているかもしれない。僕はなんとなくそう踏んでいます」

 しばらく間をおいて、ミンが言った。

「複数で、なおかつ、人間でないものが含まれている」

「そうです」

「まったく、お前がなにと戦っているんだか、俺には皆目わからんな」呆れた様子で、ミンは最後の一口を飲んだ。


 ミンは長らくカフェの経営をしながら、同時にサンタウンに古代から残っている太陽信仰の、その中核的宗教組織の幹部を務めていた。かつてはサンタウンに住む人々のほとんどがその信仰を守って生きていたが、歴史的な経緯の中で信者は減っていって、今では五十人ほどのごく小規模なものになっていた。親の信仰を継ぐものと継がないものがいて、後者の方が多かった。それは世界中で見れば珍しいことでもなかったし、長年減少傾向にあったこの街の古代信仰の名残が、いずれ消えてなくなることを、ミンは承知している。

 彼は保守的で、伝統を重んじ、表には出さないもののかなり排外的な思想をもっていたが、同時に現実主義者でもあった。ミンの家系は、曾祖父の代にサンタウンに流れ着き、そこで新たな信仰を受け入れるという形を以て、彼らは太陽女神を崇めるようになった。衰退しつつあったこの土着宗教は、とある信仰の中核を除いて、ほとんどの伝統を失いつつあったのだが、ミンの祖父が礼拝や信仰の表現を、古代の文献を調査することで復古的に定式化した。祖父は信仰心に基づいた、つまり恣意性をできるだけ排除した教義を再編纂し、よそ者の家系ながら、信者の間で大いに信頼を得るようになった。そうして再構成された組織は祖父の指導の下に、その宗教らしさを取り戻していった。しかし時勢は信仰と人を結びつける流れにはなかった。ミンが物心つく頃には、ますます信者は減少していたし、そもそも彼の両親自体、信仰を捨て、彼を街に置いていった。そしてまた、ミンと同世代の友人であったアンリの両親も、生まれたばかりの彼女を残して、街を去っていった。ミンは信仰を意識する頃から、自分の大切なものは大きな流れのなかに埋もれて消えていくものだということを知っていたのである。やがて祖父は、いくらかの財産とこのカフェ、そして宗教的情熱を孫に残してこの世を去った。

 端的に表現して、ミンの使命とは消えてなくなるその日まで、この信仰を守り続けることだった。他の多くの宗教と違って、彼は彼の信仰体系がいつかなくなってしまうことを受け入れていたし、そしてその小さな宗教組織は、新たな信者の獲得よりも、穏やかで精神的に満ち足りた信仰生活を保持することにしか興味がなかった。その緩やかで、それほどの悲劇性を持たない一個の宗教の終りは、かなり近くまで来ていた。おそらく次世代、ミンには家族も、もちろん子供もいなかったが、たとえばアンリのような世代がメインとなる時期には、信仰組織は事実上の崩壊を迎えるだろうとミンは予測していた。

 彼のその達観したような認識は信仰にも関係していた。運命をあるがままとして受け入れるのが彼らの宗教的精神態度の一つだった。義務は最低限のもので、努力を示す程度だった。その宗教としては比較的薄弱な在り方さえも、彼の祖父は厳格にその教義を甦らせた。だから、無理な頑張りが、宗教的でない形で共同体に現れたとしても、教義がその義務程度を低下させることが、しばしばあった。

 そんな中でも、ミンは信仰を阻害するものについては強力に対抗した。あるがままを支持する信仰のもと、彼の徹底した保守的行為はある種の背信にもあたった。しかし信仰を失うこと、減ることは構わなくとも、損なわせることだけは、ミンは決してそれを許さなかった。歴史の流れの中に身を置くことができた宗教において、その原義を見失った宗教的活動はえてして行われることになる。彼においてもそうだった。それでも、彼が信仰損失の危機を認めることは滅多になかった。田舎町の弱小宗教を目の敵にするような存在は世界中どこを探してもいなかったし、彼らはあえて敵を作るようなことをする人々でもなかったから、ミンがいくら神経質になろうとも、実際の危険が訪れることはなかった。そうして緩やかに信仰は、衰退していったのである。


「それでは、そろそろ行くとしよう」ミンは立ち上がった。

 雨はやはり降り続いていた。カフェの中の空気もどこかぺったりとした触り心地をしている。

「ついてくるんだ」そう言ってミンは裏に入っていった。ウラノもまたそれについて行く。

 カウンターの奥は雑多な物置になっていた。それでも、カフェのホールよりは広い。たくさんのコーヒー豆の袋や、大きな冷蔵庫。予備の食器、ちょっとした調理ができるようなコンロなんかもあった。そして、その部屋の一角には、アルミでできた安っぽいドアがある。

 それを開けると、外に繋がっていた。建物と建物のすきま、路地裏のような場所だったが、頭上には粗末だが屋根が設けられていて、雨は滴り落ちるものの頭からそれを被らずには済むようになっている。道は狭く薄暗い。地面は土むき出しで、空気と同じように雨の湿気に当てられている。そしてその路地は不思議なことに、他の道とはまったく接続していなかった。建物が出来上がっていくなかで、たまたまこの場所だけという、ぽっかりとした空白を生んでしまったかのようだった。路地というより幅二メートル、長さ十数メートルの方形の空間が、建物の壁で囲まれた形にあるといった方が近い。

 二人はその方形の端から端までを歩いた。路地に面する建物はだいたい五つだったが、それぞれが路地に入り込むためのドアを取り付けていた。

 路地の端につくと、そこにはやはり、薄汚いアルミドアがあった。ウラノには、この奥に何か秘密のものがあるとは到底思えなかった。何十年も開かれることがなく、みんなから忘れ去られているようなドアにしか見えなかった。

 ミンはそのドアを開けた。奥は昇りの階段になっているらしい。二人はそこに入っていった。

「どこに行くんですか?」ウラノは訊ねた。

「お前の呪いについて、何か知ってそうな人に尋ねに行く」

「それは、あなたが言っていた宗教的な預言とか、祈祷とかってものとも関係がある人ですよね」

「勿論そうだ。そもそも、今我々がいる建物自体が、信仰を持つ者しか入ってはいけない決まりになっている。この建物は、外の街道とは面していない。さっきの路地からでなくては入れないようになっている。つまり、信者しか来ない場所だ」ミンはあっさりとそんなことを言った。

「それって、大丈夫なんですか。僕は信者でもないし、これから信仰を持つつもりもありません」

「問題はない。我々には教義もあるし、規則もあるが、基本的には、常に例外は起こり得るものだという態度で生きている。現実を信仰で縛ることが、時にとてつもない不幸を招くことがあることを、古代の信仰者たちは知っていたらしい。まったくお利口なことだ」

「そんなことで、宗教としての体面が保てるんですか?」

「宗教としての体面を保つ必要はない。我々には聖地を脅かそうとする他集団もいないし、宗教的教義ゆえに対立するような相手もいない。政治的権力との結びつきもなければ、それを必要とする環境にさえない。全ては結局、我々の内部で完結する物語になっている。だから、体面なんてものはいらない。個人が信仰を持つ限り、個人にとってその信仰が特別なもので在り続けるだけだ。他の人間は、同じ信者でも干渉することは滅多にない。私個人としては、表面的な態度も気にするほうだが、それでも、絶対的に順守すべき法は、我々にはほとんど存在しない。それはだいたいの形として、国家が作り出した法律や、信仰とは関係なしに形成される人間社会の道徳観念と一致するものだから、改めて何か始めるということは、まずないのだ」

「それじゃあ、あなた方は何を理由に信仰を続けるんですか? そんなにも束縛のない宗教にどういう意味があるんですか?」

「意味はない。信仰はただあるだけだ。だから、信仰以上に、『人生の意味』みたいなものに重みがあると、そう思い込んだ人間たちはここを去っていく。アンリの両親がそうだった。追う者はない。そしてあるいは、稀にだが、どこからか流れ着いた人間が住みついて信仰を持つことがある。その時は、誰も拒んだりしない。私の爺さんの爺さんがそうだった」

「じゃあ、あなたはどうして、信仰を保ち続けるんですか?」ウラノが言った。

「さっき言った。理由や意味はない」特に無感情な風に、ミンは答えた。

「ただ信じるだけ? それが信仰なんですか? 僕には分からない。信じていたって、信じていなくたってなにも変わらない生活を送るだけなのに、信じる方を選んだ。なんとなくということですか? あなたにだって、かつて昔の頃かもしれないけど、選択を抱えたときがあったんじゃないですか?」

「まったく、さっきから質問ばかりで、遠慮ないやつだな。自分でちょっとは想像してみろ」ミンはうっとおしそうに言った。階段はまだしばらく続きそうだった。

「……たとえば、幼少のころから、洗脳されているとか」

 ミンが大きなため息をついた。「ロクなことを考えないなお前。まあ、いい。お前がそう思うのなら、それでもかまわん。信仰は結局私の中にしかない。そういうことでしかない」

 ウラノには、さっぱり理解できなかった。

 階段が終わった。最上階の部屋のドアベルをミンが押した。どこにでもあるような音が鳴ったあと、ドアを内側から開けたのはアンリだった。

「あ、ウラノくんじゃん! あれ? どうして?」彼女が驚いていた。それについては、ウラノも同じだった。

「君こそ、なんでここに」ウラノが目を丸くしながら尋ねた。

 アンリもよく似たような表情で答えた。

「ここは私の家だけど」

 二人はミンの顔を見た。彼だけがこの三人がここに揃っている理由を知っている。

「ハルさんはもう起きているね? 彼女に会いたいのだが」ミンは言った。

「起きてるよ。……でもウラノくんに会わせるの?」

「ちょっと用事があってね。上がらせてもらってもいいかな?」ウラノに向けるものよりもずっと柔らかな声色で男は言った。

 少女が頷くと、二人は部屋に入った。

 中はごく一般的な家庭だった。人間が屋根のあるひとところに住み始めて、どうしても必要なものがあれば一つ一つ買い足すかなにかして、家に物が増えていく。そうして出来上がった、人間の生活の空間だった。それらの家具の中には、固有の信仰を示すようなものは一切なかった。

 ドアが半開きになっている部屋があった。なんだろうとウラノがちょっと目をやると、アンリが飛んできた。

「この部屋は絶対に見ちゃダメ!」顔を真っ赤にして怒鳴った。

 突然のことで、ウラノは面食らった。

「え、あ。ご、ごめん」なぜかウラノの方も恥ずかしそうに顔を赤らめた。

「人の家できょろきょろするもんじゃない」ミンが短く言った。

 リビングにある一人掛けのグリーンのソファには、たくさんのブランケットが積まれていた。その向かいにかなり古そうな型のテレビがあって、お昼の天気予報を流している。しばらくは雨が続くと、予報は伝えていた。

 ミンが勝手知ったる様子で椅子を二つ、どこからか持ち出してきた。一つに腰かけ、もう一つをウラノに促した。青年は言われるがままにそこに座った。

 ウラノは椅子に座って、目線が下がったときに、毛布が積まれているだけのソファに、実は人が座っていることに気が付いた。とても小さい、まるで子供のような人だった。いくつもの毛布に包まれていて、頭だけがひょっこり出ている。それは老婆だった。目は開いているのか開いていないのか分からない。テレビを観ているようで、見ていないようでもある。ただとにかく、とても長い時間を生きてきたひとであるというのだけが、ウラノにもはっきり分かった。

「この人が、我々の長老で、アンリの祖母の、ハルさんだ」ミンがウラノに言った。

 アンリが老婆のそばに屈んで言った。――おばあちゃん、お客さんだよ。ミンさんと、この人はウラノくん。

 ハルの目が少し開いた。ミンが言った。

「こんにちは。ハルさん。お元気にしてらっしゃいますか」

 老婆はそれに軽い頷きを以て応えると、青年の方を見た。ミンが彼の脇腹を小突いた。

「あっ、あの、僕はウラノと言います。リチャード・ウラノです」

 ハルはじっとウラノの目を見つめていた。その表情は悲しげなようでもあるし、あるいは何か怒っているようでもあった。ただウラノの方は、その見通すような目つきを、少し恐ろしいと思った。この人には、僕の何かが見えているのだろうか。

 やがてハルは目を閉じた。そして、ウラノが想像していたよりもずっと大きくて張りのある声で言った。

「わしゃ、なんにも知らん。この坊ちゃんのことは、なんにもわからん」

 最も大きな反応を示したのはミンだった。

「ハルさん、こいつが雨を連れ込んできてるんです。この間の祈祷だって一日と持たなかったでしょう。こいつの呪いを解いてやらなきゃならんのです」

「そうは言っても、分からんもんは分からん。雨もなぁんも、知らん」

 ミンとウラノは、はしごを外されたような顔をしていた。アンリには至っては会話の意味の全てが分からない。

「わしにも、分からんもんはある。この子のことは知らん。なんも言えん。呪いも知らん。ずぅーっと昔、わしの爺さんのころなら、たまに呪いなんやいうこともあったらしいが、わしの時代にはそんなもんは、なくなっとった」

 老婆は大きくあくびをして、目を閉じた。死んだのと区別つかない見かけになったが、耳をすませば、本当に小さな寝息が聞こえた。

「僕はどうすればいいんでしょうか」ウラノが言った。ミンは「俺にもわからん」と吐き捨てた。

 静かな時間が過ぎていった。テレビの音と、雨の音、そして小さな老婆の寝息。アンリが口を開いた。「ねぇ。――二人は、何をしているの?」

 それにはウラノが答えた。

「今降っている雨はね。僕が呼び込んだものなんだよ。僕は雨男なんだ。僕がいる場所には、必ず雨が降り続けるように、そんなふうに僕は呪われてるんだ。それを終わらせる手伝いを、ミンさんにはしてもらっている」

 深く息を吐きだして、ミンがウラノを見た。

「悪いが、さっそく手詰まりだ。我々に何かできることは、今のところない。彼女の知識だけが頼りだった」

 この事実について、自分でも意外なように思えたが、ウラノはまったく絶望しなかった。他の人間、ミンが予想していたような、あからさまな落胆を見せることもなかった。それはつまり、彼がもう、雨を終わらせる気でいたからだった。まったく手掛かりがなくとも、方策がわからずとも、彼は人生のこれからの時間を、雨を終わらせることにかけるつもりだった。それはいつからだろうか。夢の中で悪魔と対峙したときか、ライダーと最後の会話をしたときか、あるいはこの街にやって来たときなのか。とにかくもう彼には、雨について絶望するということはなかった。呪いに抗うという、今まで、全く考えもしなかったその転換を獲得したこと自体が、既に彼にとって、革命だった。

「もう少し、自分でなにかできることがないか考えてみます」ウラノはミンに言った。

 アンリとハルの家を去ったあと、ウラノは雨の中を歩いて図書館へ向かった。雨はまだまだ続いていた。それは一定の雨量保ち続けたまま、彼の世界を湿らせ続けている。雨そのものが、彼に語りかけてきているようでもあった。

 ――無茶はよせ。お前の運命の、あるがままを受け入れるんだ。

 声が聞こえた気がした。もちろん傍には誰もいないし、それは全て自分の内から発せられたものであることを、彼は知っている。

 ウラノは自分の心に対して、ちゃんと応答した。

 ――ちょっとした、気まぐれのようなものでも、僕がそうすべきだと思えるものが、僕の中に生まれたんだ。たとえ間違いだったとしても、少しの間、僕はこれを信じて生きていたいと思う。

 相変わらず雨は降り続けていたが、世界は、それほどまでに暗くはない。そんな風に彼は思った。


 ウラノが、図書館でグレゴリー・マンの伝記を書庫から出してもらうことを頼んだとき、司書の男は少し戸惑った表情を浮かべた。

「申し訳ありませんが、現在、その本を提供することができません」彼はそう言った。ウラノが何か尋ねる前に、司書は続けた。

「昨日の閉館時には確かに書庫にあったのですが、なぜか今朝から、館内のどこにも、あの本がないのです。どうやら私どもの手違いで、紛失してしまったようで……」司書は本当に困ったような顔をしていた。誰に言うでもなく、小さな声で、「こんなことは、普通あり得ないことなのですが」と付け足した。

 グレゴリー・マンの伝記の代わりに、ウラノは古代の呪いについて書かれた本がないか尋ねた。司書は名誉挽回とばかりに、嬉しそうな顔で「ございます」と言った。

「ただ、『呪い』と言っても少し分野が広すぎて、書籍は膨大な数に……もう少し限定されたテーマであれば、適したものを提供させていただきますが」

「じゃあ、さらに、雨に関係するものはなにかありますか」ウラノがそう訊くと、「少々お待ち下さい」と司書は書庫に向かった。

 『降雨祈祷の歴史』と『現代によみがえる呪い大全』という二冊を持って司書は戻ってきた。ウラノは礼を言って、いつもの席でそれらをめくってみた。だがどちらもが、彼の呪いと関係するような内容のものはなかった。『呪い大全』は、趣としてかなりユニークな性質のもので、暇つぶし以外の実用性を持たなかった。だが『降雨祈祷』のほうは内容としてははるかに退屈で、こちらは暇つぶしにもうまく機能するのか不明だった。

 退屈に意識を追いやられて、ウラノが本から目をあげると、向かいの席にアンリが座っていた。いつの間に来たのだろう。彼はなぜかちょっと嬉しかった。

 彼女は歯を見せないで笑うと、小さく手を振った。ウラノも、目配せをして応じた。彼女は身を乗り出して、抑えた声でもウラノに届くようにしてから、言った。

「ウラノくんがこの雨を降らせてるって、どういうことなの?」

「さっき説明した通りだよ。僕には呪いがかけられているんだ。それがどういうものなのか、僕自身にもさっぱり分からないけど、ただ雨が止まない。それをなんとか、終わらせようとしている」

「それがウラノくんの秘密?」

「秘密にしてるわけじゃないけどね。ただそういうものが、僕の人生に長い間、くっついてきている」

「――そう」

 アンリは呟くと、じれったく青年の顔を見つめた。何か言おうとしていた。ウラノは言葉を待った。

「……私の秘密、聞きたい?」

 ウラノは少し考えてから答えた。

「そうだね。僕の秘密を教えちゃったから、代わりに君のも教えてもらおうかな。おあいこに、フェアにいこう」

「だよね。おあいこに、じゃないとフェアじゃないもんね」

 口に溜まってもいない唾を、ごくりと飲み込んで、彼女は息を吸った。それから思い切ったように、しかしとても小さな声で囁くように言った。

「私は、巫女なんだよ」

 ウラノは面白そうに繰り返した。「へぇ、巫女」

「ほんとなんだから、笑わないでよね」ちょっと恥ずかしげに、少女が頬を染める。

「巫女というのはつまり、君たちの信仰においてそうであるということかな?」

「そう。私は、女神様の巫女なの。昔は私のおばあちゃんが巫女だったんだよ。こういうのって、なんかいいでしょ」自慢げに笑う。

「そうだね」ウラノも優しく笑った。

「これからはどうするの?」

「それが困ったことで、全然どうすればいいかわからないんだ。だからふてくされて、ここで本を読んでいた」

「なにそれ」小さくアンリは笑う。

「ねぇ、雨がずっと続くって辛い?」彼女が訊いた。

「本当はそんなに辛かったわけじゃないよ。でも、一度晴れを体験すると、やっぱりね。それに、雨のせいで僕は一つの街に住み続けることができないし」

「ふーん」

 ――私、ウラノくんが困ってるなら、助けになりたい。彼女が言った。

 それは、ただの挨拶のような言葉だと、初めウラノは受け取った。だから、「ありがとう。すごく嬉しいよ。いつか君に頼ることがあるかもしれない」なんて上っ面の言葉が、喉のところすぐそこまで出かかった。だが、少女の目を見つめていると、そういうくだらない台詞は全部消えてなくなった。

 不意に、涙が出そうになった。目を細めてそれをなんとか、やりきってから、咳払いをして、喉の調子を整えた。だがそれからも、言葉は見つからなかった。

「いつでも、私を頼ってくれていいからね」アンリはそう言った。そしてしばらく、青年が落ち着くまで、彼を見守っていた。

 アンリと図書館の前で別れるとき、彼女は言った。

「今度は、私の話を聞いてもらってもいい? 私にも、誰かに頼りたくなるような、辛いことがあるのかもしれない」

「いいよ。君の助けになれるなら、僕だって嬉しい」

 それじゃあ、またね。そう言って二人は別れた。真っ赤な傘を差して、大股で歩く彼女の後姿を、ウラノはずっと見ていた。


 ホテルの部屋の中で、買って帰ったタマゴサンドをかじりながら窓の外を眺めていた。夜の街を雨が濡らしている。ミネラルウォーターでそれを胃に流し込むと、部屋の明かりを落として、読書灯だけにした。靴の紐をほどいて、ベッドに上がった。天井を見つめながら、これからどうしたものか、と考えた。本当に手詰まりだった。すっかり、ミンや彼らの信仰によるスピリチュアルななにかが、自分を救ってくれるのだという他力本願にかまけていたところを、足すくわれたような感覚だった。

 僕は自分でそれを見つけなくてならない。ウラノはなんとなくそう思った。――でもどうやって? なにかヒントのようなものがあったっていいじゃないか。誰に言うでもなく、そう呟いた。全くの無根拠だが、あの亡命将校の伝記が、なにか重要な示唆を与えてくれるような気がしていた。でもあの本は、なぜかもう、どこにもないらしい。なんとも都合の悪いことだ。

 やがて眠気が、彼の頭の中を満たし始めた。最後の明かりを落とすと、彼は毛布にくるまって目を瞑った。また明日考えればいいさ。図書館での出来事が、彼の心に温かな余裕を与えていたのは確かだった。


 穏やかで静かな、そして豊かな眠りの終り頃、明け方のことだった。ウラノの部屋のドアを、ノックする音があった。その音で目覚めた彼は、何事かと戦きながらもしばむ目を擦ってドアの外を覗いた。そこにいたのは、アンリだった。

「おはよう。どうしたんだい。こんなに早く」ドアをあけて彼女を招きいれた。

 少女は挨拶もなしに、狭い部屋に一つの椅子に腰かけると、その正面、ベッドの上に向かい座るよう、ウラノに対して目線を送った。ウラノは、示されるがままに応じた。

 彼は驚いていたが、なぜか声をかけるのは憚られた。その少女が、どこか冷然としていたからだ。外見にして、大人になりつつあったが、中身ははっきり少女でしかなかった彼女は、今目の前にいるものを見る限り、大きな流れをどこか離れたところで眺めているもののような目つきをしているよう、彼には思えた。

 彼女は、その眼を、ある種の超然さえを感じさせる視線をウラノに向けていた。あるいはこれについて、ウラノは怯えさえも感じていた。

 ――この子は、これは、本当にあの少女なのだろうか?

「お前は」少女が口を開いた。

「お前は母親に会いに行かなくてはならない。お前の、過去からやってくるあの呪いについて、その物語を知る必要がお前にはある」

 はっきりとした口調だった。

「何を言ってるんだ?」彼女の提案はあまりにも唐突だったし、さらに言うなら、なにもかもが彼女にそぐわないものでもあった。ウラノは困惑していた。

「お前は母親に会いに行かなくてはならない」彼女はやはり繰り返した。「呪いを、お前の呪いを解くために、母親に会いに行かなくてはならない。父親に会うのがもっとも妥当なのだが、もうそれは失われている。だからお前は、母親に会いに行かなくてはならない」

 少しも眼をそらさずに彼女は言った。これまでのアンリがウラノに見せていた少女らしさや愛嬌や弱さ、純粋といった要素は全て失われていた。まったくの機械的な作業として、彼女は言う。「母親に会いに行け」と。

「君は誰だ」ウラノは尋ねた。

「誰でもいい。お前たちはどうせ、私を同定することはできない。その必要がないことも分からないで、私を決めようとするあげく、それでもやはりできないのだから、無意味だ」

 朝の静かな雨の音が二人を包んでいた。

「君は太陽女神だね」

「そう思うなら、そう思っていればいい」

「アンリの身体に憑依して、僕に預言している。彼女は巫女だから」

「捉え方は自由だ。私はただあるだけに過ぎない」振る舞いや素振り、仕草とかいうものをまったくに欠いた有り様で、その女は言った。

「会いに行け。母親はお前に、父親が遺した呪いについて語るだろう。そこにお前の人生の続きがある。雨を終わらせるのだ」

「でも僕は、母さんがどこにいるのか知らない」

「母親は、お前をずっと待っていた。そして今も待っている」女はウラノの言葉を想定内のものとでも言うように、間髪入れずに返した。

 ウラノが母親のもとを去ってから、彼は一人で放浪の日々を送るようになっていた。母を置いて出て、もうじき五年ほどになる。ウラノは自分の呪いを、同様にして母にも背負わせることに我慢ならなくなって、一人で生きることを選んだ。それはつまり孤独への船出でもあった。彼自身、もう母親に会うことはできないと考えていた。母に再会して、自立への覚悟が揺らぐことが怖かった。あるいは、次は母が自分を拒むのではないか。そんな風にも考えていた。

 彼は少し考えてから、やはり母に会うことを決意した。


 夜が明けて支度を済ませると、ウラノは雨男協会からの資金の残りで、レンタカーを借りにいった。くすんだ銀色の輸入車だった。大衆向けの安価な車だ。でも乗り心地は悪くなかった。

 ウラノが出発するとき、女は彼に言った。

「彼女の内心を誰かに話すのはまったく公平を欠く行為だが、お前のために教えておいてやる。アンリは、お前と友だちになりたいと思っている」

 突飛な告白に、ウラノは度肝を抜かれた。なんと答えていいか分からないでいると、女は言った。「つまり彼女は、お前の帰りを待っている。お前にはなにかと理由が必要らしいからこう言っておけば、これからの立ち振る舞いにも身が入るだろう」

「ねぇ、どうしてそこまでして僕に構ってくれるんだい?」ウラノは尋ねた。

「私は向こう側のとの均衡を保ちたいだけだ」

「向こう側?」

「気にしなくていい」そう言うと、ぷいと振り向いて挨拶もなく女は去っていった。

 ウラノは小首を傾げながらも、不思議な心の温もりを感じ雨の中、車を発進させた。

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