12. なにか彼らにしか分からない事情

 町から人が消えていた。強烈な日光で、あらゆる人々がいっぺんに焼き払われたかのように。正午の太陽が町からあらゆる影を消し飛ばしていた。真っ白に燃やされた町の隅に、二人の影があった。

 一人は醜く太った男で、頭は丸坊主に剃りあげられていた。くたびれた衣服は何十年もの間、続けてその男に着られているようだった。ひどく脂の浮いた鼻、ニキビで爛れた両の頬、絶え間なく半笑いの形をとる唇。醜悪というものをわざとらしく体現したような人物だった。

 もう一人は、骸骨のようにやせ細った男だった。彼の浅黒い肌は生きている人間からはかなり遠ざかったものに成り果てていた。頭はそのほとんどが禿げていて、かろうじて残った髪の毛は、伸ばしっぱなしになっている。生命力をほとんど感じさせないその痩せぎすの男は、それでも奇妙で鋭い意志を秘めているようだった。しわしわになってしまった顔面にくっついた目玉には、心身ともに健康的な人間では決して持ちえない類の光があった。

「いや、暑いね。サンダンス氏。その酒、私にくれないか」宿店主が言った。

 ジョージは黙って酒瓶を渡した。どーもどーもと太った男は礼を言って、温くなった酒を旨そうに飲んだ。二人は酩酊状態だった。おぼつかない足取りで、町を歩いている。

「さ、さっきの夫人のところで、オレはどのくらい眠っていたんだ?」ジョージは尋ねた。

「うぅーん。大体三日くらいかな」宿店主が言った。

「オレは夢を見ていたよ。昔のオレが出てきた。アンタもいた。いろんなことを思い出させる夢だった」

「へぇ……。楽しかったかい?」

「いや、そういう意味あいのものじゃなかった気がする。もっと切実な感じがした」

「そりゃあんたにとって大切なものだったんじゃないの? 私は知らないけど」

「そうだったんだろうな。オレもすっかり忘れていたようなことだった。なんで今になってあんなことを思い出さなきゃいけないんだろう。そう思う一方で、何か大切なことを、オレに伝えようとした夢だったんじゃないかとも思うんだ」

「なんだいそれ……。難しいことは私には分からんね」

「なんというか、オレが今、間違った方向に頭を向けてるんじゃないかと、そんな風に思わせる夢だった」

「おかしな夢だこと」

「昔のオレが、オレを見てるんだよ。悲しそうだった。なにか言いたげな感じで、じっと見てるんだ。あいつは、今のオレを認めないんだろうな。それだけは分かる」

「まぁまぁ。例え昔のサンダンス氏が、今のあんたを許さなかったとしても、それは昔の、何も知らない頃のあんたなわけだ。子供が、大人の理屈に首を突っ込むようなもんさ。ただ純粋なだけで、この世の不条理や、残酷さを知らないものが、無遠慮な主張をばらまくようにね。今のあんたなら、ちゃんと自分のいる場所を理解しているし、自分のすべきことだって、飲み込んでいる。そうだろう」

 ――自分のいる場所? すべきこと? そんなものが分かっているとは、ジョージにはとても思えなった。今、町のどこを歩いているのかさえ定かでない。

 宿店主は酒を豪快に飲み干したあと、大きくゲップをして言った。

「夢ですよ。夢。下らんことです。我々は現実を見ましょうや」

 宿店主が建物の一つに入った。ジョージもそれに従う。地下に繋がる階段があって、ふらふらしながら二人はそこに入っていった。誰も彼らを呼び止めはしない。随分と長い階段だった。何度も折り返して踊り場を踏んだが、部屋のドアも何もない。ただステップと手すりが続くだけだった。

 ただでさえ確かでない酔っ払いの脚がくたびれて、そろそろ歩くのが辛いという頃、やっと階段が終わって、一つのドアが見えた。木と鉄でできた古めかしい戸だった。

 宿店主が戸を引いた。鈍く、割れるような、引き裂かれるような音がした。それから、積もった埃が舞った。とても長い間、そのドアが開かれていなかったことがわかる。

 ジョージは扉の向こうから流れてくる空気の臭いに、少し眉をひそめた。嗅いだことのない臭いだった。生臭い有機の臭い。その部屋は、奥に長い形をとっていた。薄暗くて終りの見えない廊下のようでもある。そして両方の壁には、たくさんの檻がぴったりすきまなく積み上げられていた。ジョージはなんとなくペットショップを連想した。

 檻の一つ一つは、大きさも形も様々で、また中に入れられている動物も様々だった。犬、猿、蛇、とかげ、鳥、蛙……ざっと見渡したところ、一番多いのは猿だった。そして一匹の例外もなく、それらはみなひどく痩せこけていて、汚ならしい姿をしていた。それでも、元気なやつらは、ジョージの姿をみて、怯えるなり威嚇するなり、何かしらの反応を見せていた。

「ささ、一番奥まで行くんだよ」宿店主が言った。

 頷いて、ジョージは歩きだした。動物たちへの配慮のようなものが一切ない、ただの入れ物としての檻らの前を歩いた。糞便と体臭と、そしてあるいは死臭のようなものが、部屋の中を漂っていた。強い臭いだったが、すぐに鼻がやられたので彼は気にならなくなった。

 部屋の終りのところには、巨大な男が椅子に座って待っていた。そこには、宿店主が先行した。

「こんにちは、男爵。相変わらずここは臭くてたまらないね」

 男爵と呼ばれた男はそれには応えなかった。男は真っ黒な肌の色をしていて、頭にも、顔にも、まったく毛がなかった。驚いたことに睫毛さえもない。上半身は裸で、下半身は白い――しかしところどころが黄ばんでいる――だぶだふのズボンを穿いている。そしてその他に身に付けているものはない。

「こちらは、サンダンス氏。新しく雨男協会にやって来たひとだよ。サンダンス氏、こちらは男爵。まがりなりにも、男爵だから、失礼のないように」そう言って、なにか彼らにしか分からない事情があるかのように、うくく、と宿店主が笑った。

 男爵は何も言わなかった。――本当に相変わらずだねぇ。と宿店主が喉を震わせた。

「あとのことは男爵に任せよう。それではサンダンス氏、またあとでね」

 そう言うと宿店主は、ぺたぺたと子供のように駆けて、歩いてきた道を走って去っていった。男爵とジョージがその背中を見ている。

 やがて男爵は立ち上がると、部屋の隅にあった簡単な組み立て机と、なにか金物が入っているらしい大きな麻袋を引きずってきた。がらがらと音がする。彼は黙って、淡々と作業を始めた。机を設置すると、その上に、袋の中身を並べていった。大きな包丁が一つ。まな板、すり鉢がそれぞれ一つずつ。そしてすりこぎがまた一本。それらのすべてが、血にべったりまみれていた。

 彼は道具の準備を終えると、今度はジョージの側を通り抜けて、檻のほうに向かっていった。大きな蛙と、痩せ細った雌猿を一匹ずつ捕まえて戻ってきた。そのどちらもが、男爵の大きな手に捕らえられながらも、必死の抵抗を続けている。

 男爵は一度、蛙を机に強く叩きつけてそれを動けなくしてから、次にまな板の上に暴れる猿を押さえつけた。ジョージには、なんとなく次に何をするのかが見えてきた。

 重そうな包丁が雌猿の首を断ち切った。短く鋭い悲鳴を上げて、猿は絶命した。男爵は、小さなナイフをポケットから取りだして猿の頭の皮を剥き始めた。頭部のあちこちに切れ目を入れてから、彼の指にぐっと力がかかると、驚くほど簡単に皮が向けた。男爵は 丸坊主になった頭をすり鉢に放り込んだ。そして残った身体のほうを、そのままで指先から、歯で噛みちぎり噛みちぎりして食べ始めた。これからの作業に使うのは頭だけのようである。

 彼は蛙を手に取ると、先ほど猿の頭が投げ込まれていた鉢の上に持ってきた。男爵が、蛙の頭を下に向けて、その身体を強く握りつぶした。今度は声というより、水っぽい音が響いた。蛙の、力なく開いた口から、中身が噴き出た。白っぽいものや、どす黒いものが、体液と一緒に鉢のなかに溜まっていく。全ての作業は、雌猿をつまみながら行われた。

 蛙の内臓と雌猿の頭が、すりこぎで押し潰されながら混ぜられた。男爵は強い力でそれ熱心に続けた。初めは骨の砕ける音が甲高く響いていたが、次第に、なにかのペーストを練り上げているだけといった感じの、ぱちゃり、といった滑らかな音に変わっていった。

 ジョージは夢でも見ているかのような気分だった。巨大な黒人が雌猿と蛙を殺して、その死骸の一部を混ぜ合わせ何かを作っている様子は、正気では見ていられない。とても現実のこととは思えない風景だった。

 やがて、すりつぶしの作業が終わった。男爵はすりこぎにこびりついた、猿と蛙だったものを指で拭って、それからしゃぶりとった。ぴちゃぴちゃと音を立てて舌を動かした。味をみているらしい。なにかに得心いったようで、彼はついにすり鉢をそのままジョージに手渡した。

 鉢の中には、ピンクの、どろっとした液体が溜まっていた。量としては、小さめのマグカップに、一杯分くらい。

 ジョージはそれを飲んだ。思ったり味は悪くなかった。硬いものはしっかり押し潰されているので飲むに苦労はない。若干の動物の臭みがあるものの、濃厚な味の深みが、その邪悪なペーストにはあった。

 飲み始めると結局、あっさり鉢を空にしてしまった。舌の上になにか残る感触があって、ぺっ、と吐き出すと、小さな白い欠片が出てきた。ジョージがこのスープを飲み干す間に、男爵はさきほどの猿一匹分を、腹のなかに納めていた。

 男爵の調理台の上には、いつの間にか大きな甕があった。異国風の紋様が象られた、古い甕だった。蓋を開けたときの、ことり、という音の響きで、中にはいっぱいに液体が入っていることがわかる。

 頭の小さな柄杓が甕のなかに突っ込まれた。ぐるりと大きく一度掻き回される。そして引き出したときには、茶色く濁った、泥水のようなものが器に掬われていた。

 陶器の椀(こちらも、どこか遠くの国の文化で生まれた模様のよう)の中に、その泥水を注いで、男爵はそれをジョージに勧めた。ただにこりともしないし、なにも言いはしない。

 それは甘いお茶だった。なにかの香草が入っているのか、萎びた小さな葉が液面に浮いていた。椀は小さなものだったので、一口二口で、あっという間にこちらも全て飲みきってしまった。

 がぶ、と水っぽいげっぷをして、ジョージは身体の異変に気がついた。腹の底が猛烈に熱くなっていた。おや、と思ったときには、もうひっくり返るくらい熱くなっていた。ジョージは膝をつくと、それからぐるんと、腹を上にして倒れこんだ。心臓の鼓動と呼吸のリズムがどんどん速くなる。

「あ、ああ、あ」

 男爵に助けを求めようとしたがろくに声が出ない。男爵は黙って彼を見下ろしている。どうしようもないくらいに腹が熱くなって、ついに、胃が破けたような感覚がした。なにか腹のなかで膨れ上がっていたものが、ぱちん、と弾けた。

 どこからか、動物たちの騒ぎ声が聞こえ始めた。――まるでジャングルのなかみたいだ。ジョージは行ったこともない、熱帯雨林の世界を思った。奇怪な鳥や、虫の鳴き声があちこちから聞こえる。空気はべったりと湿り気を帯びていて、身体のあちこちから汗が噴き出た。

 身体が少し沈んだような気がした。コンクリートの地面とは違う、柔らかい感触がする。そして濡れた土の臭いが、鼻腔を満たした。

 しかし異常な感覚は次第に収まっていった。彼は確かに、地下の埃っぽい、禍々しい男のいる、檻だらけの部屋にいた。妙な目眩があったが(それは「夫人」のテントで経験したものとよく似ていた)、なんとかジョージは立ち上がることができた。

 男爵はいなくなっていた。彼の調理台も、怪しい茶の入った大きな甕もない。初めに彼が腰かけていたはずの椅子だけが、長い部屋の突き当たりにぽつんとあった。

 ジョージは彼を探したが、やはりどこにもいない。宿店主もいない。仕方がないので、部屋から出ることにした。檻の道を引き返して、件の古いドアを開けて、階段の場所に戻った。

 また長い階段を登ることになるのかと、少し辟易したが、彼には登るほかなかった。だが、しばらく登ったところで新たな異変に気が付いた。階段はひとつ目の踊場のところでもう終わっていた。そしてそこは、くすんだ色合いの安っぽいアパートのロビーになっていた。振り返ると、先ほど登ってきたところの階段がすっかりなくなっていて、丁寧にならされたコンクリートの床が広がっていた。掃除用のバケツとモップが転がっている。

 ここは――。ジョージはその懐かしい空気を吸い込んで、身震いした。ロビーの郵便受け、二階の端から二つ目の部屋に当たるボックスには、汚い、そして見慣れた字の名札があった。

 ジョージはよくなれた様子で階段を駆け登った。そして部屋の前まで来て、いつもどおりにジーンズの尻ポケットを探った。目当てのものはそこにあった。知らないうちにポケットに入っていた鍵を使って部屋に入った。そこは紛れもなく、彼が田舎から首都にやって来てからずっと住み続けていた部屋だった。

 部屋の奥には、人影があった。もちろん宿店主だった。

「や、どーも。なかなかいい部屋だね。サンダンス氏。でも酒もテレビもないのは頂けない」彼は飄々とそんなことを抜かした。

 宿店主はいつものようにジョージの肩を抱いて引っ張った。――ささ。我々はここにのんびりするために来たのではないよ。早速行こうじゃないか。

 二人は街に出た。街では絶対にあり得ないことだったが、なぜかその夜は、彼ら以外の人がいなかった。ただネオンや街灯だけが寂しく輝いていた。

「ここには一度来てみたかったんだよね」と宿店主が言った。それから続ける。「さぁどこにあるのかな」

 宿店主は、なにか目当てのものがあるようで、先ほどからきょろきょろしていた。彼が何を探しているのか、ジョージはなんとなく分かりかけていた。

 安酒しか置かない店が立ち並ぶブロックを過ぎて、ちょっと雰囲気が変わるところに彼らはやって来ていた。ネオンやなんかは、未だ建物から飛び出しているがそれらのデザインはかなり落ち着いたものになっている。

「ねぇ、ここにいってみようよ」宿店主が言った。

 そこは小さな看板が扉に貼られているだけで、一見ではなんの店かは分からないようになっていた。そういうところはだいたい、客を選ぶことができる店だというのをジョージは知っていた。よく知っていた。訪れたことは一度しかなかったが、彼には決して忘れられない思い出が、その場所にはあった。

「ここでなくても、いいじゃないか」ジョージは逃げるように言った。

「嫌だ! 絶対にここがいい!」宿店主は頑なにこだわった。そして子供のように、ジョージの袖を強く引っ張った。

 癇癪を起こした宿店主は叫んだ。ジョージを突き飛ばして、「もういい!」と怒鳴ると、一人で店の中に入っていく。ジョージが一人で夜の街に取り残された。

 どうせすぐに追い出されるさ。あいつの身なりじゃ、この店には合わない。入ったとたんに受付がドアを開けて外に促すだろう。この街は、そういう街なんだ。一度ズレたらもう、復帰の機会は与えられない。

 しかし、宿店主はいっこうに戻ってこなかった。おかしいな、とジョージは思ったがとにかく、彼は店に入ったっきりだった。店が彼を受け入れるはずがないのに。我慢できなくなって、ジョージは、ちょっとドアを開けて中を覗いてみた。ドアが重厚な感覚を伝えた。室内は空気の種類が違った。行き届いた空調と、仄かな高級煙草の香り。匂いそのものは決して不快ではない。それでもジョージには、その匂いからどうしても連想せざるを得ない記憶があった。

 店内を覗いていると、胸ぐらを強く掴まれた。そして強く引きずり込まれた。宿店主だった。「もう、初めからそう素直に入ってくればいいんだよ」後ろで、ドアが重い音を立てて閉まった。

 宿店主はジョージを招いて、カウンター側の、一番見えやすいところに座った。例の如く、酒瓶を拝借するとそれを直に飲み始める。だが、ぱりっとした服装の他の客たちや、髪を丁寧に撫で付けたスマートな店員たちは、まったく二人に関心を示しはしない。奇妙な闖入者などはどこにもいないかのようだった。

「ほら、飲むだろ?」宿店主が酒をジョージに渡した。「飲まなきゃやってらんない。そのはずさ」宿店主の言うとおりだった。ジョージは差し出されたものを飲んだ。これから起こるであろうことを考えれば、飲まずにはいられない。

 突如として、拍手が店内に広がった。「ホーッ!」と宿店主が歓声を上げた。裏方から出てきたのは、ギターを抱えたジョージ・サンダンスだった。もじゃもじゃの髪の毛になんとか櫛を通していて、髭も丁寧に剃りあげられている。この店に合うような衣服を買い揃えることはできなかったので、それでも一番 まともで、綺麗なものを着選んでいる。オレなりにだ。ジョージは、その場所に立ったときの気持ちをすっかりそのまま思い出すことができた。

 新人ミュージシャンは、用意された椅子に座ると挨拶もなしに一曲やり始めた。自分がかつて、いつもの一曲を最初に持ってきたのを、ジョージはよく覚えていた。あの頃は何も知らなくて、ただ今までの場所とは、演奏する意味と聴く人々の種類が違うとだけ伝えられていて、それがつまりチャンスだとわかった上で、普段通りの演奏順を選んだ。なにかイロを付けて演奏するのは、間違いだと思ったからだった。

 ――そう、お前は、オレは間違ってなかったんだ。オレたちはしかるべき道を歩いていたじゃないか。ジョージは、上品に微笑んでいる客たちの前で、いつもと変わらぬ演奏を続ける自分を強く見つめていた。宿店主は黙ってその様子を見ている。

 たった三曲が、ジョージにはとても長い時間のように思えた。彼の失われた人生そのものが音楽になっていた。この時間だけが、十数年来の、ジョージにとって本統の時間だった。彼の成長し続ける音楽の、その最新形で最高のものであったのが、嘘偽りのない本物の音として彼の身体をつつんだ。

 演奏が終わった。宿店主は、堪えきれない笑いをついに噴き出した。ジョージは呆然としていた。この物語に続きがあったことを、あろうことか彼はすっかり失念していた。

 目付きの鋭い、あるいは邪悪と表現した方が適切なものをもった若い男が、拍手を引き裂いて壇上にやってきた。早口で、全く相手への思いやりを感じさせない口調の、それでもはっきりと聞き取れる強い言葉の連なりが若いミュージシャンにぶつけられた。

「やめろ」ジョージは叫んで、その男に飛びかかろうとした。でもそれは、宿店主の太い腕に阻まれてしまう。「駄目だって、そんなこと。ちゃんと見てるんだ」笑って、宿店主が言った。

 ミュージシャンと男の間で何度かやり取りがあった。お互い平然とした感じが続いたが、あるところでちょっと雰囲気が変わった。ミュージシャンが押し黙った。表情は固いものになっていく。

 それからの騒動は、ジョージがこれまでに何度も思い出させられて、苦しめられたものとまったく同一だった。かつてジョージ・サンダンスという田舎者が、ロメオ・ネグリというたちの悪いチンピラに目をつけられて、のせられた。サンダンスはネグリを、怒りに任せて叩きのめした。ネグリはわざと抵抗をせず、それをほどよく受けたところで逃げ出した。結果としてサンダンスは拘置所に入るはめになった。そして出てきたときには、ミュージシャンとしてのこれまでとこれからのキャリアを全て失っていた。

 すっかりそのままを、ジョージは映画でも観るようにして再体験した。残ったものは暗い枯れ井戸の底に投げ入れられて誰からも忘れられたゴミような、陰湿な怒りだけだった。激情は長い時間のなかに凝って、もっとひどいものに形を変えてしまっていた。


 いつしか彼は男爵の部屋に戻ってきていた。床から頬を話すと、乾いた何かが剥がれる感触があった。床には、すっかり水分を失った吐瀉物が広がっていた。どうやら彼が意識を失うときか、その後に、これを吐き出していたらしい。

 男爵は、ジョージがここに来たときと全く同じ様子で椅子に座っていた。目を薄く開いているが何をみているのかは、定かでない。ジョージは、しばらくその場に佇んでいたが、男爵が特に彼に関心を示すことはなかった。

 おぼろげな意識の中、ジョージは立ち上がった。――儀式が、また一つ終わった。夢と現実の境界にいる気分だ。あるいは、オレはもう死んでいるのかもしれない。

 それでも、意識は続いていて、彼はちゃんと歩いて、あちこちに身体をぶつけながら、檻の間を抜けて、長い階段を登り地上へ出た。そしてそこで待っていたのは、宿店主ともうひとつ、奇妙な風貌をした、人間のような何かだった。

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