10. 涙が出たりするのかもしれない
雨男協会が結成されたのはかなり昔のことだと、その太った男は言った。戦争どころか、共和国の成立よりも遥か昔、判明している限りでは、有史時代の始まりとほとんど同時期であるともされるらしい。ジョージは分かったような分からないような感じの、曖昧な相槌を打った。
「とにかく、ずっと昔から、私らは活動してたってことさ。想像がつくその限界の、そのまた遥か昔から……」
二人は宿屋の裏方、汚れたシーツや分厚い帳簿があちこちに転がる狭い部屋でナッツをつつきながら膝を付きあわせていた。
「つまり、『雨男協会』は怨念返しの代行屋なんだよね。誰だって人生のなかで ぶっ殺してやりたい奴の、一人や二人あるよね? そういうのって、でもなかなかうまくいかないもんさ。包丁握りこんで一発ぶすりをやろうとしてもね、実際上手くいかないことの方が多い。いざやってみると、びびっちゃうし、そもそも人を殺すってことはかなり丁寧にやらないと難しいんだ。でもそんなひとたちだって、どうしても自分の尊厳を守らざるを得ないときがあるよね?そこでそのお手伝いをするのが『雨男協会』なんだよ。『雨男協会』は古来より伝わる呪術を以て、みんなの怨念返しを手伝うんだ」
――呪術。その言葉に、ジョージは反応した。
「あんた、ただの宿屋の店主じゃないのか」彼の背中は、冷たく濡れ始めていた。
店主はまったくにこにこしながら、ボウルに手を突っ込んで、ナッツを掻き出すとそれを口のなかに詰め込んだ。そしてばりばりと噛み砕きながら喋った。口の端から欠片が飛び散ったが、構いはしない。黴の生えかけている湿気った床板の上に細かく砕けたナッツが転がった。
「副業みたいなモンだわね。難しく考えない考えない。世ん中、あるかないかなんだから。じゃあ、ある方、いきたいでしょ?」
ごくフレンドリーに、店主は微笑んだ。「ほら、ナッツ食べなよ。ナッツは身体にイイんだ」そう言って、太った芋虫みたいな毛むくじゃらの指で、またボウルのなかのナッツを拐っていった。ジョージは勧められるがままに、ナッツの盛り合わせの中から、外皮が剥かれたピーナツを摘まんで食べた。ひどく塩っからいものだった。
店主は、長い間洗わずにいたのが一目で分かるような、くたくたで、垢じみた、擦りきれだらけのジーンズのポケットから、でこぼこだらけのスキットルを引っ張りだして、その中身を一口煽った。がぶりとゲップをしてから、ほら、あんたも。とその出来損ないの水筒をジョージに突き出した。中からはひどい臭いがした。彼が断ると、「いい酒なのに」とまた笑って、分厚い唇を死んだ色の舌で舐めた。
「呪いには準備がいる。さっきも言ったけど、人を一人殺すというのは、これがなかなかどうして、骨の折れる作業さ」
どや街の喧騒の中を歩きながら、店主は言った。往来をいく人々はみな、どこか疲れたような顔をしていて、たいてい薄汚い恰好をしていたが、それでも、ジョージと宿店主が近づくと、顔を真っ青にして道を開けた。多くの人々は、店主のその驚くべき醜さと猛烈な臭いに、逃げ出しているようだった。
大通りから離れた彼らは、ますます暗い場所に潜っていった。市場のある通りから、盗品ばかりが並ぶ屋台の群れ、やがて独特な香りの煙があちこちで立ち込める路地へ。そのどこに行っても、二人は道を開けられた。畏敬ではなく、嫌悪と恐怖によるものである。
やがて二人は、小さなテントの前にやって来た。測量の不備のせいか、それとも土地の権利関係か、建物と建物の間に、何にもない細い土地があって、そこの突き当りに、何かの動物の皮と思しい幕で張られた、テントがあった。
「へへ、ついた。ついた」宿店主は気味悪く笑うと、小さなその入り口に潜り込んだ。そのあと中から、「ほら、あんたも来なよ」と声が掛かる。ジョージは恐る恐る入っていった。
狭く、暗いテントの奥には、片足が欠けた老婆が座り込んでいた。肌は浅黒く、つぎはぎだらけのボロ布を身体に纏っている。生命を全て絞りつくしているはずなのに、それでもまだ生きようとしているから、身体だけがどんどん人間から遠ざかっているように見えた。ミイラのような干からびた老婆だった。頭はあちこちの髪が抜け落ちているが、まったく気遣う様子はない。そのまま道端に転がっていたら、誰もが死体と間違えるだろう。ジョージはそう思った。
「やぁ、やぁ、夫人。久しぶりだねぇ」宿店主が言った。
老婆は濡れた小さな眼で、男を見上げていた。その顔は無数の皺のせいでもう表情が読み取れない。聞き取れないほどの小さな声でむぐむぐとなにかを言った。ジョージには分からないが、宿店主の方には分かるらしい。
「そうそう。新しい協会のメンバーだね。サンダンス氏さ。サンダンス氏、こちらは『夫人』。君が世話になるひとの一人だよ」
「メンバーだと? オレはそんなことに同意していない」
「うん? ああ、別にただそう呼んだだけだよ。協会員であることに資格は要らないし、また義務も権利もない。なにか代償を払うわけでもないし、そして君の怨念返しを私らがお手伝いするだけだから。嫌なら否定してもいい。意味なんかないよ」
「だったら、雨男協会はなんのためにあるんだ?」
老婆の方に向かって、へらへら揺れていた宿店主の身体が止まった。そして素早くこちらを向いた。顔は笑っていなかった。大きな、魚の目玉がこちらをじっと見つめている。そして言った。
「雨男協会は総体としてただあるだけだ。誰も干渉できないし、そして脱会規定はない」
突如として、氷のように冷たい声色で宿店主は言い放った。あまりに突然の変容にジョージは言葉を失った。
「はは、びっくりした? 冗談だよ。協会はそんなに怖いところじゃないさ。困ってるひとを助けたいひとたちの、素敵な集まりだよ」宿店主はころりと、今までの振る舞いに戻って、子供のようにけらけら笑った。
「夫人、例のやつ、おねがいね」そう言うと宿店主は、ジョージを押しのけてそそくさとテントから出ていった。「おい、どこに行くんだ」そうジョージが言いかけたところで、彼の袖を強く引くものがあった。もちろん夫人だった。夫人は、生きているのか死んでいるのか分からないような肉体の持ち主だとはとても思えないほどの強い力で、ジョージの腕を引き込んだ。ジョージにはそれに抵抗することはできなかった。引っ張られるがままに、その場に潰れてしまった。頬が、テントの下敷きに触れる。
「離せ」そう怒鳴って、老婆の腕を振りほどくと、老婆はあっさりと離した。床に座り込む夫人と、跪けさせられたジョージは同じ目線にあった。それから夫人は、身体に纏うボロ布から、短い煙管を一本取り出した。
ジョージはそれを受け取った。「これをどうしろってんだ」
夫人は、歯がさっぱり無くなってしまった口をくぁ、と開けて、それを閉じた。煙管を咥えろ、と言っているのが、彼にもわかる。
ジョージは示される通りにした、くたびれたシャツで吸い口を拭いてから、それを咥えた。まだ皿はからっぽだった。苦いような甘いような香りが、煙管の管を通して、彼の口内に忍び込んだ。
夫人がどこからか小さな缶の入れ物を取り出して、その中に詰まっている紫の煙草を枯れ枝のような指でつまみ上げた。そしてジョージが咥える煙管の皿に、それを詰め込む。古いマッチを擦って、火を皿に近づけた。老婆は口をすぼめて、つぱつぱと音をたてた。「吸え」と言っている。
ジョージは言われるがまま煙管を吸った。マッチの火が吸い込まれて、煙草に火が付く。煙が立ち始めると、夫人はマッチの火を切って、テントの隅に投げ捨てた。そしてジョージの顔を見つめて頷く。
夫人の指示通り、しばらくその煙草を吸い続けた。薬草のような、甘い、そしてどこか強烈な香りだった。これはどういう作業なんだろうか、そう思った瞬間、激しい眠気が彼を襲った。しかしそれは、浜辺の波のようにすぐさま引き返して去っていった。戻って来る気配もない。今の感覚はなんだったのか。そう考えながら、煙管を吸い続けた。
夫人が消えていた。おや、と思ったときには、テントの中は彼一人だった。夫人がもといた場所には、狐をそのまま一匹開いた毛皮の小さな絨毯があって、その上には楕円形の黒い染みが広がっていた。狐の絨毯には頭や脚、尻尾が残っていた。狐の頭にはちゃんと目玉があって、ジョージはそれをしばらく見つめていた。狐が言った。
「少しずつでいいんだ。ならしていこうぜ」
「えっ?」ジョージが聞き返したが、狐はもう黙り込んでしまって、答えてくれなかった。
宿店主も夫人も消えてしまったし、狐は返事をしてくれないので、ジョージはテントから出ようとした。しかし、テントの出口のところが、石壁でぴったりと塞がれていて、彼は閉じ込められてしまっていた。ああ、どうしたものだろう。ジョージは煙管を吹かしながら考えた。テントの幕を思い切り引っ張ったり、石壁を蹴飛ばしたりしたけど、それらはびくともしなかった。
狐の頭を叩いた。狐の絨毯は、生命を失っているので、ものを言ったりはしない。それでも彼はその絨毯が気になって、それをぺろりとめくってみた。すると、床に穴が開いていた。深い穴だった。人間が一人落っこちていくのに、ぴったりおあつらえ向きの大きさで、底は見えない。
ジョージはその穴に足から入った。足や手で突っ張って、ゆっくり降りていこうとしたが、穴の側面は途中からぬるぬるした苔が生えていて、それで滑って彼は踏ん張ることができないまま落っこちていってしまった。しばらく長いあいだ落ち続けた。穴は垂直というわけではなくて、半ばから滑り台のように傾斜がついた構造になっていた。穴が終わって、どこか広い空間に、そして薄暗い場所に彼は投げだされた。
水っぽい臭いがしていた。それと湿った空気。足元にあるのはでこぼこしていたり、尖っていたりする硬い感触と、いくらかの砂だった。洞窟だ。ジョージはそう思った。
かなり暗いので、躓いたりしないようゆっくりと歩き出した。洞窟の中は風が通っているようで、空気の流れが彼を導いてくれた。しばらく進んだところで、仄かな光が見え始めた。光に向かって歩きづけて、そしてようやく洞窟の外に出た。
洞窟の外は、ジョージの故郷、あの北部の町に繋がっていた。薄暗く曇った、冬の故郷だった。できたばかりのガソリンスタンドと、スーパーマーケットが、道路を挟んで向かいあっている。その道を少し行けば山に繋がっていた。冬場は道路が凍るので、地元の人間は自動車で山を越えようとはしない。道路が凍っているので通ってはいけないと、丁寧に看板を毎年出すのに、数年に一度は馬鹿な旅行者がスリップを起こして谷底に落ちたりする。だからジョージが故郷を出る数年前から、山に繋がる道は、冬場通行止めになっていた。
なつかしいな。ジョージは思った。すると後ろから、声をかけられた。
「サンダンス氏は、こういう町で生まれ育ったんだねぇ」
宿店主だった。相変わらず不自然なにこにこを見せている、でっぷり突き出た腹を揺らしながら、こちらに歩いてきた。
「ここはどこなんだ?」ジョージは訊ねた。
「ここは井戸の底だよ」宿店主は答えた。
「井戸の底? ここが? でもここはオレの故郷だ。それにさっきまで、オレは旧帝国のうらびれた町にいたはずだった……。そう『夫人』のテントの中だったはずだ」
「本当に井戸の中にいるわけじゃないよ。観念の話だよ。観念。観念としての井戸に君はいるんだ」
観念としての井戸? ではここは観念としての故郷なのだろうか。ジョージは何とか考えようとしたが、やはりうまく思考が形成されなかった。論理は霧散して大気と混じり合うと、まるきり使えないものになった。
「ま、ま、細かいことは考えずにいきましょうや。我々にはやるべきことがあるんだから」
宿店主がジョージの肩を抱いて、歩き出した。その太った男の身体はとても冷たかった。
「ここでなにかしなくちゃいけないのか」ジョージはなんだか不安な気分になった。宿店主は相変わらず不気味だったが、それ以上に、今、この町に、故郷に帰ってきていることが、とても彼の心を不安定にしていた。
「私についてくれば問題ありませんから」にや、と、汚い歯を剥きだして宿店主は笑った。
町は静かだった。人の姿は見ない。頭の上の曇り空は、朝にも、昼にも、日暮れにも思えた。ジョージと宿店主は、故郷の町を、あちこち歩いてまわった。
「おや、あれはなんだろう」宿店主が指さして言った。酒場だった。
「あれは酒場だな」
「へぇ。ということは、お酒が置いているね」
「そうだな」
「お酒は大好きさ。もちろん寄ってみよう」
ジョージの戸惑いを、宿店主は容赦なく引っ張って、その薄暗い酒場に入っていった。
ちょっと時代錯誤な感じの木造りの調度品が目立つ。それらはあちこちが傷だらけで、酒や煙草の煙が染みこんでいた。カウンター横のジュークボックスには埃が積もっていて、近頃使われた様子はない。既に客はそこそこ入っていて、それぞれのテーブルで男たちが騒いでいた。
「ちょうどあそこが空いてるね」宿店主はジョージに構うことなく、カウンター席の一つに座った。そして、隣の席を示して、「さああんたはここだ」と言った。
ジョージはその席に座った。店の客たちは、ジョージと宿店主をまったく気にかけないまま、酒盛りを続けていた。宿店主が、カウンターの端においていたウイスキーのボトルを手に取って、直に飲み始めた。すぐそばで他の客と話していた酒場のマスターは、それにもまったく反応を示さない。
「もうじき始まるのだろうね」大きくげっぷをしてから、宿店主が言った。
「始まるって?」ジョージは訊ねた。
「そら、言ってる間に、来た」宿店主が拍手を始めた。
酒場の喧騒が消えた。客たちはただ一点を見つめている。ジョージの隣の、宿店主だけが、拍手を続けて、下品な歓声を飛ばしていた。
ジョージのすぐそばの席に、若かりし頃のジョージ・サンダンスがギターを抱えて座っていた。彼はそれをただ茫然と見つめていた。サンダンス青年は、となりのくたびれた男に気付く様子はない。宿店主が言った。「いやぁ、若いね。若さって、いい」
サンダンスは挨拶もなしに、ギターを弾き始めた。一つは、働くことについて歌った唄。一つは恋について歌った唄。そして最後の一つは、死ぬことについて歌った唄。いつもの三曲だった。酒やたばこ、そして他の何かによってスポイルされてしまう前のジョージ・サンダンスの歌声は、ジョージ自身が聞いても、驚くほどに美しいものだった。声の素朴な響きと、穏やかな演奏が一つの調和のもとにあった。
歌を聴きながら、ジョージはこの頃の自分のことを思い出していた。実家の押し入れの奥にギターを見つけた日のこと。人生に特別の意味を見出せないでいた彼が、その、安っぽい弦楽器から響く音程の外れた音色を聴いたときに起きたものは、確かに革命だった。それがギターと呼ばれるものであることは知ってたし、六本のそれぞれ太さが違う弦を弾けば、音が鳴ることも知っていた。
それをガラクタの山の中から引っ張り出したときに、たぶん弦の一本が、その辺から突き出していた何かに触れたのだろう。ぴいーんと音が鳴った。ジョージにはちょっと信じられなかった。――この埃だらけの、でかいだけのごみみたいな何かから、今まで聴いたことのないような音が鳴ったよう気がする。彼は、うっかり割ってしまった窓ガラスを片づけるために、ほうきとちりとりをそこに探しにきたのだったが、そんなことはすっかり忘れてしまっていた。
写真かなにかで見たことがあったのだろう。左手でネックを掴んで、どうやらそれっぽい風に持った。右手の親指で弦を弾けば、音が出るのは当たり前だったが、少し戸惑った。しかしやはり我慢できずに弾いた。想像を超える音が鳴り響いた。それが特別なギターだったというわけではない。彼とギターという組み合わせが、何よりも特別だった。
やがて演奏の技術が上がって、誰かに歌を聴かせたいと思ったとき彼が相手に決めたのは、高校のクラスメートの女の子だった。放課後に呼び出して、公園のベンチでそれを披露した。演奏はまだまだ未熟で、その後彼が醸し出すようになるその良さでさえも、まだ現れない時期のものだった。女の子は、何某の方がうまい。と言ってその場から去っていった。ジョージはその時もちろん、その子に惚れていたので、ギターを抱えたままちょっぴり泣いた。
高校を出たあと、彼は酒場でアルバイトを始めた。昼まで寝て、起きたら夕方までギターと歌を歌って遊んで、そして夜から働く日々だった。雇い主が、ジョージのたこだらけの手を見て、それがギターの練習の跡であると気づいた。それがなかなか大したものだったので、ちょっと気になって、仕事のあとにギターの演奏をやらせた。ジョージの才能に最初に気付いたのは彼だった。経営者は特別音楽にこだわりがあるわけでもなかったのだが、ジョージの歌声を聴いて、自分はこれが好きだな。とは思った。そして、「いいものか、悪いものか分からないが、俺が好きだから、これはみんなに聴かせてみたい」と、そうジョージに言った。そうして、彼に歌を披露する場所が与えられた。
「へぇ、あんたギターの才能なんかあったんだねぇ」宿店主が酒を煽りながら呟いた。
「才能なんてものはない。それに、全部昔の話だ」ジョージは返した。
「これ、何年くらい前だい?」
「十年くらい前、この時で十九歳だった」
「若いねぇ」
「ああ」
「ギターを見つけたとき、どう思った?」
「あんまり覚えてないんだ。不思議な感じだった。初めて触るのに、かなりしっくりきて、これならやれそうだ。となんとなく思った」
「運命的だねぇ……。そのあと練習したんだ?」
「練習とかって感じじゃなかった。楽しかったんだよ。自分で歌を奏でられるのが。ラジオとかから流れてるのと、似たような音の連なりが自分でもやれるのが、ひたすら楽しかった」
「今も弾けるの?」
「……今はもう弾けない」
「そのことについては、どう思う?」
ジョージは、隣でギターを抱えている青年を見つめた。ぴたっと動きを止めている。演奏は終わっていたが、そこから立ち去ろうとはしてない。また、宿店主とジョージの会話を聞いているというわけでもなさそうだった。他の客たちについても同じだった。彼らはまるで時間でも止まっているかのように、動きを止めている。宿店主だけが、のんきに酒を喰らっていた。
「どう思うのよ? 実際のところ」
「どうとも思わない」
「そんなわけない。もっとちゃんと思い出してごらんよ。この頃のあんたはとてもいい顔をしてる。自分のやりたいことをちゃんと知ってる顔だよ。ただ生きてるだけの人間にはこういう顔はできない。そういうものを、いつの間にか、あんたは失ったんでしょ? 少なくとも今は空虚なんだから。そのことについて、真剣に向き合ってみなよ」
ジョージは黙った。死んだ貝のように固く口を閉ざしていた。
――オレはギターをなくしちまった。どこかに置いてきてしまった。確かあの時、弾けなくなったから、もう棄ててきたんだった。弾けなくなったギターなんてただ大きくて邪魔なだけだから、棄てたんだった。その時は、かなりあっさりした感じだったと思う。全然後悔する感じはなかった。でもそのあと、音楽そのものが嫌いになっちまった。いや音楽だけじゃない。努力とか、積み重ねとか、目的をもって行動することが全部嫌になったんだ。そういう生き方は結構楽だった。ただ生きてるだけみたいな人生。不愉快な気分になることは多かったけど、あんまり波がなくて、いい。大切なものをそのまますぱっと、心から切り離すのはやってみると簡単なことで、でもそれは、他の大事らしいところも一緒に棄てちまうものだったんだと、今になれば思う。どうだろう。今こうして、あの頃のオレを見てみて、オレは何を思うのかな? もしかしたら、なんとなくだけど、涙が出たりするのかもしれない。
――大事な思い出だったんだねぇ。と、しみじみ宿店主が呟いた。
「よっしゃ。まぁこんなところでしょう」そう言って、店主はスツールから飛び降りた。酒瓶はカウンターに置き戻している。
「さぁさぁ、行きまっせ」
「え?」ジョージが素っ頓狂な顔を見せた。
「へいへい、我々の目的を忘れていやしないかい? なんてったって呪いですよ。呪い」
呪い。そう言えば呪いとかなんとか、言ってた気がする。なんだろう?
「あ、オイオイ、まったく。人間は感傷的でいけないなァ」宿店主は、ジョージには理解できない、よくわからないことを言った。
「あんたは気にせんでいいからさ。とにかく、続きを見に行こうじゃないの」
宿店主は、おおきな腹を揺らして歩いていった。――もう、置いてくよ。あんた。こんな湿っぽいところで、取り残されるつもりかね? いつまでも過去の自分の姿を見ていたジョージに対して、彼は笑った。
ジョージは理由もよく分からないままに歩き出した。宿店主に続いて酒場を出るとき、ふと後ろを振り返ると、遠く離れたカウンター席のところから、ギターを抱えた自分が、とても悲しそうな目でこちらを見ているのが分かった。それを見て、思わず立ち止まってしまった。しかし、後ろから強い力で襟首のところを引っ張り上げられて、彼は酒場から飛び出してしまった。
酒場の扉を出たところで、がつんと頭を殴られるようなめまいに、ジョージは襲われた。ぐむ、と唸って、その場に膝をついた。ちょっと耐えられなくて、彼はゆっくりと身体を横たえた。ぐーん、と脳みそが伸びたり縮んだりして、ようやく回復してきて目を開けたときには、彼はあの夫人の、小さなテントの中に横たわっていた。
口の中が酷く乾いていた。舌の先から、肺の内側、あげくは胃の底までもが、日照りのあとの地割れのように乾いている。ジョージは身体を起こして、頭を振った。頭痛がした。腕や脚はどこか感覚が鈍い。夫人はいつのまにか元の場所に戻っていた。彼女は初めからずっとそこにいたかのようにして、薄汚れた狐の絨毯の上に座していた。しかし今改めてジョージが見ると、今度こそ死んでいる身体のようにしか見えなかった。胡坐を組んで項垂れる彼女の膝の上に、煙管が置いてあった。
「おつかれさん」頭の上から声がした。外からテントの中に頭を突っ込んで、宿店主が彼を見下ろしていた。
「やや、あんた立てるの?」そう言いながら宿店主は太い腕を以て、ジョージをテントから引き出した。外では強い日差しが降り注いでいた。太陽は真上にある。正午だろうか。ジョージは思った。
太陽の光線が彼の目を焼いた。そして頭痛がますます強まった。
「水を」虫のようにか細い声で彼は言った。
「ああ、はいはい。そう言うと思って用意してきましたよ」宿店主は応えて、ジョージに緑色の瓶を手渡した。彼は貪りつくようにその瓶を咥えた、そして中身を一口、勢いよく飲み下してから、そのあと勢いよく噴き出した。
瓶の中身は、強い酒だった。わはは。と宿店主が笑った。
「水なんて景気の悪いもん飲ませないさ。どうだい。染みるだろ」宿店主はくつくつと喉を鳴らしている。
文字通り染みた。内臓が焼けて爛れ落ちてしまうような気がした。燃える喉でジョージは唸った。
「立つんだよ。まだ終わりじゃないぞ」宿店主が胸倉をぐいと掴んで、彼を壁に押し付けた。ジョージはなんとか背中に力を入れて、壁にもたれる形ながらもそこに立った。
宿店主がジョージの顔を容赦なく張った。ばちっ、ばちっ、とくぐもった音が路地に響いた。それから、ジョージが握り込んだまま酒瓶をむしり取って、中身を口の中に含んだ。それで口をもごもごとゆすいでから、今度は激しくそれをジョージの顔に吹きかけた。
「しっかりしなよ。サンダンス。我々にはまだやることがあるんだから。こんなところでグロッキーなんじゃ、先が思いやられるな」
乾いた肌にアルコールが滲み込んでくるのが分かった。ジョージは混濁した意識を何とか保とうとした。宿店主の手から酒を奪い取って自分で飲んだ。また身体が内側から燃えるような感覚に襲われたが、構いやしなかった。
「自分で立てる。続きがあるんだろう。行くぞ」ジョージは酒で口を漱いでから、吐き捨てた。
――おお、いいねぇ。店主は嬉しそうにジョージの肩をばしばし叩いて笑った。
「さぁ、じゃんじゃんやってこうじゃないの。時間はもうないんだぜ。人間の命ってやつは、本当にやりたい事を見つけてからはすごく短くなるんだ。あんたについてもまた然りさ」
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