9. 地面を見たことはあるが地球そのものを見たことはない
ミンが部屋を去ったあと、しばらくしてのことだった。深夜、ホテルで一人佇むウラノはそれに身を震わせた。再び、彼のドアを叩くものがいたのだ。その音はまったく気遣いのない、不躾で下品な響き方をした。うるさいというより、不快な音だった。ウラノには、どこか水気を含んだようなべたべたしたノックに思えた。
ドア付きの覗き窓から、ノックの主を見たとき、ウラノは小さな悲鳴を上げてのけぞった。外に居るものが、どうも人間らしくない感じがしたからだった。
出来の悪い、太くひん曲がったきゅうりのような形をした頭に、工作の授業で子供が作ったような目鼻がくっついている。口がやけに大きい。ぼろぼろになった歯が数本、半開きの口から覗いている。普段から口を開けっぱなしにしているらしい表情をしていた。白い肌の色は無機質の白さで、ところどころにある灰色のシミが、黴のようでもあった。彼が着ている黒いタートルネックのセーターは、本当に似合っていない。ウラノはこの人物に、どこかの町で見た古びれた蝋人形を思い出していた。人影はまるで人間だが近づいてみれば、それが人でないということは一目でわかる。
それは覗き窓からウラノが覗いているのを知っているかのようにこちらを見つめている。小さな黒い目玉がきゅっと縮んでから、大きく開かれた。そしてささやくように、きゅうり男は言った。
「リチャード様。リチャード・サンダンス様。そこに居られますな? 居られるということはわたくしにはわかっております。我々は『雨男協会』でごさいます。私は協会からの使者でございます。どうかここをお開けになってください。わたくしは協会からの使者でございます」
ウラノは、開けたくないと思った。たとえ協会からの使者であろうとも、この怪人と接触を持ちたいとは思えなかった。不気味な人物だった。凶兆的というか、凶そのものという感じだった。どうするか彼が迷っている内に、やはり何度も水っぽいあのノックが叩かれた。
「リチャード様。リチャード様。どうかお開けください。協会からの重要な言伝てがございます。あなた様の雨についてのお話でございます」
まったく場所を考えない、憚りというもののない大声で男は言った。そしで懲りることなく、べちゃべちゃと湿ったノックを続けた。
ウラノは、もう今日は雨の話なんか聞きたくなかった。でもこのノックと男の喋りを聞いているのも嫌だった。狭い部屋のなかに、喉を病んだ野良犬のような声が響き渡る、――雨です。雨のことでございます。リチャード様。どうかここをお開けください。
我慢できなくなったウラノはドア越しに答えた。
「協会からの伝言なら、それは明日にしていただけませんか。今日はとても疲れているんです。それに、――あなたにとってはどうでもいいことかも知れませんが――僕の名前はウラノです。リチャード・ウラノです。リチャード・サンダンスじゃない」
しばらくの沈黙のあとより一層大きな声が返ってきた。
「ああ! やはりいらしたのですね。リチャード様! 今にも立ち去って、明日改めてやってこようと思ったところでした。リチャード様。伝言てがごさいます。どうかここを開けてくださいませんか」
「だから、今日は疲れてるんです。明日にしてくださいよ。ねぇ、聞こえてますか? 僕は、今日は帰ってくれ、と言いたいんです」
「そんなことを言わないでください。わたくしは本日中にリチャード様にメッセージをお伝えすることになっております。それに背くのは駄目なのです。だからどうかここを開けてくださいませんか」
「僕の都合で相手にしてもらえなかったと、協会に説明すればいい。なんなら僕の方から協会に、――ライダーに伝えます。それでいいでしょう。だからさっさとどこかに行って下さい」
うぅんぐむふうと、およそ人間とも獣ともつかない音声が続いたドア越しに発された。それから男の懇願が続いた。
「ああ、ああ。どうかそのようなことを仰らないで下さい。このオカクラめには、使命がございます。リチャード様のお役に立つことでございます。ですから、今ここでドアを開けてくだされば、リチャード様はきっと、『ああ、こいつの言う通りにしておいてよかったな』と思われるでしょうし、反対に、ここでわたくしの言伝てをお聞きにならねば後に『ああ、あのときオカクラとやらの言うことを聞いておくべきだったな』と思われること必至でございます。わたくしは嘘はつきません。あなたさまは絶対にそう思われます。ですからここを開けてくださいませんか」
――そんなことは絶対にないだろう。ウラノは確信できた。怒りを通り越して、不気味さや恐怖までもが彼の足首を掴んでいた。さっきから執拗なまでにドアを開けさせようとするこの怪人は、一体なにだろうか。自分と同じ人間だとは思えなかった。
男の呻きごえやノック、ドアを手でぺたぺたと擦る音が続く中、ウラノは足音をたてないように後ずさって、ベッドに潜り込んだ。部屋の入口のあたりを警戒する。――大丈夫。あれがなんであれ、開けてくれと頼んでくる以上は、こちらからが開けなければ入って来れないはずだ。
全ての音が一瞬止んだ。
「そうでございます! だから開けてもらわねば、困るのです!」
腹の底からぞくりと、震え上がるような恐怖を覚えた。ドアノブが壊れそうなくらい、なんども捻られている。金属同士が擦り合わされる不快な音が、狭い部屋に神経質に響いた。
「リチャード様。どうかここを開けてくださいな。わたくしが人の部屋に入るには、許可が必要なのです」
「それは、あんたが人間のふりをした悪魔だからだ」荒唐無稽な考えがぽんと浮かんで、しかもウラノはそれを口に出していた。
また沈黙があった。そして男が言った。
「そうです。わたくしは悪魔です。人間ではございません。悪魔のオカクラでございます。どこにでもいる程度の低い悪魔でございます。神々の足に踏まれてあるようなヤツです。背の低くて顔の醜いあいつらです。よかったですな。もしもこのままドアを開けようものなら、わたくしは、あなたさまを叩き殺して、焼いて食おうと思っておりましたのですよ」
――なんて恐ろしい奴だ。ウラノは身震いした。でも問題はない。この部屋は聖域だ。僕が許可しなければ奴はここには入って来れないんだ。奴自身がそう言っていた。
「ああ、お許しください。今のはほんの戯れでございます。……おや」悪魔が頓狂な声を出した。そして暗い部屋の空気の流れが少し変わったのが、ウラノにも分かった。
「ほほ、どうやら鍵をかけ忘れていたようですな」きい、と部屋のドアが開く音がした。途端に全身の肌が粟立った。ウラノは布団の中に頭を引っ込めて、子供のようにうずくまった。
ひた、ひた、と足音がベッドに近づくのを聞いた。――まやかしだ。これが悪魔のやり方なんだ。怯えちゃだめだ。あいつは僕を怖がらせているだけなんだ。こんなの何でもない。
足音が止まった。すぐそばだった。ぎっ、と床の軋む音がした。布団に頭を潜り込ませて、目を固く瞑っているウラノは、ただこの時間が過ぎるのを待つほかなかった。
耳元で、息の音が聞こえた。身体中から冷たい汗が吹き出し始めた。
「今日のところは、わたくしは引っ込みます。これは挨拶のようなものです。もしくは警告です。あなたがなにか、雨から、呪いから脱しようとしている具合があるものですから。それは許されません。あなた様のためにも……」
悪魔の声は、優しい響きでそう言った。どうやらこの場は収まるらしい。その事実がウラノを心から安堵させた。この醜く恐ろしい存在は、もうどこかに行ってしまうつもりだ。助かったんだ。何も損なわれることはなく済んだんだ……。青年は、今この時間にある負荷の終りに、えもいわれぬ心のゆるみを覚えた。だが一方では、自分が何か大切なものを取りこぼしているような気がした。ついさっき、とても重要なことが語られたような……、自分はそれを、ずっと求めていたような……。
――呪いから脱しようとしている。
頭の奥で、ばちっと火花が散った。恐れや不快を克服するだけの意味が、ウラノの心を叩いた。
彼はゆっくりと身体を起こした。顔にまとわりつくシーツをはがして悪魔に対峙した。オカクラはやはり部屋に侵入してきていた。巨大なきゅうり型の頭を、猿のようにポリポリと手を伸ばし掻いている。恐ろしい姿だった。悪魔は何も言わず、ただ青年を見つめていた。その眼は左右が独立して、小さく動いている。しかし動きの中心には、ウラノが焦点にあるのが分かる。ウラノは言った。
「ぼ、――僕は、近づいているんだね」
はぅ、と悪魔が息を呑んだ。少し驚いた顔になって、そしてすぐに、憤怒の顔になった。ブルブルと頭が細かく揺れ始める。
「リチャード様、いけません。そんなことを考えてはいけませんな。それは契約を反故にするのと同様の行為でございます。わたくしはそれを許しません」
悪魔の息が激しくなる。喉の奥から、声にならない声がぶしゅり、と噴き出した。
「これは夢だ。でも本当に起きている会話でもある。だとしても僕は君のことなんか怖くない。全然怖くないぞ」
ひどく恨めしそうな表情で悪魔は一歩引いた。乱杭歯の激しい口元から、よだれがだらだらと漏れている。ウラノはべッドに腰かけたまま、続けた。
「君が僕に呪いをかけたのか? それとも君が呪いそのものなのか? なんにせよ。僕は近づいている。それが今分かった」
悪魔は彼を指さしながら、責めるように言った。
「リチャード様。わたくしと戦うおつもりですか? そんなつまらないことはおよしなさい。あなたのためを思って言っておるのです。それは賢いやり方ではありません。ただあるものをそのまま享受するのが人間の生き方というものでございます。あなたなら分かるはずです」
「僕は君と争うつもりはない。ただ自分の人生に対して、いくらか向き合うべきものがあるのなら、そうしてみるべきだと思っているだけだ」
悪魔は怒りではなく呆れの表情になっていた。ふん、と鼻で笑うようにして、ウラノに背を向けた。
「きっと後悔なさいますでしょうよ。リチャード様。自分がどこを歩いているのか、全然、分かっていないんです。ああ、可哀想に」
そう言ってゆっくり歩きだしだ。部屋を出て、誰もいないホテルの廊下をのそのそとした足取りで帰っていった。その背中はだんだん薄くなっていて、廊下の突き当りの所で、悪魔は完全に消えて見えなくなった。ウラノは最後まで、それを見送っていた。
まどろみの中に雨音を覚えたウラノは、ゆっくりと目を開けた。彼の大きな身体は、安宿のベッドの上に深く沈んでいた。鼻孔に流れ込む空気はいつもの通りに湿った臭いを含んでいて、肌はかすかな水気を帯びている。しかし雨の空気がもたらすそれ以上に、彼はかなりの汗をかいていた。シーツも服もべたべたに濡れていた。
昨晩の来訪者の言った通り、雨は再び訪れた。分厚い雲が空を覆っていた。強い雨だった。
やはりとしか思えない。そう、やはり、やっぱり。僕はやっぱり――。
シャワーで汗を流してから新しい服に着替えた。シャワーを浴びていると強い空腹を感じたので、ホテル近くの食堂で朝食をとることにした。トーストとゆで卵とコーヒーのセットを一つ頼んで食べたが、全然足りなかったので、トーストとゆで卵をもう二つずつ、それからポタージュスープとサラダと、ソーセージ・ソテーを注文した。それらがいっぺんに彼のテーブルの前に並んだ。彼はおもむろにそれらを食べ始めた。食べている途中は、いくら食べても足りない感じがした。だが全部を平らげたところで、穏やかな満腹感が訪れた。
ホテルに戻ったが、部屋は引き払わないでいた。彼はまだ、この街でやりたいことがあった。ロビーにある公衆電話に小銭を放り込んで、「雨男協会」に電話をかけた。出たのはライダーだった。
「もしもし、こちらウラノ」
「やあおはよう、ウラノ。その後、雨の調子はどうだ」
「昨日は晴れたよ。それで一晩晴れが続いたみたいだけど、今は土砂降りだ」
「晴れたのか? ああ、どうなってんだろうな。でも今は雨か。――心身に問題はないか?」
「今日はいつもより調子がいいくらいだ」
――ふぅん、そうか。ライダーが言った。
「まぁ、あんまり無茶をしたりはするな。お前がつまらん怪我やトラブルに遭うのは、協会としても、俺個人としても好ましいことじゃないからな」
「ライダー」ウラノが呼びかけた。
――なんだい。相手が答えた。
「雨男協会って、本当にあるんだろうか」
沈黙。そして割れて飛び出すような、笑い声。
「なんだって? おい、しっかりしてくれよ。雨男協会がなければ、いったいお前は誰と電話しているんだ? お前があちこち旅を続けていくための金は、どこからひねり出してると思ってるんだ? その辺の樹になって生えてるわけじゃないぜ」
「そうさ、確かに君の言う通りだよ。それらしいものは、やっぱりあるんだよ。でもよく考えてみれば、僕は雨男協会の事務所には行ったことがないし、他の協会員にも出会ったことはないし、それに、ライダー、君のことだって、僕は声しか知らない」
「……なるほどな。言いたいことはわかるよ。確かに俺もだ。地面を見たことはあるが地球そのものを見たことはないし、銀行は近所にあるけど、金融とか経済ってやつについては、どうも本当にいるのか怪しいもんだ。円周率も、三・一四一五九二……と習ったが本当そうか確認したことは一度もない」
「ねぇライダー。本当に雨男は僕以外にもいるのか? 本当は、君は僕一人だけを相手にしているんじゃないのか? なんだか妙な気がしてきたんだ。雨男協会なんて、まるで荒唐無稽だ」
「雨男がいまさら何を言っているんだ?」ライダーは笑った。そして続けた。
「なぁ、例えば雨男協会がなにかとんでもない嘘っぱちだったとして、一体そこに何の問題があるんだ? お前は雨男で、そして我々『雨男協会(お前の言い分を通すなら、そう名乗る何かだけど)』はお前の体質を活かしてやってるじゃないか。お前は国中を放浪しながらもちゃんと飯を食えるだけの金を受け取ってる。確かに契約書は交わしてないし、お前としてはいつ切れてなくなる援助か分からないだろうから、心配かもしれないが――」
「僕は雨を終わらせる方法を見つけたかもしれないんだ」ウラノはライダーの言葉を断ち切って言った。
「この街を最後に、僕はもう雨の呪縛から離れられるかもしれない。そんな気がするんだよ。そのことを雨男協会に……君に伝えておこうと思ったんだ。色々考えてみたところ、僕は雨男協会というより、声しか聞いたことのなかった君に対して、いくらか愛着を持っているみたいでさ」
「雨男協会に脱会規定はないんだ。ウラノ」それは恐ろしく冷たい声だった。ウラノが今までに聞いたライダーと名乗る青年の、その声で、もっとも冷たいものだった。芯まで凍り付いているような響き方をした。ウラノは思わず、受話器を取り落としそうになった。
「雨男協会はお前が考えている程度のものじゃないんだ。もっとだ。ウラノ、雨男協会を敵に回すということは、人生そのものを大きく傾ける行為だ。たとえ方法を見つけたからといって、雨を本当に終わらせることはできないだろう。雨男はお前の他にもたくさんいるよ。本当にたくさんいる。雨男協会は誰も実体を知らない。でも大きな流れの一つとして、必ずある。雨男協会は、人間じゃないんだ。もっと卑猥で下劣な存在が協会の中核にあるんだ。俺はそれが何なのか知らない。でもな、地球や、経済や、円周率とは違って、俺はそれを一度だけ目にしたことがある。恐ろしい姿だった。なんだか分からないうちに、すっかり消えてどこかに行っちまったが、あの姿は今でもはっきり思い出せる。人間に化けた奴だ。あいつの本性はバケモンさ」
ウラノは昨晩の悪夢を思い出していた。あの奇怪な男を、ライダーも見たのだろうか。
「ウラノ、雨男っていうのは、ただの呼び名なんだよ。世界中に雨男は腐る程いるんだ。お前も俺もその一人に過ぎない。だから俺たちは雨男協会からは逃げらないんだ。俺たちが雨男であるからこそ、ずっと協会は俺たちをサーチしてる。それが協会の本質なんだ。協会は組織じゃなくて、総体なんだよ」
「……君は一体なんの話をしているんだ?」
「雨男でありつづけることは、辛いよな。でも、雨男でいなくなることが、俺たちにはできなかった。そうだろ? 協会はその総体なんだ。協会を拒むことはできないんだ。雨男でいることがそのまま、協会との繋がりなんだよ。俺がそれに気づいたときには、もう駄目だった。俺はどっぷり浸かっちまってた。今から抜け出そうというわけにはいかないんだよ」
「ライダー? 君、泣いているのか?」
「俺はもう駄目なんだ。目を背けている。協会は居心地がいいんだ。俺はここで腐っていける。他にも仲間がいる。俺たちは井戸の底で繋がってるんだよ。ウラノ、お前もいつかここに来るんだと思っていた。でもどうやらそうじゃないみたいだ。あるいは全部お前の妄言なのかもしれない。でも、そう言えることに、雨を終わらせることが見えているなら、終わらせたいと本気で思えるのなら、お前にはその資格があるのかもしれない。俺にはそんな気がするよ。なぁウラノ、もうここには電話を掛けてきてはいけない。わかるよな? 雨男協会に脱会規定はないんだ。それでも雨男を辞めようとするなら、そこからは対決だ。もう俺にお前を手伝ってやることはできない」
心なしか、雨音が強まった気がした。
「雨男が不滅なように、協会もまた不滅だ。それでも、数か少なくなれば、もう少し世の中から雨が減るような気もする。そういう風になっていけば、俺は駄目でも少しは嬉しい。お前がそうなら、俺は、もっと嬉しいな」
次第に嗚咽混じりの、呻き声での言葉が多くなっていく。ウラノには少しだけ、ライダーの言っていることの意味が分かるような気がした。そして、何か答えてあげなくてはならない。そう思った。
「……ありがとう。ライダー。それじゃあ僕は、雨男を終わらせるよう、頑張ってみるよ」
――あぁ。おうえんしているよ。ライダーは、か細い声でそう言って、電話を切った。最後のライダーの声が、いつまでもウラノの鼓膜に張り付いていた。
――もう彼に会うことはおろか、声を聞くことさえもないだろう。そういう悲しい予感があった。
もうライダーは、僕の電話には出てくれない。彼がそう言った。もう掛けてきてはいけないと。そして、そこからは対決だ、とそう僕に言い残した……。
通話の切れた受話器をしばらく握り込んでいた。なぜかこの電話に酷く疲れたウラノは、ロビーのソファに深く腰掛けた。――始まっている。動き出している。近づいている……。
雨足はいっそう強まりつつあった。街のあちらこちらで雨を呪う言葉が囁かれたが、ウラノにとってそれは日常的なものであった。
ライダーとの電話を済ませたあと、彼はやはり太陽女神像の、あの広場へと向かっていた。道はしっかり記憶していた。進むにつれて雨は力強くなっていくふうでもあった。傘を差していても、身体のあちこちが濡れ始めている。
広場は閑散としていた。今朝には降りだしていたであろう雨が、噴水のプールの半分くらいを汚れた水で満たしている。女神像は雨に濡れて鈍く光っていた。これは象徴であって本当の女神そのものというわけじゃない。ウラノはそう思った。
衣を纏った女神のその爪先あたりに、噴水の向こう側、ミンの喫茶店のドアが見えた。ウラノはゆったりとした足取りでカフェの方へ向かった。円形の広場をぐるりと、女神を中心に回っていく。喫茶店の入り口には幌が張り出しているので、そこに入って傘をたたんだ。水滴を切っていると、ドアが内側から開いた。
「入れよ」ミンが言った。
昨日と何一つ変わらない様子の店内だった。柔らかいコーヒーの香りがただよっていて、そしてラジオが小さな音量で流されている。違うのはアンリがいないことと、外から入ってくる激しい雨音だけだった。
カウンターに一杯のコーヒーが置かれた。ことん、と聴こえるか聴こえないかぎりぎりの音だった。その席の、一つ飛ばした隣のスツールに、ミンは座った。呆然としているウラノに、彼は呼び掛けた。
「座れ。喫茶店でずっと立ちっぱなしなのは店主だけでいい。そして客が少ないときは、店主だって座って過ごす」
ウラノは席に座ってから、ミンに言った。
「昨日もそうだったけど、全然客がいない」
「平日の午前中は、大抵のひとが勤めに出ている。この街の人々はどこかの観光客のように暇じゃない。それに今日はひどい雨だ。客の足も遠のく」本当のところ、メインストリートから離れたこの店では日常的にラジオの音が閑古鳥の鳴き声のように鳴り響いていた。だがミンは意地を張ってそうは言わなかった。
「それで、今日はなんだ」
ミンはまったく憚ることもなく、率直に用件を尋ねた。遠慮も寛容もない声色だった。――全てはもう終わったはずだが。その目が言いたいことは、ウラノにもよく分かっていた。
「お別れの挨拶というわけでもなさそうだな」店主がため息交じりに呟いた。
「今日はお願いにきました」ウラノが言った。
――ふぅむ。そう口ごもってから、ミンは髪の毛のないこめかみ辺りを大きな指で撫でた。一度くるりと回転してから、今度はごしごしと擦った。彼の禿頭は雨の湿気やうっすらとした彼自身の汗のせいで、店内照明に照らされてぴかぴかに輝いていた。
「僕の呪いを解く手伝いをしてほしいんです。どうかおねがいします」
ミンは怒ってもいないし、喜んだり悲しんだりもしていない。なんとも中庸な、感情の様子が付かない、妙な感じに眉毛を傾けていた。ポットから、おそらく私用と思しいピンクのマグカップに、コーヒーを注いで、それを飲んだ。ふう、と息を吐き出すと、「そっちも冷める前に飲めよ」と、ウラノのカップを差した。――ありがとう。と答えて、ウラノはコーヒーに口をつける。昨日と変わらない、穏やかな口当たりのおいしいコーヒーだった。
「私は、人にものを頼むということは、それはそのままディールだと考えている。つま〈
「今僕が、あなたたちに与えられるものは何もありません。ちょっとくらいの金ならありますが、そんなものは釣り合う代償にはならないはずです」
「だったらどうするんだ?」
「僕にできることなら、なんでもやります」
やれやれ、とミンは頭を振った。
「そんなことは、思っても言うものじゃない」それから続けた。
「もしかしたら、またお前がここに来るかもしれないとは思っていた。でも昨日の今日でとまでは考えていなかったよ。どういう心変わりがあったか知らないが、いい意味で柔軟に、言い換えれば幾分タフになったようだ」
「それは、どうも」ウラノはカップの中身に視線を落として言った。
カフェ店内の椅子やテーブルたちは、申し合わせていたかのようにぴったりと動きを止めていた。カウンター向こうの薬缶も、棚に並ぶカップやグラスも、そしてウラノとミンも、眉一つ動かさない時間があった。滑らかな湯気を噴き出し続けるコーヒーと、壁にかかる時計の、その秒針をこちこち刻むものが、どうしても我慢できず、世界に動きをもたらしていた。
ミンが口を開いた。
「手伝ってやる。その見返りについてはとりあえず考えておく。ただこれだけは分かっておいてもらうが、結局は呪いはお前が自分で解くしかない。私はその手伝いをするだけだ。どんな手段で呪いを解くかということさえも、お前は自分で見つけなくてはならない。呪いとはそのまま、お前の問題であるからだ。つまり、私は呪いの解除を保証してやることできないし、お前の呪いは、最終的な段階においても解けないかもしれないということだ」
「それは分かっています」ウラノは頷いた。
それでは……。ミンが深く息をついた。それから、二人のカップに残るコーヒーを見つめた。
「まずは一杯飲み終えてからにする」
二人は互いを見ながら同時にコーヒーを啜った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます