2. 少しだって許せなかった
大きな戦争が終わって、しばらくが経った頃のことだった。
共和国北部の田舎町に住む青年、ジョージ・サンダンスは歌手になることを夢見て首都キューランドにやって来た。使い古しだが丁寧な手入れが行き届いたギターとオリジナルソングの譜面が数十枚。母親が作ってくれたサンドイッチ。そして家族の写真。それだけを持って、都会にやって来た。
彼が故郷にいた頃、週末の酒場では、いつだって彼の歌が求められた。ジュークボックスの音楽より、彼が即興で弾く歌の方が人々の酒に合ったのだ。あるいは、流行歌を垂れ流すその機械に放り込む小銭を惜しんだだけだったのかもしれない。それでも彼の歌は結局として求められていた。
ギターも歌も、それは言ってしまえば基本を押さえている程度としか言えなかった。声は大きいが、歌声が思わずひっくり返ることもよくあった。ギターのミスは少ないが、それは単調な曲ばかり弾いているからでもあった。聞き手をうっとりさせるテクニックなんか、持ち合わせていない。彼のギター・テクニックの指導者は、三十年前に出版された古文書みたいな教本だけだった。彼の演奏には、良いところと悪いところが、同じくらいの数だけあった。
それでも、彼の弾き語りには不思議な魅力があった。それは声色にあった。彼は普段の話声からして、どこか間の抜けた、鼻にかかってもったりとした声だったのだが、それがいざ歌になると、アコースティックギターの素朴の音にぴったりだった。
週末の酒場が開いて、人々がやって来る。皆が酒を飲んでテーブルごとにくだらない話をしたり、ゲームに興じたりしている。そして九時になると、ギターを背負った、ネルシャツの青年が現れる。頭はもじゃもじゃで、なんだか眠そうな目をしている。間違いなく、女の子に気に入られるタイプではない。でも彼がやって来ると酒場は静まり返った。彼はカウンターの端っこに座って、挨拶もなしに三曲やる。その場の全員がそれを黙って聞いている。三曲目が終わると、恥ずかしそうな声で「ありがとう」と言って、酒場の裏に消えていく(彼はもともと、ここのアルバイトだった)。しばらくの余韻のあと、徐々に酒場には騒がしさが戻ってくる。そういうことが彼の故郷で行われていた。
酒場で小銭を稼いで、週末に場所を貰って歌を歌う。そういう生活の中で、やがて彼の父親が言った。
「ジョージ。お前のギターはラジオから流れてくる奴らのより、ずっといい。お前はすっとぼけてはいるが、ギターに関しては、町のみんながお前を認めている。もうこの国は好きなことやっていい時代になった。だからお前も好きなことをやってみろ」そう父親に言われて、ジョージは都会に上ることを決めた。
彼のギター・テクニックは他のミュージシャン志望の連中の足元にも及ばなかったし、また彼はその時業界で流行っていたものとはまるで合致しない作曲センスしか持っていなかった。しかしそのスタイルは他にない、珍しいものだった。彼の歌はすぐになかなかの評価を受けた。
彼は故郷の町と同じように酒場で歌わせてもらえるようになった。ただその酒場は、故郷のそれの倍以上の規模の酒場だった。常にピアノが演奏されていた。たった一人の客さえも、それをまともに聴いている様子はなかった。やがてピアノが終わり、ジョージの出番が来た。彼はその日で、五人いる新人歌手の内の一人だった。一番目がジョージだった。はじめジョージの歌は誰の耳にも留まらなかった。相変わらず客たちはおしゃべりとゲームに夢中になっていた。カウンターの隅に座る年老いた労働者が一人と、くたびれた娼婦が一人、彼を見ているだけだった。ジョージが演奏を終えて、騒がしい場所から裏に抜けると、酒場のオーナーが「明日も同じ時間に来てくれ」と言った。言われた通り翌日も同じことすると、今度はいくぶん身なりのいい連中が何人かやって来て、ジョージの名を尋ねた。それから、いついつのどこで歌ってくれと頼まれた。ジョージはそれを承諾して、約束通りにやった。
ジョージはとんとん拍子に成功していった。そしてついにレコーディングの機会を手に入れた。国内で最も勢いのあるプロデューサーが、彼に目を止めたのだ。彼らは二人きりで話をした。プロデューサーは、ジョージに対して、音楽以外のことを尋ねた。人生の見つめ方や、好きなもの、嫌いなもの。金を何のために使う人間なのか。また読書をするかどうか(ジョージはコミックしか読まなかったのだが)。
その男は、音楽に関しては、本当のところ素人程度のセンスしかなかったが、人を見る目だけは確かだった。男はジョージの教養のなさ(彼は高校を卒業して以来勉学近づくことはなかった)にやや懸念を示したが、それでも彼を認めた。二日後には、彼の用意したスタジオで収録が行われることになった。曲の名前は「The Sundance by Sundance(サンダンスの太陽ダンス)」というジョージの冗談を発端としたものになった。
だがその会合の日の晩、ジョージはチャンスを失うことになった。
それは演奏を頼まれていたとあるバーでの出来事だった。今までにジョージが演奏してきたどんな店よりも洗練された場所だった。そこはただ酒が飲みたいだけの人間なら決してやって来ないような店だった。まだ表に出てこないけど、いつか大成するだろうと見込まれた若手が呼ばれることで有名な店で、ちょっとした内輪の集まりでもあった。かなり規模の小さい店だったが、出している酒、客、ドアの重み、空気、全てが徹底された計算のもとに成り立っていることが、商売に疎いジョージにもよくわかった。
その場所にいた人々は、今でもその出来事のことをよく覚えている。ジョージの名前はもうすでに業界ではかなり広まっていたし、件のプロデューサーが手をつけた時点で、彼の成功は約束されたようなものだった。だから今日のライブはかなりの人々が期待していたのだ。
でもちょっとした不都合があった。その日は、未来のスーパースターが、彼の爆発的な煌きを始める最初の一瞬であったのかもしれないのに、不都合は自ずからして、そのライブにやってきたのである。
ロメオという男がいた。その店は、どちらかと言えば誰でも入れるような店ではない。ある程度の地位や、コネクションが無ければそこにはいられない。ある種の社交界を形成していた。そのはずだった。だから、礼儀をわきまえない人間や、うるさいだけの人間が来ることは滅多にない。でもごくまれに、「誰かの友人の知り合い」みたいな距離の人間が、ひょっこり紛れ込んでやって来ることはある。そしてその人物が、あまり歓迎されないタイプの人間であることも、本当にごくまれにあった。それがロメオだった。
ロメオは周りの他の人々に比べてずっと若かった。ジョージより少し上、二十代前半というところだった。ロメオは当時のキューランド市長の甥っ子で、有名大学の法学部に通う学生の身分だった。彼は実際のところ音楽にはほとんど興味がなく、この店に集まってくる人々を政治的コネクションとして利用するためだけに来ていた。多くの人が初め、若い同胞を受け入れ、彼がどのようにしてここまでやってきたのか、彼がどういうものを愛しているのかに興味を抱いて、彼を新しい友人として迎え入れようとした。しかし、しばらく彼と話して、ロメオがどういう人間なのか分かってくると、今夜の催しがダメになってしまわないことを祈るほか、彼らにできることはなくなった。
ジョージの演奏中、ロメオはずっと連れの女のおっぱいを触って遊んでいた。彼の頭の中では、演奏のあと、何人か目を付けていた人間に挨拶をしておくことと、それが終わってから女を抱くことの二つが機械的に計算されていただけだった。ジョージの姿も演奏も、彼の意識を捉えることはなかった。そして同様に、演奏中のジョージの目には、ロメオはおろか、すべての客は映っていなかった。街にやってきて、様々なものに触れたジョージの演奏センスは、最高級のものとは言えないけれども、いよいよ彼にしか持ちえないものになっていた。歌は彼の今持てる技術とセンスを最大限に尽くしたものとなった。いつもの、弾きなれた三曲だったが、ジョージの経験においても、これ以上ない出来になった。
演奏が終わると、ロメオを除く全ての観客が立ち上がって彼に拍手を送った。ロメオが連れてきた女でさえ、男のことを忘れてジョージに心からの拍手を向けていた。そのときになって初めて、ロメオは演奏をしている男が、だいたい自分と同い年くらいで、そしてこの場で最も小汚い恰好をした田舎者であることに気が付いた。ロメオはプライドの高い男だった。その高慢に、彼自身の能力はまったく追いついていなかったので、彼は常に言い知れない不安に憑りつかれていた。だから、ちょっとしたことですぐ誰かにちょっかいをかけたり、あるいは弱者の成功を失敗させるような悪戯をよく好んだ。
彼は味もよく分からないウィスキーを、景気づけに煽ってから、拍手と歓声の海を引き裂く甲高い声で怒鳴った。
「なにがいいんだ。あんなドブくせぇねずみ野郎の演奏なんかよ」
全ての音が止まった。場違いで、わきまえのない男に皆の視線が集まった。それが自分への非難のものだということに、もちろんロメオは気づいていた。彼は卑劣で、怠惰で、残酷な男だったが、決して愚かではなかった。
「古くせぇギターの何がいいんだ? 金持ちのオッサンどもに囲まれて持ち上げられて満足か? ねずみ?」ロメオは下品な歩き方でもってジョージに近づいた。あまりの失礼に唖然として、ジョージ以外の人間は彼を呆けて見つめることしかできなかった。
「オレは使い慣れたこいつが好きなんです。他と比べて音が暖かい」穏やかな笑顔を以てジョージは答えた。
「息がくせぇんだよ、てめぇが歌ってる間、ずっと臭ってたまらなかった。お前二度と人前で歌うなや」ロメオがジョージの胸倉をつかんだ。しかしジョージは超然としている。ロメオからは、煙草と酒の匂いがした。
「あいにくだけど、歯を磨くのは寝るまえだけなんだ」
ロメオが椅子を蹴っ飛ばした。それから、ジョージの肩を軽く突いた。それでもミュージシャンは、全くおっとりとした態度でいる。
「いいか? 調子に乗るんじゃないぞ。お前なんか全然、この街に場違いなんだよ。田舎者が必死こいてここまでやってきたか知らねぇが、大事なのは分をわきまえることだ。さっさと汚い連中が群がる穴ぐらに帰った方がいい。そしてもう出てくるな。お前のとろけた歌を聴かせてやるのは田舎のアホどもだけにしておけ」
少しだけ、ジョージの眉が動いた。彼はさっさとその場を立ち去るべきだった。ロメオはそれを見逃さなかった。
「お前がどこの出か当ててやろう。訛りでわかる。北だ。一年中寒くて、薄暗くて、湿っぽい北部の人間の喋りだ。あそこは気候が悪いから、人間も陰鬱な奴らが多い。お前を見てるとやっぱりそうなんだと分かる。腫れぼったい目つきも、陰毛みたいな髪の毛も、不潔な浅黒い肌も、ぜんぶ北の人間の特徴だ。野蛮な人間の血統だ」
ジョージの表情が、どんどん冷たく硬いものに変わっていった。もうロメオの掌の上だった。もしも周りの大人たちがこのときロメオを店から叩き出せていたら、ジョージの人生は百八十度向きを変えた方向に進んだだろう。それは誰もが予想していた栄光の道だった。でも現実はそうではなかった。
「お前の親父とお袋はきっと猿の一歩手前みたいなやつなんだろうぜ。お袋は腹がぼてっと突き出してて、身体のそこら中に脂肪がへばりついてる。親父は年中酒で赤くなってて、ちんぽの小さいやつさ。それで、猿に二匹で、嘘みたいに滑稽なセックスをして、お前が生まれたんだ。お袋は、くせぇアソコから、ひぃひぃ唸ってお前をひり出したんだ。猿山の王子さまの誕生だ。どうしてか、王子はすっかり自分が人間だと思いこんでしまったわけで、盗んだギターで人里に下りてきちまったんだな」
ジョージは深く項垂れた。まだ彼は理性を保っていた。でもそれが限界に近いことは、ロメオにはっきりと気づかれていた。ジョージの俯く顔の目ははっきりと開かれてる。そしてその瞳は、もうほとんど何も見ていない。
ロメオは本当に、人を不快にさせることが得意だった。初めはありきたりで、恐喝まがいのくだらない言葉をいくつか投げかける。多くの人間はそんなことでいちいち動じたりはしない。でも、なにかその人にとって、心ない触れ方をしてほしくないトピックがあって、ロメオは自分の悪口の中にそれを巧妙に織り込んでから吐き出す。そして、人々はそういう言葉に、どうしても少しだけ反応してしまう。それは見た目のことだったり、生活のことだったり、過去のことだったり、家族のことだったりした。そのどうしても避けられない微細な反応を、この狡猾な狐は絶対確実に捉えた。そこからはもう簡単だった。手慣れた魚屋が、まな板の上に上がった魚の腹を掻っ捌いて、内臓をずるりと引き出すような作業だった。ロメオは相手の本当に触れられたくないものに対して、考えつくかぎりの罵詈雑言を浴びせた。たっぷりとそれを浴びせる。彼が声を発せば、発するほど、相手の表情が変わっていった。それは激情に向かうものもあれば、静かに落っこちていくものもあった。ジョージは自分に対する非難について、それには全然平気だった。でも多くの心優しい青年がそうであるように、家族や故郷のことを馬鹿にされるのは、少しだって許せなかった。そしてまたロメオはそういう田舎者の心理をよく心得ていた。
「北部と言えば戦争にも参加しなかった臆病者の邦だったな。お前がさっきからずっと黙り込んでるのは、大事な家族と故郷が馬鹿にされてもなんにもできないでいるのは、それはお前のせいじゃないんだよ。生まれが悪いんだ。臆病者の猿の山で生まれたから、お前は故郷の誇りを傷つけられてもなにもしないんだ。醜い両親たちの、慰めみたいな悲惨な関係からこの世界にやってきたのがお前なんだから、なんにもできなくたって誰も責めたりしない。だからそうして大人しく黙ったまま、静かに回れ右して、お山に帰んな。肩から下げてるそのゴミも棄てまえよ。なぁ、それがいいぜ」
ジョージは都会の喧嘩を知らなかった。そういう意味では彼はやはり田舎者だったのだ。権力と金の深い結びつきを知らなかった。彼の故郷でもそういうものは確かにあったが、それは見えにくい形に変形されていて、子供の彼には認知できないところにあった。とにかくその若いミュージシャンは、ある種の権力者に対して、感情から暴力を振るう事の将来的な危険性について、さっぱり無知だった。
唸りを上げて突進するジョージを止めることができたものはいなかった。ロメオをここまで連れてきた者は、まさかこんな大ごとになるとまでは思っていなかったし、その時点においては、もうロメオを連れてきたのが自分だと周りに知られるのが恐ろしかった。その人物はその後、この集まりから完全に追放されることになった。
ジョージは、ロメオを吹っ飛ばして彼に馬乗りになると、ギターを弾くか、あるいは鉛筆で歌詞を書き出すしか能のない大きな手で拳を作って、その精神的侵略者を殴打し始めた。ロメオはしばらく攻撃を受け続けていた。やがて周囲の人間がジョージを引きはがした。ロメオは邪悪な笑みを浮かべながら店から出て、警察署に駆け込んだ。彼が店を飛び出してから、三十分もしないうちに複数の警官がやってきてジョージを捕えた。ジョージは自失茫然とした様子だった。彼は一晩の間、拘置所に叩きこまれた。拘置所は常に汗と黴の臭いが充満していて、隣の房では、薬と酒で潰れてしまった男が、夜通しで唸っていた。ベッドは硬く、そして湿っている。ジョージは、その上を南京虫が這っているのを目にした。彼は翌日の昼過ぎに解放された。まったく眠れなかったし、警官に組み伏せられたときの勢いで痛めたらしい肩が疼いた。
彼がふらふらになって、自分の狭いアパートに戻って来たとき、郵便受けには短い手紙が入っていた。件のプロデューサーからだった。そこには昨晩の騒動についてのお悔やみの挨拶と、ロメオの叔父から会社に電話が入ったこと、そしてジョージに関する全ての企画が頓挫したことが簡潔に記されていた。ジョージはなんとか弁解の機会を求めて、方々を巡ったが彼を相手にするものはいなかった。彼には、こんなに簡単に自分の価値がなくなってしまうことがとても信じられなかった。初めて出遭った、回避不可能の巨大な暴力で、彼の人生の全てがあっさり薙ぎ払われてしまった。
ジョージはギターが弾けなくなった。あの楽器をぶら下げて立つと、目の前にロメオの幻影が浮かぶようになった。悔しさや情けなさで、苦い涙を流す日々が続いた。流れる涙の代わりに酒を胃に流し込む習慣が身についた。漏れ出すため息の代わりに煙草を吸い込むことを始めた。そうして出来上がったのは、人間的な活力がすっかり空っぽの、くたびれた毛布のような男だった。幸い身体は丈夫だったので、仕事には困らなかった。田舎に帰る気にはならなかった。ギターを失った自分の姿を、家族や故郷の友人たち見せたくなかった。結局彼は、死ぬまで故郷に帰らなかった。ロメオや、成功間近のところで知り合った他の人達とばったり再会するようなことはなかった。もう彼らとは、住む世界が違っていたのだ。
音楽を失い、生活を繋げるためだけの労働を続けて、無為の時間が一年ほど過ぎたあたりで、ジョージは思った。――ああ、オレの人生はもう終わってるんだ。覆しようのない悲しい確信だった。街の景色が、騒がしさが、彼に人生の楽しかった頃を思い出させるので、それが辛くて彼は首都を去った。
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