Good night, Rain man

@isako

1. 運命を祝福する歓喜の歌声のように

 ある昼下がりのことだった。共和国南西端にある地方都市・サンタウンの郊外を走る幹線道路で、一台の車が交通標識の柱に激突して走行を止めた。その運転席に座る生白い肌の青年は、自らの不注意で叩き割る羽目になったフロントガラスの向こう、その上空に広がる晴れ間を見つめていた。ハンドルの上に顎に乗せて力なく項垂れている。それでも、彼の目は正面の空を見ていた。絶対に今これを見ていなければ、人生そのものが嘘であるとでもいわんばかりだった。額を切ったらしく、鮮やかな血が彼の白く面長の顔を伝っていくが、そんなことは一切気にならない。

「信じられない」

 青年――ウラノは呟いた。遠く耳鳴りがしている。その音は、彼がハンドルにつんのめっているので、無意識にもクラクションを胸で圧迫しているがゆえの音だったのだが、強烈な事故の衝撃と、目の前に映る晴れ間のせいで、彼はそのことには気が付かなかった。

 ――もしかして、あれは太陽だろうか。

 ひび割れたガラスの向こうの、そのまた分厚い雲の向こうに、強烈な光を放つなにかがあるのが見えていた。そのなにかは、ウラノの頭上をいつも覆っていた陰鬱な天蓋を、力強く引き裂く光をまき散らしていた。彼には輝く光線がちゃんと視認できた。陽の光を見て、ウラノは目を潤ませた。 

 ――とてもきれいだ。これが僕の人生から、今までずっと排除されてきたものなのだろうか。

 やがてウラノは気を失った。道路には彼の小さな車だけが、ぽつりとあった。それは彼の運命を祝福する歓喜の歌声のように、けたたましいクラクションを鳴らし続けていた。


 ウラノが目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。頭と胸が鈍く痛んでいる。呼吸をすると、胸が刺されるような感覚があった。しかしそれでも、致命的な傷を負ったらしいわけではなかった。――ついてたな。彼はそう思った。窓の外は薄暗く曇っていて、しとしとと雨が降っている。いつもの雨だった。

 彼は病院着に着替えさせられていた。事故の前に着ていたジーンズとジャケット、そして旅の荷物が入ったザックもなかった。ナースコールのスイッチを押して、目をつむった。慎重に息を吐き出す。胸の痛みは当分の間、引きそうにない。ベッドを降りていくことも今はできない。喉が乾いていた。

 医師と看護婦がやって来て、軽い問診があった。怪我はやはり重大なものではなかった。ただ頭が少し切れたので何針か縫っていることと、肋骨に小さなひびが入っているということが伝えられた。荷について尋ねると救急隊の人間がちゃんと病院まで持ってきてくれているらしい。この町の人々は比較的親切なのかもしれないと、ウラノは思った。町によっては、こういうとき荷物は戻ってこないことも多い。もっと酷ければ、救急車さえ呼ばれず、身ぐるみを剥がれることもある。

「キミ、旅行者だよね。まったく、あんななんでもないところで標識にぶつかるなんてさ。間抜けだねぇ」

 べっこう眼鏡の、調子の良さそうなその若い医師は笑った。これは町の雰囲気というより、この人物が特別馴れ馴れしいものなのだろうと、ウラノは思った。

「確かにそうですね」彼も合わせて微笑んだ。彼が事故を起こした道路は、町に向かって走る荒野の一本道だった。あんなところで事故を起こすのは、間抜け以外の何者でもない。自身も呆れ気味にそう思っていた。

「ずばり、よそ見だろう。ポルノでも見てたかい?」そう言ってワハハと笑う医師の尻を、看護婦がぴしゃりと叩いた。

「そう、よそ見ですよ。あまりに景色が綺麗でしたから、見とれてしまったんです」ウラノは答えた。それから、自分の記憶を反芻するように続けた。

「ちょうど、雨が終わったように見えて、晴れ間が……」思わず言葉が途切れる。

「そう言えば、君ちょっと肌の色が悪いね。もしかしてなにか持病があったりするのかな?」医師が言った。

「……いいえ。ただ仕事の関係で、あんまり外を出歩かないだけです。最近、日光を浴びてない」彼は慣れっこの応答をした。

「そう。ま、今回のものに関しては、どれもほっときゃ治るような怪我ばっかりだから。若いし、二、三日は寝てれば退院だね。観光はそのあとだ」そう言うと医師と看護婦は、これで問診は終りという感じに目を合わせて、それから立ち去っていった。

 一人になったウラノは、ベッドの上から、もう一度窓の外に目を向けた。そこにはやはり、ずっと彼の空を覆っていたあの雨雲があって、静かに雨を降らし続けていた。――そうだ。あの晴れ間はきっと、蜃気楼か何かだったんだ。だって僕は、雨男なんだから。太陽なんてものを目にするわけがないじゃないか。

 それでも未練がましく、ウラノは身体を起こして、窓の向こうの世界を覗き込んだ。たとえ幻想でしかなかったとしても、確かにあの気絶の前に、僕の前に現れたあの晴れ間は本当に美しかった。きっと本物の晴れ間はああいうものなんだろう。見ているだけで身体と、そして心まであたたかくなるような優しい光。事故のせいで一時的に精神が昂っていただけじゃない、心からの本当の感動があった。

 思い出すだけで少し涙が出た。それを拭ってもなお、彼は窓の外の景色を、灰色に染まる雨の街を見つめている。次の瞬間、あるいは雲が裂けてあの光が頬を照らすかもしれないと思って。

 サンタウン中央病院の一室で窓を見つめている青年は、名前をリチャード・ウラノといった。歳は十九で、雨男を生業としている。幼い頃に父親が失踪して、母親の一人手で育てられた彼は、十五のときに家から飛び出した。母親の下を離れたあと、彼はその特殊な性質を活かして、自分の生きる道とすることになる。

 必然的に雨をもたらすこの雨男というものは、やはり珍しい存在だった。ほとんどの人々はそんなものがいることさえ知らない。ウラノ自身も、自分が雨男であることは隠して生きている。また自分以外に雨男を見たこともない。

 戦争が終わって世界はある程度穏やかにはなったが、いつだって望まない特異性を持つ者はいて、また往々にしてそういう人間は、そのおかしなところと自分の心の一部を、すっぽりと覆い隠して生きるようになる。ウラノもそうだった。

 黒い髪とブルーの瞳、少し腫れぼったい唇と大きな身体のこの青年には、常に雨雲を呼び寄せるという特異があった。


 一晩眠ると、ウラノの身体はかなり回復していた。胸の痛みは相変わらずだが、立ち上がってその辺をうろうろできるくらいにはなっていた。やはり雨は降っている。少しも止んだ様子はない。もちろん雨が止むというのが、どういう感じなのか、彼は知らない。

 朝食のあと、ウラノは病院の売店に行った。町の新聞とバナナ・ジュースのパックを買って、入院患者用の談話室のソファに腰かけて新聞を読み始めた。特に目新しい出来事はなかった。サンタウンの町では、近く町長選挙が控えているらしい。ブロンドの若い政治家と、再選を狙う古狸の現町長が対決する一騎打ちの政争になるようだった。

 一面を眺めていると、車椅子に座った老人がからからと音をたててやって来て、ウラノに話しかけた。

「兄ちゃん、あれだろ。昨日の事故で来たひとだろ」なんだか嬉しそうに老人は笑っている。口には綺麗に歯が揃っていた。見た感じの歳にしては珍しいなと、ウラノは思った。

「そうです。明日か明後日には、退院しますが」そう答えると、老人は、「ずいぶん早いんだな」と少し寂しげな顔をした。長く病院にいるひとは、常に新しい友人を必要としているのかもしれないと、ウラノは口には出さずに考えた。

 しばらく老人と適当な会話を続けていた。老人は数年前に胃に癌が見つかったため、もう何度も入退院を繰り返しているのだという。

「まぁ、なんつってもトシだからね。あと一年かそこらで、さ」老人は自らの死を、ごく軽やかに言い表した。

「そんな気弱なことじゃいけませんよ」

 ウラノは儀礼的に彼の冗談を否定した。すると、少しだけ、老人の目が光った。

「気弱? ちがうね、おいらもう覚悟決めちまってんのさ。癌はそとみに出てきた理由ってだけなんだよ」

 老人の言ったことの意味が、ウラノにはうまく理解できなかった。

「だからね、人生ってのは、生まれたときから死ぬことが決まってるだろ? それはつまり、死ぬときは死ぬんだと分かってろって話なのさ。いざ腹の中に癌が出来上がったとか、頭にピストル突き付けられたとか、そういう瞬間が来て、それから焦っても、しょうがないんだね。あんたいつまで生きてるつもりだい? って笑われちまうのよ。場合にも寄るんだろうけど、おれみたいな病気なんかのときは、自分が本当に死ぬかどうかってなんとなく分かるんだよ。おれは何回かして、病院を出たり入ったりしたけど、もう次はないなって分かるんだ。でもそれは怖いことでも、悲しいことでもないんだよ。だっておれが生まれたとき(今から八十七年前さ!)には、こうなることが決まってんだから」

 そこまで言ってから、疲れたような感じで肩を落として、老人は続けた。「ああ、ちょっと喋りすぎたな。つかれた」器用に車椅子を回転させて、彼は談話室を去っていった。やせ細った背中がしょぼくれている。

 ――こうなることが決まってんだから。

 ウラノは考えた。人間の人生は、生まれたときから運命的に定められたものだったのだろうか。生物としての死は確かに決まっている。だったら、その過程はどうなのだろう。僕の人生にはあらかじめの決定や運命みたいなものがあるのだろうか。あるとしたらそれは、やはり呪いなのだろうか。

 ウラノは母の面影を思い返していた。彼の身長が母のそれを超えるようになったころ、母親は少年に、雨のことを話し始めた。それは家族の物語でもあった。――あのとき母さんは、珍しく酔っぱらっていた。でもあの話は決してくだらない作り話なんかじゃなかった。母さんが父さんの話をしてくれたのは、あれが最初で最後だった。彼の人生も運命だったのだろうか。僕の人生も、母さんの人生も、そして父さんの人生も、全部が変更予定なしの、絶対決行の運命として予めどこかに書いておかれたものだとしたら、それは、あまりにも残酷だ。この呪いが、予定的なものだなんて考えたくもない。


 幼子であったウラノの父親が失踪してから、おおよそ一ヶ月が経った頃のことだった。母子の住む町には、夏の温かい雨が降り始めた。

 母親――ミシェル・ウラノはその雨に特別の意味があるとは思わなかった。その地方の風土として、夏に雨が降ることは珍しくない。ただしっとりとした降雨が、夫の行方不明にやつれてしまった彼女の心を、優しく落ち着けたのは確かだった。窓を開けて雨の匂いを嗅ぐと、膝の上で眠る息子の幸せが予言されているような気さえした。彼女にとって、夫の突然の失踪――そしてそれには、確かに死の香りさえ漂っていた――は辛く厳しいものだったから、揺り返しとして、これからの時間は幸せが多くあればいいのにという祈りだった。人生に完全に絶望するには彼女はまだ若かった。

 子どもが元気よく育っていく一方で、その町の半年間続く静かな雨は世界中で注目されるようになっていた。異常気象である。強い雨ではないが、傘が必要なくらいのものが途切れることなく続いていた。どんな科学的調査も、その雨の原因を突き止めることはできなかった。世界中の誰が、その原因に、悲しい母子家庭の少年があたると思っただろうか。やがて雨のせいで、町の地盤が緩み始め、住み続けることが困難になった。町人たちはみんなして避難を始めた。最初の一団の中に、ミシェルとリチャードの母子もいた。列車で町を去った。しかし、どこまでいっても雨は終わらなかった。

 ミシェルの頭に、ふと「呪い」という言葉がよぎった。その言葉は彼女にとって、大きな意味を持つ言葉だった。大きな一つの呪いが、確実に一度、彼女の人生を壊滅させたのは事実だったからだ。――あのひとが言い遺した、「呪い」とやらがまだ終結していないのだとしたら、この雨はその延長なのかもしれない。雨はあの人の呪いで、これは私に課せられたものなのではないだろうか。そう思った。

 新しい町についても、やはり雨は降り続けていた。そしてミシェルは確信に至った。しかしそれは間違いだった。雨の呪いは彼女ではなく、彼女の息子にあるものだった。


 リチャード・ウラノの父親の辿ったごく短い悲劇的な人生は、残された妻と、そして子であるウラノの人生にも大きく影響を与えたものだった。そのことに少し想いを馳せて、病院談話室で十九歳のウラノ青年は暗い面持ちで床を睨んでいた。彼はなんとか気分を持ち直そうとバナナ・ジュースのストローを咥えた。

 そして新聞に目をやって、活字を追うことで思考を別の部屋に切り替えようとしたとき、驚くべき記述に彼は、まだほとんど残ったままのジュースのパックを、床の上にぼとりと落としてしまった。

 それは小さな天気予報の欄で、サンタウンの向こう一週間の天気はどうやら明日以降、晴れが続くらしいというものだった。彼はそれに釘付けになっていた。

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