16. 初夏の、まだ涼しい土曜日から始まるベースボールリーグ

 ジョージが意識を取り戻したとき、どこか高いところから落ちたような痛みが骨や内臓に染みこんでいた。口のなかに、砂が入っている。なんとか吐き出そうと試みるが、もう彼には強い息を吐き出すための体力もなかった。

 彼は井戸の底にいた。枯れ井戸だった。暗い井戸の底は、冷ややかで少し湿ったような空気に満ちていた。上方を仰げば、円形の蓋から漏れる日光で、美しい輪が作られている。しかしジョージには、もうそれを美しいと思う心が残っていなかった。最期の命が彼に伝えるのは、身体中の痛みと不調で、そういう土台の上にある心は、結局、とある個人へのどうしようもない憎しみだけだった。

 井戸の底は静かで、彼の息以外の音はすべてどこかに消え去っていた。唯一の音であるその息さえも、虫のような細々としたもので、その呼吸では、とても人間の身体の最低限の活動さえも支えることはできない。彼は確実に死に至りつつあった。自分でもそのことがわかったし、もう生命を永らえさせる意志さえなかった。そしてその意志の有無を問題としないレベルで、彼はあらゆる治療を受け付けないレベルで、その身体の大部分を死なせていた。仮に、彼のいる場所が真夏の往来であれば、野良犬やからすがまだ生きつつある彼の死肉部分をついばみ、そしてたくさんの蝿が、我が子を産み付けていっただろう。だがそうはならなかった。なぜなら、彼の身体は雨男協会の聖遺物として扱われることが決定していたからである。彼の身体も、精神も、もう生きている何かにとって有益をもたらすことは決してない。

 静寂の中に、音が増えた。ジョージは確かにそれを聞いた。もう死のうとしている――そして実際に死につつある――人間が聞いたのは呼吸の音だった。

自分以外のなにかの息が、その井戸の底にあった。

「どうも、こんにちは。サンダンス様」

 闇の中から、そう呼びかける声があった。どこかで聞いたことがある気もしたが、どこの誰だったか、彼には分からなかった。

「私でございます。オカクラです。雨男協会の、オカクラでございます」

 言われてから、ああ、あの。と彼は思った。オカクラの姿は闇に隠れて視認することはできないし、そしてまた、ジョージは虚ろな目で井戸の底の地面を見つめることしかできない。

「ああ、どうかそのままの、楽な姿勢で。お気になさらずともよろしい」悪魔は言った。

「いよいよですな」

 ――いよいよ? なにがだろうか。ジョージは思った。

「もちろん呪いでございます」悪魔は、まったく普通の調子で、ジョージの思考に返答した。

 ――呪い?

「そうです。呪殺です。あなた様には、殺したいほどに憎い相手がおられる」

 ――そうだった。オレは、あいつを……。

「そう。そう。そう」悪魔は嬉しそうに囃し立てた。

「その調子でございます。相手を想って。何をされたのか。しっかり思い浮かべて」

 ――あいつがオレの歌を台無しにした。あいつがオレのギターをぶっ潰した。オレの人生をダメにしやがった。しかも、しかも自分は成功しやがった。あいつは、政治家になった。オレを含めた他のたくさんの人間を好きなだけ食い物にして、自分だけは幸福を勝ち取ったつもりでいやがる。それは間違っている。世の中の間違った流れのなかで、あいつは幸福を手にしている。正されるべきだ。絶対に正されるべきなんだ。

「そうです。顔を思い浮かべて。ここは全てに繋がっております。遠慮はいらない。思う存分に想いなさってください。想いは届きます」

 ジョージはロメオの顔を思い浮かべる。自分を罵ったときのあの顔。そしてその面影をはっきり残したテレビのあの顔。死につつあった彼の身体が、ぶるぶると細かく振動し始めた。喉の奥からむむむむむと声が出た。

 すると井戸の底、少し湿った地面を透過して、地下に深く落下していく感覚がジョージを襲った。

 井戸の底には、まだその下があった。長い落下をやり過ごすと、巨大な空間が広がっていた。地下の巨大なその空洞は、果てがぼやけて見えなくなるほどに広い。そしてそこには、赤黒い、不定形の、べったりとした、そしてやはり巨大なものがあった。見たところは、マグマのようにそれ自体が鈍い発光をしているが、明らかに自然のものではない。混じりけなしに人工物であり、そして観念によって形成されたものだった。集合したもののようでもあり、総体でもある。それ(ら)は絶えることなく蠕動していて、そしてまたひっきりなしにぶくぶくいっている泡が吹き出していた。それが弾けると、死の臭いと、あらゆる負のことばが広がった。

 そのおぞましいなにかを、ジョージはほとんど無感情に眺めていた。彼は思った。――なるほど確かにこれは、みんな繋がっているな。

 地下世界の中空にぷかぷか浮かぶ巨大なそれと、その少し上を浮かぶジョージと、傍にいるオカクラがあった。

 悪魔が言った。

「そう、あれが『雨男協会』でございます。実体として、あそこにあるものが、私どもそのものです。あれを通じて、地上の雨男たちはみな、繋がっておりますのです」

 ジョージは奇術師のような動きでふわりと舞って、「雨男協会」に接近した。近づけばわかるがやはり巨大だった。そして濃い密度で、それは形作られている。激しい熱と、むせかえるような悪臭を放っていた。ジョージは干からびて木乃伊のようになった手で、「雨男協会」に触れた。それは柔らかく、そして湿っていた。だが、それが柔らかいのは表面上の感触に過ぎず、その中身は固く重いものであることも、同時にわかった。

「さぁ、もう少し力をいれて」

 悪魔に促されて、ジョージは手をつきだした。やはりそれは固く重い感触だったが、彼の手は、少しずつ確実に深みに埋もれていった。

 侵入が肩まで進むと、そこからは、まったく無抵抗どころか、かえって「雨男協会」のほうが彼を取り込もうとしてそのアメーバ的な身体を動かし始めた。そしてジョージは、あっというまに、すっかり「雨男協会」のなかに潜り込んでしまった。

 「雨男協会」の内部は、激しい感情の流れでたっぷりと満たされていた。重く熱いその液体のようなものがジョージの身体をあちこちに振り回した。

 ――同じものが自分の身体の中にも流れている。ジョージはそう思った。しかしその考えが間違いであることに、彼はすぐに気がついた。ジョージの中に渦巻くものは、全てロメオという個人に向けてのものだった。彼はまったく命と心のすべてを費やしてロメオを殺すつもりでいた。一方で、「雨男協会」はそうではなかった。

 彼らは全てを憎んで破壊するつもりだった。世界のあらゆる幸福を認めていなかった。ジョージは、特定の個人を殺めることに執着した。そして無頓着にはなったものの、彼には愛すべきひとびとがいた。だが「雨男協会」にはそんなものはなかった。全てが等しく憎く、どんな形の幸福だって、それを許しはしない。この総体の中には、そういう感情しかなかった。

 流れは強大なものだった。ジョージはあっという間に飲み込まれて、彼の中に「雨男協会」が流れ込んできた。抵抗する術はない。

 彼の中の怒りは他の雨男たちの怒りと混ざりあって同化した。こうして名実ともに、彼は「雨男協会」の一員となった。そして入会のお祝いとして(あるいは報酬として)の、約束が果たされることになった。


**********


 その日は全国リーグの開幕にうってつけの日だった。朝からの雲一つない、見事な青空は試合開始の午後二時まで、約束された出来事のように保たれた。共和国で一番の信頼を誇る野球評論家のとあるタレントは、ラジオの持ち番組でこの快晴を、「おそらく太陽さえもがこの日を楽しみにしていたのだろう」と評した。

 その日の試合は、昨年度の優勝チームのピアノマンズと、昨年三位の成績を収めた上位チーム・カーペンターズのベスト・マッチで、首都キューランドにある建国記念スタジアムのチケット競争率は普段の五倍を超えた。初夏の、まだ涼しい土曜日から始まるベースボールリーグの開幕戦は、誰にとっても最高の祭りになるはずだった。

 特売価格の巨大なフランクフルトを振り回しながら歓喜する子供たち、メガホンとビールを両手に構え今年こそはと意気込む、各チームのコア・ファンたる大人たち。この日は、人生のなかでも、特別に素敵な日になる。彼らの多くがそう思った。スタジアムに行けなかった人々も、テレビ中継で試合の様子をしっかりと抑えていた。試合開始の直前の全国視聴率は50%を超えていた。

 そして始球式が始まった。そこに呼ばれたのは、新進気鋭の若手政治家で、キューランドの市長である、ロメオ・ネグリだった。

 ロメオがにこやかに笑いながら、スタジアムの観客たちに手を振り、走りながらマウンドへ登った。彼が市長に就任してから、まだ一ヶ月というところであったが、彼の求心力は大したもので、まだ実績と呼べることはなにも達成していなかったが、人気や期待などのものは、激しく高まっていた。

 歓声に包まれながら、彼が捕手の方を向いたそのときだった。スタジアムの端、観客席のひとつから、小さな影が飛び出した。それは驚くほどに素早い動きで、マウントのロメオまで駆け寄ると、彼の気付かぬ間に、何度も、彼の脇腹を大きなナイフで刺突した。あまりにも迅速に行われ、また、コミックのような情景だったので、誰もが呆然とそれを見つめることしかできなかった。

 ロメオは膝から崩れ落ちて、へんてこな姿勢で倒れて、それで動かなくなった。

 突然雨が降り始めた。先ほどまでの快晴は嘘であったと言わんばかりに失われていて、いつの間にか現れた分厚い雲が空を覆っていた。

 ロメオを殺した男は、殺人に用いられたナイフで自分の喉を掻き切って自死した。二つの命が世界から失われるのに、一分とかからなかった。男は三十歳の無職の男で、就職に失敗したせいで自暴自棄になっていたとされるが、ロメオ・ネグリとの直接の関係や、私怨のようなものは、少なくとも公式には確認されなかった。こうしてロメオは、因果報復的な殺人の憂き目に会い、その人生を終えた。ただ、彼がかつて将来を潰した一人のミュージシャンについて、彼はもうそのことなんかさっぱり憶えてはいなかった。

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