(5-1) 彼女と父はきっと違うのに

-5-


 年明けから2か月の間はもう、ただただクラスの中の雰囲気も重苦しく。あの舞花でさえも登下校の間に単語帳を捲ったり、リスニング用の音声をイヤホンで聞いたりとまさに受験モード一色だった。2月からは本格的に雪が降り始め、辺り一面は溶け切らない積雪と、そこに降り積もった綿のような雪によって世界を変え、僕らの登下校は自転車ではなく徒歩の日が増えた。縁起と安全面、両方から見ても溶けては固まった氷のような雪の上を走るのは危なすぎる。


 そんな四苦八苦しながら河川敷横の整備された道を歩く人々を眺めているのが最近のお気に入りだと告げた冬華さんの性根は腐りきっていると、僕は思わずに言われなかった。


「転んだらすごく痛いんですから。雪じゃなくて氷なんですよ? アスファルトで擦り剥くし」

「でも物語の中だと転びそうになった恋人に手を伸ばして、だけど二人とも雪の中に埋もれることになって、あらま、いい思い出ねって笑い合ったりするじゃない」

「自分で物語の中限定だって言い切ってるじゃないですか……」

「だって私、こんな雪積もってる中を出歩いたことないもの」


 冬華さんは別になんてことはなく、いつも通り拗ねたように口を尖らせると僕に次の言葉を要求する。


「いや、駄目ですよ。風邪ひきますって」

「えーっ……?」


 お嬢様は病室を抜け出しての外遊びをご所望らしい。が、どう転んでも了承できるわけがない。


「冬華さんは笑われるより笑う方がお似合いですよ」

「あら、それはどうもっ?」


 皮肉のつもりだったのだけど、素直に受け止められてしまって暖簾に腕倒しとはこのことか。微妙にから回った意地悪な心が辞めておけばいいのに追い打ちをかけた。


「第一、冬華さんに恋人なんていないじゃないですか」


 きっと冬華さんなら「何をおっしゃる、わたくしには由緒正しい許嫁がおりますよ」とかなんとか適当に意地を張ってくるだろうと思っていた。だからこそ、その追い打ちが見せた冬華さんの静かな微笑みが、妙に心をざわつかせた。


 恋人がいるとかいないとか、多分、冬華さんには彼氏はいないんだろうけど。だけど、何だろう、この感じ――、……凄く、嫌な感じだ。

 誰かに言われてそうなるならまだましだ。怒りのぶつけようもある。

 なのに自分で意地悪をしておいてこんなの、……馬鹿みたいに思える。


「否定、しないんですね」

「否定できないからね。なんなら、男の子と話したのだって、葉流くんが初めてだよ?」

「ダウト。嘘つきは泥棒の始まりです」

「なら、作家はみんなコソ泥の集まりだ」


 時々、この人が何処まで本気で話しているのか分からなくなる時がある。適当な事しか言わないから、僕も適当な事しか言わなくなっている。それが良いことか悪いことなのかって聞かれたら、多分どっちでもない。これが僕らの距離感で、こうして適当なところで誤魔化して曖昧にして、どっちつかずな会話を交わすことが、僕と冬華さんにとっての日常で。こうして週に一度の病院通いが続いている理由でもあった。


「季節が変わっちゃうね」


 冬華さんが降り積もった雪を眺めて告げる。

 天気予報の雪マークも今日で終わりだ。来週からは晴れの日が続くと言っていた。


「暖かくなるのはいいことじゃないですか。遠慮なく窓も開けられますし」

「確かに。寒い日は朝がつらくて敵わんよぉー」


 適当な会話。適切なやり取り。冬華さんは窓から目を離すと手元の原稿用紙を捲りなおした。書き綴っていた物語は終盤を迎え、息詰まった現代を生きる文豪は頭から読み返して最終局面の盛り上げ方に頭を悩ませている。


 結局、舞花を冬華さんに会わせる約束はまだ果たせてない。

 舞花の真剣そうな表情を見ていると受験勉強に集中させておいた方がよさそうだと思った。冬華さんに話は通してあるけれど、冬華さんもまた「受験が終わってからでいいんじゃないかな」と僕と同意見だった。受験生の事を思うなら「しばらく来なくていいよ」の一言があってもいいようなものだけど、そんなことはなく来週には試験を控えている。


「そういえば、自信のほどは如何ですかな?」


 ぼんやり赤いシートを動かして暗記具合を探っていると冬華さんが原稿からは視線を上げず、ふと尋ねた。


「わたくしの見立てと致しましては、余裕綽々。落ちる気など一切ない余裕の葉流きゅんって感じ?」

「そこまで楽観視はしてませんよ。それなりに緊張もしてます」

「へぇ? それなのにこんなところで油売ってるわけだ」

「まぁ、下手に習慣辞めるよりかは同じ生活送ってた方が良い点とれるってもんですよ」


 それに、多分いまさら焦ったところで積み上げてきたものの高さがそう変わるわけでもない。100あるものが102になるか103になるかってところだ。テストの点数なんてものは0点から50点までもっていくのは楽だけど、そこから更に50点ってなると難易度が格段に増す。全教科合格点をそこそこ上回っている現状で僕が焦る理由は特になかった。


「そういえば冬華さんは勉強できる方なんですか?」


 ずっと病院生活だと聞いていたからデリケートな部分かと思ってこれまでは聞いてこなかったけれど、なんとなく出来ないというイメージはなかった。


「んー、そこそこ? 悪くはないよ? できなくもないけどね」

「……ん?」

「はい?」


 原稿を読みながらだったからか、同じことを二回言われたような気がする。


 まぁ、聞いておいてなんだけど、別に冬華さんが勉強できようができまいがどっちでもいい。いつも原稿を書いてるか本を読んでいるかの二択なので、知識は豊富だろうし。学歴が全てじゃない。と、思うのは進路の定まっていない僕だからだろうか。やりたいことが見つかれば自ずと向き合うことになるのが自分の学力って奴で、この病室にいる限りは冬華さんとは無縁の存在だ。


「作家になるんなら、必要ないですもんね」


 うちの父も、大学は中退だと言っていた。

 入るだけの頭はあったそうだが、通うための根性が欠けていたとかなんとか。

 講義をさぼって文芸部にこもっていたらいつの間にか単位が足りなくなり、自主退学してからも部室の一角を占領していたというのだから作家になる人は何処か頭のねじがズレているか緩んでいるのだろう。そういう意味では冬華さんは作家の素質を持っているともいえる。傍迷惑なほどに愚直で、物語にばかり興味を抱く。


「私は作家にならないよ?」


 だから、何度そう言われても冗談にしか聞こえなかった。


「作家ではあるかもしれないけど、このお話を誰かに読んでもらおうとは思わないかな」

「どうしてですか?」

「どうしてって……。ねぇ、葉流君? 君は自分の頭の中を皆に知ってもらいたいっていう自信過剰な自己顕示欲を持ってたりするの?」

「いえ、全く」

「なら、そういうことでしょ」


 普段の冬華さんであれば事細かく、ネチネチと否定する理由を付け加えるのだけれど、今回の冬華さんはどうにも歯切れが悪かった。手に持った原稿用紙の束を気持ち分だけ自分に寄せて、僕からは遠ざけようとしている。


「それってつまり……、……恥ずかしいってことですよね?」

「なっ……、」


 気持ちを代弁するようで悪いけど、流石に短くない付き合いにもなるとなんとなく言いたいことも分かるようになってきた。この人は珍しく恥ずかしがっているらしい。いや、本当に。珍しいことこの上ないのだけど。

 顔を赤くしたまま固まってしまった冬華さんにどうしたものかと首をかしげる。


「別に恥ずかしがることじゃないと思うんですけど。冬華さんは一生懸命書いてるんですし、それを馬鹿にする人なんていないと思うんですよね」


 もしかするとそれ自体を「馬鹿らしい」という人もいるかもしれないけど、人が時間をかけて行っているものを否定する意見など聞く価値もない。そんなものはただの嫉妬か自分の価値観の中でしか物を図れない愚か者だ。


「そういう……訳じゃないのよ……」

「といいますと?」

「……きみは、作家じゃないから分からないんだね。きっと」


 いいえ、多分。作家じゃなくても。君には分からないよ。


 そう冬華さんは小さく付け加えて原稿に目を戻した。

 悲しそうな視線が痛々しくて、だけど僕にはその原因が分からなくて。

 なんだよ、それ。と、苛立ちのぶつけ先に戸惑う。——だからだろうか、意図に反して言葉が上滑りした。


「確かに、分かりませんよ。僕には。冬華さん、良く分かんないし。お話書こうとも思ったことありませんし」


 頭が気持ちについてこなくて、自分でも何を言ってるのか分からないのに言葉だけが口先からこぼれる。


 少し傷ついたような顔をして顔を上げた冬華さんが何だか気に入らなくて。

 けど、それ以上、言葉は出てこなくて。

 沈黙が訪れて、しばらくしてから冬華さんはへらっと笑みを浮かべた。


「あははっ、ごめんね? いまのは私のが意地悪い。謝るよ」

「冬華さん……」

「私がこれを書いてるのは趣味みたいなもんだから。誰かに見て欲しいとは思わないのよ。君のお父さんが作家さんだったってのもすっかり忘れてた。気に障っちゃってたらそれもごめん。お詫びに私に好きな事一つしてもいいから許して?」

「はぁ……、馬鹿な事を。怒ってませんし、父の事も。気にするような人でもないです」


 言いながら自分の中で魔が差していくのが分かった。


「別に、好きでもありませんでしたから」


 思ってもいないことを、言いたくなった。何でもかんでも分かっているような口ぶりの冬華さんに対して意地を張りたくなったのかもしれない。


「冬華さんとうちの父は全然違うますよ」


 それが冬華さんを傷つけることになるだろうってのも、わかってるのに、子供じみた意地の張り合いみたいな。

 だけどそうすることで少しでも冬華さんと対等になりたかった。子ども扱いされていることが、少し悔しかったから。だから、ちょっとでもいいから不機嫌にさせたかったのかもしれない。大人ぶる冬華さんの化けの皮を剥がしたかった。

 なのに冬華さんは、


「……そうだね、一緒なのはきっと、病気ぐらいだね?」


 笑って、平気で僕の心臓の上を歩いていく。


「病気……ですか……」


 それまで一切触れてこなかった話題に息が苦しい。


「長くてあと半年。たぶん、君のお父さんと同じように君を置いていく」

「――っ……、」


 意味が、理解したくない。頭が理解を拒んでいた。


「これでも悩んだんだけどね? でも、潮時かなーって……流石にいつまでも隠しておくわけにもいかないし。だからさ。もう、来なくていいよ。葉流君? 君は、生きなきゃ」

「なに……言ってるんですか……」


 馬鹿みたいだった。否定したところで冬華さんの病状がよくなるわけないのに、それを認めたくはなかった。


「冬華さんが父さんと一緒なわけないじゃないですかっ……、悲劇のヒロイン振舞うにしても冬華さんじゃ役不足もいいとこですよ……?」

「分かってる。私じゃヒロインになれやしないよ。そんなこと、自分が一番よく分かってるし、もしかすると彗星のが先に落ちてくるかもしれない――。……けど、そうじゃないかもしれない。だからね……? だから……、」


 ぎゅっと、握りしめた原稿を胸もとに抱き寄せるようにして冬華さんは目を伏せ、小さく深呼吸してからその言葉を告げた。


「だから、君はもう、私のところに来るべきじゃあない」


 わざとらしく、不器用なほど痛々しい笑みを浮かべて。くしゃりと、原稿用紙が音を立てて皺を作るのが、やけに印象的で、震える指先が、見て、いられなかった。


「ちなみに、役不足ってのは誤用だから。気を付けなよ、受験生?」


 そんな僕を気遣うようにして冬華さんはいつもの調子を装い、原稿を机の上に置くともぞもぞとベットの上でカーテンを手繰り寄せると僕に手渡す。


「疲れたから、寝るね。カーテン、閉めてって?」


 明確に、帰れと言われている。そんなこと、言われなくても分かってるのに。僕はいま、拒絶されている。そのことが胸をぎゅっと締め付けるようで苦しかった。


「……わかりました」

「……おやすみ」

「……おやすみなさい」


 布団を被って背を向ける冬華さんをいつまでも見つめているわけにもいかない。

 僕はなるべく音をたてないように荷物をまとめ、上着を羽織って部屋を出る。


「受験、終わったらまた来ますから」

「…………」


 扉を閉める直前、そうはいってみたのだけど思ったよりも声が震えて前に出なかった。

 聞こえたのか聞こえなかったのか、冬華さんからは返事はない。


 僕はそのまま扉を閉めて一目散にエレベーターホールへと足を向ける。

 隣に母さんがそこにいたことに気が付いたのはエレベーターの扉が開き、その中に納まって1階を示すボタンを押してからだった。


「女の子を泣かしたら承知しないからね。まぁ、分かってると思うけどさ? ――勉強、しなさいよ?」

「なっ……、」


 顔を上げた先には意地悪く笑う母の顔。そして僕が聞き返す前に扉は閉まりきってしまった。

 動き出した箱の中で控えめなヒーリングミュージックが音を奏でる。僕の他には誰も乗っていない上に、いつもだったら途中で人が乗ってくるのに今日に限ってどの階にも止まる気配がない。そのせいか時間にして十数秒もないハズなのに一階に着くのがとても遅く感じた。


 ――こういうのが本当の相対性理論っていうんだよ、冬華さん。


 随分と昔、といってもあれは図書館で冬華さんに出会った帰りだったか……? 相対性理論がなんとか言っていた気がする。それほど突っ込んだ意味合いでもなかった気がするけど。思えば、冬華さんと過ごした時間は長いようで短く、短いようで長い。


 まさか僕自身、これほどまで長続きするとは思っていなかった。父さんの病室に通った習慣があったとはいえ、それにしたって友達でもなんでもない人の話し相手になるだなんて。どうかしていたとしか思えない。いまでこそ冬華さんは僕の知り合いで、試験が終わったらまた、会いに来てあげようと思うのだけど。……変な感じだな、これ。と、思う。


 母さんは時々冬華さんとの仲を勘繰るようなことを聞いてくるけれど、別に恋人って訳でもないし、僕が冬華さんに惹かれてるって訳でもないと思う。

 確かに綺麗な人だし、話していて面白いとは思うのだけど、……そういうんじゃ、ない。これは断言できる。多分。これは恋心なんかじゃないと、僕は思っていた。冬華さんの事が好きとか、どうこうしたいとか、そういうのは浮かんでこない。……ただ、あの人を独りにさせたくはない。ただ、それだけだった。


「……なんて、結局言い訳みたいなもんかもな」


 ようやく僕を解放してくれたエレベーターから降りるとマフラーをきつめに巻いて外に出る。

 学校が昼までになっているからまだ日は暮れていない。薄雲の向こう側に薄っすらと白い光が見える。河川敷まで歩いていくと上から見ていた時に騒いでいたカップルとすれ違った。


 多分、違う。


 と、思う。

 僕は別に冬華さんとああいう風になりたいわけじゃない。

 病室の窓を見上げるけれど遮光カーテンにさえぎられて向こう側は伺えない。例えそこから冬華さんがこちらを見つめていたとしても、やっぱり僕は見つめ返すことはできなかっただろう。


 ――作家じゃないから、分からない。


 そういった冬華さんは見たこともないような寂しさに覆われていて、見て、いられなかったのに。なんで僕はこんなところにいるんだろう。

 自分の病気の事を告げた時、きっとあの人は僕以上に心細かったハズなのに。どうして僕は――……。


 分かっている。自分がどうしたらよかったのかなんて子供じゃないんだから知っている。

 だけど、それがいくら正しくてもあの人に僕が触れる理由を、僕は持ち合わせていないし、病気を前に、不安になっている人を無条件で安心させてあげられるほど、僕は大人でもない。


 モヤモヤと膨らんだ気持ちに頭を掻きむしった。

 どうにも考えが纏まらない。冬華さんの事になるといつもコレだ。嫌になる。


 受験を前に余計なことは考えてる暇なんてない。そう自分に言い聞かせて足を踏み出す。だけど、頭からはあの人の顔が剥がれない。だけど、次、冬華さんのところに行くとしても受験が終わってからだ。なら、考えるのは後回しでもいいはずなのだ。そう、分かっているのに、イライラする。ざわつく、気持ちが鬱陶しくて仕方がない。


「ああっ、もうっ!」


 珍しく口に出して苛立ちをぶつけ。地面の雪を救って雪玉を川に向かって投げようと足を踏み出す――、が、思いっきり踏み込んだ左足は見事に氷の上を滑り、視界がそのまま斜めにズレたかと思えば僕は河川敷の中へと転がり落ちた。


 あっ、とかがっ、とか、自分でも情けなくなるほどの悲鳴をあげて肩を、腰を無様に打ち付けながら微妙に固まってクッションの役割を果たしてくれなかった氷雪に背中から転がって空を見上げる。


「っとに……ばかみたいだ……」


 ひっくり返った頭上では道を歩いていた人たちが驚いた顔でこちらを見下ろしていた。恥ずかしいことこの上ない。そんな中に見知った顔があれば猶更だ。


「葉流……? なにしてんの、平気……?」

「なんでお前がそこにいんだよ……、都合良すぎだろ、幼馴染」

「馬鹿言ってないで早く起きなさいよ。風邪ひくわよ」


 言われなくてもそのつもりだと腰を起こす。マフラーの裾からひんやりとした感触に身震いする。いやはや、なんとも雪は嫌いだ。

 自分の転がり落ちた跡に顔をしかめつつ坂を上ると舞花は手を差し出してくる。


「ほら、そこ滑るから」

「ああ……うん……?」


 掴まりつつも足場を確かめ、ズボンの裾を払う。というより、舞花に背中やらお尻やらを払われる。雪の結晶がパラパラと舞った。


「やめろって、恥ずかしいから」

「一人で転んでおいて何をいまさら。ほら、まだ付いてる」

「あーっもうっ! 鬱陶しい!」


 いつも以上に絡んでくる舞花に耐えられなくなって腕を振り払った。

 そんなこと、これまで殆どしたことなかったから舞花は目を丸くする。そんな様子を見て「しまった」と心の中で舌を打った。


「……なんかあった?」


 ほら、こいつは無駄に鋭いからすぐ勘づく。


「何もないよ」

「嘘だよ、バレバレだもん」

「何もないって」

「幼馴染舐めんな。分かるよ。それぐらい。あの、冬華さんって人となんかあったんだ」

「何でもないってば」

「むぅっ」


 こうして言い争うことが無駄だということぐらい知っている。こういう時の舞花は鬱陶しいほどしつこい。普段であれば早々に僕が折れるか、誤魔化すしかない。のだけれど一人で荒れて転んだあとだったからか、普段の僕ではなかった。

 母親に言われっぱなしになっていたのもあってか、誰かと話したかったのかもしれない。


「もう来るなって言われたら、もう行かない方が良いよね」

「そりゃあ来るなって言われてんのに行ったら迷惑でしょ。……っていうか、ストーカーみたいじゃん」

「だよね」


 なら、もう考える必要なんてない。冬華さんが来るなっていうんだから行かない方が良いんだ。……なんて、自分で言っていて酷いなとは思う。これじゃ逃げる理由を肯定して欲しいだけだ。きっと冬華さんは「来てほしくない」なんて、思っていない、と、思う。自信はないけど、嫌われるようなことをした覚えもない。

 そこまで分かっていて舞花に背中を押してほしいだなんて、どうかしている。いくら何でも性格悪いし、情けない。


「ごめん、忘れて」

「いやいやいやっ、それで流せるわけないでしょ。馬鹿なの。葉流って思った以上に馬鹿だったの?」


 なんかもう馬鹿でいいよそこまで言われたら。そういって舞花に背を向け、家に向かう。


 擦れてしまった気持ちはもう起き上がろうとしなかった。考えるの、もう面倒だ。

 適当過ぎる言い訳で飲み込んでしまうとなんだか本当にどうでもよく思えるから不思議なものだ。


「ほんと子供だよね、葉流ってさぁー?」


 そういって隣に並んだ舞花は僕のペースに合わせ、「よっ」とか「ほっ」とか、悪い足場を気にしながらも付いてくる。


「そういう舞花の方が子供っぽいと思うけど」

「ほら、そういうとこっ。大人げないよ、秋宮葉流くんっ?」

「……」


 正直、舞花に子ども扱いされるのが一番腹が立つ。

 別にこいつを下に見ているわけじゃないけれど、……なんなんだろ。見て分かる通り、子供っぽいからかな。舞花は。理屈になってないかもしれないけど、なんにせよこれは感情論だ。


「私は葉流みたいに変に予防線張って、『どうせなになにだろーからー』って諦めたりしたくなかなっ? やるならやるで一生懸命ッ、命かけてやんなきゃ人生もったいないじゃん!」

「そのまんまじゃん。舞花」

「そのまんまだよ、わたしは?」


 と、大きく踏み出した舞花の一歩がずるりと音を立てて横に滑った。


 思わず悲鳴を上げる舞花の脇を咄嗟に掴み、僕も転びそうになりながらも何とか二人とも難を逃れる。「ぅぁっ……ぶーっ……、来週試験なのに危ない危ない……」目を丸くして驚く舞花に僕もため息をつく。その理屈で行くならもう僕は滑ったうえに転がり落ちてる。縁起は最悪だ。


「私はっ、葉流がいてくれてよかったって思うよ。……うんっ、葉流が幼馴染でよかったなーっ」

「便利だな、幼馴染」

「便利だよっ? 幼馴染!」


 いつまでもこんなところで油を売っていても仕方がない。


 放課後残ってまで先生を捉まえていた舞花の為にも、早く帰って勉強させないと。

 どちらからというわけでもなく、自然と足を踏み出し、肩を並べて歩く。今さっき足を取られた経験からかいつもよりも慎重に、視線を少しだけ足元に向けて歩いた。一歩、踏み出すたびに、当然のごとく、冬華さんからは離れていく。


「やっぱ、ずっと一人で過ごすってのは寂しいよな」


 舞花に尋ねたわけじゃなかった。ただ、自分の中で確認するかのように頷き、それに対して舞花は口を尖らせる。


「そう思うから、きっと葉流はお節介になるんでしょーね」

 まるで僕も事なら何でもお見通しなのだと言わんばかりに。鬱陶しい。

「お節介ついでに勉強付き合ってやるよ。……どーせ、一人じゃ一時間も集中力持たないんだろ?」

「そ、そんなことないもん!」

「なら、タイマーセットしてやる」

「むむむむっ……!! そういうの、良くないと思うなっー!」


 そこから先はもうぐだぐだだった。


 試験に出そうな問題とか、居残りまでして先生を捉まえていた話とか。どうでもいい、当たり障りのない話題。

 河川敷を下り、病院が見えなくなる直前。ちらりと冬華さんの病室の方を見たけれど、なんてことはない街並みから病院が覗いているだけの、何事もない光景で。

 僕は試験が終わったら一度、冬華さんに原稿を読ませてもらえないか頼んでみようと思った。それで、冬華さんのお話の感想を、今度こそちゃんと伝えられたら、と。そうすることが少しでもあの人の傍にいられる口実になるような気がしたから。


 幼い頃に見た父の面影をあの人には重ねたくない。だけど、この胸に抱いている気持ちはあの頃に父に対して持っていたものと多分そう違わない。僕は、少しでもあの人の傍にありたい。

 そんな、大袈裟な話ではないのだろうけど。

 この気持ちを何と呼ぶのかを、作家でない僕は、上手く言葉にすることはできないし、きっと、冬華さんなら綺麗な言葉に直すことが出来るのかもしれない。


 そういう、なんだか気恥ずかしいことを思いながらも僕らは受験当日に備えた。忘れることもできない、その日を。

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