(3-2) 抱えた願いと煩悩の数

『これから除夜の鐘を見に抜け出そうと思うので、付き合うように。冬華 p.s お母さまからアドレスを頂きました』


 風邪に効く特効薬はないというのに。もし寝込んで貴重な正月休みという受験勉強のための時間を無駄にしたらどうするつもりなんだろう。それでも受験は成功すると信用されているのか、それともただ単純に何も考えていないのか。


 第一、「抜け出そうと思うので」ってなんだ。もしかして前回の図書館も抜け出してたのかあの人。


 そういえば部屋に戻るときにやけにコソコソしているなぁとは思ったけど、嘘だろ……?


「つか、何処の神社だよこれ……」


 呆れるしかない。返信を作成し、送信する。が、案の定その返事が来る気配はなかった。

 というか、あの病室は電波入りづらいって言ってなかったっけ……?


「……ぁー……?」


 もしかしてあの人、既に抜け出した後なんじゃないだろうか。その上で返信がないとなるといつまでも外で待たせることになるかもしれない。と、僕が考えて引き返してくるところまで計算済み……?


 いやいやいや、こえーよ、冬華さん。流石にそれはないだろうと寒さに震えながらも「もしそうだったら」と思えばこそ、しぶしぶと道を引き返して病院に戻る。こんな雪降る日に何してんだろうなぁ、僕は。元を正せば冬華さんの病室を「なんとなく」の気持ちで訪れてしまった自分に非があるような気がしないでもないけれど、いやいや、それにしたってそこから先は冬華さんの都合だろう。


 さっさと済ませて遅くなるまでには帰らせよう。


 そう心に固く刻み、表玄関から中に入ろうとすると後ろから上着の襟首を引っ張られた。二重になった自動ドアの向こう側は年末ということもあってか最小限の照明しか灯されていない。パタパタと何やら呼び出しがあったのかPHSを片手に走っていく看護師さんの姿が見えた。


 その影が廊下の向こう側に消えるのを確認してから冬華さんは僕の前に体を乗り出す。


「これはどういうことかな、葉流くん?」


 掲げられたのは僕が送信したメールの文面だ。


『嫌です。病室で大人しくしていてください』


「これ見たときはもしかして来てくれないのかと思ったけど、ここにいるってことは付き合ってくれるって解釈して良きかな?」

「貴女の担当医に報告しに行くところですよ。患者が抜け出してるって」


 無論、本気ではない。けれど冬華さんは本気で不満そうな表情を浮かべた。


「葉流君はそんなことしないもん」

「全然僕の考えてること掴めてないじゃないですか」

「ふぇ?」


 惚ける冬華さんをそのままに踵を返す。近場の神社は電車に乗った三つ先だ。


 小さなもので良ければ病院の裏手にある山沿いにあるけれど、除夜の鐘をご所望ということであればそこそこ大きめの神社に行くしかないだろう。わざわざ石階段を上った先で「イメージと違う」だなんて文句を言われたくはない。


「ほら、行きますよ。もし外にいるのバレたら冬華さんが弁解してくださいよね」


 うちの母がそれを頷いて聞くとは思えないけれど。


「あ、えっ? う、うんっ?」と状況を理解できていないのか妙に歯切れの悪い返事をしながら後ろをついてくる彼女は何処からどう見ても軽装で。いつものパジャマ姿にカーディガンと薄手のコートを羽織っているだけだ。

 重装備で部屋を出て、怪しまれるのを避けたかったらしい。


「まったくもう……世話がかかるにも程がありませんか」


 仕方なく巻いていたマフラーを外して首にかけてやる。

 外した途端に冷たい風が首元から吹き込むがそれはもう仕方ない。肩を竦めてなんとか耐えることにする。


「悪いよ、流石にこれは」

「そう思うんなら回れ右して頂いても良いんですけどね」

「むぅ……ごめんなさい……」

「まぁ、いいんですけど。別に」


 幸いにも、雪は随分とまばらになりつつある。

 合格祈願も兼ねた神社参りだとでも思えば理由付けには事足りるだろう。


 普段よりシャッターを下ろしている店が多い商店街を抜けて駅前にたどり着き、程なくして滑り込んできた6両編成の電車に乗り込む。降りる人も、乗る人も、そう多くはない。手荷物が多く見えるのは年末の買い出しか。


 冬華さんと二人並んで椅子に腰かけると電車は静かに動き出した。

 流れていく景色を興味津々で見つめている横顔はなんだか楽しそうだ。


 そんなに物珍しいものなんてないのに、なんて思うのは境遇の違いかもしれない。

 静かに刻まれる電車のリズムと僅かに左右に揺れている冬華さんの身体。メトロノームみたいだ。


 電車の奏でるリズムに合わせて僕らは揺られ、運ばれていく。肩越しに伝わる体温が、彼女の存在を否応なしに意識させる。ほのかに香る甘い香りが、妙に落ち着かない。ドキドキと、少しいつもよりも早いリズムを刻んだ心臓を悟られないようになんてことのない顔をして、いつもより、少し長い時間をかけて2つの駅を通り過ぎた。

 電車は、定刻通りにダイヤをこなしていく。


 --これって相対性理論関係あるのかな。なんて、回らない頭で考えつつもうっすらと白く積もった雪が曖昧にさせた街の輪郭を眺め続けた。そうこうしてようやく僕らは目的地へと辿り着く。


「降りますよ」

「あ、うん」


 来た事がなかったのか、ここが目的地だと冬華さんは気づかなかったようで言われて慌てて腰を浮かせる。二人並んで改札をくぐるとそこは地元ではそれなりに歴史のある神社が設けられている小山の手前だった。観光地というほどではないけれど、土産屋もちらほら、今日は大晦日で搔き入れ時だというのに何とも暇そうにしているおばちゃんの姿がちらほら。


 まぁ、田舎の参拝客なんて大体が地元の人だし。土産物を物色する事は稀だろう。

 土産屋や昔ながらの飲食店が参道を作り、その先に神社に向かう永遠とも思える石階段が鎮座している。


「はえー……、すっごい階段だね……」


 とその階段を前に記念撮影している人の横で口を大きく開けて驚く冬華さん。


「厳しそうですか?」

「ううん? これぐらいなら平気。--あ、私も写真撮っといてもいいかな? コイツで!」


 取り出したのは件の携帯電話だ。普段はその存在を認識できなかったくらいおざなりだったのに。ドヤ顔で握っていた二つ折りの携帯を開くとカメラを起動し、ほえーとか、ふぇーとか、よくわからない感嘆詞をこぼしながらシャッターを切る。よくもまぁ、これで良く作家が務まるもんだ。実際どんな文章を書いてるのか知らないけれど、先ほどから語彙力が死んでいる気がする。


 どんな文章なんだろ、冬華さんの原稿。「ふぇー」と思わず声を上げてしまうほどの見事な石階段がずらーっとそこにはあった。みたいな? これで親切丁寧な描写力を携えていたり、情人離れした比喩表現の使い手だったら僕は正直この人を見直す。見直してしまうだろう。少しだけ冬華さんの原稿用紙に興味がわいた。主に不純な動機で。


 もっとも、描写もへったくれもない小説の取材の為に足を運んでいるとは思いたくはないのだけれど。


「ていうか、日本が舞台だったなんて知りませんでした」


 借りてくる本の殆どは海外の街並みや自然を写したものばかりだったし。


「違うよ? どっちかっていうとオランダとかあっちの田舎をイメージして書いてる」


 じゃあなんで。そう尋ねる前に冬華さんは自分から答えを続けた。

「行けるときに見に行かないと、後悔するじゃない」と。


 後悔ねぇ……?

 それはやっぱり冬華さんの病状的に?


 聞こうかと思う気持ち反面。それはやっぱり深入りしすぎていると身を引いた。

 傍から見れば病人だとは思えないほどに元気なのに。


 しかし実際はそんなことはないのだ。図書館での一件はしっかりと脳裏に焼き付いている。あの時の様子を思い返すたびに、僕まで息苦しさを覚える。出来ればあんな姿は誰だって見たくない。


 冬華さんのペースを窺いつつ、永遠と続く石階段を上っていく。静かな参道だけれど、それでも参拝客は何人か訪れているらしい。どちらかといえばまだその数は多くはなかった。除夜の鐘が何時から始まるのかは知らないけれど、108回を打つのにそれほど時間がかかるとは思えないからもっと遅い時間帯からなのだろう。


 足休めの踊り場はかなり広めに取られているからか出店も出ているけれど、屋台のおっちゃん達も仕込みに忙しいらしく、声をかけてはこない。店頭も片付いていて、さっきまでなかなか止まずにいた雪のせいで遅れているのかもしれない。


「そういえば止みましたね、雪」


 電車を降りた時にはもう降っていなかったからいつ止んだのかは分からないけれど、地面はうっすら濡れていた。もう少し降り続いていたら軽く雪化粧を施されていたかもしれない。危ない所だった。物理的にも、縁起的にも。滑って転ぶのはごめんだ。


「確かに、そういえばそうだね」


 冬華さんもまた、目を引くものが多すぎて気付かなかったのだろう。最近改築されたのか真新しい手すりを掴んだまま足を止め、これまで登ってきた道のりを振り返る。


「なんかいいね、こういうの」


 吐く息が白い。


 元々色が薄い肌がほんのりと赤くなっていた。心なしか呼吸も荒いような気がする。


「……やっぱ無茶だったんじゃないですか?」

「いやいや、折角此処まで登って戻るとか。葉流くんは鬼か何かですか」


 額に汗を滲ませながら冬華さんは抵抗する。おそらく、意地でも登りきるまでは引き返すことはないのだろう。これが予測できなかったのは僕の落ち度ってことになるのか。


 そのまま引き返して不機嫌になる冬華さんと、イチかバチか上り続けて、神様の采配に任せるのと、頭の中で天秤にかける。そんなのどちらを選ぶかなんて比べるまでもなく分かりきっているはずなのに、ため息交じりにその手を取った。


「年越しぐらい、気分良く迎えたいですしね」

「おっ?」


 甘いな、僕は。

 仕方なく、手を差し出し、少しでもリスクを減らしておく。

 もし仮に、膝から崩れ落ちたとしても片手を握っていれば何とか支えられるかもしれない。

 もしかすると僕も一緒に滑り落ちるかも知れないけれど。


「……これって取材で良いんだよね?」

「冬華さんがそう言ったから僕は連れ出されたんですけど」

「そういやそうなんだけど。……や、いいや。ありがと」


 冬華さんは相変わらず何が言いたいのか要領を得ないままに手を取る。

 ひんやりと冷たいそれは人のものとは思えず、僕は少しだけ手に力を込めた。

 それでこの手がほんの僅かでも温まればいい。


「優しいね、葉流君は」

「振り回されてるだけですよ」


 割といつもそんな気がしないでもない。僕の周りは自己主張の強い女性陣が多いから。気苦労が多いんだ。もう慣れた。

 冬華さんはそれに対して控えめに笑って答える。


「だから優しいんだよ」


 意味が分かりませんね、と適当に相槌を打っておく。階段はまだ残り半分以上あるのだ無駄話している場合ではないだろう。


 そこから時間をかけてゆっくりと登り、時折休憩用に設けられたベンチに腰を下ろしながら何とか境内まで辿り着いた。冬華さんの息遣いは普段より随分忙しいけれど、それは僕もおんなじで、この階段を平気な顔して登れる人はそういないだろう。右を見ても左を見ても、膝に手をついて一息ついている人ばかりだ。


 境内の中ではせわしなく動き回る和服姿の人が見られ、隅の広場では焚火も行われている。

 ほんのりと香る甘い匂いは甘酒らしく、「ちょいとここらで一杯」なんていいながら冬華さんは服の裾を引っ張った。さっきまで握っていた手は少しだけ赤くなっていて、強く握りすぎたかもしれない。後で謝ろう。


「これって酔っぱらったりする?」


 買ってからそんなことを聞くものだから「そもそも入院してる身でそれって駄目なんじゃないですかね」と僕も僕で気付くのが遅れた。


 厚手の紙コップには既に唇をつけており、まだ飲んではいないらしく、その場でしばらく思案する冬華さん。「んーっ……」と匂いを嗅いで我慢することにしたのか、それをそのまま僕に差し出してきた。


「では感想を述べよ。食レポみたいに、事細かくね!」

「そういうの得意じゃないんですけど」

「何事も挑戦っていうじゃない」


 手に取り、湯気が上がるコップ越しに冬華さんの笑みがある。

 さっき唇をつけていたところがどこら辺だったか分からなくなって、ちょっと口をつける瞬間に戸惑う。が、そんなの別に気にすることでもないよな。と言い聞かせて唇をつけた。


 甘く、アルコールは入っていないはずなのに体の芯から温められるような独特の感覚が広がる。


「わーっ! 間接きっしゅーっ」

「子供ですか」


 言って、頬が熱くなったのは甘酒のせいだ。


「で、どうなのかな。ドキドキした?」

「甘酒の感想ですよね?」


 わざとらしく甘酒を追加で啜りつつ、ニヤニヤと浮かべられる笑みから逃げる。

 生憎甘酒自体の感想を求められているのだとしても、もはや何を飲んでいるのかも分からない程に舌が鈍っていた。アルコールは飛ばされているはずなのにドキドキと心臓の脈拍が速くなったような気もする。


 ずるずると時間をかけて甘酒を飲み干すと冬華さんの興味は既にほかの場所へと移っていた。

 境内に設けられている神社の成り立ちに関する案内や、お香の煙に吸い寄せられるようにトテトテと駆け寄っては「ふむふむ」と何やら頷いたりメモを取ったりしている。


 ていうか、胸ポケットに小さな手帳とシャーペンを入れてきていたのは知らなかった。

 そういえばここの神社の御利益ってなんだっけな、とお守りコーナーを眺めてみると所謂「なんででもあり」な感じで健康祈願から始まり合格祈願まで。安全運転と書かれてものもあったりして本当になんでも揃いそうだった。


 一応受験生だし買っとくべきかな。


 少し考えて結局手には取らない。信仰深さで言えば人とそう変わらないとは思う。うちには神棚もあるし仏壇だってある。けれど、事あるごとに「神様にお願いする」というのはなんだか古臭い気がした。良く婆ちゃんが仏壇に手を合わせていたけれど、真似しようとは思わなかったし、それで何かが変わるとも思えない。良くも悪くも今の時代、現実に則しすぎていて遊びがないとは思うけど。


 そんな中、除夜の鐘を見に来るのだって、煩悩を払う為ではなくただの観光、取材目的だ。鐘は境内の正面から少し外れた所にあって、流石に大きいものだった。半鐘ではなく梵鐘って言うんだよ、と冬華さんが自慢げに知識を披露し、僕は「ああ、そうなんですね」とか適当に頷く。既に鐘を突くための整理券の配布は終わっていたようで、その旨が張り出されていた。


「重いのかな」


 鐘ではなく、丸太の方を指さす。


「ちなみにあれはシュモクっていうんですよ?」と冬華さんが告げ、メモに「撞木」と書く。


「そして、突くんじゃなくて撞くのが正しい表現!」

「へー、そうなんですか」

「なんだかさっきから興味なさそうなのはなんで?」

「なんでって言われても……」


 なんでだろう。


 ぼんやりその手の雑学に惹かれない理由を考えてみる。

 なんとなくぼーん、ぼーん、て鐘が鳴る音は嫌いではないけれど。だからと言って冬華さんのように物事を調べてみようとは思わない。


「それってお話書く人だからなんですかね」


 ふと、昔の父の姿が重なった。調べ物をしているときは随分と難しい顔をして、けれど、ページをめくる指は何処か楽しげでもあった。僕はいつだってそんな父の邪魔をしたくはなくて、その「調べもの」が終わるのを部屋の入口で待っていて。……けれど早く終わればいいのにって、邪魔のように思っていて。


 いまなら仕事の邪魔をしちゃいけない理由も、納得も出来るけど。子供の頃はそれでも遊んでほしかったんだろうなぁ、とか。他人事のように思う。


「葉流君は嫌いなんだね、私みたいな人のことは」

「へ……?」


 唐突に投げかけられた言葉に思わず見つめ返してしまう。だが、そのまま視線は逸らされた。


「葉流君って時々怖い顔するからびっくりしちゃう」


 注意深く言葉を拾っていなければ聞き逃してしまいそうなほど小さな声での呟き。

 してたのかな、……わかんないや。

 自分の顔に手を当ててみるけれどそれで表情が分かるほど触りなれてもいない。


「……冬華さんがっていうよりも、作家さんが、ですかね。……自分の世界に入り込んじゃって僕らの事が見えなくなるじゃないですか。ああいう人たちって」


 詳しく説明する気もない癖に冬華さんに勘違いされたままなのが嫌だからってそんなことを言ってしまうのは、少しズルいだろうか。


「すみません。そういうつもりじゃなかったんですけど……」


 そんな僕のたどたどしい言い訳に対して冬華さんは少しだけ困ったように笑って見せてから、「ううん? 良いよ、大丈夫」だなんて曖昧な返事で済ませる。


「煩悩って108もあるんだよね? 捨てられると思う? 108個」


 話題を切り替えるようにわざとらしく弾んだ声がどうにも痛々しい。冬華さんは何も悪くないのに。


「私は無理だなぁー、書き出したら108じゃ収まらないぐらい浮かんでくるよ? 際限なくずらーっと」


 ああ、駄目だな。と自分でも嫌になる。こんな風に誰かの顔が強張るのは見たくない。

 自分が引き金となったのなら尚更だ。少し道化染みた「いつも書いてますもんね、煩悩の塊。その数、およそ原稿用紙数百枚」だなんて言葉も白々しくていやになる。


「あそこにいい焚火がありますから持ってくればよかったですね、ゴミ箱」


 なのにそんな風に言葉を重ねながらも冬華さんにどうにか笑って貰おうと四苦八苦。

 ここまで連れて来たのはこの人に悲しい顔をさせたいからなんかじゃない。


 勢いよく燃える炎は遠目に見ても暖かそうだった。暖を取るものではないけれど少し冷えた体を寄せるぐらい、赦してもらえるだろう。実際、もう骨から冷え切っていた。我慢しようと思えばできなくもないが、それ自体に意味はない。


「ほら、近くまで行ってみましょうよ?」

「……そだね」


 少しだけ静かになった冬華さんを連れて炎の元まで行く。チリチリとお札やお守りなんかの端切れが舞い上がっては消えていく。雪とはいろんな意味で真逆だな、なんて、よくわからない事を思う。冬華さんならもう少しうまい表現も添えてくれただろうけど、僕にはこれが限界だろう。


「……ここだけの話なんですけど、昔、僕も冬華さんみたいにお話を書こうとしたことがあったんですよね」


 真似をして、描き上げた原稿は燃やしてしまったけれど。


「だから、ちょっと眩しいんです。冬華さんの事を見てると」


 暖かすぎる炎も近づけばその身を焦がし、蝕むように。関われば昔の想いに縛られてしまいそうになることを分かっていても、火に近づく虫のようだ。


「逆だよ。私にとっては。……君はこの焚火みたいにあったかい」


 まだ寂しげな雰囲気を残しつつも冬華さんがつぶやく。白い肌が炎の明かりに照らされて色づいて映る。冷たい指先が僕の手首へと触れ、いろんな意味で驚いた。冬華さんの肌の冷たさとか、その時の、横顔とか。


「ありがとね、葉流くん」


 そう告げる冬華さんはとても綺麗て、まるで彼女自身が物語の登場人物のようだった。


「……膨れるか感謝するか、どっちかに出来ないんですか」


 これが噂のツンデレって奴か。なんて、なんだかちょっと違う気もするけれど一人で勝手に納得してみたり。


 ぽかぽかと温まり始めた顔を炎から外し、遥か眼下の向こう側。白く化粧を施された木々を超えたところに広がる街並みを眺めた。

 どんよりとした空は今にもまた雪が降りだしそうなほど重く、相変わらず、街から響いてくる音を吸い込んでしまっているかのように静かだ。けれど、空に見えるはずの彗星を僕らの視界から消してくれている。


 こうしていると本当に、何事もない一日のように思えてくる。なんてことのない大晦日。明日には新年を迎え、また長い365日が始まる。

 けど、もしかしなくても、次の大晦日はやってこないんだろうな。なんて。

 いつの間にか徐々に参拝客の姿が増え始めていた。そろそろ頃合いなのかもしれないと僕は冬華さんの手を引く。


「暗くなる前に戻りましょう。回診の時間には部屋にいないとバレますし」

「そだね」


 ゆっくりと、流れていく時間の中。静寂だけが僕らの周りを包み込んでいる。

 賑やかになり始めた境内も、ようやく活気のいい呼び込みをかけ始めた露店の光景も。

 ひんやりとした薄い空気の皮一枚向こう側に隔てられているかのような疎外感――。


 転ばないようにとまた繋ぎなおした手のひらは細く、薄く。もしかするとこれが冬華さんの見ている普段の世界なのかもしれない、と思ってしまうのは流石に思い上がりで。けれど、確かに僕らはその時、一緒に歩いて、同じ景色を眺めていて。

 眺めていると、僕は思っていて。

 僕は掛ける言葉も曖昧に、石階段を彼女と共に下って行った。


「知っているで知らないことがほんと沢山あるね」

「それって、取材は本で調べるよりも足を運ぶ方が大切だって話ですか?」

「うん。そんな感じ」


 その答えには少しだけ違和感を感じたのだけど、冬華さんはそれで満足したようなので触れないでおく。


「ずっとこうしていたいな」


 冬華さんは何処か遠くを眺めながらそんな風に呟く。僕からは横顔すら髪に隠れて見えなかった。


「ずっと、こんな毎日が続けばいいのに」


 それがからかいの言葉ではなく、冬華さんから滲み出た本音かどうか疑う程野暮ではなくて。僕はそんな彼女の言葉をどう受け止め、どう返せばいいのか、分からなかった。

 ただ、その冷たい手を握って階段を下り、絶対にその手を離さないようにと、何が起きても彼女の身体だけは守ろうと、意識を集中させた。


 そんな僕を冬華さんは見て、少しだけ笑った。笑われたから、ムキになった。

 こんな僕が、少しだけ歯がゆくて、だけど僕にできる事なんてタカが知れていて。


「今年が終わっても来年が来ます。来年が来れば、まぁ、そのうち楽しいこともありますよ。別に、今日だけってわけじゃなくて」


 適当に、誤魔化すしかできなかった。


「葉流君は文才ないね」

「知ってます」

「私はいま知った」


 だから、他にも知らないことが沢山あるんだろうな。と、冬華さんは呟いて。その独り言に僕は再び押し黙る。

 嫌だな、と思った。こんな冬華さんは、見ていたくないと。


 病室のベットの上でほほ笑む祖母の姿が、浮かんだその景色が、苦い記憶となって甦る。

 どうして楽しい記憶より苦しい記憶ばかり思い出してしまうんだろうと、そんな思い出なら、忘れてしまった方が楽なのに。考えてみたところで、それがどれだけいい加減な提案なのかは自分自身よく分かっている。忘れた方が楽な記憶なんてものは、最初から、思い出になんてなっていない。だから、僕は思う。


 冬華さんの事は、絶対に、思い出になんかしたくないと。


「君に出会えてよかったよ」


 そんな風に笑う冬華さんを横に、僕はひねくれた考えかもしれないけれど、そう思った。

 たかが、今年が終わるだけなんだと。明日になればまた新しい一年が始まるんだと。


 病院の前で返してもらったマフラーからは、暖かい匂いがして、そんなことを意識してしまう自分が鬱陶しかった。

 そうして冬華さんと別れ、いつもより少しだけ落ち着かない気持ちを弄びながら自宅へと戻る。


 これが、僕らにとっての最期の大晦日だった。

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