(8-3) 打ち砕かれ、落ちていく。

「……雪が、何処から来るのか、冬華さん知ってますか?」


 ふと、父さんの言葉が蘇った。

 子供の頃、教えてもらえなかったその答えを、いまの僕は知っている。


「それって、科学的な質問ではないのよね……?」


 雑学に始まり、創作に使えそうなネタについては博学な冬華さんである。

 子供電話相談室のオペレーターぐらい務められそうな知識はある。無論、そういうことではないので僕は肩を竦め、回答を促す。作家さんとしての、文学的な答えを。

 冬華さんはしばらくの間唸って考えていたが、口先を尖らせ、頬を軽く膨らませ、「笑わないでよ」って前置きしてから言った。


「みんなの……願い、……かな……? 降り積もって形になって、だけどいつの間にか消えちゃって。そういう綺麗な物だと私は思う、かな……」


 随分と夢の積もった答えだと口笛を吹いたら肩をはたかれた。

 だとしたら、道路脇で泥をかぶった雪は煩悩に塗れた汚い願いってワケだ。


「捻くれた考えは嫌いよ。……それで? 葉流くんは何が言いたかったわけなのかな?」

「いや、別に雪が何処から来るのかを聞きたいわけじゃなかったんですけどね」


 そもそもの前提をひっくり返すような回答に冬華さんは今度はグーで肩を小突いた。


「以前父が雪が何処から来るのか、みんな知っているようで知らないんだって話していたのをちょっと思い出しまして。……冬華さんもほら。同じようなこと、言ってたなって」

「言ったっけ?」

「言いましたよ。多分、何度か。それも決め台詞さながらに」


 嘘だけど。

 少しだけ笑ってくれたことに満足しつつ、僕は空を見る。


「分からないことの方が多いから、人はいろんなことを考えて……、その分だけ、冒険できるのかも知れないですね」


 知らない世界を知りたいから。

 今まで見たことのない景色を見ようと窓を開けて、外を見る。


「どうです? いま、冒険できてますか?」


 言ってから、ちょっとくさい台詞だったかなって、後悔はした。

 後悔はしたけど、冬華さんが噴き出して笑ったので僕の勝ちだ。


「随分と今夜の葉流くんはロマンチストじゃない」

「誰かさんの小説に影響されたんですよ、きっと」


 恥ずかしい台詞いっぱいだったから。アレ。


「彗星が、随分と近くなったような気がしますね」


 ぽつぽつと暗闇の中、浮かび始めた星々の中に一つだけ大きな光が輝いていた。

 大きく欠けた月の脇に浮かんだそれは、恐らく後数カ月もしないうちにこの地上へと辿り着く。そしてその時、この物語は終焉を告げる。


「私が呼んだんだよ? 迎えに来てって」


 僕と同じように隣に座り込んだ冬華さんは膝に顔をうずめたままで答える。

 彗星を見上げてみるけれどそいつは何も語らない。ただそこに存在して、僕らに向かってきているだけだ。


「設定、違ったっけ?」


 そういってようやく僕の方を向いてくれた時には目元がじんわり赤くなっている。

 多分、設定は、違う。違うけれど、この際なんでもいい。


「それだと冬華さんは他の星の生まれってことになるんですかね。通りで、宇宙人ぽいわけだ」

「適当な事言って」

「冬華さんの創作癖がうつったんですよ」


 僅かに残された人類生存の可能性。針の穴を通すような人類史上、初めての軍事作戦。


 成功率がどれぐらいなのかは重要じゃない。成功すれば僕らの住む世界は守られ、失敗すればすべてが消える。

 直撃していない地域だって、地軸がズレたことによる環境の変化や地殻変動により人の住めない状況に陥るそうだ。


「実際のところ、どうなるんでしょうね」


 他愛ない、僕らには大して関係のない会話のようにそう尋ね、冬華さんは「どうして欲しい?」と僕に尋ね返す。

 意地悪な質問だと視線を逸らすとぐいーっと指先で頬を押し上げられた。


「葉流君は、寂しい? っていうか、寂しがってくれた? 私に会えない間」


 まっすぐに向けられた眼差しは疑いを持っていないように見えて、その芯が揺らいでいる。

 本当に冬華さんのこういうところがズルいんだ。誘い込むようにして逃げ場を塞いでくる。


「こうしてお話しできるのが嬉しいなって思うぐらいには、寂しかったんじゃないですかね」

「なら、私と同じだ」


 よかった、そういって冬華さんは笑うと膝に顎を載せて足元の街に視線を戻した。

 ぽつぽつと灯りのつき始めた電灯が行き交う人々を浮かび上がらせ、窓から溢れ出ていた光がカーテンに遮られる。


 世界は景色を変えていく。その身の内に、様々な物語を抱え込んだまま。


 それらの姿を僕らは覗き見ることは出来ないけれど、こうして感じることは出来る。紡がれていく、日々の断片を。

 流石に冷えが全身に回ってぶるりと体が震えた。それに気づいた冬華さんは立ち上がり、僕に手を差し伸べる。


「戻ろ? 葉流君が風邪ひいて、一緒に入院したいっていうなら構わないけどさ」


 それは笑えない冗談だ。退屈な春休みが病院生活だなんて悪夢もいいとこだ。

 もしもの事を考えて冬華さんを先にフェンスを上らせて僕はそれを後ろから支える。

 こんなところで足を踏み外して二人一緒にアスファルトへ真っ逆さまだなんて、笑えない。


「うっしょ……、ふーっ、いい運動になったー!」


 向こう側へと先に降り立った冬華さんはそうやって大手を振ってはしゃいで、僕は僕でフェンスの冷たさに指先がかじかんだ。


「気を付けなよー? そこでズッコケたら笑いごとになんないから」

「分かってますよ、そんなこと」


 マジで、気を付けないと手が滑って落ちちゃいそうだ。ガチャガチャと音を立てるフェンスを慎重に跨いで、片足を乗り越えさせる。後はもう、飛び降りるだけだ。


「――ぇ、あ……葉流君……? あれ……、なに……?」

「……はい?」


 高みの見物といった感じに僕を見上げていた冬華さんが突然変な事を言い出した。

 視線を追ってみればそれは僕を越えた向こう側、空の遥か彼方に向けられていて、紺色の空の中、ひと際目立つ光に向かって動いていた。まっすぐ、瞬きを繰り返しながら。目を凝らせばそれは一つだけではなく、同じ軌道を描くようにして他にも幾つか。まっすぐに飛んでいる。


「UFO……じゃ、ないよね……?」

「まぁ……、たぶん――、」


 そうか、今日か。そういえば、そうだったんだ。

 知らなかった訳じゃないけれど、その日だってことよりも冬華さんに会える日だってのに意識を持ってかれて忘れてた。


 人類存亡をかけた大勝負。

 失敗の許されない、次点セカンドプランのない一発勝負。


 その地点で破壊できなければ割れた彗星の軌道は地球を避けきれず、また、次のミサイルを宇宙に持っていく時間も足りない。

 いつの間にか河川敷や道路にも人が溢れていた。僕のように目の前の日々にその存在を忘れていた人たちも今はただ、未来の行く末を見守っている。


「ていうか、冬華さん知らなかったんですね。結構テレビで話題になってたのに」

「さっ……、最近はちょっと忙しくてっ……! そんなの見てる余裕なかったんだよ!」


 何を慌てているのか、冬華さんは顔を赤くして反論し、「でも……そっか……、……凄いや」って独り言のようにこぼした。


 なんだかそれは死を突き付けられても尚、生きようとする人たちへの称賛であるようにも聞こえたし、そうしたところで生き延びられない自分の事を蔑んでいるようにも聞こえた。諦めて、受け入れてしまっているかのように。


 ――否、冬華さんは受け入れているのだけれど。自分の未来ゆくすえを。


「…………」


 自分が死んでしまった後の人々に向けた物語。

 自分がいなくなってしまった後も、誰かに思い出して欲しいという願い。

 それは彼女が残された命を全力で捧げながら、その命そのものを諦めているからに他ならない。


「何万憶かの確率であの彗星がこの地球にやってきてて、……それを何億万かの確率で、避けることが成功できるっていうなら、きっと、――人一人ひとひとりの命を救うことなんて、そう難しいことじゃないんじゃないですかね」


 見上げた空の先。宇宙の僕らのいる場所のすぐ近くで、それは大きな光を放つ。


 音はなく、衝撃も伝わっては来ない。


 星よりもずっと大きくて、月よりもずっと小さい。


 そんな線香花火みたいなあっけなくて、——なのに目を離せない、強い光。

 ぐるり、と視界が回った。


 遠くから、賑やかな歓声や、拍手の音が聞こえてくる。


「はっ、葉流くん!!!」


 冬華さんの悲鳴のような声が僕を掴もうとしていて、足がフェンスから外れていることに今更になって気が付く。


 空を見上げて、仰け反って、バランス崩しただなんて――、笑えない。

 茫然と、半ば、そんな自分に呆れながら僕は落ちながらため息をついた。



 奇跡の代償が僕の命だっていうなら、冬華さんの命も、救ってくれ。



 信じちゃいないけど、神様がいるのならどうか、その未来だけは守って

 そこから先の記憶は、僕にはない。

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