(8-2) 沈んで行く、太陽に。

 屋上への出入りは基本的に解放されていて、空中庭園とまでは言わないけれど自販機とベンチ、心ばかりの植物が鉢に植えられていて枝だけになっていた樹木からは少しずつ緑が顔をのぞかせていた。扉を開けた瞬間から冷たい風が頬を掠めて行って身震いする。まだ日差しが出ているので影から出れば耐えられない程ではなかったが転落防止用のフェンスの近くまで歩いていくと裾冷えしそうな冷たさだ。


 検査やらなんやらあって、会えるのは夕方ぐらいだろうって聞かされていたからこんな時間になってしまった。


 ただ病院のほかには背の高い建物は周りには殆どなく、見晴らしはかなり良い。

 川沿いに伸びている河川敷を走っている人たちの姿や、その向こう側にかかっている鉄橋を電車が走り抜けていく。

 目を凝らせば大晦日と元旦に足を運んだ神社も見えるはずだった。


「ん~っ……! やっぱいいねぇ、田舎は」


 凝り固まった肩をほぐすかのように背伸びした冬華さんは聞く人が聞けばぶん殴られそうな事を言う。


「都会の人の言うことは違いますねぇ」


 言うほど栄えてはいないけれど田舎と言われるほど自然味も溢れてもいないと思うんだけどな。


「冬華さんがこの病院に転院してきたのって、空気が綺麗だとか言うのも関係あったりするんですか?」

「まぁね。お母さんの実家がこっちだったってのと、私みたいな患者さんに良くしてくれる先生がいるって紹介されたのがきっかけ。実際、秋宮先生はいい先生だったねぇー。原稿用紙散らかしても文句言わないし、消しゴムのカスに関してもうるさくないし」

「ああ、なるほど……それは大事な問題ですね……」


 さぞかし前の病院では問題児だったのだろう。ちなみに母は文句を言っていないが清掃の人は割としかめっ面だった。冬華さんにそれを実感していないのは僕や母がこまめに掃除しているからだ。全く以って傍迷惑なお姫様だと言わざる得ない。


「それで、今日はどうしたの? 卒業おめでとう、葉流君?」

「一度に答えられないような質問をしないでくださいよ。とりあえずはありがとうございます、冬華さん」


 とはいえ、さてはてどうしたものかと冬華さんではないけれど景色を眺める。


 これといって決意をしてやってきたわけでもなければ今日何が何でもつけなきゃいけないケジメって奴も存在しない。冬華さんが集中治療室に運び込まれてから時間が経ちすぎていて、それこそ、心の整理など綺麗さっぱり済んでしまっている。心配する気持ちも間延びさせられれば杞憂となり、こうして会いに来ることはもはや条件反射みたいなものだ。


 会えるようになったのなら、会いに行く。それがどういうことなのか、考えるまでもなく僕はここに足を運んでいた。


「そういえば僕が渡した感想は目を通して頂けましたか? 僕なりに好き勝手書いちゃったので参考になるか分かりませんし、気に障るようなこと書いてたらごめんなさいって感じなんですけど」


 そもそも渡したことすら忘れかけていたのだが冬華さんにとってはそうでもなかったらしい。何気なく尋ねたつもりだったのに一瞬固まったかと思えばギコチナク視線を地平線へ投げた。何だろう。人って分かりやすいな。気まずくなった時、僕も同じようにしたことを思い出してその点に関しては触れないようにする。泥沼だ。


「よ……、よんだ。ありがと」


 耳まで真っ赤にしてようやく絞り出された返事はそれだった。


 なるほど。相変わらず恥ずかしいのかこの人。……とはいえ、感想には割とぶっちゃけたことも書いたような気がして僕としても気が気じゃない。変なテンションで書いたことだけは覚えているけれど内容に関してはうろ覚えで、そりゃパソコンを開けばデータは残っているんだけどそんなものを見返そうって思った事はなくて。そういえばあの原稿の続きはまだ貰っていない。ベットの机の上には原稿用紙が散らばっていなかった。ってことは……、


「もう最後まで書き終わったんですか?」


 誰もいなくなった地球で少女が『最後の一人』と思われる人物からのメッセージを見つけたところで物語は終わっていた。恐らく物語はもう終盤に入っていて、そのままエンディングまで駆け抜けることは間違いないのだけれど、冬華さんはそこから先の展開に悩んでいたのか幾つものパターンの没原稿が散乱しているのを僕は知っている。


「どの結末になったのかは知りませんけど、ここまで来たらそれ、今日持って帰ってもいいですか?」


 少し話を読み返す必要はありそうだけど結末が気にならないと言ったら嘘になる。お世辞にも良く出来た小説だとは思わなかった。だけど、だから面白くないとも思わない。少なくとも僕はあの物語の少女が何処に行く着くのかを知りたい。それが冬華さんの願いを代弁しているのだとしたら猶更。


「は……葉流君だって一回で答えられないような質問っ、してるじゃない……。ちょっと待ってよ、落ち着かせるから……」


 先ほどまで余裕ぶっていたように見えるのになんだか急にもごもごしてしまう冬華さんはやっぱり冬華さんだ。いつだって人のことをお見通しみたいに振舞う癖に、自分の原稿の事になると急に足取りが縺れる。パタパタと火照った頬を手のひらで扇ぐ様子はなんだかおかしかった。


「今日、ここに来たのは冬華さんに会いたかったからです。ずっと、会いたかったんだと思います」

「……ふーん……、そうなんですか……」

「はい」


 舞花との一件が頭の中をよぎる。冬華さんが僕にとって何なのか聞かれても答えられないけれど、この気持ちに嘘はない。


「元気そうでよかったです、冬華さん?」


 少なくとも、こうして気兼ねなく話せるぐらいには。まだ、ここにいてくれて、よかった。


「……これでも寿命が半分ぐらい縮んだらしいんだけど?」


 強がりなのかは分からないけれど冬華さんは口先を尖らせて言う。恐らくそれは冗談ではなく事実だ。母さんの口ぶりからもその日が近づいていることは間違いない。

 次、発作が起きればオペをするしかない、ということも。


「でも――、まだ半分残ってるじゃないですか」


 諦めたわけじゃない。放り出したわけでもない。

 無責任にも取れる僕の言葉に冬華さんは少しだけ驚いたような顔をして、そのまま頬を指先で突っつくと膨れる。


「半分じゃやれることは限られてるんですぞ?」

「でもやることに変わりないんでしょ? 付き合いますよ。ちゃんと」


 後悔したくないのは僕も同じです、と付け加える。しばらく品定めするかのように僕を伺っていた冬華さんだったけど、睨めっこの結果は僕の逃げ切りとなった。「まーっ、葉流くんは私の奴隷ですからねーっ?」冬華さんは両手を放り出して僕の肩に肩をぶつける。


 こつん、と肩の上に頭が乗せられたかと思えばそのまま匂いを付ける猫のように頬をこすりつけられて、若干髪がこそばゆい。


「ありがと、君が私のお話を読んでくれて嬉しいよ。嬉しかったよ。私は」

「…………」


 大袈裟に着飾られた言葉ではなく、冬華さんらしくない、素直な言い回しに言葉が見つからない。

 僅かに浮かんだ雲が日差しを覆い隠し――、けれど、すぐに差し込んだ光が僕らを浮かび上がらせる。


「そんなこと、言わないでくださいよ。気持ち悪いです」


 だって、なんだかそれは、……別れの言葉のように感じたから。


 否定することも、肯定することもなく冬華さんはまた黙って視線をフェンスの向こう側に投げて、電車の規則正しい足音が響いてくる。

 名残惜しそうに頬に触れては流れていく冬の空気。静まり返った街並みからその息遣いが聞こえてくるかのようだ。


「冬華さんは……、……ちょっと、諦めるの早すぎなんですよ」


 正直に言うと、僕はずっとそんな冬華さんの事が気に食わなかった。


「自分の人生の長さ、こんなもんなんだって悟ったような顔して、諦めるの、早すぎなんですよッ……」


 分かってる。


 こんな風に当たったところでどうにもならないし、冬華さんだって不本意なんだ、——だけど。


「少しぐらいっ……残念そうにしたらいいじゃないですか……!!」


 少しぐらい、死にたくないと、言ってほしかった。


 それが避けられない運命だとしても、死を受け入れ、穏やかにそこ向かって歩み続けるだなんて、そんなの僕は嫌だ。


 分かってる。我がままなんだ、これは。


 子供じみた身勝手な欲望。

 こうであって欲しいと、自分の思い通りになって欲しいっていう傍迷惑な願い。

 なのに、冬華さんは分かりきっていたみたいな顔して、笑う。用意された笑みで、僕に告げる。


「なら、私が泣き喚いて、助けてってお願いしたら君はどうにかしてくれるの?」


 残酷な、分かりきった事実を。


「どうにもならないんだよ。葉流君は認めたくないみたいだけどさ」


 冬華さんは僕よりもずっと前からそれを向き合い続けている。僕がいま歩んでいる道はとうの昔に彼女が通った道だ。だから知っている。足掻くことの無意味さも、叫ぶことの空虚さも。


 迫りくる死という存在はそれぐらい当たり前で、生きている限り避ける事の出来ない当然の摂理なのだと。


「けど……、その道筋に意味を生み出すのが作家なんじゃないんですか……」

「……え?」


 父さんの本を読んで僕は知った。


 残された人生で、限られた時間で、自分に残せるものを残して行った背中を。感じることが出来た。

 病室の窓から見る景色と見えている部分はそう違わないハズなのに、窓枠がないだけで随分と世界の広がり方は違う。


 切り取られた空間と、無限に広がる世界。何処までもいけそうな予感と、そんなことはないのだという現実。僕たちの足には何も重しなんて括り付けられてやしないのに、一つの場所に縛られて、生きている。何処へだって、行っていいのだと分かっているのに、自分の居場所はここなんだと定めていた。


 それは悪いことではないのだと、僕は思う。別に一つの場所に拘ることは悪いことではない、と。

 だけど、望んでそうではない人を見ていると、……連れ出したくなる。


「ねぇ、冬華さん? ちょっとイケない事、してみませんか」

「いけないことって……、ま、まさかえっちなことでしょうかッ……」

「いえ、そうじゃなくて」


 これは突拍子のない提案。


 普段の僕ならそんなこと思いつきもしないだろうし、きっとこの時の僕はどうかしていたんだ。

 冬華さんの手を取るとフェンスを握らせ、僕は一足先にそれをよじ登る。


「あっ、危ないよ葉流君!!?」

「平気ですって」


 確かに風の強い日はそうかもしれないけど、今日は幸いにも穏やかな気候だ。

 フェンスの向こう側にはまだ余裕があって、下手に暴れなければ落ちる心配もない。


「ほら、冬華さんも」


 上から手を伸ばし、彼女を呼ぶ。

 たった数十センチ、地上から離れただけなのに、それでも随分と自由になれたような気がした。


 目の前に差し出された手を、しばらくの間冬華さんはどうするか悩んでいただけれど、諦めがついたのか渋々手を取るとフェンスをよじ登る。恐る恐る。震える手で。

 僕はそんな彼女をしっかりと握り、引っ張り上げると反対側へと下ろす。

 二人で並んでフェンスに掴まり、後ろの何もない空間を背に苦笑いして。


「誘っておいてなんですけど、高所恐怖症なんですよね。僕」


 後悔はしていないけれど、ちょっぴり後ろを振り返るのが怖い。足元から吹き上げてくる風もそうだ。フェンスの上に上っていた時は冬華さんに意識を集中できていたから地上の事は見えていなかった。


 けれど、振り返れば地上6階、その屋上。それなりに高いところに僕らは立っていることを実感することになる。


「これ、見つかったらめちゃくちゃ怒られそうな予感するんだけど。その時は葉流君が責任取ってくれるんだよね?」


 珍しく、冬華さんの強がる声も震えていた。


 まぁ、叱られたら叱られたで覚悟はできてますよって答えつつ、そんな先の事はあまり考えていない。


 今はただ、後ろを、せっかく、フェンスを越えてまでこんなところに立っているのだからその景色を――、


「……冬華、さん……?」


 振り向こうとして、先に振り返っていた冬華さんの瞳が大きく見開かれていることに気が付く。

 大粒の涙が頬を伝う。

 風に弄ばれる彼女の長い髪が、そんな様子を隠そうと踊っていた。

 伝い落ちた涙は吹き上げた風によって揺らめく。


「っ……、……ははっ……、……こわくて……泣いちゃった……」


 苦笑し、笑いで涙を隠そうとする冬華さん。

 フェンスに震える手でしっかりと掴まり、おでこをぶつけて、まるで見えない何かに縋りついているかのようだ。


「冬華さんの見たかった景色には程遠いかもしれませんけど、僕はこういう景色、嫌いじゃないかもです」


 延々と続く空。差し込む日差しとそれを遮る雲によって眼下に広がった街並みは白と黒、そして僅かに芽吹き始めた他の色たちによってその存在を深めている。

 川を流れる水はきらきらと輝いているかと思いきや、橋のかかった麓になれば底の知れない濁流となる。


 街自身が呼吸をするように一秒一秒その表情を変え、僕らもまた、その景色の一部となっていた。


 少しずつ傾き始めた太陽が色を変えていく。徐々に、ほんの僅かに角度を変えただけで白色の光はオレンジ色を帯び、それによって街に落とされていた影はその色を濃くしていく。いつも眺めていた景色とそう変わらないハズなのに、窓枠も、フェンスもないだけで全く違って見えるのは何故なのか。


 僕らは知っているようで自分のいる世界の事を知らない。気付いていない。それはきっと悪いことじゃない。きっと。


 そうやって捉えきれない世界の中で僕は冬華さんの物語を重ねた。

 誰もいなくなった、後の世界の事を。


 ただ一人意味も分からず残され、「寂しい」とさえ言ってしまえれば救われるかもしれないのに、それさえ口にすることが出来ず、ただ孤独に耐え、押しつぶされそうになっている少女の物語を。


「祖母が逝ってしまったとき、冬華さんが隣にいてくれて救われました。……だけど、冬華さんはずっとそういうことを繰り返してきたんですよね」


 病室で過ごす時間が長いということは、それだけ色んな人との別れを繰り返して来たことと同意義だ。


 そりゃ大半の人たちは体を良くするために入院して、良くなって出ていく。


 だけどそうでない人たちも一定の割合でいて。……ろくに学校にも通えず、長い期間、そこで過ごしている冬華さんにとっては病院の中だけが彼女の世界で、そこで出会う人たちの数というのは僕らの世界よりもずっと少ない。


 だから、冬華さんはあの物語を描いたのだと初めは思った。だけど、多分、それは半分正解で半分外れだ。


「僕も……初めは冬華さんの事を書いてるのかと思ったんですけど、……そうじゃなかったんですね。どっちかっていうと冬華さんは消えていった人たちの方だ」


 答え合わせ。感想にも書くことは躊躇われた事実。


「冬華さんは、自分がいなくなった後でも自分の事を思い出してくれる人がいてくれるって思いたかったんですよね?」


 誰もいなくなった地球の上で。そこに人類が存在したことすら忘れ去られた未来の果てにたどり着いたとしても、ここに存在した人々の記憶はきっと誰かに受け継がれ、忘れ去られることはないのだという願いだった。


 一つずつ、残された言葉を拾いつつ、たった一人の少女は言葉を紡いでいく。


 誰にあてるわけでもない孤独な、自分の物語を。そこで眠る人々のように、自分の事を思い出してくれる人々の為に。そうやって人の命は繋がっていく。


 冬華さんは笑った。


「いやはや、葉流君には文才ないって言ったけど十分にかっこいいよ。私じゃそんな風に自分の妄想を語る事なんてできないよ」と流れる涙を気にすることなく、笑みを浮かべた。


 そうして「これは国語の試験じゃないんだから、そういうのは良いのに」って少しだけ拗ねて見せて、その場にしゃがみ込むと僕の服の裾を遠慮気味に掴む。そんな風に捕まえなくたって冬華さんを置いてどっかに行きやしないのに。

 日は随分と傾いて来ていた。街の形はもはや輪郭が曖昧になっていて、影の部分の方が大きい。


 夕日は眩しいほどに僕らを照らしているのに、冷えた空気が幕となってその温度を拒む。


 その場にしゃがみ込んだ僕は冬華さんの手を取って、冷え切ったその手を握る。


「でもいまは、……自分が死んだ後の事を考えるのも結構ですけど、いまこの瞬間は。……生きている自分たちの事を、考えませんか」


 自分を見て欲しいという、恥ずかしくて父に言いたくても言えなかった言葉。

 それをようやく、冬華さんに告げられたような気がした。


「……葉流君は私とえっちな関係になりたいんだ」

「違います」

「大人のお付き合いに憧れちゃうお年頃なんだ」

「それは冬華さんも、じゃないんですか?」

「キス、してみたりする?」

「遠慮しときます」


 別に、そういう話じゃないんだ、これは。

 茶化す冬華さんをいなすと彼女は肩を竦めて苦笑する。


「チャンスだったのに」


 言わんとしていることは分かるけど、「いりませんよ、そんなの」って僕なりに誠意を示す。

 冬華さんが可愛いからじゃない、綺麗だからでもない。

 ただ、この人と出会って、隣に居たいと思ったから。僕は告げる。


「生きてくださいよ、冬華さん?」


 恐らくは彼女自身が最もそう思い、そう出来ないでいることを、伝える。


「……酷い子だよ、君は」


 冬華さんの顔は、怖くて見えなかったけど、震えた声だけで十分だった。


「すみません」


 基本的に優等生で通っているものですから、たまには、我が儘言わせてください。って、後、年上なんですからと。甘えて、誤魔化した。


 本当に、酷いよって、何度か繰り返した後は街の音が良く聞こえて、空を見れば青と赤のグラデーションの先に細い線となった太陽が沈んでいく。

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