(2-2) 冬の訪れ

「進捗どうですかな? 受験生?」


 少しずつ傾き始めている日差しを背に僕らは河川敷の遊歩道を歩く。

 当たり前のように冬華さんの足取りはゆったりとしていて、抱えた本が何気に重い僕は少しだけ助けられる。


「ぼちぼちですよ。先生はどうですか?」

「ぼちぼちですねぇ、進んだような巻き戻ったような。相変わらずゴミ箱はいっぱいいっぱいですなぁ」


 他愛のない、世間話。

 ざらりと、触れてはいけないあの日の夜の事が胸の内を過る。


 いや、やはり話題には出したくない。出せないと弱い自分が言っていた。

 まだ心の整理がついていないのではなく、冬華さんとはその話題に触れたくない。そんな感じ。

 おそらくそれはお互いに、冬華さんは冬華さんなりにうちの祖母のことを気にかけていてくれたようで、あの夜もきっと眠れなかったのは僕だけではなかったんだろう。


「冬華さんは……、……どうしてそんなに一生懸命なんですか?」

「んっ……?」


 ジリジリと、僕の握力を奪っていくほどに重い本たちを眺めているとどうしても思い浮かぶ姿があった。


「いえ……その、……ここまでするの、なんでかなって、こんなに本を借りてくるの。不思議に思ったので……」

「ぇっと……? ああっ、お話?」


 ペンを動かすジェスチャーをされ僕は頷く。言葉以上に捉えられてしまっていたら申し訳ないけれど、ただ単純に不思議だった。そこまで熱心に原稿を出版社に送っているわけでもないのに、毎日物語を綴り、資料が足りないと感じればこうして自ら足を運ぶ姿が僕には、理解できない。

 冬華さんはどう説明すればいいのか悩んだらしく、少しだけ唸った。


「んー……暇つぶしって言っちゃえばそれまでなんだけど……」


 ただ、それだけはないと暗に告げていて。僕としてもただの暇つぶしにここまで熱心になっていると言われても納得しづらいものがある。だから「それで?」と追い打ちをかけるように尋ねるが、冬華さんは笑って誤魔化し、「それはほら? 書き手にしか分からない不思議な魅力があるってことだよ」と話題を打ち切った。


 確かに書いている人たちにか分からないのかもしれないけど、その説明を諦めるのは作家としては結構致命的なんじゃないだろうか。まぁ、僕の知ったこっちゃないし、プロになりたいわけじゃないなら別にいいのか……?


「そういうもんなんですかぁ……」


 とはえい、ただの世間話にそこまで入れ込む必要もない。不思議だっただけで僕としてもそこまで深い意味はなかったわけだし。


「病院での生活、長いんですか?」


 だからあくまでも僕は世間話としてそんな話題を振っていて、


「え……?」


 言ってからそのデリカシーのなさを痛感する。


「長いんだろうなって、……気がして」

「……まーねぇ、長いよねぇ、私は。……それこそ普通の人よりかは随分と長いねぇー?」


 一瞬詰まった息遣いを悟られないようにとすぐに表情を作り直した冬華さんを見て僕も息が詰まった。ただ、それでも何とか息を吐き出す。


「……すみません」

「構わんよい」


 風で髪が流れ、表情を隠していた。だからどんな顔をしているのかを僕は見ることが出来なくて、冬華さんの声色からもそれは推し量れない。ただ入院の期間が長ければ長いほど、彼女はその分だけ人を見送って来たってことだ。良くなって出ていった人も、そして、最期を迎えた人も。


 誰よりも先にその部屋にいたはずなのに、知り合いになった人たちが次々といなくなっていく感覚を、間接的にではあるけれど、僕は知っている。一人、その場に取り残されていくような孤独感。それを味わう人の表情を、僕はよく知っていて。だからこそ、横顔すら見えない彼女がどんな感情を押し殺して顔に出さないようにしているのか、見なくても分かる。……だなんて、思い上がりも甚だしいだろうか。


「あれってさ、本当に落ちてくると思う?」


 ふと、冬華さんが見上げた先には件の彗星があった。

 徐々に色を変え始めた空の中で小さな星が光っている。そしてそれはほんの少しずつ、大きくなって来ているはずだった。


「どうでしょうね。こんな広い宇宙で上手い具合にぶつかるなんて、凄く珍しいことだと思いますけど」

「神様はビリヤード、へたっぴって事かな?」

「だとしても性格の悪い神様ですね」


 わざわざ何億光年と広がる小宇宙の中で、人類が存在する惑星を狙っているのだから。


「まぁ……、当たるときは当たるし、外れるときは外れますよ。大抵の人は当たるなんて思ってません」


 多分、舞花がそうだ。あるかもわからない高校生活に向けて必死に勉強をしている。

 もしかしたら無駄になるかもしれない勉強を、だ。僕だって人の事は言えないけれど、多分、アイツは明日世界が終わると言われても全く信じないだろう。明日にならないとそんなの分からないと言い出すのが安易に想像できる。


「例えばこの世界が神様の作り出した物語の中にあって、私と葉流くんが主人公だとしたらあの彗星はどうなると思う?」

「僕らの知らないところで打ち上げられた宇宙船に乗り込んだ超能力少女たちが宇宙空間で盛大に爆発させてくれると思います。びびびびびーって」

「んぁー……? なーんていうか夢がないなー……。沈みゆく夕日を背に、落ちてくる隕石を二人で見つめて、とかロマンティックなのを想像してよ」

「嫌ですよ、そんな最後。勝手に殺さないでください」

「私と一緒に死ぬのは嫌?」

「死ぬのが嫌ですね」

「嫌ですか」

「嫌ですよ」


 軽いノリでその言葉を吐きながら、ズキズキとそのイメージを共有する。


 死を覚悟する。その意味をあまりにも僕らは身近に感じすぎていて、そして冬華さんは多分、僕よりもそれをもっと意識している。

 身体の具合が、どれだけ悪いのかを、僕には分からない。教えてはもらえない。聞こうとは、思わない。


 祖母の姿がちらついて、冬華さんに重なりそうになったのを振り払った。

 ベットの上でペンを握る父さんの姿が、さっきから煩い。


「なんなんですか、らしくないですよ。そういうの」

「そうだよね、らしくないよねぇ……」


 冬華さんも冬華さんでなんだか上の空だった。彗星を見上げて、何か考えているのかいないのか。ふらふらと僕の前を歩いたり、下がったり。歩くペースが一定じゃない。


「実はさ、あの彗星って私が呼び寄せたって言ったら驚く?」


 足を止めた冬華さんはぼんやりとそれを見上げながらそう言った。

 そんな姿と彗星を交互に見比べてから僕はため息をつく。面白くもない冗談だ。


「それほど驚きはしなかったですね。ああ、いつもの妄想癖かって思っただけです」

「いつもの、かぁー……、……私って妄想癖あるのかな?」

「さあ、どうでしょう」


 言われてみれば小説を書く行為を妄想癖とは言わないかもしれない。妄想気味とは言うかもしれないけど。

 どちらにせよ、そう驚くようなものでもなかった。冬華さんが思い付きで適当な事を言うのはそう珍しいことでもない。ただ、これまでの冗談は少し質が違うようにも感じた。これからもしかすると本当に多くの人が死ぬかもしれないのに、その原因を自分が作った、とはあまり笑えないんじゃないだろうか。


 図書館での一件もあってかどうしたって「冬華さんの身体」の事を考えてしまう。自暴自棄になった末の言葉なんじゃないかと、邪推してしまう。


 ーー考えすぎかな、流石に。


 それこそ「余計なお世話」って奴だろう。だってそんなの、プライベートな話題過ぎる。この人と僕の間にはそんな関係性、築いた覚えはない。……わかってる。こんなの言い訳でしかない。友達ではなく、知人でしかないのだから踏み込むべきじゃないと。躊躇する理由も、……わかってる。


 脳裏に浮かぶ映像を振り払い、現実を見据える。

 夕焼けの光に掻き消されそうになる冬華さんを見つめた。


 大丈夫。冬華さんは、そうじゃない。あの人みたいに消えたりしない。そう、言い聞かせる。


「あの、冬華さん」

「なにかな?」


 話しかける言葉はぎこちなく、そして彼女の言葉もまた丁寧に模られたものだった。

 ざらざらした感覚を飲み込みながら話題をなんとか変える。


「一人で図書館はちょっと無理だと思うんですよ。流石にこれは……、ぼくでも結構腕に来てますし、どうやって持って帰るつもりだったんですか……?」


 両腕で抱えたパンパンのトートバックはどうやったって次第にずり落ちてくる。まだ病院までは少しある。ようやく半分が見えてきたという頃合いだった。少しずつ下がってくる指先の感覚に「ちょっと一息……」といって休みたい気持ちがないわけでもない。


 だから冬華さんがこれを独りで持って帰るのはかなり大変だっと思えた。のだが、


「タクシー使うとか方法は幾らでもあったけどね」


 何を馬鹿なことを、とでも言いたげに彼女はほくそ笑んだ。


「いや、実のところね。葉流君の助けなんて必要なかったのさ。君に手助けされなくとも私は私でなんとかなったんだけどね。あんまりにも君が心配そうな顔をしていたからついつい手を借りたくなったというか、いたずら心だよ。これは」


 だなんて楽し気に諳んじた。両腕を広げてくるくる回りだしそうなぐらい軽いステップを踏みながら。

 長いスカートと共に髪も回る。細く、線を描く瞳は言葉とは裏腹にいつもよりも色を濃く落としている。


「なんだ、そうだったんですか。ならよかったです」


 何をだ。と、気の利いたセリフの一つも言えない自分が歯がゆい。

 微妙に気持ちを掛け違えたまま僕らは歩き続け、冬華さんは振り返らず笑う。


「だけどありがとうね、葉流くん。……うれしいよ、わたしは」


 肝心なところで表情は見せようとはしない。

 そんな強がっているようにしか見えない後ろ姿に心がざわついた。


「やっぱり、一週間に一回ぐらい顔出しますよ。僕。どうせ学校の帰りですし、本の受け渡しぐらいなんてことないですから」


 言い訳を考えれば幾らでも思いつく、けれどこの人を独りで出歩かせて今日みたいなことになるのだとしたら、目覚めが悪い。なら、乗り掛かった舟だと諦めてかかわってしまった方が楽だろう。


「ふーん、そっか。葉流くんが私に付き合ってくれるわけか……」


 冬華さんがどういう顔をしているか、僕には見えない。

 やけに熱く感じる頬を見られたくなくて冬華さんより先を歩き始めたから。


 別に、この人がどうなろうが僕なにか責任があるわけじゃない。関わる必要もない。だって受験生だ。わざわざ病気を貰いに病院に行く必要もない。

 だけど、既に知り合ってしまっているのも確かなのだ。


 祖母と同じ病室になったことで、僕と彼女は友達ではないけれど、知り合いにはなってしまった。だから、不安なのだ。

 僕の知らないところで、今日、僕が原因でそうしてしまったのだけど、ああいう風に苦しそうにしている冬華さんのことが。


 何の返事もなく、沈黙だけが流れていく。遠くの鉄橋を走り抜けていく電車の音がかすかに響き、出過ぎた真似だよな、と当たり前の考えに気持ちが落ち込む。だってこれは僕の都合であって、冬華さんにとっては「余計なお世話」になるかもしれないのだから。


 第一、一人で出歩かないで欲しいだなんて、担当医でもないのに何を偉そうにーー、


「つまりそれって、私の行きたいところへはいつだって君が連れて行ってくれる。そういうことでいいんだね?」

「……はい……?」


 突然だったので何を言われたのかが理解できず、振り返れば意地悪そうな笑みを浮かべた冬華さんが首を傾げ、重ねる。


「あれ、そういう意味だと思ったんだけど違った?」


 確信犯。


 とことん性格の悪い人だ。


「冗談もほどほどにしてください。流石にそこまでは付き合いきれませんよ」


 頬が熱い。見られないようにと顔を背けて再び歩き出した。

 揶揄われているのだ。一つしか歳は違わないはずなのに妙なところで子ども扱いしてくる。悪態代わりに小さく一息吐き捨てると何食わぬ顔を装い、悪あがきと知りながらも放り投げた。


「冬華さんに振り回された結果、僕が受験に失敗しても責任を取ってくれるっていうなら、何処までも付き合ってあげますよ--例え地獄の中だろうがね」


 無論、その程度でやり返せたとは思えないのだけど。


「ほおほお、なるほどねぇ?」


 この会話自体に意味はなく。最初から決まっていたかのように冬華さんは大袈裟に驚いて見せ、「おやおやそれは困りますねぇ、将来有望な少年の道筋を邪魔してはなりますまい~」とかなんとか。いつの時代の人だよって感じに降参する。お互い本気じゃない。本気じゃないと予防線を張りながら恐る恐る踏み込み合ってる。


 どちらかが一歩、思い切って寄りかかってしまえばこんなやり取りは必要ないのだけど。僕もこの人も、多分、お互いに寄りかかることを極端に嫌ってる。……怖がってる? 分からないけれど。妙な居心地の悪さと変に心地よい距離感を感じつつ、僕らは河川敷を歩き続ける。


 緋乃瀬冬華。


 変な人だな、って、僕は思う。


「じゃ、お願いしようかな。本の返却と借り出しは」

「……ええ、まぁ、これまでもやってきてた事ですしね」


 そうして巡り巡って僕の要求通りに落ち着く。


 別に、何かが変わった訳じゃない。元々あった場所に落ち着いただけ。落ち着かせる理由が出来ただけだ。作ったのだと、言われたとしても。関係ないと割り切ることはできなかった。


「よろしく、葉流君?」

「ええ、……はい」


 なんて。ふと際見せる表情にやっぱり僕の心はざわついてしまうのだから。

 だってなんだかそれは、仕事ばかりで家に帰ってこない母と口うるさく喧嘩していた祖母が急にしおらしくなってしまった時のように。または、それまで華やかにぱちぱちと勢いよく弾けていた線香花火が息を潜めた刹那のように。あまり、良くないもののように感じたから。


 バカバカしいとは思う。人との別れに敏感になっているわけではないと思う。ただ祖母のことがあって、そしていつの間にかいなくなってしまった父の事を少し思い返してしまっているだけなのだ。


 冬華さんと父は違う。

 だけど、どうしたって二人は重なってしまう。

 病室で、原稿用紙に向かう姿が。

 自分の中で忘れることのできない幻影がチラついて消えない。


 ばあちゃんがそうなるまで思い出すこともなかったのに。考えないようにすればするほどそれはしつこく纏わりつく。寝苦しさを覚えるような、悪い夢。


「そういえば聞いてなかったね。感想」


 悪い夢からすっと拾い上げられたかのように冬華さんの言葉は響いた。


「感想……ですか?」

「そう。感想」


 ピンとこない僕とは逆に冬華さんは妙にソワソワしていた。


「気になるものだよ。読んでもらった側としてはさぁっ」


 正直、動きが気持ち悪い。そのうえ「聞きたい気持ちと聞きたくない気持ちが相対性理論!」だとかなんとか、照れ隠しなのかよくわからないことを言い始める。多分、それは相対性理論関係ない。絶対。

 けれど冬華さんの抑えきれない感情の灯った瞳と赤く染まった頬は言葉以上に気持ちを物語っている。


「いやぁ……気になる反面聞くのは恥ずかしいっていうか、恥ずかしいからこそ葉流君から切り出してくれるのを待ってたんだけどさぁーー、ほら、君ってそんな素振り全くみせないじゃん……? だからどーしたもんかなぁって……わたくしはちょっとドキドキしちゃったりしなかったり……???」


 余計な事、言わなきゃいいのに。自分でも泥沼にハマっていっているのは自覚しているのか、もごもごとそのまま言葉を濁すと黙り込んでしまった。そのままちらちらと僕が何か言うのを待っている。


 いや、「感想」を待っている。

 彼女の、原稿を読んだ感想を。


「……ぁー……」


 どうにも苦手だ。こういうのは。


「……あー……?」


 言葉の先が迷子になった僕に対して不安になった冬華さんの顔はどんどん固くなっていって、「いや、そうじゃないんですけど」と否定しておく。何と言っていいのか分からないけれど事実は事実として伝えるべきだろう。僕は意を決して告げる。


「すみません。あの日の晩のことはちょっと……。色々とあったのは覚えてるんですけど、ありすぎて覚えてないっていうか……。……冬華さんのお話、どんなのだったか、よく覚えてないんですよねぇ……」


 本当に。面白くなかったとか、好みじゃなかったとかそういう話じゃなくて、ただ単純に覚えていなかった。


 なんとなく草原が広がるお話だったようなことは記憶にはあるのだけど、多分それは以前読んだ時のイメージが残っているだけだ。あの時はただ祖母のことを考えたくなくて、文章というよりも文字をただ読み上げていただけに近い。はじめて冬華さんの原稿を読んだときに感じたような「広がり」は元より、どんな人物が出てきたかも追えていなかった。


 流石に怒られるかな……?


 そう思ってそっと顔色を窺うとそこには口先を尖らせて、否、尖るのをなんとか堪えようとして。目じりの下がった、へんてこな顔の冬華さんがぷるぷると表情を震わせながら固まっていた。


「だっ、あっ、あーっと……!! すみません!! ほんっとすみません!!!」


 直感で最悪のシナリオを想像し、即座に頭を下げる。--が、聞こえてきたのは笑い声だった。

 それまで彼女が見せたことのないような、何事にも押さえつけられていない、元気な笑い声だった。


「え、えーっと……?」


 面食らい思わず腰を曲げたまま見上げてしまう。それをどう受け取ればいいのか分からなかった。

 そのうえ、笑いが収まらないのか「おなかっ……いたっ……いたひっ……」とひーひー言いながら腹を抱えて膝を曲げてしまう。くふふ、とようやく笑いの収まった彼女はいつも手に持っているペンの代わりの人差し指を突き出し、それでもまだ笑いそうになりながら宣言する。


「んじゃ、それは受験勉強終わったら聞かせてもらうことにするね」


 と。嬉しそうに告げた。


「……別に今すぐにでも読みますけど」

「それはほら、なんか違うからさ」


 罪悪感から告げたのだけどそれは軽々と払いのけられた。


 良く分からない。頑なに読ませてくれなかったかと思えばこれだ。何かしら思うところがあるんだろうけど僕にはよくわからなかった。終始冬華さんのペースに乗せられているような気がしてならない。僕を放ってさっさと先に歩き出してしまった彼女を後ろから追う。


 もやもやする気持ちに整理がつかず、不満なのかと問われればそうなんだろうけど、別に悪い気はしていないのだから僕も僕でよくわからない。姉がいたらこんな感じだったのだろうかと一人っ子の僕は想像を膨らませるしかない。


 一方、半歩先を行く冬華さんはいつのまにか鼻歌らしきものを奏で始めていた。無意識だろうか。指摘したら消えてしまいそうなほど控えめな音色でるんるんと。僕はそんなものは聞こえていないと無視する。そんな姿を見て楽しそうだと思うから。こうして出歩くことで彼女は折りたたまれたままだった翼をめいいっぱい広げているのだろう。


「いいね、こういうのって」


 独り言のように告げられた言葉に「そうですね」と相槌を打ち、「楽しいよ」そう告げる冬華さんに「そうですねぇ」と頷く。


「適当だなぁ」

「適当だと思いますけど」

「……ムカつく」

「ご勝手に」


 だってそんな風に膨らみながらも冬華さんは嬉しそうにしているわけで。だったら言うことなんてない。ないじゃないかと、僕は思う。のに、


「私のことを、よろしく頼むよ。葉流君」


 だから、唐突にそういうの。やめて欲しいと思う。思ってしまう。


「よろしくね、葉流君?」


 ふわりと吹き抜けた冷たい秋風に、彼女の長い髪は舞う。

 幻想のように。あまりにも出来すぎた映像のように。くるりと回った彼女はとても眩しかった。


「そうですね、よろしくしてあげますよ。仕方ないから」


 そのまま消えてしまいそうに思える後姿に、そんなバカげた幻影を振り払うかのように、僕はしっかりと彼女を見据えて肩を竦める。これは幻想なんかじゃないと。少なくとも、劇的な、そこらへんでお涙頂戴を囁かれるような物語ではない。そう、変哲のない。現実なのだと、言い聞かせるように。


「冗談もほどほどにしてください、付き合いきれませんよ、ほんと」


 呆れて見せた僕に向かって彼女は満足げに笑って答える。

 その姿は絶対に幻なんかじゃないんだと、僕はしっかりと目に焼き付ける。


 冬の、始まりの季節だった。

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