(3-1) 積もった埃を払い落として

-3-


 相対性理論がどんなものなのか説明しろと言われれば「僕は子供なのでよくわかりません」としか言いようがない。楽しい時間はすぐに過ぎるけれど、辛い時間は長く感じられる。だから時間は一定ではなく曖昧なものなのである。とかなんとか先生が話していた気がするけれど、それも随分とかみ砕かれた説明だろうし、ほんの出来心で実際のところはどういうことなのか調べてみたらものの数分で諦めがつくほどに難しい話だった事は覚えてる。


 だから、今の僕にとっては相対性理論なんてなんだか有名な小難しい原理の一つで、時間の実態がどうであれ、楽しいと感じるものの時間は短いし辛いと感じるものの時間は長い。いまこうしている時間をあっという間に感じているかといえばそういうわけでもなく、けれど長いとも思わないのだからだから……?


「年末年始関係ないっていうのも味がないよねぇ」


 ベットの上から聞こえていたペン先の音色が止まったかと思えば、冬華さんはそんなことを言った。

 僕は単語帳を捲っていた手を止めてベット際に置かれたデジタル時計を見る。日付は12月31日。家で一人、勉強をしていたのだけどテレビをつければ年末特番。なんとも落ち着かず、ならどうせならとやってきたのが病室だった。


「あー……いまなんかぼく、寝落ちしそうになってました」

「ダメじゃん、受験生」

「ですよね」


 言って落としかけていた英文法を閉じる。

 僕が病室に顔を出したときは「あれ? 今日は図書館休みだよね」だなんて冬華さんは不思議がって見せたけど退屈していたらしい。珍しい来客もあるもんだ、まぁ、座った座ったとかなんとか言いながらパイプ椅子を勧められて定位置についていた。窓の向こうにはどんよりとした灰色の空が広がっていて「こりゃ雪になると見た」とは冬華さんの弁。でなければ僕が理由もなしに来るとは思えないと力説。まぁ、僕も暇だから冬華さんに会いに行こうか。だなんて、普段とは違った年末の浮つきにでも充てられたのだろうけど。


「年末らしさを感じたいと思わない?」

「テレビつければお祭りにも参加できますよ」


 少なくとも受験生の僕は参加するべきではない事柄だ。ちなみに今の時間帯は年明け後の年始特番に向けて去年のお祭り企画再放送タイムだろう。


「んーっ……」と冬華さんは積み上げられた本の山を一瞥し、「やや。いいかな、そういうのは」と無理やり自分を納得させた。どうやらあの中にテレビカードが埋もれているらしい。下手すれば栞代わりに挟まれているかもしれない。そういえばうちの祖母と同じであまりテレビを見ないらしい。活字中毒……? というわけでもなさそうなのに。まぁ、好き好みはあるんだろう。


「……年末ですし、少し片づけますか」


 このまま勉強していてもなんだかまた寝落ちしてしまいそうだ。そう思って腰を上げると珍しく冬華さんが慌てて両手を広げた。


「いっ、いいよ!! そういうのは!!」

「いやいや、年末感無いって嘆いてたのは冬華さんじゃないですか。なら少しはらしくしましょうよ」


 病人が少ないことに越したことはないのだが、生憎4人部屋であるはずのこの部屋には冬華さん以外の入院患者が入って来ていない。そのおかげでというべきか、そのせいでというべきなのか、無駄に散らかっているのが現状だった。気がついた部分は僕も片付けるし、清掃の方が綺麗にしてくれてはいるのだけど、それでもこの大先生は原稿用紙を書いては捨てるような大作家なので直ぐに散らかる。


 というか、よくよく見れば布団とか長い髪に消しゴムのカスがくっついてちょっと汚い。それで年を越すのは如何なものなのか。それなりに年若き乙女だろうに。


「……お風呂入ってきたらどうですか」

「ぇ、臭う……?」


 流石にデリケートな問題らしく、冬華さんは咄嗟に身を引いたが微かに薬品の匂いがするぐらいで衛生的には問題ない。


「気分的な問題ですよ。その間に布団の上も片付けておきますし、どーぞ」


 シャワールームの利用予定が埋まってなければ、の話だけど。多分、平気だろう。いつのそう混んでいるイメージはない。


 冬華さんは「んーっ……」とすこし思案したが年明けをさっぱりした気持ちで迎えたいのは誰でも同じらしい。「それじゃお言葉に甘えますかなぁ」と凝り固まった肩を解してからベットから抜け出す。そのままスリッパに足を通し、ベットの下にしまわれていた旅行鞄からタオルなどの着替えを手早く取り出すと、僕の胸元に指先を突き付ける。


「では、いやらしい気持ちなど抱かぬよーっに。健全なる面持ちで片付けてくれたまえ?」

「はいはい……」


 お気に入りなのか僕に何かを頼む(押し付ける?)時、必ずそのポーズをとるもんだからなんだか慣れてしまった。ちなみに原稿を書いているときは指先にシャーペンが加わる。似合ってないわけじゃないけどそうされたからって押し付けられるがわの気持ちはたいして変わらない。


 鼻歌交じりに去っていく後姿を見送り、扉が閉まるのを見計らって窓を開ける。案の定ひんやりとした風が遠慮気味に入って来て、足元からぞぞぞっと冷えが上ってきた。身震いしながらも掛け布団を捲り上げてその上の消しカスを落とし、一緒に丸められた原稿用紙が床を転がる。掃除を提案して心底よかった。


 先ほどまで冬華さんが座っていた部分はしわになっていて、シーツの上を軽く払うと手のひらに残されていた僅かな体温が伝わった。


「…………」


 少しだけ頭を過った冬華さんの姿を振り払い。なんとなく扉を見てしまう。


 ーー何考えてんだ。


 冬華さんに告げられたように健全なる面持ちで、邪な考えなど抱くことなく。そこからはただ淡々と片づけを済ませていく。ゴミ箱の原稿用紙はいつものように溢れていて手ごろなビニール袋にそれらを押し込んで口を縛った。微妙に崩れ、それでいてバランスの取れていた本の山を整理し直すと図書館で借りてきた本と私物がごっちゃごちゃだった。限度はあるけれど種類別に本を分け、手に取りやすいように片づけなおす。


 ふと、見慣れた文庫本に手が止まった。

 というよりも、なんだか引っ掛かりを覚えて手が止まっていた。


 いつもは文字を書いてばかりの彼女だけれど、時折本を読んでいることがあった。自分の執筆用の資料ではなく、娯楽として。いくつか、手作りと思われるブックカバーを被せられたそれらを手に取り、パラリとページをめくる。なんとなく、それを見ただけでわかっていたような気もするし手で持った感触で確信していたような気もしする。


 始まりのページを捲った先に印刷されていた見知ったタイトルに、少しだけ心臓がリズムを崩した。


 --本を、閉じる。


 目を閉じて、小さく息を吐く。

 大丈夫。なんてことない。ただの本だ。


 それ以上心臓が嫌な感じになる前にそれらを元の位置に戻し、図書館に返却しなくてはならないものとそうでない物も分けておいた。年明けは4日からだったか。ちゃんと調べとかないと二度手間になりそうだ。


「…………」


 そして一番最後に手を付けるべきか悩んだのだけどそれに手を伸ばす。

 書きかけの原稿用紙。もうすっかりと冷たくなってしまったシャープペンシル。そこに綴られた文字を自然と視線がなぞって、言葉を理解する前にそのまま目を滑らせた。

 勝手に見るのは、覗き見みたいできっと良くない。

 それに別に読みたくなんてない。


 参考書を読む方が今の僕には先決だとゴミ箱で消しカスを受け止めて原稿用紙を束ね直す。

 静かな街並みに呼ばれたような気がした。


 誰に……?


 そう思って視線を巡らせるけれど当然ながら誰もいない。外から誰かに声を掛けられたわけではなかった。けれど、窓を閉めようと手を伸ばし、ふと頬に冷たい感触が触れた。空を見上げる。


「雪だ……」


 例年より少し早い、初雪。

 呼ばれたように感じたのはきっと冷たい空気がそうさせたのだろう。


 指先に触れては解けていくそれは多分積もるようなことはない。恐らくパラパラと昼間のうちに降って、夜には止む。白というよりも透明で。落ちては消える姿は美しくも儚い。雨粒が凍っているだけでこうも見え方が変わるんだから不思議なものだ。

 ますます冷えてきた気温に窓を閉めた。


「冬の花といえばやっぱ雪だよね」


 すぐそばで告げられた言葉に驚くと「まさか本当に降るとは思わなかったよ」と冬華さんは少しだけ湿った髪を束ねながらベットに腰かける。微かに火照って赤くなった肌はいつもより発色がよく、窓の外の景色とは正反対に色づいていた。


「大晦日の演出にしちゃ、なかなかなもんですね」


 除夜の鐘を打ちに並ぶ人たちにはつらい夜になりそうだ。今夜は多分すごく寒くなる。と、カーテンを引こうとして冬華さんがじっと外を眺めていることに気づく。


「そんなに珍しいですか?」

「都心じゃ滅多に降らないからね。おかげで降った時には大騒ぎ」


 なんとなく交通事情がマヒする映像が浮かぶ。去年、ニュースで帰宅難民がどうとか言っていた気がする。ここもそんなに東京から離れているわけじゃないけど降るときは割と降る。毎年2月ぐらいがピークだけれどその時期になると雪かきが大変だ。自転車に乗るのもきついから歩きになるし。


「降りすぎは何処でも大変なことになりますけどね」


 まぁ、本人がそうしたいならカーテンはそのままでもいいだろう。いつもと違った景色を楽しんでいるようだし。

 窓際にいる僕は少しだけ寒かったりするのだけど、そこは着てきた上着を羽織れば済む話だ。もぞもぞと鞄の上に折りたたんでおいたそれを手繰り寄せ、被る。


 ちらりとまだ外を眺めたままの横顔を覗き見た。黙ってれば綺麗なのにな、なんてのは口に出さない方が良い。喚かれるか揶揄われるか、どちらにせよろくなころにはならないだろう。


 静かに、雪が舞い降りていく。

 世界中の音を吸い込んでしまったかのように静まり返ったこの部屋の中で、僕らは互いに言葉を発することもなく、互いに別々のものを眺め続けている。

 冬の花といえば雪だとこの人は言うが、冬華さんも字で書いた如く、雪の結晶のような人だと思った。


「そんなに珍しいですかな?」


 それまで整った顔立ちで視線を遠くへ置いていた冬華さんが意地悪くこちらに笑みを放り投げる。


「と申しますと」

「可憐で儚げな姫の横顔がですよ、葉流きゅん?」


 ほらきた。扱いに困る冬華さんだ。

 それでもまぁ、今回はずっと人の顔を見つめ続ければいつかはバレると分かっていて、それでも目を離せずにいた僕が悪い。肩を竦め、両の掌を上に向けて軽く腕を上げる。降参だ。この人相手に言葉の押収を繰り広げたところで何の得にもならない。


「自称姫様には常々驚かれますね、飽きませんよ」

「ミステリアスな女って良いよね」


 何を言ってんだろうこの人。

 ミステリアス=神秘的って意味合いであって、ミステリー(謎)とは同じようで違うのに。


 積み上げられている文庫本の中に推理ものは見受けられなかったので、そういう点には疎いのかもしれない。この作家先生。

 はぁ、と気持ちの入れ替えを兼ねてため息をこぼしつつ、ポケットから出した単語帳を捲る。ミステリーの綴りってどうだったけな。


「なによぉ、もっと構ってくれてもいいじゃない。お風呂上がりの匂いとか気になったりしてもいいじゃない?」

「そんな変態じみた趣味はありませんよ」

「ないんだ?」

「ありませんね」


 僕がそっけなく返したところでようやく諦めてくれた。「よいしょっ」とベットで座りなおすと原稿に向き直り、それまでに書き進めていた分を確認しながら次のシーンを書き出し始める。


 コツコツと、リズム良く奏でられている間は終始無言で。

 コンコンコン、と手首が上下している間は唸りつつ。そこまで真剣に取り組んで本当に小説を書くのが好きなんだなぁ、と他人事ひとごとながら感心する。僕にはそんなに夢中になれるものはなかったから。


 昔、舞花が足を捻挫してまでバスケの試合に出ようとして大騒ぎしたことがあった。無論僕も止めたし、周りもやめた方が良いと引き留めた。けれど、夏の引退試合ということもあって舞花は反対を押し切り、無理やり試合に出て、次の一か月は松葉杖生活だった。試合には勝てて本人は満足そうだったけれど、僕にはそれが良く分からなかった。自分の身体を犠牲にしてまで打ち込めるなんて。真似しようとは思わないし、羨ましいとも思えない。

 この人は、体調に障らないのかな。とは思う。


 うちの母親が「書くのをやめさせろ」と言ってこないということは別段問題はないんだろうし、徹夜して書いてるとかそういうんじゃないから別にいいんだろうけど……。母さんは、どう思ってるんだろう。冬華さんの事。


 ふと、それまであまり考えてこなかったことに気づく。

 父さんの様子と、冬華さんの現状が似ていることは気づいているはずだ。もしかすると病状もーー……。

 と、そこまで考えて考えていたことを振り払った。


 縁起でもない。そんなの、馬鹿らしい考えだ。


「難しい顔してるね。進路のことでお悩み中?」


 ペン先を動かしながら冬華さんが尋ねて来る。視線はこちらに向けられることなく、ただ原稿用紙の上をなぞっていく。


「いえ。高校は一番近い所に行くって決めてたんで。通学に時間割くのって無駄ですし、学力もちょうどいい感じですから」

「出来る子は違うねぇ」


 スラスラと綴られていく物語は、いったいどこに向かっているのだろう。


「珍しいですよね、いまどき手書きって。パソコンは買ってもらえなかったんですか?」


 タブレットとか。冬華さんの荷物を見た感じだとスマートフォンどころか携帯電話も持っていないようだった。病室での通話は禁止されているが、メールやネットは許されている。

 持っていて持ち込んでいないということはないだろうし、ただ単にアナログなんだろうかとは思うけど。


 それにしたって手書きで小説を書くだなんて宿題の読書感想文じゃあるまいに。


「現在っこだねぇ、葉流くんは」


 くるくると指先でシャーペンを振り回しながら冬華さんは頬杖をついて首を傾げる。


「書いてるって感じがしなくてどーもさぁ……? ……合わないんだよ。電子機器と私って。相性が悪くて言葉に詰まってしまってどうも……。ひらがなを漢字に直したいのにカタカナで打ち出されたりしてさ。直そうとしたら変な画面出てくるし、よくわからんよ、彼の事は」


 むむむ、と唇を窄めて小難しい顔をするが詰まるところ苦手なんだろう。キーボードが。


「あ、ちなみに携帯電話は持ってるよ? 殆ど使ってないけど」


 そういってカーディガンのポケットから取り出したのは最低限の機能しか備わっていなさそうな古臭い折りたたみ式の携帯だった。


「連絡先、聞いとくっ?」


 なんで嬉しそうなんだ、この人は。


「結構です。教えたら教えたで遣いっパシリの回数が増えるだけじゃないですか」

「分かってるじゃないか」

「ええ、誠に残念ながら」

「ま、実際のところこの部屋って電波の入り良くないから外に出ないと使えないし、電源きってるんだよねー」


 そういって電源の入っていないそれをくるくると指先で弄ぶ。日頃のシャーペン捌きのおかげで随分と指先が器用になっているらしい。


 それにしたっていまどきガラケーだなんて。うちの祖母でもスマートフォンを使いこなしてたっていうのに。テンキーじゃパソコン代わりに文字を打つのも一苦労だろう。携帯小説なんてのが流行ってた時期もあるけれど、いまはそうでもないだろうし。


「それにいまどき原稿用紙で応募を受け付けてる出版社も少ないと思いますけど」


 新人賞だって応募よりもネットに投稿されている作品を拾ってくることのが多いまである。

 そんなこと、インターネットのイの字も触っていないような冬華さんには無縁の話かもしれないけれど。


「大丈夫大丈夫。前にも言ったけど私のコレはそういうんじゃないから。プロの小説家になりたいワケじゃなくて、ただこのお話を書きたいだけだからさ。私は」


 そういえば応募する気がないってのは前も聞いたような……。

 ただの趣味。部活でバスケするみたく、プロを目指しているんじゃなくてただ単純に書くのが楽しいっていうだけ。

 別にそれが悪いことじゃないだろうし、小説を書いてるからプロを目指さなきゃいけないわけでもないだろう。


 それに彼女が気楽に(なのかは分からないけれど)楽しめる趣味がこの病室の中にあることは良いことなんだと思う。じゃなきゃ、毎日毎日ベットの上に縛られる日々は酷く窮屈だろう。ただ、本当にそれだけだとはどうにも思えなくて、


「何か言いたげだね」


 最近、そういうのも見抜かれるようになってきたから少し困る。


「顔に出てましたか?」

「私もそろそろ君の性格を掴めてきたからかな。なんとなく思うところがあるんだろうなってのが伝わってくるよ。ビンビンくるよ?」

「なら思い違いですね。それほど冬華さんにムキになったりしませんよ、僕は」


 本当に。全く面倒な人だと僕は思う。


「……いや。なってるよね、それ」


 なってませんよ。そう告げて単語帳を捲る。interested、興味がある、か。


「むー」


 冬華さんは唸るけれど僕は興味なんてない。どうして僕が冬華さんの事を気に掛けなきゃいけないのか。そんな必要何処にもないのだ。こうやって足を運んでいるのだって受験勉強の気分転換の一環だし、放っておいたらまた一人で出歩いて危ないかもしれないしって思うだけで……。


「不思議だねぇ、君も」


 冬華さんが僕を見つめている。見つめてくるけれど、冬華さんのように相手の顔を見ただけで「なんとなく伝わってくる」とはお世辞にも言えない僕なので首をかしげる。


「いやさ、可愛い彼女がいるのに、どうして私なんかに構ってくれるんだい?」


 流石に意味が分からない。可愛い彼女って誰の事だ。クラスメイトの顔をいくつか思い浮かべてはみたけれど、……可愛い……? そもそもそんな奴らのことを冬華さんが知っているわけもないし、母さんにはそんな話一度もしたことがないしーー、


「いや、図書館で一緒に勉強してたじゃない。可愛らしい女の子と。後で怒られやしなかったかい? 放ったらかしにしてさ」

「あぁ……舞花のことですか……」


 なるほど、見られていたわけか。これ以上誤解が広がらない為にも「それは誤解ですよ」だと訂正する。

 アレは幼馴染であって彼女ではない。恋愛感情どーのというよりも腐れ縁の延長みたいなもんで、いなきゃいないで不気味だし、いたらいたで鬱陶しい。そういう切っても切れないお隣さん的な奴だ。


「ふーん」


 僕の説明を全く信じていないようで冬華さん。目を細めて相槌を打つと口を尖らせた。


「なんだか腹が立ってきた」

「なんでですか」


 だって、そんな幼馴染がいて何にも起きないとかなんとやら。そのままぎゃーぎゃーと作家脳全開で妄想劇を繰り広げる姿には呆れるほかない。物語と現実がごっちゃになるにも限度があるだろう。第一、幼馴染だからって恋人関係に発展するのだとしたらこの世界はご近所同士で親戚関係の相互作用だ。


 とまぁ、ここまで話に付き合っておいて自分でも何を言ってるのかさっぱりだった。悪い意味で冬華さんに影響されたらしい。僕は頭を押さえて項垂れる。これ以上、この人のペースに乗せられては僕まで変人の仲間入りだろう。両手を広げる母の姿が浮かび、それは絶対に踏みとどまらねばと決意した。そっち側の人間には何があってもなりたくない。なってたまるか。


「はーい、お元気そーでなによりー。回診のお時間ですよー?」


 と噂をすれば影が差した。拍子抜けするような軽いテンションで部屋に入ってきたのは冬華さんの担当医で我が家の問題児だった。


「あ、今日はパスタが食べたいな。たらこをたっぷり使った」

「勤務中に何言ってんだこの馬鹿親は」


 余計な事を言われたくはないのでそのまま単語帳を鞄に突っ込んで腰を上げる。「えーっ! ひっどーい! 葉流きゅんつめたーい!」「つめたーい!」と騒ぐ母親とそれに便乗して声を上げる冬華さん。


「うるせぇ。それじゃ冬華さん、また来ますんで」


 どのみちここに居座っても邪魔だろう。病状については聞かれたくないみたいだし。


「なんで葉流って冬華ちゃんにだけは敬語なの?」


 ふと思ったことをそのまま口に出す母である。素直なのかバカなのか本気で分からない。


「年上だからだよ。一応ね」

「じゃ私は年下?」

「黙れ」


 真面目に大丈夫かうちの母親。

 冬華さんはクスクス笑っているけれどよくもまぁこんな人に自分の身体を任せられるもんだと感心する。

 ともあれ、医師としての腕前は確かのだから馬鹿には出来ないもので。めんどくさいなぁ、うちの親……。


 病院の外に出るとうっすらと地面が白くなっていた。雪かきをしなきゃならないほど積もるって感じではなさそうだけど、今夜はかなり冷えるだろうなぁ、と上着の前をしっかり閉めてマフラーを巻き付ける。年末年始に風邪をひいちゃそれこそ面倒だ。


 散歩になるからいいかと自転車を置いてきた事を駐輪場で気付き、思ったよりぼんやりしている頭に息を吐く。白い煙となったそれは膨らんでは消えていく。

 重苦しい空。いつもより静かな町。

 年が明ければ新年を祝う空気で盛り上がりも見せるだろうけど、今日は何処も静かだ。


 とぼとぼと時折吹く横風に身震いしながら河川敷を歩き、冬華さんと同じように病室で物語を綴り続けていた人の事を思い出す。

 あの人も機械が苦手で、最後までキーボードをたたく指はたどたどしかった。


 お父さんーー、と、呼んでいたのは覚えている。


 苦笑いを浮かべつつも、仕事の邪魔をする幼い僕の頭を撫でてくれたことも。

 日に日に、その手が細くなっていった事も。仕事だからと言って、それ以上は構ってくれなかったことも。


 多分僕は、そんな父の事が嫌いだった。病気の事もあってだろうけど、殆ど構ってくれない父が嫌でしかたなかった。小説を書くよりも自分と遊んでほしい。そう思っていても口には出せず、迷惑をかけないようにとじっと隣で父の姿を見ていた。邪魔にならないよう、何もせずに。じっと。


「…………」


 そんなことばかりが鮮明な癖で楽しかった記憶は殆ど思い出せない。


 あの日笑って聞かせてくれた物語や、流石私の子だと大袈裟に褒めてくれたおとぎ話さえも。いまとなっては霞かかった光景のように薄らぼんやりとした、輪郭が曖昧だった。もしかするとそれらは全部僕の思い違いなんじゃないかと感じてしまうほどに実感がない。


 だからなのだろうか。父という存在がぽっかり空席になったまま放置されているような感覚があった。夢の中の住人のような曖昧な存在感のまま、いまだに僕は宙ぶらりんなそれを抱き続けている。


 父が、亡くなった時、冬華さんのように散らかしてばかりいた病室がすっかり綺麗になっていた事だけはちゃんと覚えているのだけれど、そのほかの事はあまり覚えていなくて。あの人は本当にそこにいたのか。もしかすると母が僕に説いて聞かせたデタラメだったんじゃないかとさえ思う自分がいて。


「……馬鹿みたいだな」


 そんなはずはない。

 家の中を探せばその頃の光景を写真に収めたアルバムがいくらでも出てくるだろう。そしてそれらを見て見ぬふりしているのは紛れもなく僕の方だ。どうにも「それ」を受け止めるのがつらいのだ。目を背けたところで変わりようのない事実だというのに。


 吐き出す息は相変わらず白い。舞い降りてくる雪は手のひらで受ければ融けてなくなる。

 曖昧なまま、そこにあるのかも分からない気持ちをただぼんやりと感じながら足を進めた。


 ポケットの携帯を開いてみるけれど受験を控えた年末だからか、友人たちから初詣に行こうという連絡は入って来てない。当り前だ。わざわざ風邪を貰いに人混みに行く奴はいないだろう。


 ただ、あの人はそんなことを気にしてはくれないらしい。


「……あの母親、マジで何考えてんだ」


 仕舞い直そうとしたスマフォが震え、画面に映し出されたのは知らないアドレスからのメッセージだった。

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