(5-3) 僕らの元に彗星は落ちてくる

「……あれが落ちてくるんだよね?」


 すっかりと暗くなった夜空に浮かぶ彗星は、他の星よりも一段と輝いて見える。肉眼ではどれだけ近づいたのか分からないけれど、着実にそれは僕らの元へと歩み寄って来ていて。冬華さんの病よりもはっきりと、見て取れた。


「冬華さんが呼んだっていう設定じゃありませんでしたっけ?」


 確かあれは河川敷を歩いていた時の話だったか。

 いまとなっては随分と昔の事のように思えるし、思えば、あの時から冬華さんはきっと真面目にそう言っていた。


「そ。呼んだの。私一人が死ぬのは嫌だって。だったらこの世界も滅んじゃえばいいのにって思ったら本当に来ちゃった」


 嘘か本当か。考えるまでもなくその破滅的な願いを聞き届けた神は存在しない。ただ、一人で死にたくないと願った冬華さんがいて、たまたまそこに全人類の滅亡が重なっただけだ。なのにその他大勢の死を宣告された人たちはそれを直視出来てはいない。ただなんとなく、他人事のようにそれを感じ、そして多分、いざとなって慌てるのだろう。死ぬ、準備が出来ていないと。


 だけど、本当の意味で準備なんてできやしない。やろうと思ったって、きっと、出来ない。冬華さんもきっとそうなんだ。


「傍迷惑な神様せんせいですことで」


 僕だって、半年後。本当にアレが落ちてくるとは考えていない。

 何らかの要因で、万が一の可能性で、それはズレて、なんだかんだで明日が続いていると思っている。


 だけど冬華さんにはそんな明日はきっとやってこない。彗星がぶつかる可能性と、病気で体を蝕まれる可能性。どちらが高いかなんて考える余地もない。そして、どちらが死因になるかだなんて。


「作家としては、その瞬間を目に収めたいって思うのが生まれ以ってのごうだと思うんですけどね」

「人類滅亡の瞬間を? いいね。もしも生き残ったら私が新たな世界の神話を綴ることになるよ」


 何もなくなった荒廃した世界に一人、原稿用紙とペンを片手に挑む愚かな作家。そんな彼女を僕は何処かで期待し、見続けたいと思う気持ちがある。それがどういうことなのか、いまいち分からないのだけど。


「以前一度さ、私がどうしてお話を書くのか聞いたことあったよね」


 冬華さんはまた窓の外に目をやっていて、いつもは耳に掛けている髪は流れ落ちているので横顔は伺えず、何を考えているのか推し量るのは難しい。


「君にはきっと分からないって言ったけど、いまでもやっぱり分からないと思うんだよね。君は私と違うから。……アレは君の元には落ちてこない。少なくとも、今はね」


 いつか、そう遠くない未来。この地上に落ちてくるはずの彗星。それが外れると冬華さんは言うけれど、きっとそんなことはない。あれは等しく、この地球上に住む人々の上に等しく死神を連れてくる存在だ。


「彗星が冬華さんの頭の上だけに落ちてくるとでも? なんだかシュールな絵面ですね」

「今からでもバッティングの練習すれば打ち返せたりしたりして」


 笑ってはみせるけれど、もう心は笑ってはいなかった。そんな姿を見ていると、この人はほんとにもう死を受け入れているんだと思えてしまって放っておけなくなる。僕たちとは違うのだと、見切りをつけてしまっているのだと。自分自身に。

 そんなことはなく僕らはそう違わない。なのに一人、一歩先を歩いてしまっている。


「分かって……欲しいわけじゃ、ないんだけどな」


 そういったきり、冬華さんは黙り込んだ。


 ついて出た弱音を聞いてしまってよかったのかどうか悩んだってのもある。

 言葉を探すうちにタイミングを見失って、沈黙が訪れる。


 どうせ死ぬなら、みんな一緒が良い。

 そんな風に祈る事は悪魔だろうか。


 決して救われることのない自分一人が悲劇の中にいるわけではないと、病という形ではなくても、それは誰しも、当然のように訪れるものなのだと、思うことの何が――、


「……? 冬華さん……?」


 ふと、違和感を感じた。俯いて、独りにして欲しいって事なのかとも思ったけれど妙に息遣いが荒い。心配になり様子を伺おうとのぞき込むと急に細い体が倒れこんできた。


「ちょっ……、と、とうかさんっ……?」


 身体で受け止め、冬華さんも僕にしがみつく。掴んできた指先が、驚くほど熱い。


「好きだよ。葉流君。君の事はきっと忘れない……」


 虚ろな言葉が耳に届いたかと思えばそのまま全身から力が抜けた。倒れこむ冬華さんを必死で支え、ベットに寝ころばせる。


「冬華さんっ……?! とうかさん!! とうかさん!!!」


 荒い息遣いのまま意識を失った冬華さんに気持ちが動転し、そこにナースコールがあることにすら気付くのが遅れた。事態に気付いた看護師さんが病室に飛び込んできて、遅れてやってきた母に先に帰るように告げられるまで僕はただ茫然と立ち尽くす事しか出来なくて、改めて、本当に何もしてあげられないという事実を思い知った。


 帰り道、一人で見上げた夜空にはうるさいほどの星々が煌めいていて、その中でも際立って存在感を放つそれが、鬱陶しくて仕方ない。僕は、彗星を睨みつけると視線を落とし、受験が終わったというのに一切の解放感も味わえないまま、自宅へと戻る。


 冬華さんのそれは、ただの風邪だったと後で聞かされた。


 けれど、その時胸に生まれた小さな塊は日々の中で少しずつ大きくなっていって。

 本当に「それ」を迎えてしまったとき、僕は冬華さんの「それ」を到底受け入れきれないんじゃないかと、思うようになった。


 冬の空は、不気味なほどに透き通っている。

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