(4-3) 一日の夜に見る夢を初夢という

 父は、いつも原稿用紙の束を眺めてはうなっているような変な人だった。


 病室で担当医である母に叱られながらも執筆を続け、薬の代わりに資料を要求する。

 それほど売れていない訳でもないけれど、本好きであれば名前を聞けば何処かで見たことがある。そう、応えるような少しだけ文才に恵まれた、そして、他の人たちよりも少しだけ、体に恵まれなかった人だった。


 一度、雪が何処から来るのか父に聞いたことがある。


 病室から白一色に染められていく景色を眺め、いつも原稿を書く手を止めなかった父がその時は初めて、ペン先を止めてくれたから、よく覚えてる。


「何処から来るか、知っているようでみんな知らないんだよな」


 幼かった僕はその言葉をそのまま受け取って父でも知らない事があるのかと単純に驚いたのだけど、きっとそんなことじゃなかった。


 知っているようで、みんな知らない。


 その意味を今となっては尋ねることはできないけれど、あのとき父は、もっと他の事を伝えたかったんだと、いまの僕は思う。

 降ってくる雪の仕組みを知ってしまった今だからこそ、気付けなかったその言葉の意味を。


 そういえば大晦日にも同じような事を言っていたような気もする。


「この世界には知っていることの方が少ない」と。


 その言葉を聞いたときは何とも思わなかったのだけど、今こうして原稿を手に取る父を眺めてみると、思うところがあった。


 ――二人は似ている。


 作家であること、作家であることで見えている景色、感覚。在り方。


 偶然なのかそれとも僕が勝手に共通点を探しているだけなのか。どちらにせよ、意識せずにはいられないほどに似ていて、だからこそ、僕は舞花に対してムキになった。冬華さんは父とは違うんだと。それは願望であり、妄想でしかない。元々似ているという話が僕の勝手な思い込みなら、これも同じことだ。


 二人は違う。似ているかもしれないけれど、別人だ。当たり前のように違う人間だ。だから、そんな風に笑わないでくれ。


「……父さん」


 いつも病室で見ている冬華さんと同じ笑みを浮かべる父を見て、僕はかける言葉が浮かばない。


 これはきっと夢だ。父さんはもういない。だから、考える必要なんてないのに僕は父さんに何かを話したくて、あまつさえ泣きそうになっている。


 母さんが父さんが逝ってしまった後、どんな風だったのか。父さんの事を本の虫を通り越して本そのものになってしまったと笑っていた祖母が父さんと同じところに行ってしまったこと。相変わらず、隣に住んでいる舞花はやかましいということ。


 伝えたいことは沢山ある。

 伝えて、父さんの話声を聞きたいことが沢山ある。


 なのに、僕の喉はかすかに音を奏でるばかりで言葉になりはしない。

 そっと、父さんの手が僕に触れた。僕の頬に、柔らかな笑みが映る。


 父さんは何も言ってくれない。困ったように僕を見つめて微笑みながら、ただ、見つめ返し、そしてまた物語を綴る。

 あの頃と同じように。僕と何かを話すよりもそっちの方が大事なんだと思ってしまう程に。


 僕は、父さんの物語を未だに読み切ることが出来ていなかった。どうしても、自分よりも愛されていたように感じる登場人物たちを好きになれなかったから。馬鹿げた、子供じみた嫉妬心だとは分かっているのだけれど。


「そんなに大事なの。お話を書くのって。……僕には分からないよ」


 父さんはただ黙って頷く。ただ原稿を綴り、キリのいい所まで書き進めると僕に手渡して来る。

 僕はそれを受け取るかどうか悩んだ末に、父さんの困ったような笑みに根負けし、しぶしぶ受け取る。だけど、涙で滲んだ視界では文字を掬うことはできなかった--。



 翌朝。ベットの上で目を覚ました僕はぼんやりと今見た夢を思い返して、とんだ初夢もあったもんだと少しだけ掠れてしまった目を擦った。体を起こしーー、けれどひんやりとした室温に耐え切れず、布団を頭まで被ると二度寝した。だから次に起きた時にはこの夢の事は全く覚えていなかったし、思い出したのも随分と後になってからだった。


 父さんの伝えたかった意味も。その時の僕には全く分からないままだったんだ。

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