(2-1) 勉強不足な受験生
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病室に、足を運ぶ理由がなくなってしまったといえばそれまでだった。
これといって冬華さんと約束をしていた訳でもないし、連絡先を交換したわけでもない。
ただ、僕の祖母が同じ病室にいて、そこに彼女も入院していた。
ただ、それだけの話だったのだ。
「なになに、どしたの、上の空?」
「いや、そういうわけでもないんだけど……」
図書館の自習室。
冬期休暇の日数に対しては少し多いとも思える宿題を済ませてしまおうと、僕と舞花は向かい合ってプリントの山を片付けていた。
年が明ければ受験が見えてくる。
高校受験はそれほど難しくない、と母は言っていた。中学校の延長線、自分に合った学力の高校に入学すれば後は3年間、青春を謳歌するべし、とも。
何とも楽観的な母上ではあるけれど、事実、本格的に進路が分かれるのは大学受験からだろうし、今の僕らはそれほど頭を悩ませる必要もない。
--自分に見合った学校を受けるのであれば。
「で、結局あとどれぐらい足りなかったのさ」
「各教科10点ずつぐらいっ……、数学はこれ以上伸ばせないだろうから苦手な英語を引っ張り上げるしかないかなぁー……って」
「ふーん……」
分かりやすく先ほどから長考に筆が止まっているのは英文だった。単語どうこうというのもあるのだろうけど、そもそも舞花は文章を読むのが苦手だ。早いと3行、文字が続いているだけで眩暈がするというのだから相当な物だろう。
「だって何書いてあるか分かんないのに読んだってワケわかんないじゃん」
「体育系だもんね、舞花」
「どういう意味よ、それっ」
ゴツン、と机の下で足を蹴り飛ばされたのが何よりの証拠だ。
気が長い方じゃないんだよなぁ、「落ち着いて考えれば分かるもんだろ」核となるポイントをペン先で示すと舞花は目を細めてそこを見つめたものの、しばらくすると僕を見上げて睨んでくる。
「葉流くんは余裕そーでなによりですねぇー」
「僻まないでよ、逆に僕は数学がニガテ」
「ムカつくっ」
ばしんっと舞花が踏みつけたのは床だった。そう何度も痛い目を見たくない。
引っ込めた足を再び延ばして地団駄を踏んでいた舞花を押し返し、文法の節目を軽くマーキングしてやる。目を細めて睨んでいた舞花は徐々に霧が晴れていったのか分かりやすく笑顔を浮かべると目を輝かせた。
「流石葉流ぅっ!」
だなんて調子に乗ってプリントそのものをこちらに反転させてくるので今度は僕が舞花を小突く。
「自分でやれ」
「ちぇー」
昔からこいつとはこんな感じだ。お互い苦手な分野が相手の得意分野だったりして、小学校の頃から自然と宿題をやるときは頭を突き合わせていた。当たり障りない、幼馴染だ。
今回、誘ってきたのは舞花の方だった。
僕はといえば何となく静かな自宅で受験勉強をしていて、そこから連れ出された形になる。
「なんだかずっと、部屋にこもってるような気がして」とか言って。
事実、そのカンは当たっている。
病院に足を運ぶことがなくなり、僕は僕で受験もあるし、とか思ってずっと家にいた。
変に出歩いて風邪をひくのも馬鹿らしいし、風邪をひいたら引いたで母の病院にかかることになるのもなんだか気恥ずかしい。
なので外出を控えていたーー、といえばもっともらしいけれど、何となく外に出ようという気が起きなかった僕を連れ出した舞花は彼女なりに気遣ってくれたことに関しては感謝すべきなんだろうとは思う。
だから余計なお世話だとは決して思っていない。
ただ、それは嬉しくもあり、なんだかむず痒くもあって。長年このムズムズする感じにはどうすればいいのか分からず、なんとなく見て見ぬふりをしてやり過ごしていた。
「ん……?」
ふと、舞花の後ろ側。背景になっていた入り口の小窓に見知った横顔が映りこんだような気がして意識が移った。
手が止まった僕を不思議そうに?マークを浮かべる舞花には「ちょっとトイレ」と断り、その場を後にする。
歩き出したところでそんなはずがないのにと半ば馬鹿な事をしているなぁ、だなんて思いつつ、扉を開けると角を曲がっていった後姿は間違いなく冬華さんだった。
--自分で返しに来られるんじゃん。
ちょっと擦れた気持ちに「だからなんだ」と自分でも疑問に思う。僕が病院に寄らなくてもどうにかなるならそれは良いことなのに。
「一人でも大丈夫」、そんな姿を見てしまったからだろうか。話しかけるのにはなんだか抵抗があって、カウンターで本を返す様子を本棚から適当な本を物色しながら眺める。いつものようなパジャマ姿ではなく、薄い水色のカーディガンに紅葉を思わせるような紅いロングスカートが大人しく彼女の動作に合わせて揺れている。長い髪はそのままで、それが邪魔になって表情は伺えないがそこまで体調が悪いそうに思えない。
言われなければ彼女が病室に身をおいているだなんて思いもしないだろう。
ぺこりと職員さんに頭を下げて本棚へと向かう姿はとても静かで、初めて彼女と出会った時のように大人びてみえた。
危うく視界に僕が入りかけているのに気づいてさっと身を隠し、隠してから「これじゃまるでストーカーみたいだよ……」と悪態をついた。隠れる必要なんてどこにもないし、もしも隠れて見ていることに気づかれたらそれこそ話しかけ辛くなる。
いや、話しかける必要もないのか……?
自然に、そうなることが当然だったように打ち切られた関係はそもそもなんだったんだろう。
冬華さんと話しているとおばあちゃんが喜んでいるように感じたから僕はそうしていただけだ。
少しでも元気になってもらいたくて、……いまさら何をって感じだけど、弱り切った祖母に笑っていてほしくて病室に足を運んでいただけに過ぎない。
彼女が、僕に何かを望んで。僕と彼女の間に何かが出来上がっていたワケでもない。……のか?
もやもやとした気持ちがその存在の察知を遅らせた。
「じゅけんべんきょーはさぼりですかな?」
ふいに香った柔らかい匂いに目を丸くする。
反射的に見つめた先には冬華さんが何気ない顔つきで僕を見ていた。
「あ、ぇ、っと……、」
後をつけていた気まずさからか舌がもつれてしまって言葉が出てこない。悪いことをしていたわけではない(と思いたい)のに逃げるように視線を外してしまい、やっぱり冬華さんの動きに体の反応が遅れた。
「駄目じゃないか、受験生」
とんっ、とおでこに指を突き付けられちょっと押し上げられる。
それがお叱りを受けたのだと気づくまで少し時間がかかり、
「今日は……シャーペンもってないんですね……?」
ちょっと的外れな感想がこぼれた。
「ふーん。葉流くんは尖ってるのが好きんだ?」
「違いますけどっ……!」
思わず大きくなった声にじっと後ろからこちらを見つめる視線を感じて振り返る。流石にこれ以上は迷惑がかかると「こ、こっちですっ!」言って冬華さんの手首を引っ張るとロビーまで連れていく。
熱くなった顔を見せないようにそっぽ向けたまま。じんわりと手に汗が滲んでないか、それも不安だったけれどそれよりもその場を早く立ち去りたかった。だからだろうし、あまりにも冬華さんが「そういう風に見えなかったから」なんていうのは言い訳にしかならないのだけど。
「はっ……はっ……葉流くんっ……! ちょ、ちょっとまっ……」
「ぁっ……、」
後ろをついてくる彼女が苦しそうに胸を押さえてへたり込みそうになるまでそれに気づけなかった。
「す、すみません……」
「いやっ……へいきっ……、平気だけど、ちょっとまって……」
柱に手をついて、もう少し行けばロビーに椅子があるというのにその場から動けずに肩で息をしている。
さっきまで体を覆っていた熱はいつのまにか急激に冷えていて、僕は自分のしでかしたことを猛烈に後悔していた。
母に連絡すべきだろうか、いや、救急車ーー?
パニックになりそうになる頭を必死に抑え込んでまずは冬華さんをちゃんと見る。診察なんて大した真似はできないけれど、こういう時に慌てるのが一番悪い。そっと腰に手をまわして「とりあえず椅子まで、歩けますか」彼女の体を支える。
「ごめんね……」
「いえ……」
倒れないように。危うい足取りを気遣いながらそこまで行くと腰を支えながら座らせる。
思っていたよりも軽い体に息が詰まりそうだった。
「えへへ、葉流くんのえっち。鼻息荒くなってるよ?」
「なにいってんですか。なにかして欲しいことあります?」
「三回回ってわんっ」
「あのですねぇ……」
「そうだなぁ……。ちょっと横にいて、座っててくれると助かるかも」
支えが欲しかったんだろう。腰を下ろすと肩に頭をのせてもたれかかってくる。
そう慌てるほどの事ではなく、ただ単純に「人より息切れが激しい」のだと彼女は説明する。
それが彼女の病気によるものなのかは曖昧で、ぼかして告げられたから実際のところ、僕には分からないけれど。いつもよりも随分と白く思える肌の色が不安にさせた。
一人で平気なワケないじゃないか。
走らなければ問題ない、なんてことではない。こういうことが「起きるかもしれない」というのはそれだけでとても危険なことだと母からことあるごとに聞かされている。 もしものそれが人のいる場所で起きるとは決して限らないと。
だからと言って過保護になりすぎるのもストレスになるとかなんとか。
そもそも、こんな危なっかしい人を放って、親は何してるんだと思う気持ちがないわけでもない。
彼女の病室に誰かが訪ねて来たことなど今まで一度もない。
そう、知っていた。知っていて彼女を独りにしてしまったというのは流石に違うかな、と踏みとどまる。
僕はこの人にとってなんにでもないはずなのに。
「んー……、なんと申しますか。ありがたいものですなぁ、こうして出先で葉流くんに助けていただけるとは」
「原因を作ったのは僕ですから、何言ってんですか」
「いやいや、助けられたんだよ、私は」
落ち着いたのかそっと体を起こした冬華さんの顔色はやはりよくはない。
いつもよりもくすんだ色の瞳で僕を見つめる。
不思議な人だ、と僕は思う。
それとも僕の身の回りにはいないようなタイプだからそう感じるんだろうか、とも。
そんなこと、いまはどうでもいいだろ、だなんて冷静な部分の頭が告げてクスクスと隣で笑う冬華さんに首をかしげる。
「いや、なんていうかドラマみたいだなーって、思っちゃってさ」こそばゆいような、むず痒さを覚える言い方で、それは言った本人もそうだったらしく「いえいえ、もう平気なんだけどさっ」と立ち上がる。
ふらつかないかと心配ではあったけど無理をしている感じは否めないものの笑顔を浮かべて見せた。
「それで。今日はどのような本をお探しで? ……手伝いますよ、さっさと借りて部屋に戻ってください」
はじめは僕の申し出が理解できなかったのかぽかーんとしていた冬華さんだったが、補足すると照れたように頬をかきながら肩をすくめて見せた。舞花のことが気になるけれどこうなったら仕方ない。
後で詫びの連絡は入れることにしてしばらくはこの人に付き添おう。
どんな本を借りたいのか教えてもらえればいつものように見繕ってくるつもりだったのだけど、「いえいえ、折角来たんですから」と同伴することを冬華さんは望んだ。
少しだけ危うい足取りは恐らく僕の思い過ごしで、本を選んでいる間の彼女はとても楽しそうだった。
色んな世界中の景色を切り取った写真集や動物の図鑑、各地に伝わる伝記をまとめたものなど、いつもよりも少し多めの本を僕に押し付け、貸し出しの手続きを済ませると冬華さんにはロビーで待っていて貰って、自分の荷物を取りに行った。
なんとなく放置され、膨れ顔の舞花を想像したのだけど予想に反して真面目に問題集と向き合っているようだった。
「遅い。一人さぼってんじゃないわよ、バカ葉流」
「人に勉強教えてもらう立場のセリフだとは思えないな、それ」
まぁ、さぼっていたのは事実だし舞花にしてみれば裏切りも良い所だろうけど。ただ緊急事態だったんだから仕方がない。
そんなことを説明したところで知ったこっちゃないだろうし、自分の荷物をまとめると「ごめん、ちょっと用事できた」そう言って自習室を後にする。
扉越しに舞花が何か言っていたような気もするけど、冬華さんをあまり放っておくと独りで帰りかねない。
なんだか無駄にアクティブなところあるし。
小走りでカウンターに向かうがやはりというか案の定、既に玄関の自動ドアをくぐろうとしていた。借りた本でパンパンに膨らんだトートバックを両腕で抱えて。
あれじゃ足元もまともに見えていないだろうに。
「転びますよ、階段になってるのに」
「わっと?」
言って本の詰め合わせを奪い取る。今日はリュックで出かけていてよかった。荷物が少ないからと僕までトートバックにしていたらちょっと運ぶのが大変だったかもしれない。
病院まで運びますよ、と告げると「いやいや悪いよ流石に」だなんて今更なことを言うので聞こえないふりをして「ほら、足元気を付けて転ばないようについてきてくださいね」先に歩き出す。
第一、「図書館で冬華さんを見かけのに、そのまま一人で帰らせた」だなんて母の耳に入ったら小一時間「男がなってない」とネチネチ責められるハメになるし、それを抜きにしても乗り掛かった舟を見放すことなんて後味が悪い。
幸いにも僕は舞花と違ってそこまで合格点が足りていないわけでもないし、今日一日早めに勉強を切り上げたところで合格率がそう変動するわけでもない。それに適度な運動をした方が捗るともいう。
まぁ……悪い方に転がるってことはないはずだ。たぶん。
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