2-2 新天地
* * *
今日からティナは新しい研究室に配属となった。ベオウルフを主任研究員に据えた、野外調査前提の新設研究室である。
長期調査で不在にすることも見越し、幻獣の飼育管理の割り当てはしなかった。もっとも、先日私が竜の姿で捕獲された際、ティナが撹乱作戦と称して幻獣の檻を解放してしまったから、今では以前の六割にまで数を減らしてしまったけれど。これについてはティナを責めるつもりはない。彼女の勇気ある行動のおかげで、私は助かったのだから。
ティナをトリスタン班へ加えることについて、私の率直な気持ちとしてはティナには危険なことをして欲しくないし、ずっと私の目と手が届く所にいて欲しいし、むしろ物理的に触れていたいし、いっそキスしたい。
だが、それではティナのためにならないのだ。
ティナは夫であるこの私に憧れてルルイエで研究者となり働くことを選んでくれた。才能は十分にあるのだから、あとはその才能が活かせる環境を整えてあげさえすれば、きっと素晴らしい研究者になるだろう。
愛する者の喜びは、そっくりそのまま私の喜び。だからティナが求めることは全て叶えて支援したいし、いっそキスしたい。
ベオウルフは狼だが、本質は悪い奴ではない。言葉遣いがおかしいものの研究には熱心で、社交的で、面倒見もいい男だ。だからティナにとっても、一緒にいて損はないのではないかと判断した次第なのだが……やはり心配は尽きない。
定時を過ぎ、あらかたの所員が帰ったころ、私は件の研究室を訪れた。
殴り書きされた「トリスタン研究室」というメモ紙が貼ってある扉の前に立つ。ベオウルフは終業の時刻を迎えても、いつも残業している――帰宅しても暇なのだろう――から、今日もまだいるのではないかと足を運んでみたわけだ。
私が扉を叩く前に、中から男の声がする。
「開いてますよ、どうぞ」
ベオウルフは鼻がよく効く。だから私の来訪を、ノックの前に察知したのだろう。
ワゴンに山積みした資料を本棚に戻す作業の途中で、彼は私を確認ことすらしなかった。
「君はいつも残っているな。早く帰りたいとは思わないのかね? 友人とか、趣味とか、他に打ち込めるものが何かないのかね」
「あんたにだけは言われたくないな。博士だっていっつも夜中まで研究所にいるじゃないっすか。そっちこそ他にすることないんすか?」
可愛くない。まったくもって可愛くない。
私は研究者であると同時に、この研究所の所長だ。自身の研究と並行して、施設長としての様々な雑務をこなさなければならないのだ。つい先日周囲に請われてしぶしぶ秘書をつけたのだが、その秘書があれをしろこれをしろと煩くて、自由な時間が減るはめになった。だから日中だけでは時間が足りず、こうして――
と、長ったらしい反論を考えたものの、むきになっては図星だということがバレてしまう。それこそベオウルフの思う壺なので、ここは年長者としての対応、つまり、特に気にせず流してしまうことにした。
作り笑いを一瞬だけしてみせたあとは、咳払い一つで終わりにする。
「私が来たのは他でもない。初日の様子を教えてほしくて来たんだが」
「ああ、わかります。ティナのことっすね」
「そうだ。当然だ」
私とティナの関係をベオウルフは知っているから、言い訳などする必要はない。それに、私がティナの夫であることは、できれば世界中へ高らかに宣言したいくらいであって、その関係を恥じるつもりも毛頭ない。
作業する手を止めることなく、彼は私の問いに答える。
「なかなか素直で情熱もあるいい子じゃないっすかねえ。俺の仕事にも興味を持ってくれちゃったみたいで、さっきまで一緒に話してたんすよ。これから長い時間一緒に過ごすし、話す機会もたくさんあるからって今日のところは取り敢えず帰したんすけどね」
私は眉間に皺を寄せた。表情をつくろうことすらできなかった。
素直で情熱がある、というのはいい。私もそう思っている。それがティナのいいところだ。だが、それ以降の発言については全て看過することができない。
ベオウルフの仕事にも興味? さっきまで話していた? 加えて、これから長い時間一緒に過ごす? 話す機会もたくさんある……だと!?
「ベオウルフ、君はふざけているのか」
「なぜそうなる!?」
彼は私の怒りが理解できないようだが、私にはなぜ彼が理解できないのかが理解できない。ティナの興味の対象はこの私であるべきだし、これから長い時間彼女とともに過ごすのは、こんなふざけた狼ではなく私でなければならないはず。
「それにしても、博士はああいうのがタイプなんすね。なんか意外だ。あんたの顔面に張り合うには少し物足りないっつーか……少々ぴちぴちギャルすぎません?」
ぴちぴちギャル……? 人間の世界は物事を形容する単語が目まぐるしく変化するので、私が理解する前に廃れていく言葉も多い。だから、私の知らない言葉をベオウルフが知っていてもおかしくはない。
さて、「ぴちぴちギャル」とはどういう意味だろうか。「ぴちぴち」というのは魚などが勢いよく跳ねるさまを表した副詞で、それが「ギャル」、つまり若い女性という意味の名詞に付帯しているから……鮮魚の女性…………人魚?
「君が何を言いたいのか全くわからないが、ティナはすでに私の妻だ。だから君の付け入る隙はない」
「わかってますよ、そんな気恐ろしくて起こせませんて」
ベオウルフは薄ら笑いを浮かべながら、軽々しく言ってのけた。こういうところが、私がこの男を可愛くないと思う点だ。私が真剣に話した内容について、その重大さが正確に伝わったのかそうでないのかが、とても読み取りにくいのだ。
採用面接時はこんなにヘラヘラした男ではなかったはずだが、命に限りがある者にとって、時間の経過とはかくも恐ろしいものだ。
「いいか、私がティナを君の下につけたのは、それがティナの希望に合致することだったし、研究所のためにもなると判断したからだ。君と彼女の私的な馴れ合いを推奨する意図はない」
打っても打っても響かない男だが、ティナに関する忠告だけはとにかく響いて貰わないと困る。
「ティナには決して手出しするな。指一本、触れてはいけない。もしもティナを私から奪おうだなどと考えたらどうなるか……言わなくても、わかるな?」
「ハイハイ、わかってますってば! しつこいな〜」
ベオウルフはうんざりした様子で、右手を頭の横でヒラヒラと振ってみせた。私がこれほどまでに真剣に喋っているというのに、目すら合わせようとしないとは、彼には重大さが伝わっているのか甚だ疑問になってくる。まるであしらわれた気がして、どうしても私は腑に落ちない。
しかし、この配属にしたのは元を正せば私の責任。ベオウルフのことを心から信用できないとしても、彼がティナに「手を出さない」と言うのなら、私はそれを信じるしかないのだ。
ティナからベオウルフを遠ざけたいが、彼女のためを思えば、ベオウルフとの接触――もちろん物理的に「触れる」という意味ではないが――も経験した方がいいだろう。ただ、このジレンマが私にとって想像以上に過酷だったというだけで。
「もういいっすか? 仕事の邪魔なんで早く出てって欲しいんすけど」
初日にして後悔しながら、私は追い出されるようにベオウルフの研究室を後にした。そうして所長室に戻ってきたのだが。
所長室の扉の前には、人影があった。今度は一体なんだというのだ。
猫背で短髪の男。パンツの丈も太さもその体に合っていないから、シルエットが崩れてしまっている。
「あっ」
私の靴音に気づいてか、男がおどおどしながら声を発した。
「ルノーか。どうしたんだ」
この男は開発中だった擬態解除薬「エリクサー」を私に行使し、私を竜の姿へと強制的に戻し捕獲した男だ。そして、ティナを悪し様に扱った男。
ルノーは採用時から地味だったが、勤勉で努力家という部分を評価していした。しかし、成果を焦り愚行に走った。後輩の出世を恐れて足を引っ張ろうとした。
「ヴィ、ヴィルヘルム博士にお話が」
話程度なら、廊下で立ってでもできる。しかし、「お話が」と言ったきりおし黙るというのは、きっと何か改まって話したいことがあるのだろう。
「……では、入りなさい」
仕方なく私は彼を部屋に招き入れた。
彼の話というものには、あらかたの心当たりがあった。あまり時間を取られたくないので、サクサク終わらせることにした。
秘書を雇用した関係で、近日中に所長室を改装することになっている。まもなく開始される工事の準備でソファはすでに撤去していたから、座れるところは工事用の脚立くらい。扉の前で突っ立ったままのルノーを目で認めながら、私は気にせず脚立に腰掛けた。
「それで、ルノー。話とは――」
「やめてやるっ!」
ルノーの訴えは脈絡のない大声から始まった。
「お、俺は研究者だ! なのに……もうたくさんだ、こんな職場やめてやる!」
私が竜であるという秘密を、ルノーは知ってしまった。口封じには殺してしまうことが最も手っ取り早かったが、引き続き研究所で飼うことにした。
ルノーへの処分は、研究職から庶務課へと異動させただけ。私の命を危険に晒した上にティナを傷つけ顎でこき使ったにもかかわらず、この程度で済ませてやったのだ。給金は落ちるだろうが、殺しも解雇しなかっただけ有難いと思って貰いたい。
「そうか、わかった。ではやめるがいい」
「なっ……! お、おおおお前の正体をバラしてもい――」
「君の口を封じるには、殺す方が簡単で確実なんだ。私はそれでいいのだが、優しいティナが気に病むかもしれなくてね。だから研究所にいさせることにしたのだが……やめるというなら私は引き止めない。退所後ならば君が死んでもティナの耳には入らないから、私の好きにできるし」
私の秘密を握ったことで私を操れると驕るのは、思い上がりも甚だしい。有利なのは圧倒的に私の方だ。
「その表情はどういうことかな。もしかして、今の部署は嫌だから研究職に戻してほしい。本当は辞めたくないし、殺されたくもない。……そういうことが言いたいのかな?」
そうだとしても、ルノーは素直に認められないだろう。己の要求の理不尽さを、きっと本人が一番わかっているはずだから。
「ティナの悪評を信じた理由、ティナを冷遇した理由、新薬を盗んだ理由、また、盗んだ罪をティナに着せて私を一人で捕獲したと嘯いた理由。これら全てについて、百人中百人が納得できるように説明できるのであれば、君の要望に応じよう。しかし、そうでないのなら、君に拒否する権利はない」
脂汗を流しながら苦い顔でおし黙るルノーに、私は休む隙を与えなかった。当然だ、こちらは超多忙の身。こんな茶番、早く片付けたくて仕方がないのだ。
「いいか、私は竜だが、ここの所長だ。君の生死をどうするかという問題と、進退に関する問題を混同してもらっては困る。君に研究員としての価値がないと判断した以上――」
「価値がない!?」
読み通りルノーが逆上した。ある意味御し易い男だ。
「君は今回の異動をどう捉える? 私を騙し捕えた報復だと思うか? それとも、ティナにしたことに対する仕返しだと思うか?」
「それは当然両方なんじゃ――」
私は首を振る。
「正解はどちらも違う。単純に君の問題だ。君に研究者としての素質がなかったという話」
情報の根拠や裏付けを把握すること、己の頭で考えること、事実は事実として認めること。これら全て研究者としての基本だ。だが、この男にはできなかったのだ。
「う、うるさいっ! こ、この……下等生物が!!」
ルノーは返答に窮するあまり、わかりやすい悪口でもって攻撃をしかけてきた。
「下等とは、何をもってそのように断ずる?」
「え? 何を……って――」
「私は確かに人とは違うが、言語による意思疎通が可能だし、同程度の知能もある。運動能力は、空を高速で飛べる私の方が高いな。……それで? 私のどこが、『下等』だと?」
人間の中には、人間が最も知的な生命体だと信じてやまない者がいる。だから「下等」と言われた程度で私は腹を立てたりしない。根拠なく私を侮辱できてしまう彼のことを、哀れに思う程度である。
「ああ、個体数なら人間には敵わないね。だが、その代わり私は不老不死。仲間がいないから己のことでも知らないことが多いが、だからこそ私は知りたいと思い、こうして研究を続けている。……最近は竜以外の幻獣の論文にかかりきりだが」
私を下等だと言う君は、何か一つでも私に優る部分があるのかな? と質問してみたかったが、いたぶるのは趣味ではない。
「私のことを下等だと思いたいなら思えばいいし、ばらしたいならばらすがいい。君は自由だ。私は己の身とこの研究所を守るために動くが、君の意思には干渉しない」
圧倒的有利な立場にいる私に、怒りに任せて迫っても無意味だ。いくら私の弱みを握ろうが、脅しにすらならない。何か頼みごとがあるのなら、穏やかに頼むのが礼儀のはず。
「余談だが、今回事務職から研究職へ異動とした者もいる。彼は研究職を希望していたわけではなかったが、趣味で書いたという論文があまりにも優れていたもので、私が頼みこみ異動を受け入れて貰ったんだ。君ももし今後研究職に戻りたいなら、その彼と同じような気概を見せてほしいものだね。……話はそれだけか?」
「え? いや、えーと……」
「終わったなら、出て行ってくれないか? 私は今、以前にも増して忙しくて、自分の研究がおろそかになっているんだ。終業後くらいしか自分に割ける時間がないから、出来れば君には早く退室して頂きたい。不老不死の身であっても時間が惜しいんだよ」
終始一貫して落ち着いた姿勢を崩さない私にルノーは肩透かしを食らったのか、「はあ」と気の抜けた返事をして、とぼとぼと部屋を出て行った。
おそらく、ああいう男はやめたりしない。それに、正直ルノーには備品管理や他部署との折衝などの方が、研究職よりも合っているような気がする。
本当に研究職に戻りたいのなら、それ相応の成果を見せてくれるだろう。先ほどの言葉で考えを改めてくれたのならいいのだが。
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