3 何かが変わる音がする
再度言おう。
私がこの目の前の絶世の美男――という言葉があるのかどうか知らないが――に憧れているのは、彼の研究者としての功績や姿勢を素晴らしいと思っているからであって、彼に思慕の念を寄せているわけでは全くもって「ない」のである!
「博士? あの、結婚式もなにも、私とあなたには部下と上司という関係性しかありませんが」
「結婚すれば妻と夫という関係が生じるだろう」
生じるだろう、じゃない!
そりゃ生じますけど、生じるに至るには、まだまだ一つも二つも手前の関係性を生じさせる必要があるでしょうよ!
「まず、部下と上司が突然夫婦になるというのは違和感があります。順序立てて……いや、順番を経れば受け入れられるというものでもないんですけど」
先ほどから握られている、この手。やんわりと引き離そうとしてみたが、残念ながら効果がない。
「ではティナ、どうしたら受け入れてもらえるのかな?」
理解が全く追いつかない。
私と博士の間に、直接的な接点はこれまでなかったはずなのに、どうして突然熱烈な求愛――これは求愛なのだろうか、という疑問もなくはないけれど――を受けるに至っているのだろうか。
「この研究所に入ったのは、確かにヴィルヘルム博士を追って来たからではあるのですが、その、研究者としての博士を尊敬していたわけで、あなたとどうこう……プライベートな関係になりたかったわけではなくて」
途中、「私のことは気軽にヴィルと呼んでくれ」とまたしても言われたが、無礼を承知で私は聞こえなかったことにした。
この人、どんなに若く見積もっても四十かそこらの中年のくせして、自分の半分程度の年齢の女と、何を考えているのだろうか。政略結婚ならばあり得る年の差ではあるものの、私と博士にそんなものないはずだし、結婚なんてできなくても、研究にこの身を捧げられれば私はそれで満たされるのだ。
さらにトドメを刺すならば、私は博士のことを五十代くらいのおじさまだとずっと思っていたくらいなので、まず親子ほど年の離れた男性と色めく関係になりたいなどという、その発想から存在しなかったというのに。
それが、実際はこんなに若く容姿端麗な男性だったと知ったからと言って、急に惚れた腫れたの騒ぎになるわけがない。
……などという、私の本音も、彼には関係ないのかもしれない。
「私は君とプライベートな関係になりたいのだが。もちろん、そんな
「よ、ヨコシマ!?」
「言い方が悪かった、訂正しよう。私はティナと四六時中キスしたり抱き合ったり、脳内麻薬が溢れ出して止まらなくなるくらいどっぷりと君に浸かりたい」
「そ、想像以上にヨコシマだったわ……」
これで博士の顔がよくなかったら、セクハラ親父としてあっという間に投獄されていただろう。いや、それにしたって今の発言は相当まずいものがあるはずだ。
研究者としては申し分のない優秀さを誇るのだから、黙って研究にさえ没頭していればいいものを。
「博士、そんなことを言われても困ります!」
私は断固として拒む姿勢を忘れなかった。
しかし彼も断固として、私の「拒絶」を受け取ろうとはしなかった。
「どうして? 私はいっこうに困らないけど? もしかして、金のこと? 安心したまえ、金ならいくらでもあるから」
ヴィルヘルム・フロイデンベルクは、もっと頭の良い研究者かと思っていた。研究者としては相当頭もきれるのだろうが、社会生活を営む上では「バカ」と言われてもしょうがない気がする。今となっての後悔だが、彼には口を開いて欲しくなかった。私の身勝手な願望だとしても、黙って白衣に身を包んで、静かに淡々と論文を書いていればよかったのに。理想は理想のままでいて欲しかった。
あんなにまで憧れていた対象が、まさかこんな……だったとは。ある種の失恋を味わったような絶望に陥りながらも、私はなんとかあの手この手で博士の猛攻を
「は、博士の見た目とその名声なら、どんな女性でもよりどりみどりなのではないですか? なにも私に拘らなくても」
そうだ。ここが原点である。
私は美人でもなんでもないし、研究者として成功しているわけでも、誰からも可愛がられているわけでもない。博士と恋愛もしていないし、ここに来るまでの接点すらない。つまり、私を選ぶ「意味」というものも、きっと彼の中にはないはずなのだ。
それでも彼は、堂々とした態度をいっこうに崩そうとはしない。
「ティナ、私はずっと君一筋だよ。これまでもこれからも、私は君しか愛せない。……あっ、私たちの間に子ができた場合は別だよ? そうなったら当然、ティナと子供の両方を愛するに決まってるからね?」
博士は真面目な話をしているのかもしれない。が、彼が熱を入れて話せば話すほど、私の中の熱は絶対零度に近づいていった。
そして、美しい顔で「ティナ、ティナ」と私の名を軽率に呼びながら、再び鼻からは赤いものがタラリ。
「……博士、また鼻血が垂れていますけど」
「心配ない、多少興奮しているだけだ」
「困ります、心配です、私の身の安全が」
* * *
どうやってそこから逃げ延びたのか覚えてない。
そもそも何故、あんな話をしなければいけなくなったのか、全く経緯が思い出せない。
博士は私のことが好き? なぜ? そもそも「好き」とは一度も言われていなかったかもしれない。なぜかこう、彼と話をしていたら、突然結婚式の話題に……なぜ?
気づかないうちに、私は彼と接点を持っていたのだろうか? しかし、あんなモデルみたいな人とこれまでに会っていたのなら、忘れるはずもないだろう。
気づいたら私は自宅にいて、昨日届いていた兄さんからの手紙を開封していた。案の定、いつもの定型文みたいな内容だった。
――元気にしているか。仕事には慣れたか。連絡がないから心配している。甘いものを食べるのもほどほどにするように。忙しいかもしれないが、時間を見つけて便りを書いて欲しい――
こうやって気にかけてくれるのはありがたいけれど、もう私も子供ではないのだし、今は成人して立派――かどうかは怪しいけれど――に働いて生計も立てているのだから、いい加減一人の大人として扱って欲しい。もちろん、そんなこと兄さんには言えない。
彼は私のことを未だに「守ってやるべきか弱い妹」としてしか見ていないから、私のこのありのままの本心を告げたら、どれだけ彼を悲しませることになってしまうか。
返事など、とてもじゃないが書ける気分ではない。
こういう日は、とびきり甘いものが食べたくなる。砂糖をたっぷり入れて作ったバタークリームに、こちらも砂糖をたっぷり入れてあわ立てたシャンテリークリームを乗せて食べたい。生地はいらない、クリームだけでいい。バタークリームとシャンテリークリームなら、カロリー同士がぶつかって消滅していくはずだから、太るはずもないのだし。
翌日。
結局クリームオンクリームなどという、名実ともに甘い野望は果たされることもなく、いつも通り私は職場へやって来た。
あのイっちゃってる博士に会いたくないのはもちろん、揉め事の発端となったルノーさんにも、あまり会いたいとは思えなかった。
私がルノーさんをどう思おうと、つまりどれだけ哀れんでもどれだけ軽蔑してもどれだけ下に見ようとも、彼が私の先輩研究員であることは変わらない。彼から指示を受けたなら、雑用でもなんでも引き受けなければいけないのだ。
そういうわけで、今日に限っては仕事に行くのがひどく憂鬱で仕方なかったのである。
「おはよう」
「……え? わ、私ですか?」
「そうだ。お前以外に誰がいる? ……おはよう」
「あ、お、おはようございます、コックス室長……?」
幻獣への餌やりと健康観察のあと、廊下でバッタリ出くわしたのは、私の直属の上司であるコックス室長だった。いつもなら私が挨拶しても無視されるのが当然で、彼からの挨拶などこれまで一度たりとも聞いたことがなかったのに。
今日はどうしたことか、やや乱暴な口ぶりだったものの、彼から挨拶をして貰えるなんて。
髪の生え際をぽりぽり掻きながら、視線を私から外して言う。
「ティナ、明日からうちの研究室も、よそと同じく掃除を外注にしたから」
大柄な彼の後ろに控えているのは、デンゼルさん。彼女も先輩研究員。数少ない女性研究員のひとりだが、正直、私が入職した当初からなぜか目の敵にされているので、女同士だからといってたいして仲も良いわけでもない。
「コックス室長……つまり、今後は私が掃除をしなくてもいいということですか……?」
「当たり前でしょ? 研究員として雇用されたんだから、雑用ばっかりしていて良いわけないでしょう」
「はあ……」
デンゼルさんがぴょこっと顔を出し、口を挟んできた。彼女と言葉を交わすのは、これが初めてかもしれない。
どうしてだろう、昨日までとは先輩の態度が百八十度違っている。
何か悪いものでも食べたのだろうか……いや、むしろ良いものでも食べた? などと疑問符いっぱいのまま私は自分のロッカーを開けた。
「え、え、……ええっ!?」
昨日までは確かにあったはずの黄ばんだ――しかも所々ほつれまで見られる――白衣が、全て純白の白衣に変わっているではないか!
色が変わっただけではない。このシワのないピシッとした生地は、きっと新品だ。
「ここ、私のロッカー……よね?」
扉に貼り付けてある名前は、以前と変わらず「ティナ・バロウズ」。隅っこに隠していたお菓子は置いた時のまま残っているから、やはりここは私のロッカーで間違いないのだろう。
「コックス研究室が――」
「え?」
背後から、再びデンゼルさんの声。
「あんたがボロの白衣を着ていたら、コックス研究室全員の品位を疑われるでしょう? 出資者にあんたの姿を見られでもして、研究資金を止められたら困るのはこっちなのよ」
「は、はあ……」
今まで散々ボロの白衣を着ることを強要しておきながら、この手のひら返しっぷりは一体どういうことだ!? 私は当然の権利として憤ったが、それでも、綺麗な白衣を着て、一人の新人研究員として扱ってもらえることは嬉しい。
「幻獣管理棟での飼育観察担当については、ルノーから話があると思うから」
「ゲッ!?」
「……げ?」
ついつい、汚い音が口をついて出てしまった。怪訝そうな顔のコックス室長とデンゼルさんを前に慌てて口元を隠しながら、おほほと笑って誤魔化してみる。
「いえあの、了解しましたうふふ」
昨日の今日で顔を合わせたくはなかったが、そんな私の願いとは裏腹に、しばらくするとルノーさんが研究室に現れた。
彼もきっと気まずいのだろう。私の姿を見つけると、前例に倣って彼も視線を空中に逸らした。白衣のポケットからハンカチを取り出し、眼鏡を外して磨き出した。
ルノーさんは目が小さいが、メガネを外すとより小さく見える。おそらく、眼鏡のレンズが近視用レンズなので、屈折して実物より大きく見えていたのだろう。……などと、別にどうでもいいことを見つけてしまって複雑な気分に陥る。
眼鏡を丹念に拭きながら、視線を手元に固定したままルノーさんは言う。
「ティナ、こっち」
「はい」
顎を使った「来い」というジェスチャーを受け、私はルノーさんの後を追った。
おそらく幻獣管理棟へ行くのだろう。もしかしたら世話をする幻獣を減らされるのかもしれない。幻獣自体は好きなので、触れ合える機会が減るのは寂しいものがあるな、と少しばかり感傷にひたっていたのだが、ルノーさんは二階ではなく三階へと向かっていった。三階はこれまで行くことを禁止されていたのに、だ。
「ここから、こっちの幻獣な。コカトリス、アスプ、ゴブリン、ズラトロク。こいつらの世話もこれからはお前の担当だ。あと、この階じゃないがエサースロンもな」
当たり前のように言うルノーさん。だが、私の頭がついていかない。
「え、あの、これは第三級の……」
「そうだが、何か不満でも?」
「いえ」
つまり、私にもっと沢山の幻獣の世話を任せたいということだろうか?
なんのために? 嫌がらせ? それとも――
「担当が増えれば時間もかかるだろうから、午前中いっぱいはこいつらの世話に充てていい。時間が余れば好きに使え。……研究室にも、お前のデスクを設けておいたから」
――時間が余れば好きに使え。
今まで一度も言われたことのなかった言葉だ。余った時間は先輩たちの雑用に振り回されていたので、足りなくなることならあったものの、余るものなど一切なかった。
加えて、デスク。これまでは雑用扱いで、同じ研究室の一員としてすら見てもらえていなかった。だからデスクもなくて当然。座りたい時は、余った椅子に腰掛けるくらいが関の山だったのに。
「……不満か?」
「いえ! ありがとうございます!」
とにかく、よく分からないけれど、劇的な待遇改善措置を取り計らってもらえることになったようだ。
こんなにたくさんの幻獣。幻獣は世界各地にいるとはいっても、個体数も少なく、生息地域も限られている。だから、たまに山奥で見かけることはあっても、一度に何種類も見ることは研究施設でもない限り叶わない夢なのだ。
一番の興味は竜にあるが、それでも、幻獣研究は私がやりたかったこと。嬉しくないわけがない。
「あの、ルノーさん……もしかして昨日の件で、ヴィルヘルム博士に何か言われたんですか?」
とはいえ、素直に手放しで喜べない自分もいるわけで。
私に背中を向けていた彼の方がビクッと小さく飛び上がったのを見て、やはりあの博士が手を回したに違いないと確信を持つ。
「いや……ガーゴイルは確かに、俺のミスだった。勘違いしていた」
勘違い? 自分が世話をしている幻獣が逃げて、その原因をまったく無関係の私になすりつけようとして……それが、勘違い!?
冗談言わないでください! と彼を罵倒したい気持ちに襲われたが、私は寸前で我慢した。まだルノーさんとは半年程度の付き合いである。彼の性格を正しく把握しているわけではない。
けれど、たぶん、これまでいいようにこき使ってきた後輩に謝るなど、彼にとっては耐えがたい苦痛なのだろう。ここで私が彼を責めても、何も良いことなんてない。
そう思ったから、私は自分の憤りの始末よりも、円満にことを運ぶことを優先した。
「よく考えてみれば、お前の扱いも少し見直すところがあったかもしれない。もう半年経つし、いい加減少しずつ研究所内の規則もわかってきた頃だろうし」
「まだ半年ですから……先輩方のご指導、今後ともよろしくお願いします」
ルノーさん、コックス室長、それからデンゼルさん。
博士は何を言ったのだろうか。
あれだけ、血も涙も感じさせないほど私のことを破れ雑巾のように扱ってくれていたくせに、博士が何をどうしたら、こんなに態度が軟化するのか。……ルノーさんは相変わらず自己弁護を優先した発言しかしなかったが、それでも、以前の彼から考えたならば、大きな進歩だと感じる。
「それで、私が何かを言ったのではないかと、君は思ったわけだ?」
「そうです、博士」
一人であれこれ考えていても、結局は推論の域を出ない。気になりだしたらいてもたってもいられなくなった。
私はピカピカの白衣を身に纏い、会うことにはあまり気が進まなかったヴィルヘルム博士に会いに行った。
博士もまたピカピカで、糊がビシッときいた白衣を身に纏っていた。首元と白衣の下から覗くスーツもピシッと整っており、組んだ足先にある革靴も、一点の曇りもなく磨き上げられている。どこの貴族かと見紛うような長髪は乱れることなく後ろで一括りにまとめ上げてあるし、おまけに、この、美しいお顔。
本当に、口さえ開かなければどこに出しても恥ずかしくない、国の秘宝と言えそうなくらいの完成品なのに。
博士が私の頭のてっぺんから足先までをじっくり眺める。黄ばんだ白衣に身を包む『雑用係ティナ・バロウズ』はそこには存在せず、『新人研究員ティナ・バロウズ』が堂々と立っている。そんな様を堪能し、博士は満足そうににっこりと微笑んだ。
そして、ゆっくり私に告げる。
「結婚式、どこで挙げるか考えてくれた?」
「考えてません!」
脳内お花畑なのか。
「新婚旅行の行き先は?」
「考えてません!」
「じゃあ、指輪の――」
「ヴィル博士っ!」
私が何をしに所長室にやってきたのか、絶対博士はわかっているはず。
「今、私のことを遂に『ヴィル』博士と……っ! これは私たちの仲が進展した証!」
「違います、博士のお名前が長いので省略しただけです。……じゃなくて!」
大きな目をカッと見開き、何やら感動している様子。あわよくば腕を広げて、私がそこに飛び込んでくるのを待っているような……冗談じゃない、勘弁してくれ。
「そうではなくて、ヴィル博士、私の所属する研究室のコックス室長やデンゼル研究員やルノー研究員や……とにかく、何かされたのですか?」
「ああ、そりゃ言ったよ。せっかく採用した優秀な研究員を使い捨てのように扱われては私が困る。研究所としての損失にもなる」
博士の言うことはもっともだ。私は研究員として雇用されたのに、雑用としてしか使ってもらえないのなら、それは雇用主の意図に反することになるだろう。
「室長であるコックス君が解決すべき問題だからとこれまで自由にさせていたが……いつまでたっても状況が変わらないから、今回のことを機に私が介入させてもらった」
優先すべきは仕事なのに、お給金をもらっている立場で子供じみた嫌がらせをするなど、あってはならないことだ。さらに言えば、私の直属の上司のコックス室長が何も動こうとしないのなら、その上の地位にある人物が動くしかない。
それは私もわかっていて、実際にありがたいとは感じるものの、素直に喜べない部分もあった。
「ティナは何か不満でも?」
俯く私に、博士が声をかける。
「博士に所長としての権限で色々と取り計らって頂いても、それは私の力ではありません。だから嬉しくありません」
今後また問題が発生した時、たとえ私が動いて解決しなくてはならない問題だったとしても、博士に頼ってしまうのではないかと思った。博士が私に好意――のようなもの――を向けてくれているのを利用し、彼に甘えてしまいそうで嫌だった。
おや、と博士が眉を動かす。
「そうかな? 私には、君が尻尾を振って喜んでいるのが見える気がするんだけど?」
「……気のせいです」
正直、気のせいではなかった。
だって、これまで味方がいなかったのに、憧れていたヴィル博士が私の味方になってくれたのだ。これほど心強いことはないし、これほど嬉しいことはない。ただ、ちょっと、博士の言葉は変態じみているのだけれど。
他の研究室に配属になった同期たちと同じく、人並みに扱ってもらえる! 嬉しい! 幸せ! ようやく私の研究者としての第一歩が始まったんだわ!
博士の頭がイっちゃってても、最悪の場合ド変態でも構わない。その両手を取り軽やかに踊り出しちゃいたい! それくらい、私は浮かれている。
赤面しながら口をもごもごさせる私を見て、博士は愉快そうに笑っている。そして椅子から立ち上がった。
「ティナ、君に特別な品物を差し上げよう」
私は当然身構えた。
指輪とか、高価な貴金属だったらどうしよう。
結婚がどうとか言い出したり、金ならいくらでもある、と豪語するような人である。もしかしたら貢物をして私を懐柔しようとするのかも――
「ラムレーズンのレアチーズケーキだ。偶然、ケーキ屋の前を通りかかってね。甘いもの、好きなんだろう?」
「大好きです、ありがとうございます、いただきますっ!」
白いチーズ生地の中に、ラムレーズンがちらほら。目の前に出されると、ラム酒の高い香りが鼻腔をくすぐった。
もうだめ、こんな素敵なものを出されたら、懐柔されても仕方ないかもしれない。
ああ、なんて美味しいの。濃厚なチーズと、ほろ苦いレーズン、クラクラしそうなアルコール……
「あれ、博士は召し上がらないんですか?」
中ほどまで食べてようやく気づく、博士の前にはお皿がないことに。
「私はいらないよ。あいにく、アルコール類が苦手なんだ。アセトアルデヒドの分解ができなくて」
見た目完璧そうに見えても、苦手なことがあるというのはなんとも人間らしいじゃないか。
あと、と博士はぽつりと付け足す。
「あと、レーズンも摂取すると腎臓機能に障害が出る可能性があって」
「なんですか、それは。博士は犬ですか」
思いがけないご馳走をいただき、お礼を言って私は所長室を立ち去ろうとした。
「お忙しい中、どうもありがとうございました。美味しいものまでいただいてしまって」
「また来るといい。甘いものは常に切らさないようにしておくから」
博士はちょっと……いや、とても変わっている。出来ればそっとしておいてほしい。が、しかし、甘いもので釣るのなら、その限りではないかもしれない。
もともと彼に憧れてこの研究所に来たのであるし、私に結婚どうのと言わなければ、至って真面目な研究者なのだ。
「……ところで、どうして博士は私が甘いものに目がないことをご存知で?」
「それは当然、君をストーカーしてきたから判明した事実で。……あ、いや、今のは訂正する。他の職員が話していたのを耳に挟んだということにしておいて欲しい」
「無理です」
幻獣に対する探究心を、なにも私にまで向けなくても!
至って真面目な研究者? これが? 新人研究員をストーキングしてしまうような人が、果たして「真面目」だと言える? と頭がグルグルしていたところ、博士が右手を不意にあげた。
昨日は手を握られたが、今度は何をされるのか。警戒心から思いのほか体が過剰に反応し、肩がびくりと揺れてしまった。
しかし、彼の手は私に触れることはなく、彼自身の顔に垂れる髪を己の耳にかけるだけだった。
「安心して。君が嫌がることはしない。触れて欲しくないのなら、私からは我慢しよう」
見上げたそばには博士の顔。銀色のまつ毛が、頰に影を落としている。
「それでは、ティナ。次に会える時を楽しみに待っている」
この人のことは、結局よく分からない。
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