4 幻獣を統べる王



 ルノーさんに言われたとおり、私の担当する幻獣が増えたので、その分仕事は増えたと言える。しかしながらあれだけ頻繁に任されていた雑用はとんと減ったので、総じて見れば個人的な時間は以前より圧倒的に増えた。


 もちろん、書庫から文献を探してきたり、書籍の中から必要な記述を見つけ出したりなどの雑用は先輩研究員から時折頼まれることもあったが、それはどこの研究室でも新人研究員の正当な仕事。それに、以前のような嫌がらせとしか思えない量の書籍を運ばされたり、必死に探してきた書籍を「やっぱりいらない」と放られることもなくなったのだから、私は大変に満足していた。

 また、喜ぶべきことに、以前ミーティング中に居合わせただけで烈火のごとく怒られたのに、ミーティングが始まるからと席を外そうとすると、逆に怒られるようになってしまった。


 私の所属するコックス研究室では、擬態中の幻獣に投与するとその擬態を強制的に解除できる新薬を開発しているという。その名も「エリクサー」。古代錬金術の万能薬エリクサーから、名を拝借したそうだ。

 幻獣の中には、外敵に幻を見せて現実よりも強いと錯覚させ、相手の戦意喪失を誘う能力を持っているものがいる。かと思えば、幻覚を見せるのではなく、実際の姿を他の幻獣、あるいは動物に変化させ、襲われるのを防いでいる幻獣だっている。この新薬エリクサーは、後者の幻獣に効果を示す。

 もしも捕獲を断念するような手強い幻獣がいたとして、元はか弱い幻獣がその姿に擬態しているとしたのなら、このエリクサーを使用すればたちまち擬態が解け、捕獲もたやすくなるのだという。もしかしたら、新種の幻獣の発見にもつながるかもしれない。


 完成まではあと少し。薬の状態を外気関係なく安定させることができれば、使用に向け研究所内での査読と検証作業が始まる。

もちろん、私のような新人が参加したからといって、先輩に対して有益な意見を述べられるわけではない。しかしながら、同じ研究室のメンバーとして、学びの場を私に与えてくれるようになったのだ。


 そして、大きな変化はもう一つ。

 ここ、ルルイエ幻獣研究所で管理飼育している幻獣は、すべてが自然のままというわけにはいかない。単なる動物園や保護施設とは違い、我々は研究のために幻獣を飼育しているのだ。

 したがって、実験に使われたり、開発段階の薬を投与することだってある。もちろん、動物とは違って個体数が少ないうえ、飼育が難しい幻獣も少なくないので、実験や薬物投与を試みる場合でも、極めて慎重に行われる。


 何らかの進行中の研究の対象になっている幻獣については、普段より一層の詳細な健康観察が求められる。これまでは私が日常的に担当していた幻獣が対象になった場合、しばらくの間私の担当から外れ研究チームで健康観察を行っていた。しかし、最近ではむしろ私の報告書がとても詳細だということで、所属研究室はもちろん、他の研究室員からも、参考にさせて欲しいとわざわざ話を聞きに来たり、書いて欲しいという依頼がきたりする始末である。


 誰に評価されなくてもいい。自己満足の範囲でも、自分が納得できる仕事をしよう。


 そう思って――もちろん評価はされたかったけれど――頑張ってきたことが、ここ最近、特に報われている気がする。もちろん、私の生活が充実しないわけがない。

 甘いものは相変わらず絶えず摂取していたけれど、クリームオンクリームだとか、バターブリュレだとか、甘党でない人からしたら「気持ち悪い」と言われかねないメニューを食べたいと思うことは減っていった。


 裁量労働制の研究所では、皆が揃って同じ時間に出勤してくることは稀である。私は幻獣の世話があるので早朝から出勤するが、大抵の研究員は昼前に出勤して、夜遅くまで働いて帰るような生活を送っている。

 以前は私の労働時間など無視してありとあらゆる雑用を振ってきていた先輩も、最近は夕方になるとむしろ「早く帰れ」と言うようになった。残業をするときもあるものの、特段急ぎの案件がない場合、私はありがたく帰らせていただいている。

だって、定時で上がればまだたくさんのお店が開いているので、ケーキだってドーナツだってクレープだってなんだって買えるのだ……! こんな幸せなことがあろうか、いや、ない――反語――!


 今日も定時で上がることが出来た私は、ふと思い立ってルルイエ幻獣研究所の敷地内に併設された博物館へ足を伸ばした。ルルイエ幻獣博物館――大変安易なネーミング――は、研究所でどのような研究をしているか、一般人を対象にわかりやすく伝えるのを目的として建てられた施設である。

 これまでに研究のために尊い命を散らした幻獣を最後まで無駄にしないため、研究成果だけでなく剥製や骨が展示してあるのだ。

 もちろんそこには、十九年前に現れた竜の骨だって展示してある。

 閉館まであと一時間。久しぶりに、私は「彼」に会いたくなった。



 学生の頃、私は足繁く通っていた。

 竜。

 私が幻獣研究の道を志すことになった、きっかけであり、憧れ。

 入職してからこの博物館にやって来たのは、今回が二回目だ。こんなに近くにあるにも関わらず、日々の忙しさと精神消耗にやられ、ついつい足が遠くなってしまっていた。


 受付で入館料を支払って、迷うことなく二階の大展示室へ。周囲にはいくつもの幻獣の写真、剥製、骨模型。私はそれらに目もくれなかった。

少し駆け足になっていたのかもしれない。息も弾んでいたかもしれない。

仕事中、一つにまとめていた髪を解いて、開放感いっぱいに、私は最後の階段を駆け上った。


「……いた」

 いないわけがない。

 けれど、自然と言葉が出た。

 見上げる高さ。大きな頭蓋骨。顎には鋭い牙。きっと私など、たいした力も必要とせず噛み砕くことができるだろう。……でも、きっと、しない。竜はそんなこと、しない。




* * *




 幼い頃の私は、それはそれは病弱だった。


 育ててくれた両親に申し訳ないくらい、幾度となく熱を出して寝込み、治ったかと思えばまたすぐ熱を出していた。

 学校に通うことも体力が保たないだろうからと、家庭教師をつけられて、それこそ昔の良家の子女のように、家の中での生活に身を置いていた。

 体調が良い日が続けば、兄さんに付き添われながら外出をしたこともあった。

 あまり見かけない顔の私は近所の子どもたちには珍しかったようで、よく好奇の視線を向けられていたっけ。


「一緒に遊ぶ?」

 そう言って、私を仲間に入れようと誘ってくれた子どももいた。

「ごめんね。妹は体が弱いんだ」

 私は「うん」と言おうとした。

けれど、それよりも先に、兄さんが決まって断りを入れる。確かに、散歩だけでも重労働の私が、元気一杯の子どもたちと遊ぶなど、どう考えても自殺行為だったかもしれない。けれど、いつもいつも遊びの輪に加わろうとしない――加われない――私は、いつしかいじめの対象となっていた。


「どうしてこんなことをするんだ? ティナは病気なんだから、しょうがないじゃないか!」

 兄さんはいつも私をかばってくれた。乱暴な男の子に小突かれたりしているのを見つけると、私とその子の間に入って身を挺して庇ってくれることもあった。

 私は知っている。

 自分が養子だということを。

 そして、両親――養親――も兄さんも、私が実親のことを覚えていないだろうと考えていたことを。


 実親がどうして死んだのか――葬式に出た記憶はあるので、死んだことについては事実なのだろう――、どうしてバロウズ家の養子となったのかについては、二歳か三歳のころのことだし、誰にも聞けないことなので私は知らないままだ。

 けれど、両親と兄さんと血が繋がっていないことを、すでに私は知っているのだ。

 養母に抱きついたことはある。養父にも、兄にも。しかし、「この人は私と血が繋がっていない」と常に心のどこかで思っていたし、だからこそ思い切り甘えることはできなかた。

 私の新しい家族となってくれた心優しい人たちの手を煩わせる病弱な体が憎かったし、いじめられる自分が許せなかった。


「弱虫毛虫のティナが来たぞ! 今日はお守り役はいないのか?」

「わたしはひとりでもへいきになったの!!」

 兄さんは当時から過保護だったので、私は「外出するときは僕と一緒じゃないとダメだよ」と言い聞かせられていた。しかしながらずっと守られる立場に甘んじていることを申し訳なく思っていたので、ある日兄さんが不在の隙を見計らって、こっそり屋敷から抜け出したことがあった。


 「弱虫毛虫のティナ」。私は影でそう呼ばれていた。

 影ではないかもしれない。白昼堂々、そう呼ばれていた。ただ、大人がいる場では「弱虫毛虫の」という枕詞がはずされていたというだけで。

 リーダー格の男の子が、腕を組んで私を威圧しながら言う。

「じゃあ俺らと同じ遊びができるのかよ」

「で、できるわ!」

 もちろん、「できない」などと言えるはずもない。

 それに、今まで参加する機会がなかっただけで、思い切って遊びの輪に飛び込んでみれば、意外と出来るかもしれない、という淡い期待もあったのだ。

 その日私は鬼ごっこに参加させてもらった。ルールすら知らない私に簡単な説明を施し、さらに仲間に入れてくれるなんて、「いじめっ子」と断じてしまうのはいささか早計だったかもしれない。


 けれど結果は散々なもの。

 最初の鬼は他の子がやったが、足が遅く体力もない私は、すぐに捕まって鬼役を交代させられてしまったのである。

地獄はそこから。どれだけ頑張って走ってみても、普段散歩くらいしか運動をしない――させてもらえない――私が、毎日公園を縦横無尽に駆け回っている彼らに追いつくことなどできなかった。

 手を伸ばせば触れられそうな距離にいても、私が虚をつこうとする度さっと体を翻して逃げられてしまうのだ。くやしいことに、何度やってもそれは同じ。


「あはは! 鬼のくせに、誰一人捕まえられてねえじゃん! ちょっと走っただけで息が上がってやがるし、そんな足の遅い鬼じゃ、誰も捕まえられねーぞ!」

「うぅ……っ」

 何度か転んでしまったおかげで、ふわふわのスカートは泥だらけ。

 心臓が飛び出しそうなほどドクドクと脈をうっていて、おまけに、目には涙が浮かぶ始末。

「わたしだって……わたしだって、げんきに、なって、みんなと、あそんだり、おべんきょうしたり、ひとりでなんでも、できるように、なり、たいのに……っ」

 息継ぎの合間に細切れに、私は恨み節をつぶやいた。

 歯がゆい思い。

 それは、彼らには関係ないものだっただろう。

 己を情けなく思っての言葉であって、彼らに何かしてほしいわけではなかった。


「だったら、あれしかないよなー」

「ねー」

 しかし、彼らは私に与えてくれた。

「竜だよ」

「……りゅう?」

 これこそが、きっかけ。

 これこそが、始まり。

「森の奥の奥、そのまた奥に住んでる幻獣だ。大きくて、翼が生えてて、鋭い牙がある。そいつを食べると、体がうんと丈夫になるんだって、俺のお父さんが言ってた」


 文字の勉強に、算数の勉強。あと、少しの歴史の勉強。

 数人の家庭教師が与えてくれた知識の中に、「竜」の知識は欠片もなかった。ましてや、家族の会話の中にも。

「今から少し前に本物の竜を捕まえた人がいるんだって。その人が竜の肉を食べたら、それ以来風邪を引くことがなくなったんだって」

「でも、竜はすっげえ珍しいって言うからな。まず弱虫毛虫のティナじゃ見つけることすらできないだろうけどな!」



 走り回ったせいでその日の夜から熱が出て動けなくなったものの、熱が下がってすぐ、私は再び屋敷を抜け出した。目指すは、あのいじめっ子が教えてくれた森。

人が住んでいるすぐ近くの森。幻獣の中で最も個体数が少なく、これまでに人間が発見した竜はたったの数頭。その竜に、子どもが簡単に会えるわけがない。


 今の私ならわかることだが、あの時は会えると思っていた。予感なんていう洒落たものではなく、幼さゆえの無知から来る、妙な自信。

 しかし、そのおかげで私はあの時竜との邂逅を果たせたのである。

 小さな水筒に紅茶を入れて、あとはお腹が減った時のために、砕いたアーモンドの乗ったクッキーを二枚。服装はいつもの通りの、裾がひらひらしたワンピースと薄いコートと、ふくらはぎ丈の編み上げブーツ。

 散歩程度の軽装で、私は森の中へ足を踏み入れたのである。


 最初は木々が生えているだけの、そこそこ平坦な野原だった。だんだんと生えている草が長くなり、植物の密集度が上がり、苔むし、暗くなっていった。急斜面は避けたが、太い木の根は八歳の子どもにとって乗り越えるのは骨の折れる道のりだった。

 幸いにして、昼間。

 薄暗いものの日光がかろうじて私を照らしてくれていたので、得体の知れない動物の鳴き声が聞こえても、私は臆することなく森を突き進むことができた。

どれくらい歩いただろうか。

 子どもの足、それも普段運動などしない子どもである。すでにヘトヘトだったが、きっと大して進んでいなかったのではなかろうか。

 小川があったので、これ幸いと私は駆け寄り、顔を洗った。


 季節は初夏だったにも関わらず、森の湧き水は冷たいままで、火照った顔には大変気持ちがよかった。ついでにひと休憩しようと、私は腰を下ろせる場所を探した。そして、あたりを見回したところで、私は見つけたのである。


「……あなたは?」

 『大きくて、翼が生えてて、鋭い牙がある』

 無謀が過ぎていたと思う。「竜」に会いたくて森へ来たのに、それがどんな姿をしているか、あの男の子から聞いたこと以外の一切を、愚かな私は知らなかった。

「…………」

 大きくて、翼が生えていて、鋭い牙は……よく見えない。


 翼には羽がない代わりに、薄い膜が張っていた。背中の方に折りたたんであったが、猫が尻尾を揺らすみたいに時折小さく開くので、乳白色の膜が見えた。

 大きな体躯を覆う白い鱗は光の加減で虹色に見え、一枚一枚が真珠のような光沢を帯びていて美しい。大きな瞳は晴天の空のごとき水色。竜自身は森の中にぽっかり空いた空き地のようなところに座していたから、背後から眩しいほどの光が差し込んでいた。かたや私は暗い木陰の下。瞳孔をまん丸く見開いて、その「塊」は私を見つめていた。


「あなたは、もしかして、……りゅう?」

「…………」

 返答がないことも気にせずに、私はそれ話しかけた。

「わたしのなまえはティナっていうの。りゅうのおはなしをきいて、ぜったいにあわなくちゃ! っておもって、それであなたにあいにきたの!」

 地面すれすれの位置で揺れる尻尾の近くには、鋭い鉤爪の付いた脚。私の命など簡単に奪ってしまえただろうに、私は一切怖くなかった。

 地鳴りにも似た唸り声とともに、その塊――竜――が口を開いた。聞いていたとおり、鋭い牙がたくさん並んでいる。


「――のため……」


「え?」

 竜が喋った。

 人語だった。

 竜が人の言葉を理解することは、どの文献にも明確には書かれていない。ただ、やはりおとぎ話に近い伝承の中に、かつて会話を交わした者がいたとの話が残っているだけだ。


 しかし、竜は他の様々な幻獣や動物と意思疎通をはかることができると考えられている――十八年前に発表されたヴィルヘルム博士の論文による――ため、そうであるならばヒトとだって話せて当然だという見方が多数を占めている。

 実際に、私は実体験として竜と言葉を交わしたのだから、疑う余地などない。


「何のため、お前は私に会いに来た?」

「あのね、あなたをたべたいの!」

「…………」


 今にして思えば、よく殺されなかったなと思う。

 竜の血肉には不老不死の力が宿っている――。

 それは、ずっと昔からまことしやかに語られている言い伝えだ。実際に食べた者がいるのかどうかは、信ぴょう性のある記録としては残されていないけれど。

 捕食の対象となる「彼」にとっては、面と向かって「食べたい」など言われて、その心中はさぞ複雑だっただろう。怒りか、困惑か、悲しみか。


「あのね、わたしはからだがよわくて、おともだちとあそべないの。おとうさまやおかあさま、にいさまにめいわくばっかりかけているの。あなたをたべるとからだがじょうぶになるってきいたわ。だから、ほんのすこしでいいから、わたしにたべさせて!」

 竜が頭を下げ、私に顔を近づけた。

 もしかしたらパクリと私を食べる気だったのかもしれないが、まぬけな私は気づかなかった。

「あなたのからだはとてもおおきいから、ぜんぶたべることはできないもの」

 それどころか、ちょっとだけでいいから、と私はさらに懇願を重ねた。

「あのね、きょうはクッキーをもってきたの! おいしいの、よかったら、あなたもたべて?」

 ポシェットの中からハンカチに包まれたクッキーを取り出し、毒味よろしく一枚は私が。そして残りのもう一枚を、竜の目の前に掲げた。


 かすかに――私の腕がゆうに入りそうな隙間だったけれど――開いた口の間、舌の上に乗せると、上を向いてゴクン、と一飲みにしてしまった。巨大な体にはかけらほどのクッキーだ、咀嚼できるほどの大きさではなかったのだろう。

 それから竜はフン、と鼻息を私に吹きかけた。

「……いいだろう」

「ほんとう!?」

 クッキーが賄賂として有効な働きを見せたのか、はたまた単なる気まぐれか。

「肉をやっても火を通さないと人間には食べられないだろう。だから、私の血を少しだけ分け与えよう」

「ありがとう!」


 生物の生き血であるにも関わらず、あの時の私は恐れ知らずだった。子どもならではの純粋さで、私は素直に喜びを伝えた。

「ただし、私ばかり血を流すのは不公平だ。お前も私に血を分けてくれ」

 前脚を折って、頭をそこに預ける。体は鱗に覆われていたが、大きな目の上には長い長い銀色の睫毛が輝いていた。

「わたしの、ち? いいけど、わたしはからだがちいさいから、あなたに血をのまれたら、すぐにひからびてしんじゃうわ」

「安心しろ。ほんの一滴だけでいい。……腕を出してみなさい」

「こう?」

 私は手のひらを上に、左の腕を差し出した。

 竜が、前脚の爪をほんの少しピクリと動かす。すると、差し出した手首のあたりに閃光が走った。

「あっ」

 静電気が発生したかと思った。その程度の痛みののち、煤(すす)のようなものと、一筋の血が。

「この一滴だけで十分だ」

 もっとたくさんの血液をよこせと言われると思っていたが、本当に、たった一滴だけでよいと。拍子抜けして私は笑った。

「それならいいわ。あなたにあげる」

 竜は大きな口を開き、舌先で私の血を舐めた。舌先と言ってももともとが大きいので、ひと舐めされただけで私の手は手のひらから腕からベットリと唾液に塗れてしまったけれど。

「うふ、くすぐったい……」

「次は私の番だ」

 また竜が、前脚の爪をピクリと動かした。

 次は竜自身の爪の上に閃光が走り、一枚の鱗がかすかに欠けた。そこから真っ赤な血が垂れる。皮膚の窪みに溜まって、溜まりきらない血液が爪を伝ってポタリと溢れる。

「さあ、飲め」

 私はもっと竜に近寄り、己の背丈ほどもある爪に触れた。

 とろとろと蜜のように垂れる血に顔を近づけて、臆することなく口に含んだ。

「ふしぎなあじ」

「もうよかろう。これでお前……ティナの体は風邪一つ引かない丈夫な体に生まれ変わる。そして、我らの――」




***




 あの時、あの竜は最後に私に何を伝えたのだっただろうか。

 記憶はそこで一旦途切れ、気づいた時は森の入り口でひとり倒れていたのだ。

 もしかしたら夢だったのかもしれない。けれど、二枚持っていったクッキーは確かに姿を消していたし、左手首には小さな痣ができていた。あの時、竜の魔法を受けた場所だ。傷はすでにふさがっていたけど、今でも残っているこの煤のような消えない痣は、竜との出会いが私の夢ではなかったことを証明してくれている。


「そして、我らの……あの時、何て言われたんだっけ」


 どうしても思い出せない。

「名前も聞いてなかった。せっかく言葉が通じたのに――」

 私は独り言を中断した。何かの音……靴音が近づいてきたからだ。

 振り返った先にいたのは、博士。

 ヴィルヘルム博士だった。


「やあ、ティナ。今日も可愛いね」

「やめてください」

 博士は何をしにここへ来たのだろうか。研究者として、かつての研究対象に会いたくなっただけなのか、それとも、私を探してここへ来たのか――あまり考えたくないことながら――。

「何かあった? 元気がないように見えるけど」

 私は竜の骨格標本に向き直った。

 どうしてだろう、学生の頃は、この竜に会うのをとても楽しみにしていた。現に今日も楽しみにしていたのに、実際に久しぶりに目にしたら、何故だか素直に楽しめない自分に気づいてしまった。

 興味が湧いて来た以前とは違い、確かに魅力的ではあるが、どうしてか、心の奥底がざわざわと音を立てるのだ。

「もしかして、仕事がつまらない?」

「いえ、充実していますよ、おかげさまで」

 私の隣に博士が立つ。

 身長は頭一つ分高く、背筋もしゃんと伸びていて立ち姿も美しい。

「あの時はああ言ったけど……ヴィル博士のおかげです。どうもありがとうございました」

 ――所長権限で取り計らってもらっても、それは実力ではないから嬉しくない――


 ある種の「コネ」を使った後ろめたさや罪悪感じみたものは今でも少しは感じているが、それでも、博士の鶴の一声のおかげで、私は人並み――いち研究者並み――の生活を手に入れることができたのである。

 完全な納得は出来ないが、そもそも他の同期たちは人並みに扱ってもらえているのに、私ばかり入職してすぐからあんなに差別される謂れはなかったはずだ。これはこれで「痛み分け」とでも折り合いをつけることができるような気もする。

 俯いて悶々と考えていると、博士は一歩踏み出した。目と鼻の先には竜の骨格標本がある。立ち入り禁止のロープは敷かれているものの、手を伸ばせば触れられそうなほど近い。


「竜は、知ってのとおり、幻獣の中で最も個体数が少ない。人間に見つかってしまえばこの竜のようにいい実験材料にされてしまうから、彼らは身を隠すことを学習し、更には体の構造をも変えてしまった」

「体の、構造……?」

 何の話だろうか。


 これまでに目にしたどの文献にも学会誌にも、そのようなことは書かれていなかった。

「擬態だ。竜は、変化の術を体得した。彼らは、人間の姿に擬態ができるんだ。元の姿のまま、巨体を持て余すよりは、人に擬態し人混みに紛れて生きていく方が身の安全が確保できると学んだのさ」

「擬態……」

「竜は全ての幻獣、全ての動物を従えることができる……もちろんヒトは除外するが。さらに竜の中の『竜王』は、竜の頂点に立つその名のごとき『キング』だ。全ての生命の源であり、全ての生命の進化体。竜は同種間での有性生殖により子孫を残すが、竜王だけは異種間での有性生殖により子孫を残す。だから竜『王』であり、源であり進化体でもある」


 博士の口から滔滔と紡がれる話はすべて、私の知らない話ばかりだ。

「ただ、竜に共通する面倒なこととして、一度番つがいを選んだなら、一生涯パートナーを帰変えることはない。竜は愛情深い生物だから、もし片方が死んでしまえば、遺された方は寂しさで死んでしまう」

 最後に彼は「これらはまだ、どこにも発表していないことだけど」と付け加えた。

 そうだろう、博士の論文には全て目を通してきたが、初めて聞く説ばかりだったから。


「それで、ティナ」

 博士が振り向く。

 どことなく、その顔には疲れが見えた。瞳の奥に、そこはかとない深淵が広がっているような。

「竜の研究がしたい、野外調査に参加したいと君は志望動機に書いていたけど、どんな研究がしたいんだ?」

「主に生態についてです。竜は個体数も少なく、謎に包まれた部分も多い。ですから私は――」

「竜を見つけたら、捕獲する? 捕獲して連れ帰り、肉体を暴き、何を食べているのか、どんな組織を体内に有しているか……切り刻んで、骨になるまで研究をしたい?」

「それは……なんとも言えません」

 医学の発展が数多の人間の犠牲の上に成り立っていることは周知の事実だ。そしてそれは、幻獣研究、もちろん動物の研究においても同じこと。私たちの目の前にいる竜――すでに骨の姿だが――だって、絶命後も散々実験に付き合わされたことだろう。

 もちろん、我々研究者は、それを当然のことと思ってはいない。犠牲となった命には感謝を捧げるし、奪った命を無駄にしないよう最大限の成果をあげることを目標としている。

「ティナ。君はここ、ルルイエ幻獣研究所で、生きた竜が見たい?」

「いいえ」

 思いがけずすんなりと、答えが口から出ていった。

 あの竜に。

 私が研究者を目指すきっかけとなったあの竜に、もう一度だけでいいから会いたい。ひと目だけでも見たい。けれど、見たくない。会いたいけど、会いたくない。

 博士もさぞかし驚いただろう。竜の研究がしたい、けど竜には会いたくありませんなんて、研究者としてのやる気や素質を疑われかねない。

 しかしながら、残念なことにそれが私の本心なのだ。


 長い沈黙のあと、博士が再び私に問う。

「どうして?」

「だって」

 私は顔を上げ、博士を見た。

 彼は真剣な表情をしていた。

「だって、私が竜に会うことがあるとしたら、それは研究のため殺されたか、近い未来に殺される運命だから。幻獣の生態や『魔法』の仕組みなど、まだ人間には知らないことが多いです。それらを一つずつ解明して、世界の発展や新薬開発に役立てるためには、必要な犠牲もあるでしょう。しかし、それでも、やはり私はできるだけ死んでほしくないんです」

 いいや、違う。これは詭弁。

「私は、竜には特に強い思い入れがあって……だから、そのせいかもしれません」

「思い入れ? どんな?」

「……嘘だと、妄想だと思われるでしょうが、実は私、子供の頃、竜にあったことがあるんです」


 最初は、私とあの竜しか知らない秘密が出来たことが嬉しくて、誰にも告げたりはしなかった。なぜ勝手に家を飛び出したのか、なぜ森の入り口で倒れていたのか聞かれたときも、適当な言い訳をしてはぐらかした。

 そのうち、成長して竜についての知識を得るたび、あの出来事を誰かに打ち明けたとしても、きっと誰も信じてくれないだろうと思うようになっていった。

 博士の専門は竜だ。家の近くの森の中で竜に偶然出会えるなんて、どれだけ確率の低いことか、きっと私以上にわかっているはず。


 疑われると思った。だから最初から予防線として、ヘラッと私は笑ってみせた。疑われたら「さぁ、真実はどうでしょう」とか言って、再び私とあの竜だけの秘密にしておけばいいことだから。

 しかし博士は笑わなかった。

 私の方が驚いてしまった。


 妙な沈黙が流れた。妙な空気をなんとかしようと、私はとにかく何かを喋らなければと、記憶を辿ってとにかく喋った。

「真珠みたいな輝きを秘めた乳白色の鱗に、アクアブルーの透き通った瞳。とても綺麗でした。ちっぽけな子ども一人くらいなら、難なくひと飲み出来るほどの体躯。にも関わらず、彼はとても紳士的でした。私を食べようという仕草どころか、危害を加えようとか怖がらせようとか、そんなそぶりは一切見せなかった。穏やかで、優しくて、どちらかというむしろ私という存在に戸惑っているようにも見えて。おそらく世界で一番竜について詳しい博士なら既にご存知かもしれませんが、竜って人語も理解できる上、操ることも出来るんですよ?」

 竜に抱いた感想を言った後で、博士は私がどういういきさつで竜に出会うに至ったか知らないことに気が付いたので、後付けにはなってしまったが簡単な説明も付け加えておいた。

「本当に、ちっとも怖くなんてなかった。綺麗、素敵としか思わなかった。……この歳になるまで私が一度も誰かを好きになることがなかったのは、多分それが影響していると思うんです」

 博士の眉間に皺が寄った。

「それはどういう……?」

 もうこの際だから、言ってしまえ。

 空想少女でもいいじゃないか。

 もう、勢いだった。

「人間と竜、種族がそもそも違うのに、私はあの竜に恋をしちゃったんだと思います、なんて。それも、十年以上ずっと。……片思いに決まってますけどね」

 勢いで言ってから、私は猛烈な恥ずかしさに囚われた。

「だから博士に恋をすることは、きっとこの先もありません」という重要な台詞を付け足し忘れるくらいには、恥ずかしさでいっぱいになった。

 博士のことを好きだと言ったわけではない――断じて違う――のに、目の前にいる、この少し狂った超絶美形の男性に、告白したような錯覚に陥ったからだ。

 多分それは、博士の耳があんなに真っ赤にならなければ、私だってそんな錯覚無縁だったはずだ。しかしこの、薄暗い照明の中でも赤くなったのが分かるって、一体どういうことなんだ。

「ええと……だから、そういうわけで……野外調査で、竜に出会えたらいいなあって。捕獲などは考えない。ただ、どうやって空を飛び、何をどうやって食べ、どうやって繁殖しているのか、それを垣間見れたらいいなあ、というか!」


 早口で喋ったあと、私は我慢できずヴィル博士に背を向けた。

 気まずい空気をなんとかしようと会話を試みたはずだったのに、逆に悪化させてしまったようだ。

 とりあえず深呼吸をして心を落ち着かせ、打開策を考えようと試みる。

 が、その前に理解不能の事態に陥る。

「え、え、えっ……?」

「何もしない。……何もしないから、少し。このまま」

 窮屈。

 ぬくい。……熱い。


 背後から博士に抱きつかれたのだ。


 幸いにも閉館ギリギリの時間だったので、周囲には誰もいなかった。

 けれども、博士の両腕が私の鎖骨の下のあたりに見えるし、ちらりと顔を動かせば、博士の額とまっすぐな鼻筋が目に入る。

 あんな狂人一歩手前みたいな男だけれど、憧れていた人――もちろん研究者として――には違いないし、何より大変な美貌を誇る人なので、緊張しないわけにはいかない。

 博士は意外と筋肉質だ。しっかりした分厚い胸板が私の背中で熱を発しているし、腕の盛り上がった筋肉も、白衣ごしになんとなく分かる。

 ああ、やめてください。吐息が耳をくすぐっています。

 博士は黙っていれば王族のような気品がある。気高く、凛としていて、誰もが息を飲むほど美しい。黙っていれば。

 ……しかもどうして、今に限ってトチ狂ったことを言わないんですか。「ハネムーンはどこに行きたい?」とか「子どもは何人希望している?」とか言われたら、遠慮なくその手を払いのけるのに……!

「――なんかじゃない」

「え? あの、今なんて」

 すぐ私の耳元で発された言葉だったのに、声が少しかすれていて――もしかしたら震えもしていたのかもしれない――最初の方を聞き逃してしまった。

「何でもない」

 博士はすぐにそう言って、あっという間に私から離れた。

 左手で顔を覆って、博士は表情を隠してしまった。……耳はまだ真っ赤のまま、頰も少し赤いような気がするけれど。

 博士がどういう心境なのか、私にはさっぱり掴めない。


「ティナ、もう日が暮れるから。気をつけておかえり」

 声は穏やかなままだ。特段、これといった色は感じない。

「は――」

 はい。素直にそう言おうとした。

 あっという間のことだった。

 私の目線より少し上に狙いを定めた博士の顔が迫ってきて、間も無く軽やかな唇の音が展示室の広い空間に響いた。

「また明日」

 博士からのキス。初めてのキス。……当然ながら口ではない。額だ。

 おかしい。

 非常におかしい。

 どれだけ美形だからと言っても、博士は変人のはずなのに。

 またしても垂れ始めた鼻血をハンカチで押さえながらにこやかに手を振る博士を見て、どうしてか、私の心臓はなかなか鎮まってはくれなかった。


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