5 兄、来たる
「やあ、ティナ。あまりにも君からの返信がないから、邪魔しちゃいけないと思いつつも、待ちくたびれてついつい様子を見に来てしまったよ」
全く悪びれもせずに言う兄さんの顔は、以前会った時と変わらない、にこやかな表情を携えていた。
「でも良かった。恋人が出来たから連絡が来ないのかもと少し心配していたんだけど、この様子じゃ杞憂だったみたいだ」
「兄さん……そんな余裕はないって」
もしも私に恋人でも出来たら、探偵を雇って相手の身辺調査をしそうな兄ではある。面倒見が良く幼い頃は頼りになったが、要するに過保護なのだ。
「ごめんなさい。兄さんからの手紙、読んではいたんだけど、返事を書く時間がなくて」
正確には「時間」ではなく「気力」がなかったのだけれど。
しかし、兄さんに私が疲労困憊であるなどと告げてしまえば、また彼につけ込む隙を与えることになってしまう。
「本当に忙しそうだね。睡眠時間はきちんと確保しているかい? 顔色も屋敷にいた頃より青白いし、目の下にはクマができてる。髪も肌も……少し荒れた?」
兄さんが来るとわかっていたなら、私はきちんと常識的な時間に起きて身だしなみを整えて万全の体制で待っていたし、何なら健康そうに見えるように多少の化粧だって施した。休日の午前――昼前だけど――に奇襲をかけるなんて、ちょっと酷くはないだろうか。
爆発している髪を手櫛で必死に撫で付けながら、私は兄さんに言い訳する。
「……大丈夫、昨日はちょっと、休日前だから浮かれて夜更かししちゃったから」
あながち嘘ではないと思う。
ヴィル博士の不可解な行動に苦しめられ、ベッドに入ってもなかなか寝つけなかったのは事実なのだから。
「…………」
兄さんは何も言わなかった。
私とは違って、柔らかそうな栗色の髪。垂れ目な上にいつも笑顔を絶やさないから、温厚な人だと思われている。
しかし、「温厚」と「頑固」は共存する。私の進学先を決めるときも、ルルイエ幻獣研究所に入るときも、そして一人暮らしをしたいと言ったときも、家族の中で最も反対したのはこの兄だったりするのである。
「仕事はどう? 順調かい?」
「ええ、おかげさまで。兄さん、何か飲む? 紅茶ならすぐに用意できるけど」
「ありがとう。頂くよ」
部屋の中へ招き入れ、椅子に座るよう促した。本当は早く帰ってほしかったが、この調子ではすぐに帰るとは思えない。
「お砂糖は――」
「いらない。ミルクも。僕の分はティナが使って」
甘味に目がない私とは違い、兄はお砂糖を好まない。
その分、兄は自分用に出されたお菓子を、よく私に回してくれていたけれど。
「時代だからね。女性が働くことに偏見を持っているつもりはない。それに、研究職は誰でもなれるものじゃない。性別問わず、向いた者がなるべきだ」
「……ありがとう、兄さん」
熱い紅茶をゆっくりすすりながら、兄さんがそれとなく話し始めた。
穏やかな口調は相手の警戒心を解すため。それを知っている私は、ティーカップを両手で持ちながら、次の口撃に身を固くする。ちなみに、角砂糖は気合いを入れて七つほど投入済み。
「けど、ティナ。君に限っては、あの時働く許しを出してしまったことを、やはり僕は後悔しているんだ」
やはり、来た。
「待ってよ、何度も言ったじゃない、私は竜が――」
「ティナがどれだけ竜を好きかは分かっているつもりだよ。好きなものを無理に嫌いになれと言いたいわけじゃないんだ。ただ、竜を愛でるのに研究員である必要があるのか、僕にとっては疑問なだけだ」
進学先を選ぶ時、あるいは就職を考えた時。
その時に、嫌という程話し合って、説明して、理解を得たことじゃなかったのか。「分かった。君の好きにするといい、応援するよ」という言葉は、一体なんだったのか。
またあの気の遠くなるような説得をしなければならない――それも一から――のか、と思うと、ただでさえ朝は低血圧で貧血気味なのに、さらに血の気が引いていくようだ。
「ルルイエ幻獣研究所は、なにも竜の研究だけをしているわけではないだろう? 所長は竜研究の第一人者の家系だろうが、今の時代になったからといって竜が豊富に捕獲できるわけでもないし、入りたての新人が、いきなり竜の研究など任せられるわけがない。きっと他の幻獣研究すら、満足に携わらせてもらえないんじゃないのかい?」
兄の言うことも間違ってはいない。
けれど、ここで負けたら私はもう二度とあそこに戻れなくなってしまう。
「そんなことないわ! そりゃ最初は新人だからそれなりの扱いを受けたけど、いずれ年数が経って中堅の研究者になればきっと――」
「どれだけ勤続年数が長くなろうとも、閑職に追いやられることはあるだろう? もしかしたら、新人の頃と同じような扱いを未来永劫受け続けるかもしれない」
「でも、頑張って真面目に仕事をしていたら、きっといつか――」
「君の場合は……可哀想だけど、理不尽な嫌がらせを受けているそうだね。……ミミが教えてくれたよ。嫌がらせをする人間が、在籍期間の長短だけでいじめの対象への評価を改めてくれるとは思えないけど」
ミミとは学生時代からの友人だが、ミミと兄さんも面識がある。私の家に彼女を招いた際、兄さんも交えて三人で会話したこともあるのだ。
それがきっかけとなり、ミミは兄さんに一目惚れして……今はあまり関係ないか。
「そ、そりゃ最初は雑用とか使いっ走りとか……嫌がらせみたいな仕事しか与えてもらえなかったけど、今は改善されて――」
「これもミミが教えてくれたんだけど、幻獣に襲われて怪我をしたんだって? しかも、襲われることとなった理由、幻獣の管理を怠った責任も、君がなすりつけられたんだって?」
「そ、それは」
ミミったら、兄さんに伝えなくてもいいのに。むしろ伝えて欲しくなんてなかったのに。私を話題づくりのネタにしないでよ。
それにしても、二人はいつ会っていたのかしら。偶然街中で出くわしたのか、二人で逢瀬でもしていたのか……私には関係のないことだけれど。
「僕はティナ、君のことを心配してるんだよ。……いいじゃないか。何度も言うけど、僕は好きなものを嫌いになれと言いたいわけじゃない。ただ、これからは趣味として愛でればいいじゃないかと言いたいんだ」
「……趣味?」
「君が論文を読むことを咎めたりしない。模型も本も、欲しいものは何だって買ってあげる。だから、仕事もこんなウサギ小屋みたいな所に住むのもやめて、実家に帰っておいでよ」
兄さんは、やっぱり、私の夢を理解してくれていたわけではなかった。私がどれだけ本気なのか、彼は分かっていないのだ。あんなに何度も話したのに、ちっとも伝わっていなかったのだ。
「いや」
兄に反抗するのは、実はとてつもなく労力が要る。
常に笑みを絶やさない彼は、私が感情的になればなるほど、冷静に、淡々と、私の痛いところを突いて来る。シャンテリークリームに釘を打とうとするみたいに、全く手応えを感じられないというところが、更に私を感情的にするにも関わらず。
それでも、私はどうしても、退きたくないのだ。
「それはできない。今の職が夢だったからってだけじゃない。兄さんだっていつか誰かと結婚するでしょう? 子供だって生まれるわ。そんな中で一生、妹の私を養うなんて出来ないじゃない。私は所詮はただの妹。バロウズ家からは出て行かなければならない人間なのだから、せめて仕事にはしがみついておかないと、私が生きていけないのよ」
実の子だったなら、実家に甘える気持ちも出ていたかもしれない。けれど、私は私が養子であることを知っている。裕福なバロウズ家に引き取られたのは、本当に幸運だった。何不自由ない暮らしが出来たことは、確実に両親と兄のおかげだ。感謝しないわけがない。
しかしながら、これまでのことを感謝したからといって、今度も甘えるつもりはない。かつては子供だった私も、今では立派な――年齢的に――大人だ。自分の食い
冷静に、冷静に。
様々な角度から、兄さんの主張の矛盾点を指摘していかなければ。
兄さんがティーカップから手を離した。左手を、私の右手に重ねる。昔から兄さんの手は私の手よりも大きかったが、あの頃のような滑らかさはない。骨ばっていて、血管も浮き出た、立派な成人男性の手だ。
私は身構えた。
「……ティナ、実は、君には隠していたことがあるんだ」
兄の顔から笑みが消えた。「決して驚かないで聞いて欲しい」「驚くなと言う方が無理かもしれないけど」と付け足し、神妙な面持ちで言葉を紡ぐ。
「君は養子だ。君が二歳の頃、君の両親が亡くなって……それで、身寄りのない君を、君の両親の友人であった僕の親が引き取ったんだ」
なんだ、そんなことか。私は密かに胸をなでおろす。
両親からも兄さんからも、そして使用人からも今の今まで聞かされることはなかった事実だ。幸か不幸かその頃の記憶がうっすらあった私は、誰にも打ち明けることはなかったが、既に知っていたことだった。
しかしながら、兄さんは兄さんで私が知っているとは知らなかったのだから、兄のためにも少しは驚いたふりをしておいた方が自然だろう。そう思った矢先だった。
「だからティナ、僕と結婚しよう」
思わず兄さんを二度見した。
「それは……はい? 結婚? 兄さんと……私が!?」
「ティナをバロウズ家で引き取った理由は、君の産みの親と僕の親が友人だったからだけじゃない。初めから君を僕と結婚させる予定で、両親は君を引き取ったんだ」
これは、知らなかった。
重ねられた兄さんの手を私は無意識に振り払う。
「そんな話突然されても……だって、兄さん……兄さんでしょう? 私にとってフレデリック・バロウズは頼りになる兄で……家族としての親愛以上の感情なんか、私は」
「混乱するのもわかる。けど、僕はティナがうちに来た理由も知っていたから、君のことを『単なる妹』と思っていたことは一度もなかった。ずっと、僕は――」
振り払ったはずの手が戻って来た。再び私の右手を掴み、ゆっくり兄は、己の胸に私の手を当てさせる。
彼は何も言わず、私をじっと見つめていた。
この心臓の鼓動を聴け。――感じろ。
そう言われているような気がした。
兄の心音は、とても速かった。
「ティナ、ずっと昔から好きだった。君のことを愛しているんだ」
狭い部屋に、それに似合った一人用のテーブル。無理やり椅子を二脚持って来て座っているのだから、お互いの距離はとても近い。
兄さんが私の手を離さないので、彼が顔を近づけてくると、当然私は逃げられない。
彼が視線で追うものは、私の唇。
どうしていいのか分からなくて、私は咄嗟に目を固く瞑った。
……しかし、何も起こらない。
「安心して。怖がっているのがわかるのに、無理やりキスなんてしないよ」
恐る恐る瞼を上げると、いつもと同じ、微笑む兄さんの顔が見えた。強いて言うなら、いつもよりちょっとだけ、困った顔にも見える。
兄が手を離してくれたので、私の手は私の支配下に戻って来た。放心状態の私をよそに紅茶を一息で飲み干すと、兄はひと呼吸してから「さて」と言った。
「ひとまず僕は帰るとする。次の休息日、また来るよ。それまでにゆっくり考えを整理しておいてね」
* * *
一人では無理だ。
考えを整理?
ゆっくり?
こんなこと、一人ではどう整理したらいいのか分からないに決まっている。
しかも、次の休息日、すなわち一週間後また来ると兄は言っていたのだから、悠長に考えられるほどの時間もない。仕事に行って、帰り道にケーキなんか買って帰って、食べて寝たらもう翌日。それを数回繰り返しただけで、問題の期日はやって来るのだ。
困った時のミミ様頼みとでもいうように、私はまず真っ先にミミに相談しようとした。けれど、ちょうどミミも忙しいようで、隣の部屋に住んでいるにも関わらず、なかなか会って話をする機会に恵まれなかった。ならば仕事の休憩時間はどうかと医務室を訪れてみるも、ことごとくミミは不在。
そもそもミミは、兄さんのことが好きなのだ。兄さんは私のことが好きだった、なんてミミに知られたら、彼女はきっと落ち込んでしまう。出来ればそれは避けたい。兄さんにも私のことなど諦めてもらって、私以外の女性を見つけてきてもらいたい。
でも、他の誰かに相談しようにも、自宅と研究所の往復ばかりの私に、相談できる相手も時間もない。研究所の先輩たちも、以前より関係は良くなったとはいえ、プライベートなことを相談できるほどの親しさはないし、どんな考えを持った人なのか、あまりよくは知らないし。
……という中、約束の週末まで残り二日というギリギリのところで、突如として頭に浮かんだのは、博士。ヴィル博士だった。
「いや、ないっ!」
しかし、すぐに私は首を振った。
ない。
本当にない、ありえない。
まず、私は博士からよく分からないプロポーズを受けているのだ。つまり、博士と兄さんは、言ってみればライバル関係にある。相談相手としては、最も不適切としか言うほかないだろう。
「…――ナ、……ティナ」
はっとして、私は我に返った。
そうだった、ここは研究室だった。
「ティナ、何がないんだ? 納品書に誤りがあった?」
「あ〜……いえ、大丈夫です。私の思い違いです」
新しく届いた実験器具について、納品書との突合作業を任されていたのだった。
隣の机のルノーさんが、怪訝そうにこちらを見ている。
「珍しいな、お前が思い違いだなんて」
「そうですか?」
思いがけない反応に、私の目がキラッと光ってしまったのだろう、居心地悪そうに目をそらされた。
「いや……思った割には、というところだが……任せた仕事はきちんとこなすし、報連相も欠かさないし……」
つい先日までは「新人」と呼ばれ名すら呼ばれず、実験器具に触らせて貰えず、与えられる仕事といえば昼食の買い出し、掃除、ゴミ捨て、使うか分からない文献の検索……。今が正しい扱われ方だとはしても、あの頃からは考えられない待遇だ。
おまけに、ちょっとは評価がもらえるというのは、どうしたって嬉しいことに違いない。
「ありがとうございます!」
「いいから……て、手を動かせ手を!」
「はいっ」
仕事は順調だったものの、結局その日の夕方ころ、とうとう私は倒れるに至った。
過労である。仕事がハードな分にはなんとか体も保っていたが、「結婚」などという、これまで私の人生には無縁だと思っていたもののことまで考えざるを得なくなって、しかもその相手が兄さんになるかもしれないという青天の霹靂で……。
初恋は幼少の頃会った竜だという私にとってみれば、完全に容量オーバーの状態だ。頭がパンクしてしまっても、こればっかりは致し方ないといえるだろう。
気がついたら、私は森の中にいた。
見覚えがある。あの日、竜に出会った森の中だ。
私の手は直近の記憶にあったものより小さく、また、服装もレースカーディガンにヒラヒラのスカート。小花柄のこのスカートは、幼い頃私が好んでよく履いていたものだ。
すぐに分かった、私は夢を見ているのだと。
だとしたら、と私は心臓が高鳴った。
もしもこれが夢なのだとしたら、あの竜に再び会えるかもしれない。そう思ったからだ。
森の奥へ奥へ、はやる気持ちを抑えながら、私は駆け足で進んで行った。
「ティナ……どこにいる? 帰っておいでティナ――」
背後から、兄さんの声がした。
「僕も父さんも母さんも、みんなティナのことを心配しているよ――」
振り返ると、何本もの手が伸びて来ていた。顔や体は見えない。まるで「手」だけが意思を持っているように、私を絡め取ろうと追ってきていた。
「ティナ、おうちに帰ろう? 暖かい、僕らのおうちへ――」
「嫌……っ! 私は、帰りたくない!」
それからは、もう振り返ることをやめた。一心不乱に前を向き、短い足を必死に前後に動かした。
「あっ」
何かにぶつかり、私は立ち止まった。
硬いが、わずかに弾力も温もりある、謎の――
「あなたは!」
あの時の竜だった。
「ずっと会いたかった。これまで長く生きてきたのに、この十数年、たった十数年が幾千光年にも感じた」
喉をゴロゴロ鳴らしている。まるで猫のよう。
「ティナ、約束を忘れたのか?」
「約束?」
「私はティナが成長するのを、こんなにも首を長くして待っていたというのに。ティナ、私を独りにしないでくれ」
独りにする、とは、一体どういうことなのか。
「独りは寂しい……凍えてしまいそうだ……長い生などいらない、私はただ、温もりが欲しいだけなんだ」
「ねえ、前に会った時に聞きそびれてしまったのだけど……あなたの名前はなんというの?」
「私は――」
竜が翼を広げた。半透明の飛膜が、骨の間にピンと張られる。
「私を独りにしないでくれ」
そう言って、大きな翼で私を抱え込んだ。
「ティナ、私の、半身――」
「半身……私が、あなたの? それはどういう――」
「……ティナ?」
随分とはっきり、私を呼ぶ声がした。目を開けると、眼鏡が見えた。
「寝ぼけてる? ティナ、大丈夫?」
そばかすの散らかった頰に、一筋垂れるのは赤い髪。
「あ……デンゼルさん」
「様子を見に来たのよ。ヴィルヘルム博士が心配してたし……ほら、あなたは博士のお気に入りだから」
「お気に入りって、そんな」
私はゆっくり体を起こした。
まだ少し目眩がするが、動けないほどではない。何か口にすれば、すぐにでも回復するだろう。
掛けて貰ったタオルケットを畳んでいると、デンゼルさんが言いにくそうに口を開く。
「まあ……その件に関してはこちらが悪かったわ。謝る気はないけど」
「その件? 謝る?」
「いいのよ、別に」
なんのことか、私にはわからない。でも、詳細はぼかされた。
実はあまり会いたくなかった。
よく分からないプロポーズをされていたし、それにしたって博物館でのしおらしい態度と赤い顔と額へのキスには多大なる戸惑いを覚えさせられたし、更に、博士の知るところではないけど、兄さんからまさかのプロポーズを受けてしまったし。
どちらを選ぶとか選ばないとかじゃない。昨日の今日だ、まだそこまで頭の中を整理できていない。
結婚なんてイベントは私には無関係だと思っていたから、知識も何も身につけていない。ミミに相談できれば一番なのだが、兄さんが彼女の想い人であるという点が障害となって、私は彼女に相談できないままでいる。
兄さんの件は確実にキッパリと断る必要があるだろう。
しかしあの兄だ、何と言って断ればいいのか。
幼いころからつい最近まで一緒に暮らしてきた兄さん。彼は私の性格も熟知している。あれこれその場凌ぎの言い訳を並べ立てたとしても、きっと兄さんは騙されない。
では、どうしたらいいのか……。
というところで、どうしてかまたヴィル博士の顔が浮かんでしまう、残念で意味不明な私の脳よ。
博士に相談して何になる?
もしかしたら逆に燃えて、「私たちの仲を見せつけたら、君のお兄さんも諦めてくれるだろう」とか言い出して、私と博士の仲を進展させようと目論むかもしれない。
そもそも、彼は実年齢いくつなのだ。きっと相当な年の差があることは――あの見た目にも関わらず――違いない。両親よりも年上だったらどうしよう。見た目は若くとも、内臓年齢は外見だけでは判断できない。万一彼があの見た目で八十歳のおじいちゃんだった場合、平均寿命を超えているし、結婚したところで呆気なくポックリ死んでしまうのかもしれない。
博士と恋愛関係にあるわけではないので、別に彼に先立たれても「優秀な研究者を失ってしまった」と嘆く程度で、夫婦としての特別な感情が動かされるなどは考えられない。……って、まずこの「結婚したとしたら」という仮定も、随分とおかしな話だった。
博士がどうして私のことを気に入ってくれているのかが全くの不明である以上、彼の言うことをそのまま信じるのも難しいだろう。
もしかしたら私のように求婚している女性がたくさんいて、彼の富や名声に惹かれた女性を、道具のように扱っているのかもしれない。恐ろしい。
それに加えて、私が聞いてみたところで、彼が正直に話してくれるのかも疑問だ。「博士は私のことをどう利用しようと思っているのですか?」とストレートに聞いたとして、正直に答えてくれるだろうと考える方が間違っている。
ヴィル博士への対応については、きっと、「なにご冗談を抜かしてるんですか」とでも軽くあしらって、熱が冷めるまで放っておくのが一番良いだろう。むしろ、何も関わらず放っておきたい。
しかし、デンゼルさんもルノーさんも報告に行けと言うので、私は上階へ向かわざるを得なかった。そう、博士への報告である。
そもそも、医務室は体調の悪い職員や怪我を負った職員が簡易的な治療を受けるために設けられたものであり、利用者が直接所長へ報告などしなくても、直属の上司や医務室職員から報告が行くようになっている。
にも関わらず、私に限っては博士が心配していたからと、ある意味特別措置として、直接報告をすることになってしまったのだ。
チェリーウッド調の、光沢のある扉の前に立ち、私は願う。「どうか博士が不在でありますように」と。
コン、コン、コン、といつも通りのノックを三回。そのあとすぐ、「はい」と中から返事。
私の願いはかくもあっけなく砕け散った。
「予算報告は五時からのはずだ。査読の期限は明日だし、どちらにしろまだ早――」
机の上には書類の束が積み上げられていた。その上から一枚取り、さらっと読んでサインして、デスク横の「決裁済み」の箱に入れる、そして、また新たな書類を取ろうとして私にチラりと目を向けた。
「あ、あの、ティナ・バロウズです。お忙しいようなので、これで――」
「待て待て待て待て待て! 忙しくない! 全く!」
開けたばかりの扉から再び退出しようとしている私を、博士が必死に止めにかかる。
驚くほどの身のこなしであっという間に私との距離を詰め、扉をバタンと閉められてしまった。そのあと「カチャン」と鍵のかかる音もした気がするけれど、私の思い違いであって欲しい。
「私の最愛の妻が倒れたと聞いて、気が気じゃなかった。歩いてここまで来られたということは、少しは良くなったという理解で正しい?」
「……妻なんかじゃないですけど、おかげさまで、落ち着きました。博士にもご心配をお掛けしました。申し訳ありません」
私という存在の認識に対する誤りは極力サラリと訂正を加え、早急にこの場を去るために、手っ取り早く謝罪を伝える。
「過労? 寝不足? 食事は摂れている?」
「問題ありません」
正直に答えるならば、過労状態だし寝不足だし食事もまともに摂れていません、となるところだったが、私ははぐらかした。
「問題がなかったら倒れたりしなかっただろう」
「たまたまです。でももう治りましたから、これ以上のご心配には及びません」
私のすぐ目の前にはヴィル博士。腕を組み、静かに私を見下ろしている。
どうあっても口を開こうとしない私に対し、どうしたものかと考えあぐねているようだ。と逃げ切りを確信する一歩手前で、博士の口の端が僅かに上がった。
「そう言えば今日も、いつもは通らない道を気分転換に歩いてみたんだが、とても美味しそうなケーキを見つけてね。君にどうかと思って購入したんだが……しょうがないか、ティナは早くここから下がりたいようだし、他の者にでも差し上げよう。……ガディバの一日二十個限定、ラズベリーショコラムースケーキ――」
「頂きますっ!」
釣られたと言われても反論のしようがないほど、私はまんまと釣られてしまった。
ガディバは老舗のチョコレート専門菓子の店で、滑らかな舌触り、芳醇なカカオの香り、そして顧客を飽きさせない季節ごとの新商品で、価格帯としては高めだが人足が絶えない人気の店となっている。季節限定商品はもちろんのこと、日に◯個限定! としている商品なども、開店して数時間、早ければ数十分で売り切れてしまうこともある。
お砂糖は人間が生きるうえで最も重要な栄養素であり、三食甘いケーキでもいいと考えているほどの甘いもの好きの私が、その店のことを知らないわけがない。
しかし、夕方にはその日の商品が全て売り切れてしまう店なので、仕事帰りにはいつも閉まっていた。今回博士が買ってきたというケーキは季節商品のうえ一日の生産数もかなり少なく、開店前から並ばなければ手にいれることは困難、とまで言われている超人気商品だった。
つまり、博士の言うとおり、たまたま店の前を通りかかった程度の心構えで、フラリと立ち寄って購入できるような代物ではないのだ。
「博士、あの、これ……」
もしかして、私のために並んで買ってきて下さったんですか?
「どうした? もしかして、嫌いだった?」
「いえ、大好きです! ご馳走になりますっ!」
――聞けなかった。
まず、今日私がこうして博士のところへ来ることになったのは、偶然の出来事だった。偶然にも職場で倒れてしまって、偶然それを博士が耳にして――あるいはちょうどその場で目撃していて――、偶然大したことなくてその日のうちに回復して……。
「博士は召し上がらないんですか?」
「実はこう見えて、チョコレートが食べられないんだ。カカオに含まれるテオブロミンのせいで中毒症状を起こしてしまう。重篤な症状には至らないが、抑うつや興奮状態に陥ることがある」
「あなたは犬ですか」
先日のケーキも、似たような理由で食べていなかった気がする。
私の体調不良がなかったとしても、所長権限で仕事中の私を呼び一緒に食べようと持ちかけることはできるけれど、でも。
「妻の喜ぶ顔を見たいというのが、そんなに不思議な感情かな?」
眉間にしわを寄せ考え込む私に、博士が余裕たっぷりに言い放った。
「いえ、まず、私たちは婚姻関係にありませんので、私はあなたの『妻』ではないですし」
「そうかな?」
「そうです」
おなじみの堂々巡りになりそうだったので、手早く私は「頂きます」と言って、ケーキにフォークを突き立てた。
チョコレートでコーティングしてある半球状のそれは、上に二つ、ラズベリーとミントの葉、それに金箔が乗っていた。フォークを横に持ってゆっくりケーキを割っていくと、中からはピンクと茶色の二層のムースが現れて、上部からは真っ赤なラズベリーソースがたらりと断面を伝っていった。
ひと口パクリと口に運べば、ほろ苦いチョコと甘酸っぱいラズベリーが複雑に絡み合ってとても上品な味を作り出している。
「う……こ、これは……美味しい……美味しすぎ……」
コーティングチョコレートは滑らかで、下の上で簡単に溶け、ムースの中の気泡が潰れる音が、口の中いっぱいに広がる。
こんな天国の食べ物を、勤務時間中に貪っていていいのだろうか。なんて罪深い所業なのだ。
「ティナ」
「はい」
「美味しい?」
「はい」
「気に入った?」
「はい」
ほっぺたが落ちそうだ。いや、もう落ちてもいい。
幸せすぎて辛いです。
「私との結婚も受け入れる気になった?」
「無理です」
しかし、ケーキと結婚は全くもって別の話だ。
「そもそも、ヴィル博士、あなたは今おいくつなんですか?」
私は博士に反撃を試みた。
黙っておけば素晴らしい研究者、もちろん容姿も文句なし。
でも、実年齢五十だとか六十だとかのおじいちゃんと結婚するつもりはないのだ。
「言うとびっくりするからまだ言わない」
「びっくりって、どっちの意味で?」
「どっちだと思う?」
ちょっとは動揺してくれるかと思いきや、逆に言葉遊びを楽しんでいる様子。
むしろこっちが苛っとさせられるだなんて。
「……博士って、意外と面倒臭い方なんですね」
「ティナとの会話を楽しんでいるんだよ」
実際、博士は本当に楽しそうに見える。私との温度差が激しい。
「どうして私なんです?」
彼を瞳に映しているのが癪になって来た。まだ少し残ったケーキに目を落とし、私が一番知りたいことを聞いてみた。
「君に決めていたから」
「決めた? いつ? どうして?」
「話をして、決めたんだよ。君のことを信じてみたくなったから」
「信じてみたく? それはどういう意味ですか?」
「言葉通りの意味だよ。純粋で、ひたむきなさまを見せられたから、私に対しても同じでいてくれると思ったんだ」
博士の言葉はまだ読みきれない部分もあったが、それでも、私を利用することは考えていないのではないか。と、なんとなく思えてきた。
同時に、熱を帯び始める私の頰。
「私のどこが良いんですか?」
自惚れかもしれない。
でも、今の勢いがあれば聞ける気がしたのだ。
「全て。……身も、心も。全て欲しい。早く蜜月になりたい」
チラリと博士を窺うと、向かいのソファに座ったまま、じっと私を見つめていた。決して、私をからかう表情ではない。とても真摯で、疑う余地のない表情。
かああと照れる。
もしかしたら、愛情表現が下手なだけで、実は最初から真摯に私を好いていてくれたのではないかと。
顔に血が集まる速度が、急に速くなってきた。あっという間に耳から火が出そうなくらい、熱くなった。
「ど、どうして博士はあんなに鼻血が出るんですか」
クールダウンのため、私は咄嗟に全く関係のない話を振ってみる。
「ああ、あれはね、君に触れると狂いそうなくらい嬉しすぎてつい過剰に興奮してしまうんだ。こうして毎日会えるだけでも嬉しいのに、接触も可能だというのは、長い独り身の時間を耐えて来た私には幸福を超えて毒になってしまうのかもしれない」
どの程度、信ぴょう性のある話なのか分からない。
「そもそも私は触れることを許していないんですが……。博士の体の健康のため、もう私に触れない方がよろしいんじゃないですか?」
「体重の二十%までなら、短時間に出血しても生命の維持には問題ない」
「……そういうところ、直したほうがいいと思いますけど」
無駄に理系なんだから。
呆れる私に、博士は意に介さないように楽しそうに笑った。
「ティナ」
「なんでしょう」
「君は実に興味深いよ。色々な表情を見せてくれるのが嬉しい」
完食まで、あと少し。
もはやケーキの味なんて、わからなくなってしまっていた。
「あの、本当に……もう大丈夫です。ケーキもたいへんご馳走さまでした。ありがとうございました」
いい加減、帰らなくては。
ケーキを食べ終わったあと、私はすぐに席を立った。
「君のことを、私は夫として――」
「違いますけど」
「……として心配している側面もあるが、単なる施設長として、部下の体調を気にかけているという面もある。私は研究員たちの精神面・身体面の健康についても気を配らなければならない立場だ。何か心配事等があるなら、遠慮なく相談して欲しい」
「ありがとうございます。心配事……あると言えば大ありなんですけど、なにぶんプライベートなことなので」
だからヴィル博士には相談できません。
そういう文脈だったはずが、気づいた時にはすでに博士の目が爛々と輝いていた。
「口外しない。君の評定にも影響しない。君の心配事とはどういうものなのだろうか、言ってみたまえ」
口を滑らした私も悪い。
どうせこのまま口をつぐんでも、あれこれとしつこく詮索されてしまうのだろう。
半ば自暴自棄になった私は観念して、現状を博士に打ち明けることにした。
「先日、私はバロウズ家の養子であり、兄の結婚相手として引き取ったのだと兄から打ち明けられまして。だから、今の職を捨てて結婚しようと言われてしまって……」
「それはいけない。ティナは私の妻なのだから、横取りしようなどと目論むのは許せない」
違うんですけど。
「当然、ティナは断ったんだろう?」
「断りましたが、納得してもらえてはいません。次の週末、良い返事を聞かせてくれと」
「そうか。それは、君の夫として、上司として、およそ受け入れられない提案だ」
「夫じゃないですけどね」
博士の声は冷静だった。しかし、その表情はもしかしたら怒り憤りに打ち震えているのかもしれない。
私はこっそり視線を上げて、博士の顔を盗み見た。
「あれ!?」
博士はなぜか、満面の笑みを浮かべていた。
「ティナ、最終確認だが、君はその話を受ける気はないんだね?」
「は、はい。私にとって血のつながり関係なく、兄は兄ですし、せっかく入ったルルイエも、志半ばで退職なんてしたくありませんし」
「わかった。では、夫の私が力になろう」
「だから、もう…………。力になる、とは?」
「兄上が再び訪ねてきたら、『もう決めた人がいる』と言って、私の名を出すんだ。すでに非公式だが婚約もしていて、近々両親に会いにいく予定だった、と。もしも信じてもらえないようなら、私が同席してもいいし、なんなら既成事実を早急に作ってしまっても構わない」
考えていなかった展開ではない。
けど、実際その展開を迎えてみて、これはこれで相当厄介だと感じている。
「いえ、既成事実は不要ですし、博士にそこまでして頂く必要はありません」
「では、君一人で解決できると?」
「それは……」
いいよどむ私に、博士は「視点を変えよう」と。
「研究員を一人雇用する場合、新たに備品を用意したり、諸々の手配などで金がかかるのはティナも想像に難しくないだろう。さらに中途採用でなく新規採用の場合だと、ある程度の教育を施さなければ使い物にならない。にも関わらず、給金というのはいくらポンコツでも雇用時点から支払い続けなければならない。ここまで、私が言っていることは理解できるね?」
「は、はい」
「一般に、新規採用を行なって、企業として初期投資分の元が取れるようになるまで、四年から五年かかると言われている。ティナ、君はここで働き始めて、今どれだけの期間が経過した?」
「は、半年と少し、です……」
「つまり、今君がここを辞めてしまったら、ルルイエ幻獣研究所の被る損失は?」
「大きい、と」
「ご名答」
つ、つらい……。
「ティナ、私は既に君とは婚姻関係にあるも同然だと考えているが、それを今、強要するつもりはない。ともに暮らすのも一夜をともにするのも、ティナの心の準備が出来るまで待つつもりだ。だから、君の両親と本当にお会いすることになったとしても、具体的な話をしようとは考えていない。『そのうち』『落ち着いたら』と、いくらでも先延ばしにすることは可能だと思っている」
確かに。
「博士は、取り敢えず、私の恋人のふりをして、兄が諦めるのを手伝ってくださるということですよね?」
「その通り」
「本当に、単なる『フリ』なんですよね!?」
「もちろん」
いくら考えてみても、残り時間が限られている中では、これ以上の策は見つからない。私は覚悟を決め、最後の言葉を絞り出す。
「……お願い、します」
「よし!」
博士が私の手を取った。
「ではティナ、私たちは晴れて恋人同士だな!」
「はい、まぁ……」
「『夫婦』ではないことに若干の不満もなくはないが、ティナの口から肯定の言葉が聞けて嬉しいよ!」
「そんなことより博士、また鼻血が垂れてますけど」
「なあに、かえって健康になる」
「なりません」
この時博士は「『偽装恋人』から入ったとしても、少しずつあんなことやこんなことを『恋人なら当然のこと』と言ってティナにさせていけばいいだろう。そのうちティナがどこかおかしいと気づいたとしても、その頃にはとっくに後戻りできないように外堀を固めて溺愛して相思相愛にしてしまえば、きっとティナも私のことを受け入れざるを得なくなろうだろう」と腹黒いことを考えていたようだ。
なぜ私が博士の頭の中を覗き見したかのように知っているのかと言ったら、鼻血とともに博士から心の声がダダ漏れになっていたからだ。
気をつけて、いつでも後戻りできる位置で踏みとどまっておかなければ。私はそう強く意識した。
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