6 話はどんどん複雑な方へ
あっという間に、兄さんが再来する約束の休日がやってきた。
その日ばかりは兄さんがいつ来てもよいように早起きし、薄く化粧も施した。また「仕事が忙しすぎるのではないか」などと言われないように、血色よく見せるためにチークだけは念入りに――もちろん浮かない程度に――重ねた。
兄さんは逆上して声を荒げたりするような性質ではないが、それでも神経が高ぶった時に鎮静させる意図を込めて、紅茶にあわせて一口サイズのクッキーも用意しておく。もちろん、効果の有無は定かではない。
服装は、興奮を誘う赤色は避け、心を安定させる青色を基調としたワンピースを選択。髪は後頭部でまとめあげ、服とお揃いのリボンをつけた。
「兄さん……いらっしゃい」
「やあ、ティナ。先週ぶり」
ドアノッカーの音が響き、私は玄関扉を開けた。もちろん、そこに立っているのは兄さん。
気まずい空気の中、私は彼を招き入れた。
先週と同じく食卓テーブルの椅子に座ってもらって、紅茶ポットにお湯を注ぐ。その間、「今日はちゃんと起きていてくれたんだね」「普段はちゃんと起きているの。先週が珍しかっただけ」などと会話をしながら。
「それで、先週の話の続きだけど」
紅茶を淹れて差し出してすぐ、兄さんは本題に入った。
「家に戻る決心はついた? 仕事についても、職場の人に退職の話をしたりしたかな?」
覚悟はしていたものの、こんなに唐突では心の準備も何もあったもんじゃない。
とは思いつつも、のらりくらりといつまでもかわし続けてもいられない。私はゴクリと唾を飲み込み、兄さんの顔をじっと見つめた。
「兄さん、私、やっぱりあの家には戻れない」
「どうして?」
表情をピクリとも変えない。
「いくら血がつながっていなかったとしても、やっぱり私にとって兄さんは兄さんだから、異性としてなんてどうしても見られない」
「今すぐに、というわけじゃない。結婚だって、まずは婚約して準備諸々を整えてからでなければ、結婚式だって催せないわけだし」
つい、ヴィル博士の顔が頭に浮かんだ。
彼は「結婚しよう、すぐしよう、さあしよう!」だったのに、兄ときたらその真逆だ。
「仕事だって、一生懸命勉強して、きっと運も後押ししてくれて、それでようやく入れた狭き門なの。私は元々結婚なんてしなくてもいいと思ってた。だから、兄さんには悪いけど、研究職と家庭を両立できないのであれば、その結婚に私は価値を見出せない」
「それは困った。非常に困ったなあ」
兄さんが動揺している顔など、実は今まで見たことがない。今日この時も、「困った」と言いながら、いつものあっけらかんとした表情で、紅茶を二口、三口すすっているのだ。
「君が幼い頃から、僕はずっとティナだけを見て来た。ティナもそうやって、僕を見てくれていたと思ったんだけど」
「そりゃ、兄さんにはたくさん感謝もしているわ。だけど、感謝しているからと言って、結婚するしないを決めるのはおかしいと思う」
「ティナは何も知らない。知らないから、そんな甘いことが言えるんだよ」
「甘い? 私が……甘いのかな」
「そうだよ。ティナは世界の醜さを知らない。昏いところを見たことがないからね。いいんだ。ティナは今のまま、何も知らないで僕に守られていればいい。だから、これ以上の我が儘はやめて――」
「こっ恋人がいるの!」
これ以上は無理だと思った。
兄さんはなんとしてでも私を連れて帰る気だと悟ったのだ。
世界の醜さ? 昏いところ? 何も知らず守られていればいい?
――私にはできない。私はこれでも探求者の端くれだ。無知でいいとは思わないし、誰かに守られたままでいいとも思わない。
自立したい。
知りたい。
世界を感じたい。
きっと兄さんには理解してもらえないだろう。兄さんは女性の社会進出を否定してはいないけれど、私が社会に出ることを、手放しに「良し」とは思っていないのだ。
私が「こう思う」と主張したところで、それが兄さんの主張と相反する考えの場合、自分が一番正しいと思ってちっとも疑わない兄さんには、どうしたって納得できないはずだ。
正直言って、兄さんの理解を得ることは困難。
だったら、私は別の方法で兄さんを納得させざるをえない。
「恋人? ティナに?」
「そ、そうよ。もう結婚の話も出ているの」
「……誰?」
「ヴィルヘルム・フロイデンベルクという男性。」
どうして博士はこうもかた苦しい名前なのだろうか。せめてファーストネームだけでも、「トム」とか「ジャック」とか、簡潔な名前だったなら紹介するのも楽だっただろうに。
そして兄さんもこの個性的な名前にはピンと来たのか、今日初めて彼の眉がぴくりと動いた。
「もしかして、ティナが以前尊敬していると言っていた……」
「ええ、そうよ。私の職場の所長でもある人。……偶然、そういう関係になって」
「その男はいくつなの? 高名な研究者なんだろう、相当な年上なんじゃないのかい?」
「驚くほど年上じゃないわ。ちょっとだけよ。見た目も若いし」
年齢については、実は今も定かではない。はぐらかされたままである。もしかしたら兄さんの言うとおり驚くほど年上なのかもしれない――その線が濃厚だと思っている――が、兄に対してはこうやってごまかすほかに術(すべ)がない。
「上司と部下という立場を利用して、無理やりティナに関係を強いたわけではなく?」
「もちろん。同意あってのことよ」
「愛人関係でもなくて?」
「疑うのなら、彼を兄さんの前に連れてきてもいい。お母さまとお父さまに会っていただいてもいいわ」
「……そうか」
兄が目を伏せた。口元に手を当て、何やら考え込んでいる。
政略結婚もなくはないが、自由恋愛が推奨されだした世の中、いくら兄さんだといっても、私と博士の仲を引き裂こうとする――語弊があるが――権利はないはずだ。それに、下世話な視点だけれども、博士は家柄も収入も外見も何ら問題なく、研究者としては第一線を走り続ける優れた人物である。口を開けば問題発言も飛び出すが、白衣を着せて黙って立たせておくだけで、周囲が絶賛してくれるような人なのだ。
私なんかと結婚しなくても、きっと引く手数多の男性。そういうわけで兄さんも、家族として、ヴィル博士との縁談を断る理由もそう思い当たらないはずだ。
「そう来るとは思わなかった」
兄が席を立った。
「出直すよ。考えなければならないことが増えたからね」
考えなければならないこと? なんだろう、私と博士の結婚について? 博士の身辺調査でもするというのか。
「あっ、兄さん、紅茶とクッキーは――」
「いらない」
じゃあねと言って、兄はすぐに帰ってしまった。
* * *
こうして私の絶体絶命の危機は過ぎ去り、私はひとまず今の位置にいることを猶予された。
しかしながら、兄さんは「また来る」と言っていた。次はいつ来るのだろうか。 そして、来て、なんというつもりなのだろうか。
私のことを諦めておらず、また新たな策を持って来たなど言われたら気分も滅入ってしまうだろうが、そうでなくて博士との結婚についての話を進めようという話でも、それはそれで滅入ってしまう。
「あれ、この子、元気がないなあ」
目の前には、動きの悪いズラトロク。
ズラトロクとは、第三級に属する幻獣で、元々は高山地帯に生息している中型の幻獣だ。金色の角を持ち、穏やかで、ポニーよりもやや小さいその姿はとても可愛らしいので、愛玩用として乱獲されたり、あるいはその角を高値で売りさばこうとする密猟者の手により、個体数を大きく減らしている。
絶滅危惧種に指定されているため、ルルイエでも数体を飼育し繁殖させようと試みているところだ。
いつもなら、餌箱に餌を入れたらすぐに寄ってきて食べ出すのだが、今日に限っては食いつきが悪い。昨日の夕方、老衰による肺炎で一頭が天に召されてしまったので、感染の可能性も考えた。
しかし、平熱で、呼吸の状態も排泄物の状態も悪くない。そこから判断するならば、おそらく原因は他にあると推測される。
「おはよう。今日も早いな」
集中しているところに背後から声を掛けないでいただきたい。博士の声は耳に心地よく響く低い声で、おかしな方向に強引な性格とは対照的に私が気に入っているところではあるが、音もなく近寄って、耳元で急に……というのは、私の心臓に悪すぎる。
「……おはようございます」
不機嫌なさまを隠しもせず挨拶を返すが、博士は気にせずニコリと笑う。
昨日は兄さんが来て、結局博士の名前も出してしまった。一応お礼を言うべきか、今後何か兄側から反応があるかもしれないことと、もしかしたら博士にも何らかの迷惑がかかるかもしれないことを伝えておいた方がいいのか、私は逡巡した。
「どうした? ズラトロクに何か変わったことでもあった?」
「あ、えと……」
そうだった、失敗。
博士はここの施設所長で研究者だ。私との「どうこう」の前に、今は勤務時間中だし、まずは目の前の異変を伝えるべきだった。
「今日はなんだか元気がないみたいなんです。その原因がわからなくて。餌の構成も産地も昨日までと同じですし、病気にかかっているわけでもなさそうですし……」
「なんだ、そんなことか」
博士は手前の一頭の頰を撫でながら、あっさり言う。
「仲間の死を悼んでいるのさ」
「仲間の死を……悼む? この子たちが? でも、万一そんな感情があったとしても、昨日死んだ一頭は、病気が発覚してからすぐに別の檻に隔離されたから、ここにいる彼らはその子が死んだことを知らないのでは……」
「幻獣には、まだ人間の言葉と知識では説明できない部分がある。あるのかないのか分からない、人間でいう『第六感』が、彼らには当たり前に備わっているんだよ。それに彼らは寂しがりやだし」
人間の言葉と知識では説明できない部分。それを説明できるようにするのが、私たちの仕事。
博士が研究している姿を私は今まで見たことがない。だけど、彼の論文にずっと前から触れて来た私にとって、彼はやはり憧れの研究者であり、優秀な研究者なのである。
「科学的には証明されていないが、実は幻獣たちは、人間の言葉も理解しているんだ。反応するかしないかは、彼らの意思によるところだというだけ。わかりやすい例で言えば、第四級の君が世話している妖精のエサースロン。彼らは困っている人間を助けてくれるだろう? あれなんか、人語が分からなければ手伝えるはずもないからね」
博士は竜研究の第一人者だが、最近ではその他の幻獣についての論文も発表する機会が増えた。今、彼が何の研究をしているのかは私は知る身ではないけれど、それでも、この豊富な知識はやはり単純にすごいと感嘆してしまう。
「それで昨日、兄上は来たのかな?」
感嘆してしまうけども、急に話題を変えるのはやめてほしい。注文が多いと言われようが、心臓に悪いことは確かだ。
「はい、来ました」
「撃退できた?」
「一応は。対応を考えて出直す、とは言っていましたけど」
「そうか、君の兄上もしぶといねえ」
博士は白い歯を出して快活に笑う。
「でも……ありがとうございました。助かりました」
「いいよ。兄上が私に会いたいと言うなら、喜んでお会いするし、なんならご両親にでも」
「そこまでは、ちょっと。できたらそうなる前のところで、何とか兄に諦めさせることができれば」
「頃合いを見計らって、その……あまり、いや、全くもって私の本意ではないが、ティナが嫌で嫌で仕方ないと言うのなら、我々の仲が……取り敢えず……は、は、破局したということにしてもいいし……本当は全く、全くよくないのだが!」
博士が凹んでいるところを、私は初めて見たかもしれない。
ただの絵空事なのに、水色の透き通った瞳も虚ろになって、何歳も老けたように顔色が土みたいな色になって。
普段は常に自信満々の笑みを浮かべているような人なのに、クルクル表情を変える様を目の当たりにして、私は笑わずにいられなかった。
「……笑うなよ」
ちょっとだけ照れ臭そうにしているのを見ると、いつも手のひらで転がされている身としては、胸がすく思いである。
「いや、笑ってくれて結構。どちらにしろ、私はティナの笑っている顔が好きなんだ」
……待って。
卑怯だ。
やめて欲しい。
口説き文句なんか知らない、恋愛初心者のくせに。――って、それは私も同じだけど。
とどめに、博士の手が伸びて来て、私の頭をポンポンと撫でた。
違う、違うから。
博士にドキドキするなんて、絶対。
「は、博士!」
では、と立ち去ろうとする博士の背に向かって、私は精一杯呼び止めた。
震える膝を叱咤しながら追いかけて、私の顔は紅潮していただろうけど、気にせず博士をまくし立てる。
「あの、ズラトロクの件! 第六感の……そういうのが備わっているということについて、または寂しがりやであるという点について、博士が仰った内容は、私が知っている書籍ではこれまでに見たことがありません。もしよければ、博士が覚えていらっしゃるなら、ぜひ出典を教えて欲しいのですがっ!」
「出典? ないよ、そんなもの」
「え? ない……?」
ないとはどういうことだろうか?
博士の単なる思い込みなのか、それとも、今まさに論文としてまとめている最中なのか――
質問を頭の中で整理している中、先に言葉を発したのは博士だった。
「竜はもっと寂しがりやだ。ズラトロクよりも、ずっと」
「……え?」
「骨格標本としてその姿を晒されている彼は、番(つがい)と引き離されて、どれだけの寂しさを味わったのだろうか。番の方だって、愛する彼が捕らわれて、独りにされ……。せっかくの番がいたにも関わらず、別々の地で死んでしまった。幸せには程遠い最期だったろうね」
「ヴィル博士?」
「竜は寂しがりやで、愚かで、世界のことは誰よりも知っているくせに、自分が何者かを知らない。個体数も少ないから、仲間にもなかなか会えない。だから、番を欲する。番を得たら、病的なまでに番に依存する。そして番が死んだら寂しさに耐えきれずあとを追うし、後追いせずとも遠くない未来に番も事切れるように、彼らはお互いを血で縛るんだ。最も下らないところは、それがどれだけ愚かなことであるか分かっていながらも、それでもその欲には抗えないというところ、か」
「博士、それは――」
遠い目をしている。
ヴィル博士は何を考えているのか。
これまでに何を見てきて、何を知ってきたのだろうか。
「何でもない。忘れてくれて構わない」
そんなことを言われても、忘れられるわけがない。謎があれば気になってしまう。
「ティナ」
「はい?」
「もし、私の正体は竜だと言ったらどうする?」
……え?
博士が、竜?
「私が幼き日の君と会ったことのある竜だと、君の初恋の相手の竜だと言ったらどうする?」
……本当に?
今の所長は人間の姿をしている。でも、竜は人間の姿に「擬態」できるのだと、博士は言っていた。もしや、あれは研究の結果判明した事実なのではなく、己の実体験に基づくことだったとしたら――
博士がぷっと吹き出した。
「冗談だよ」
「……は? じょ、冗談!?」
「ティナは人を信じすぎるところがある。もっと疑ってかかることを覚えなさい」
もっと疑え、と?
何を? 博士のことを? どこから?
まだ私が知らなかった竜の生態について、博士が教えてくれたのはいつのことだったか。もしかして、あの時の話も博士の戯言だったのだろうか?
……つまり、私は、からかわれた……?
「はか――」
博士はすでに、私の前から去っていた。
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