7 ミミの恋
ここのところお互い忙しく、なかなか宅飲みすら開催できずにいたミミと、久しぶりに連絡がついた。
「ティナに伝えたいことがあるの」
そう言って私を外食に誘うミミは、以前よりもやけに上機嫌だった。早速私はその日の夜、ミミとディナーがてら会うことに。
そわそわしながらお手頃価格のコース料理を頼み、ぶどう酒が届くのを待ってから二人で乾杯を交わした。
「あのね、聞いてティナ!」
ひと口飲んだだけのグラスを置いて、前のめりでミミが堰を切ったように話しだした。
よっぽど話したくてたまらなかったのだろう。
「私、ついに恋が叶ったの!」
「へえ、良かったじゃない。おめでとう。で、お相手は?」
ミミは長い間、私の兄であるフレデリック・バロウズに懸想していた。「恋が叶った」と聞いて、私もまっさきに兄さんの顔を思い浮かべたが、多分違うとすぐに打ち消した。
だって、兄さんはつい先日、私のことを「愛している」とか「結婚しよう」とか言っていたのだ。その兄が私をきっぱり諦めて――私としては好都合だけど――ミミのところへ行ったというのは、可能性としてあるにはあるが、あまりにも現実的ではない気がしたのだ。
また、兄さんのことは「兄」としては好きなのだ。だから、好きだと言われてホイホイ付いていくような兄さんではないと、信じたかったというのもある。
きっと、違う。そう、兄さんは無関係のはず!
「何言ってるの、お相手はもちろんフレッドよ。フレドリック・バロウズ。あなたのお兄さまに決まってるじゃない!」
そして、私の願いは容赦なく捨てられてしまった。
「え、に、兄さんなの……? 兄さんと、ミミが? 本当に?」
「疑いすぎよ、失礼ね! これまでもちょくちょく連絡のやり取りをしたり、時間が合えば直接会ったりしていたけど……ついに先日、旅行に行かないかって誘われて、そこで私たち、結ばれたの!」
私はどう反応していいのか分からなかった。ただ分かるのは、自分の顔から血の気が引いていく感覚。
兄さんとミミが本当に付き合っているのなら、私も口を挟むつもりはない。
けれど、正直、信じがたい。ミミが嘘を言っているとも思わないが。
兄さんは私のことを諦めてくれた?
それにしても、切り替えが早すぎないか?
何か裏があるのではないか?
兄さんは温厚で心が広いと思われている。確かにそれは間違っていないが、家族しか知らない一面を持っていることも確かだ。はっきりと言葉にすることは難しく、「悪い予感」程度にしか形容することが出来ないが、とにかく、手放しで祝福することが私にはどうしても出来なかった。
兄さんは優しく、面倒見がよい。幼い頃、病弱だった私を兄さんが守ってくれることでなんとか成長することができた、と思っている。
けれど、過保護だ。過保護すぎるのだ。
幼き日、私に石を投げて怪我をさせたあのいじめっ子も、私に竜の話をしてくれたあのいじめっ子も――私は感謝しているけど――、その後誰が仕掛けたか分からない狩猟用の仕掛けを踏んだりして散々な目に遭っている。
もちろん、兄の仕業だと断定するだけの証拠はどこにもなかった。しかし、母伝いにいじめっ子が怪我をしたと聞いた兄は、「それは大変だね」と言いながら……笑っていた気がする。
ミミに何か危害が及ばないか、私は心配だった。私のことで、ミミが利用されていたらどうしよう。ミミが後で深く傷つくことになったらどうしよう。
「妹のあなたとしては、惚気話を聞かされても……って感じかもしれないけど、今一番恋愛の楽しいところなんだから、聞いてよねっ!」
ミミと兄さん、二人が初めて会ったのは、ミミが学生時代のころ。
私がミミと出会って親しくなり、初めて自宅に招いた時だ。
「初めまして、ティナさんの学友のミミ・ゴルドフィンです」
「こちらこそ初めまして、ティナの兄のフレデリック・バロウズです。話は妹から聞いているよ。いつも妹と仲良くしてくれてありがとう」
姉御肌でクールなミミが、あんなに顔を赤らめたのを見たのは、後にも先にもあれが初めてだった。
テスト勉強を二人でするためにミミを家に招いたのに、兄さんについて根掘り葉掘り聞かれる始末で、結局大した勉強もできずにその日が終わってしまったっけ。
兄さんは確かに長身で見た目も良く、いつも穏やかに笑みを絶やさないので女性からの人気も高かった。そのため、妹の私に「お兄さんに渡して」と恋文を託されることも日常茶飯事だった。
女性の影を感じたことはなかったけれど、あれだけ引く手数多で、今すでに二十代も後半に差し掛かった男性である、女性経験の一人や二人は当然ながらあるはずだ。きっと、それを家族に隠すのがとても上手だったという話だろうと思っている。
兄さんは私の七つ上で、私が女学校にいる頃にはとっくに成人を済ませていた。
けれど、バロウズ家の嫡男なのでどこかよそで独り立ちするでもなく、ずっと実家暮らしで父さんの貿易の仕事を手伝っていた。だから、仕事で国外に用事があるとき以外は常に家にいたし、それを知ってミミも頻繁に私の家に来るようになった。兄は兄で私を気にかけてくれていたから――当時はもちろん「家族として」と思っていたけれど――、ミミと兄もほぼ毎回顔を合わせて言葉も交わしていたように思う。
「ねえティナ、あなたのお兄さん、結婚はまだしないのかしら」
「さあ、私は聞いたことないけど……恋人がいるって話も聞かないし」
「許嫁は?」
「いないと思う」
「じゃあ、私が名乗りを上げても問題ないよね!」
「ミミが?」
「もしも私がフレッドと結婚して、あなたの義理の姉になることになっても、ティナは反対しない?」
「反対するもなにも、妹の私が口を出すことじゃないし。ライバルは多いと思うけど、兄さんが誰を選んでも、私は受け入れるつもり。……って、随分早い話ね」
そんな会話もした記憶がある。確か、高等学校二年生のころだ。
ミミがあの後兄さんに想いを告げたのかどうかは、実のところ詳しく知らない。自分より年上の男性に対する単なる憧れだったのか、それとも、本当に運命的なものを感じたのか。
高等学校を卒業した後、私とミミは違う道を歩んだから、学生の頃と比較したら一緒にいる機会は減った。だから、ミミが私のいない間に兄さんと会ったりしていても、実家に遊びに行っていても、家族との連絡をあまり取ろうとしなかった私には気づくことなどできなかった。
もしも兄さんが私に変なことを言ってきたりしなかったのであれば、ミミの話ももっと嬉々として聞けただろう。けれど、あのこと――私へのプロポーズ――があった後に聞いてしまったのだから、素直に喜ぶことができないでいる。
「ティナ、どうしたの?」
ミミとしてはきっと私も驚き喜んでくれるだろうと思っていたのではなかろうか。私の反応がいまいちなので、不審に感じてしまったのだろう。
「ううん、なんでもない。……おめでとう」
「……本当に、おめでとうって思ってる?」
「思ってるよ」
ミミが疑っているが、理由を話せてしまうほど私だって愚かではない。
「なによ、もっと喜んでくれるかと思ってたのに。もしかして、ヴィルヘルム博士とうまくいってないの?」
口に含んだぶどう酒を危うく吹き出してしまうところだった。
「どどどっどうして、え、博士のこと!? なぜ今!?」
「知ってるわよ、最近あなたたち急接近してるって研究所でもチラホラ噂になっているし、フレッドからもそれとなく聞いたし」
私が関わらないようにしていても、向こうの方からやってくる。実際に彼に守ってもらったことも嘘ではないから、否定するのも難しい事実なのかもしれないけれど、内心、とても複雑だ。
そして、兄さん。ミミに話したのはどういう意図か。それとも、意図なんてないただの雑談だったのか。
「フレッドもびっくりしてたわよ、いきなりそんな相手がいるなんて知らされて。もっと早い段階で教えてくれるものだと思ってた、って嘆いてたわ」
「嘆いてた? ……それだけ?」
兄さんは前回私の元を訪れた時、「考えなければならないことが増えたから、出直す」と言っていた。「出直す」というのは、策を練って来るということではないのか。少なくとも私には、このまま私の言うまま、博士との結婚を許してくれる――するつもりもないけれど――とは思えない。
ミミがキョトンとしている。
「ずっとティナのこと子どもだと思っていたのに、いつの間にか恋人を作って、しかもその人と結婚の話までしてるなんて展開が早すぎて目眩がしそうって言ってたわ」
少しだけ妹に過保護な兄の発言であれば、何ら問題ないだろう。
しかし、相手はあのフレデリック・バロウズだ。何か隠しているのではないか。
そんな私の邪推とは反対に、ミミは愉快そうに私に質問を繰り出す。
「それで? いつから博士とそんな話になったの? やっぱり幻獣に襲われて怪我をしたのがきっかけ?」
ミミとはなんでも隠さずに話せる仲だが、博士から不思議なアプローチを受けていることは気が進まなくて話す気にはなれなかった。ただでさえ強引で気が滅入りそうになる人の話題である、プライベートでまで思い出したくはなかったのだ。
そして今、ミミは私と博士が本当の恋人同士だと思っている。以前にも増して話したくないが、ここでボロを出してしまえば、兄さんにも伝わってしまうかもしれない。
私は慎重に、言葉を選びながらミミの問い――私にとっては尋問のようなもの――に答えていく。
「そ、そうね。幻獣に襲われかけてたのを助けてもらってから、少しずつ話すようになって」
「博士はプライベートではどんな感じなの?」
「どんなって聞かれても……いつも研究所とか博物館で会う程度だから。私も博士も忙しくて」
「なに、つまり仕事中に逢瀬を重ねたっていうわけ?」
逢瀬、と言うほどのものではなかった。が、ここで否定するわけにはいかない。
何も言えずに私は「う……」と固まってしまったが、ミミはそれを肯定の意味だと受け取ったみたいだ。
「ティナ、あなたもやるわね……仕事サボってデートだなんて。……で? ヴィルヘルム博士のどこが良かったの? やっぱり顔?」
「どこって……え〜と……」
私と博士の関係は「偽装婚約者」なのだから、どこが良かったも何もない。けれど、「どこにも惹かれていない」なんて、馬鹿正直に言えるわけがない。
「や……優しいところかな」
当たり障りのない部分を挙げてみた。本当に優しいのかは正直なところわからない。でも、ミミには調べようもないはずだ。
「ほう、博士は優しいのね。仕事には厳しいけど、ティナに対しては優しい、と。年齢不詳、超絶美形で頭もピカイチの男性……私には別の世界の生き物にしか見えないのに」
「私もそれは思ってる」
年齢不詳、推定四十代ころだと思われるが、それにしたって外見は二十代か三十代前半。しかも筆舌尽くしがたいほどの美形。研究者としての知識量は宇宙ほどに深く広く、ただ、残念なことに性格がやや破綻気味。
常に自信に満ち溢れ、パリッとしたスーツと白衣に身を包んではいるものの、初対面も同然の女性に突然「結婚式はどこであげよう」などと言うというのは、頭がおかしいとしか思えない。しかも、断りの言葉は受け付けてもらえないのだからたちが悪すぎる。
かと思えば、突然思いつめた表情で何かを後悔しているようなことを呟くし……
まとめて言うと、ヴィルヘルム博士は、つかみどころがないのである。
「ヴィル博士自体、謎が多すぎる。私だって興味関心のある研究については最新の書籍や学会誌にも一通り目を通しているから、最新の学説だって一応頭には入れているつもりなのに、博士の知識はその上を行ってる。誰が出したどの論文にも書籍にも載っていない学説を、博士は平然と当たり前のように知っているの。博士が見つけて、まだどこにも発表していないことなのだろうとは思うけど、もしかしたら博士はどこにも発表するつもりがないのかもしれないとも思うし」
「……発表するつもりがない? なぜ?」
「私に聞かれても分からないよ。博士は幻獣のことを研究対象として以上に、とても大切に思っているみたいだから、彼には彼なりの考えがあるんでしょう」
博士は私を妻にしたいと言うくせに、研究や考えについては、あまり詳しく教えてくれない。そりゃ、博士にとっても仕事とプライベートは分けておきたいのだろけれど。
「へえ……。そういえばティナ、あなたが所属している研究室、何だか変わった薬を開発しているんですって? 他の研究室の人がちょっと噂していたのを耳にしたんだけど」
「うん、まだ未完成だけどね」
基本的に、それぞれの研究室の研究は、正式な発表までの間に所属が異なる研究者に詳細を教えたりはしないものだが、「どのような研究をしているか」くらいの、当たり障りのないものについては情報共有をすることもある。
だから医務室勤めのミミの耳にも入ってきたのだろう。
「幻獣の中には身を守るために体の色や姿形を自然の地形や他の動物なんかに合わせて擬態しているものもいるんだけど、そういう個体に投与すると元の姿に強制的に戻すことのできる薬なんだ」
「強制的に戻す? それで、戻すとどうなるの?」
「数年前、今まで個体数が少ないと思われていたある幻獣に擬態機能が備わっていたことが発見されたんだけど、もしかしたら『個体数が少ない』のではなく、『擬態しているから人間が見つけることができないでいる』のだとしたら、この薬で擬態状態を解除することにより、その幻獣の正確な生息数を把握できるようになるでしょう? そうすれば研究だって飛躍的に捗るでしょうし、新種発見にもつながるかもしれない」
ついつい熱が入ってしまったけれど、ミミは真面目に耳を傾けてくれていた。
「……と言っても、私はまだ新人だし、詳細について教えてもらったのも最近だから、同じ研究室とはいえ、私の功績ではないんだけどね」
「……へえ、なるほど。それはすごいじゃないの」
「そうなの! これも、ヴィル博士が私に対する嫌がらせに気づいてくれて、対処してくれたからであって――」
その晩、ミミに呼び出された私は、ミミののろけを聞くはずが、気づいたら熱く研究について語ってしまっていた。
* * *
誰かが廊下で話している。
「そういえばヴィルヘルム博士、また論文を発表したんだって?」
「聞きましたよ。でも、所長として施設運営をしたり、下の研究員の論文指導や査読もある中で、よく自分の研究も進めらますよね。スケジューリングどうしてるんだろう」
「秘書もつけず、すべて自分で管理しているとは聞いたが……睡眠時間を削っているんだろうか。でも、睡眠不足状態であの若さを保つことって相当難しいだろうし……足りてても俺には真似できないけど」
睡眠不足は老化を促進させるという。
もちろん、十分な睡眠がとれているとしても、それだけで常に若くいられるということにはならないが。
「でも、ヴィルヘルム博士の専門は竜研究なのに、どうして最近は違う幻獣の研究論文ばかり発表するんですかね? どっちにしろ、すごいことには変わりないんですけど」
「確かにここ十五年以上、竜研究の分野での新たな論文は出ていないよな。先日博士に聞いてみたんだけど、やんわりとはぐらかされてしまったんだ」
「……もう竜への興味が失せたんでしょうか?」
「いや、博士は一族ぐるみで竜研究に特化しているから、そんなはずはないだろう」
フロイデンベルク家は、数百年前に私財を投じてルルイエ幻獣研究所を創立した。それからずっと、竜研究を専門に取り扱ってきた。所属の研究者は竜だけでなくそのほかの幻獣の研究をする者も多いが、彼の一家だけは特に、ずっと竜研究にばかり執着していたはず。
「ほら、あの併設の博物館に展示されてる竜の解剖をしてからですよ。あの竜の解剖を主導して、論文をいくつか書いてから、すっぱり途絶えましたよね。……それでも、竜研究じゃなくてもすごいとは思うんですけど」
ティナは何も知らない。
ティナは何も気づいていない。
ばかな子。
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