8 再会



 あの日、会話を交わした竜。

 もう一度会いたい。


 その願いは、ある日唐突に叶えられることとなる――。




* * *




「おはようございまーす。さて、今日のみんなのご機嫌はいかが……」

 季節も緑が生い茂る、春まっさかりの頃になった。気温も少しずつ暖かくなり、昼には汗をかく気温の日も少しずつ増えてきた。

 日の出から間もない朝方はまだまだ冷え込みが厳しいが、それにしても幻獣たちの様子がいつもと違っておかしかった。

 小屋の隅に集まって、普段なら眠っている子もまだいる時間帯にも関わらず、どの子もギンギンに覚醒していた。

「どうしたの? ……ほら、餌やりに来たよ?」

 檻の隙間から手を入れてみても、一切近づこうとはしない。普段ならすぐに寄ってくるのに。

 そんな様子が、私が担当している幻獣はもちろんのこと、担当外の幻獣にも一貫してみられるではないか。餌か、気温か、……それとも、幻獣だけが感じ取れる「何か」か。いずれにしても、なにかあったに違いない。


「あっ! あの! すみません!」

 たまたま、餌やりに来ていた他の研究室の職員を見かけた。名前は知らないが、顔だけなら知っている。以前、日誌についてアドバイスを求めてきた人だ。私はすかさず声をかけた。

「おはようございます、私はコックス研究室の者なんですが……どうも今日、どの幻獣も様子がおかしいみたいで。何かあったかご存知ですか?」

「ああ、コックスさんのところのティナさんじゃないか。もちろん知ってるよ。昨夜、大物の幻獣が捕まったんだ」

「大物の、幻獣? それって何です?」

「あれ、ティナさん知らなかったの? 捕獲にあたって、君の研究室のルノーさんが大活躍したって聞いてるけど」

「ええっ、ルノーさんがですか!?」

 にわかには信じがたい。

 あのルノーさんが、活躍? しかも、大活躍?

 先輩に失礼な、とは思うものの、それが私の率直な感想なのだから仕方ない。

「それで、一体何を」

「いやあ、実に十九年ぶりだね。前回捕らえた時、俺はまだ学生だったから生きた状態では見たことがなかった。今回が初めてだ」

 十九年ぶりに捕らえた大物。

 まさか、と心臓の鼓動が早くなった。

 私は嬉しいのか、それとも悲しいのか。

「竜だよ、竜。大きな成体の竜だ。真っ白な鱗と青い目玉の、それはそれは綺麗な竜だった。無鉄砲な若い竜には見えなかったけど、そもそもどうしてあんな警戒心の塊みたいな幻獣が、簡単に人間の前に姿を現したのか……」

 真っ白な鱗と、青い目玉。

「その竜の影響が、他の幻獣にも出ているんだ。竜は『幻獣を統べる王』とも言われているし、直接会っていなくても、幻獣同士でなにか通じるところがあるんじゃないのかなあ。大将が捕らえられたことによって、何らかの共鳴現象が生じているんだろう」

「い……いま、どこに捕らえられているんですか?」

「実験棟の第三実験室だよ。麻酔薬がまだ効いているから、見に行っても安全だと思う。あんなに大きな体が収容できるところと言ったら、今も昔もあの部屋くらいしか――」

 最後まで聞かぬまま、私は走った。


 ルノーさんが竜を捕らえた? なぜ、ルノーさんが?

 大きな、綺麗な竜。白い鱗、青い目玉。

 もしかしたら、と思った。もしかしたら、私が幼い頃に出会った竜かもしれない、と思った。

 廊下では数人の研究員とすれ違った。こんな早朝から出勤してくる者など、普段は幻獣の世話を任されている者くらいしかいない。にも関わらず普段より研究所全体がざわついているということは、少なくとも、「大物を捕まえた」のが本当ということなのだろう。

 広い研究所施設を駆け、いくつかの扉前にいた警備員に身分証明書を見せ、そうして目当ての場所へたどり着いた。

 煉瓦と鉄骨で造られた、高い天井の広い部屋。太陽の光は窓に嵌められた分厚い鉄格子に遮断され、少し湿っぽく、カビの匂いもわずかに漂っている。

 基本的に、この実験室はその名の通り「実験」をするための部屋であって、幻獣を捕らえて飼育するための部屋ではない。だから、通常の生育環境としては適しておらず、仮住まいだとしても、きっとここに通された幻獣たちは一律不快な思いをしたことだろう。

 まだ私が幼い頃に捕らえられたという竜も、この部屋に連れてこられたのだろうか。

 竜ほどの巨体を収められる場所がここしかなかったからとはいえ、きっと最期の瞬間まで、辛い思いをしただろう。


 私は、竜が好きだ。

 けれど、辛い思いをさせたいわけではない。

 竜には自由であってほしい。広い空を自由に飛び回り、太陽の光を体いっぱいに受けて、鱗をキラキラと輝かせる。そんな暮らしを送ってほしい。

 研究も、湿っぽい部屋に生け捕りにして、苦痛を味あわせ切り刻みたいなど思っていない。野生の中で生きる竜に寄り添いながら、生きた竜の観察をしたいのに。



 そして私は、再会した。



 数人の研究者の隙間から見えた影。紛れもなく、あの時会った竜だった。

 しかし、首と脚には太い首輪が嵌められて、目は虚ろ、白い鱗も所々剥げ欠けている。呼吸のたびに苦しそうな唸り声が聞こえるし、記憶の中の彼とは大きく違い、瀕死にすら見えるほどだ。

「そんな……っ!」

 違う。

 断じて違う。

 再会を夢見ていたことは確かだ。

 しかし、こんなボロボロの姿になった彼との再会を期待していたわけではない。

空を自由に羽ばたいて、他の幻獣を両翼に従え、気品と威厳を兼ね備えた、孤高の存在の彼に会いたかったのだ。

 この胸の拍動は、喜びから来るものではない。彼のそう遠くない未来、どんな扱いを受けるのかを思うと、膝から崩れ落ちそうなほど、辛くてたまらなくなった。

檻にかけより、隙間から手を伸ばす。しかし、竜には届かない。

 なんと言って謝ればいいのか。

 私が捕らえたわけではない。けれど、とてつもない罪悪感に襲われたのだ。


「ごめん。ごめんなさい。私が……私たちが……」

 世界の謎を解明するには、犠牲も必要なのかもしれない。

 けれど、どうしても、この竜だけには特に、犠牲になんかなって欲しくなかった。

 私のエゴだと思われてもいい。

 こんなことになるのなら、再会なんて望まなかった。

「おっ、ティナ、来たのか」  

「ルノーさん」

 そこにいたのは、先輩研究員のルノーさん。確か、彼が今回この竜を捕まえるのに大きく貢献したと聞いたが、あれは本当のことなのだろうか。

「ティナ、お前は竜が好きでこのルルイエに入職したんだろう? どうだ、本物の生きてる竜だぞ」

 ルノーさんは興奮冷めやらぬ様子だ。

「ルノーさんがこの竜を捕まえたんですか?」

「そうだ。俺だ、俺が捕まえたんだ! これで論文が書けるぞ……俺もすぐに一流研究者の仲間入りだ!」

 そう言って、高らかに笑った。

「どうやって? どうやって、捕まえたんですか?」

「……そんなの、迷い込んでやってきた竜に、強力な睡眠薬を打ち込んで眠らせたのさ。ちっと打ちすぎたみたいで、まだせん妄状態みたいだけどな」

「迷いこんだ? この研究所に? こんなに大きな、竜が?」

 信じられない。

 幻獣はただでさえ警戒心が強く、人間がいるところには近づかない。竜なんてその最たるもので、なかなか見つけられないでいるのも、ひときわ警戒心が強く身を隠すすべを心得ているからだというのが通説なのに。

「ティナ、何が言いたい?」

 眼鏡を上げようとしてはやめて、髪を触ろうとしてはやめて、そしてまた、袖をめくり上げようとしてやめて。

 明らかにルノーさんは挙動不審だった。

 キョロキョロとして視線は落ち着かず、よく見れば額にびっしり汗もかいている。

「ルノーさん、本当のことを言ってください。本当にこの竜は、ここに迷いこんできたんですか? 私には、とてもそうは――」

「ああ、そうだよ、俺が! ここで! 見つけたんだ! 何が悪いんだよっ!」

 突然ルノーさんに肩を突かれた。衝撃にふらつき、数歩後ずさりした。

「とにかく、見つけたのは俺だ! 同じ研究室のお前も、俺のおこぼれを貰ってあの竜の研究に携わる可能性だってあるんだぞ! いいのか、俺に楯突くってことは、そういう機会を失うってことだぞ!?」

「そうじゃなくて! ただ私は、どうやって――」

 ルノーさんは、一体何に怯えているのか。どの部分に、嘘を紛れ込ませているのか。

「うるさいな! お前なんか博士がいなけりゃ怖くもなんともないんだよ!」

「博士がいない? なぜ――」

「そそそれより新人っ、幻獣の世話は終わったのかよ!?」

「そ、それは……」

 そうだった、餌やりの途中だったのに、すっぽかして慌ててこちらに来てしまったのだった。言い訳のしようもない。

「すみません、これから行きます。でも、ルノーさん、それとこの竜の捕獲についてはまた別の話だし、博士は――」

「うるさい、どけっ!」

 乱暴に言い放つと、わざと肩をドンと当ててルノーさんは部屋を出ていた。


 ……確信。

 ルノーさんは、何かを隠している。

 彼が大声で出したので、その場にいた他の職員が何事かとこちらを見ていた。しかし、私が彼らに視線を向けると、気まずそうにみな各々の違ったところへ視線を泳がせた。私はそのうちの一人に声をかけた。

「あの……デンゼルさん」

 彼女も同じ研究室の研究員だ。

「博士は……ヴィルヘルム博士は今どこに?」

「わからない」

「え?」

「竜をルノーが捕らえたのが昨日で、その後私もコックス主任から連絡を貰って駆けつけたんだけど、博士とはまだ連絡がついてないの。博士、これまでにもフラッと調査に出かけることがあったから、別に何か事故に巻き込まれたとは思っていないけど……それにしてもタイミングが悪いというか、なんというか。博士がいればもっと初動もスムーズにいったと思うんだけど」

 博士は秘書を付けていない。研究や施設運営を同時にこなし、己のスケジュール管理も全てひとりでやっている。だから、彼の詳細な予定は、誰も知る者はいないのだ。

 もちろん、私も。

 取り敢えず、博士の行方を捜すにしても何をするにしても、私が担当している幻獣の世話を放り出してしまっている今の状況はまずい。そういうわけで、後ろ髪を引かれながら、私は幻獣管理棟に戻った。


 相変わらず、幻獣たちは怯えた目をしていた。

「……ごめんね」

 口をついて出たのは、なぜか謝罪の言葉だった。

 どうしてかはわからない。けれど、竜は幻獣を統べる王だ。その王を捕らえてしまったのは、紛れもない、私たち人間だ。

 彼は何も悪いことはしていないのに。

 私たち人間の知的好奇心のために、これからあの竜はゆっくりとここで死に向かい、死後、その死体は切り刻まれる運命にあるのだ。

 研究対象である幻獣に、こんなに感傷に浸っていては研究員失格だろう。けれど、これまでずっと、心の拠り所にしていた竜の運命を知って、動揺せずにはいられなかった。

 餌やり、掃除、健康観察を手早く終え、私は急いで研究室に戻った。

「おはようございます、幻獣の朝の世話、終わりまし――」

 皆が一斉に振り返る。ルノーさんもそこにいて、そして、みんなの顔が硬い。

「……どうしたんですか? 何かありました?」

 当然ながら、竜を捕らえたこと以外に、という意味だ。

「ティナ、正直に答えてくれ」

「はい……?」

「この週末、研究所に来たか?」

「いいえ、来ていません。家でゆっくりしていましたけど。何かあったんですか?」

 コックス室長が、デンゼルさんやルノーさんと目を合わせている。

「ティナ、君もうちの研究室で開発している新薬エリクサーのことは知っているよな?」

「もちろん。ちょうど今、ヴィルヘルム博士に論文の査読をお願いしているって」

「そうだ。一応、薬としての形は出来上がったが、まだ実際に使用する段階にはいたっていない。副作用などいくつかの問題がクリアできていないからな。それに関しては博士からも同じ意見をいただいていたところなんだが」

「はい」

 コックス室長は、言葉を選ぶように、一文一文の間のとりながらゆっくり私に伝える。

「その薬が、週末、盗まれたんだ」

「……え!? 盗まれた!?」

 私は耳を疑った。

「施錠した研究室内の、施錠できる保管庫の中で保管していたんだが、鍵をこじ開けられていた。確認したところ、エリクサーの数が減っているんだ」

「じゃ、じゃあ、外部の人間が侵入したということですか?」

「いや……」

 どうも室長の歯切れが悪い。

「研究室自体も施錠していたけど、そちらの鍵は壊されていない。壊されていたのは、保管庫の鍵だけなのよ」

 デンゼルさんが見かねて言った。

「まさか……身内の犯行、ということですか?」

 他の研究室の誰かが盗んだ?

 一体誰がそんな真似を?

 しかし、デンゼルさんに目をそらされてしまった。

「研究室の鍵は、この研究室所属の研究員は全員持っている。だが、保管庫の鍵は、この中で一人だけ持っていない者がいる」

 私は彼らが、何を言いたいのか悟った。

 膝がガクガク震えだした。

 まさか。どうして。

 せっかく良好な関係になれたと思っていたのに。


「まさか、私を疑っている、ということですか?」

 確かに、コックス研究室のメンバーの中で、保管庫の鍵を持っていないのは私だけだった。

「ティナ、正直に言ってくれ。エリクサーは、俺たちが長い年月をかけて開発してきたものなんだ」

「コックス室長、待って下さい、私は盗んだりしていません! 週末は本当に自宅にいたし、盗もうなんていう気も一度もないし、そもそも、盗んだところで私に何もメリットはないはずです!」

「新薬開発なんか、それこそ早い者勝ちの世界だ。完成間近のあの薬を他の研究所に売れば、大金を手にすることだって出来るだろう」

「私はお金を手にすることより、研究がしたくてこの研究所に入ったんです!」

 私は必死に訴えた。しかし、彼らの冷たい目は変わらない。

「そんな建前、誰にだって言える」

「……なぜ? なぜ信じてくれないんですか? 私はこれまで誠実に仕事をしてきたつもりですし、本当に、盗もうなんて思ったことすらありません!」

「ティナ、君はバロウズ家の養子だそうだね」

「そ、そうですけど、……それに一体何の関係が――」

「君が入ってくる数日前、密告があったんだ」

「……密告?」

「ティナ・バロウズには気をつけろ、と。ティナ・バロウズはバロウズ家の長女だが、実際には養子である、と。手グセが悪く、これまでは家の力で問題をもみ消してきたが、そうもいかなくなってきたので、両親は養子縁組解消を考えている、と。本人もそれに気づいて、だったらその前に金を稼いでおこうと目論んでいる。研究所への入職を希望しているのも、純粋な研究に対する意欲があったからではなく、他人の研究成果を盗むため。だから気をつけたほうがいい、と」

「うそ……嘘よ、そんなの出鱈目よ!」

「俺たちも最初は出鱈目かと思った。しかし、話を聞けば聞くほど、お前の身内の者でないと知り得ないような情報が飛び出してきて……。実際、お前がバロウズの養子だというのも、知る者は身内でもごくわずかなんだろう?」

「そ、それはそうですけど……!」

 そんな密告があったのなら、入職早々に酷いいじめを受けたのも、やたら研究内容を隠されたのも納得できる。

 結局のところ博士が何かしらの注意をしてくださったことで、私に対する扱いがその他の新入研究員と同じ扱いになったのだけど。

「コックス室長、それで、半年以上の私の勤務態度を見て、どう思われたんですか? 誰からのものともしれない密告を信じて、真面目に過ごしてきた私をお疑いになるんですか?」

「新入り」ではなく名前で呼んでくれるようになった。

 管理を任される幻獣の数が増えた。

 共同研究も蚊帳の外ではなく、私も仲間に加えてくれた。

 あれらすべて、私を信頼してくれたからこその変化ではなかったのか。

「それは――」


「……見ました」

 ルノーさんが口を挟んだ。

「ティナが研究室に入っていくのを見ました。昨夜、偶然にも研究所に迷い込んだ竜を見つけて麻酔銃で眠らせたあと、白衣が汚れてしまったので研究室に替えの白衣を取りに戻ろうとしたんですが……その時に、ティナがひとり研究室に入っていくのを見たんです。本人が正直に告白してくれるのを期待して、今まで黙っていたんですが……」

「え? わ、わたしが?」

 そんなはずはない。

 本当に、私は昨日、自宅で過ごしていたのだから。

「そうだ、お前だ」

「誰かと見間違えたのではないですか? 私は絶対に、昨日ここにきてはいません!」

「じゃあ、それを証明できるのか?」

「それは……」

 昨日はずっと一人で過ごしていた。これまではミミと会うことも多かったが、最近はデートでもしているのだろう、顔を合わせたりお茶をする回数も減っていた。昨日もそう、会っていないから、誰も私の不在証明をしてくれる人はいないのだ。

「鍵を開けて入る時、薄暗い中で周囲をキョロキョロと確かめるように警戒していて……その時俺はお前の顔を見たんだ」

「なっ! ち、違う! コックス室長、私じゃあありません!」

 必死に言っても、この場に味方は現れなかった。彼は力なく頭を振る。

「ティナ……一度は信じようとしたんだが。君には失望した。もう今日はいい、家にでも帰ってくれ。室長権限で無期限の謹慎処分とする。また博士と相談して、君の処遇を検討する」

「だから、私はっ――」

「見苦しいぞ、新入り」

 私は知っている。

 私は昨夜、誓って研究所に来ていない。

 だからつまり、ルノーさんは嘘をついているのだ。

 ルノーさんが竜を捕まえたという話だって、竜がいきなり研究所に現れるなんて信じがたいし、あの態度。何よりとっても疑わしい。

「……失礼します」

 しかし、今の状況で、彼らが私の話をまじめに聞いてくれるとは思えない。

 やむなく私は研究室を飛び出した。

 確かに、直属の上司であるコックス室長には謹慎を言い渡されたが、大人しく家に引きこもっているつもりはない。私の処遇の最終決定権を持っている博士がいないのは、ある意味好都合だ。こうなったら、無断だろうがなんだろうが、研究所内で聞き込みをしてやる。ルノーさんが何を隠しているのか、あの竜はどうしてここに来たのか、暴いてやる。

 そのためには、誰か。私の話を聞いてくれる、誰か――。

「ごっ、ごめんなさい!」

「……ティナ?」

 周りが見えなくなっていた私は、廊下の曲がり角を曲がった時、前方不注意で何か――誰か――に思い切りぶつかってしまった。

 とっさに謝罪を述べたが、相手は私を知っていた。

「ミミ!」

 医務室勤務のミミだった。

 それと同時に、彼女の顔を見た途端、彼女が情報通だったことを思い出す。

「ミミ、ちょっと話があるの!」

「……話?」

「そう、聞きたいこと!」

 有無を言わさず、私は彼女を引っ張っていった。手頃な部屋は見つからなかったが、給湯室ならあった。そこに無理やりミミを押し込む。

「どうしたのよ、ティナったら慌てて」

「あのねミミ、昨日、私の研究室所属のルノーさんが竜を捕らえたらしいんだけど、知ってる?」

「ええ、もちろん。話題にならないわけがないわ」

「じゃあついでに、博士の姿が見当たらないんだけど、どこに行く予定だったとか、ミミは知らない?」

「はあ?」

 ミミは笑った。

「恋人のあなたを差し置いて、ヴィルヘルム博士の予定を私が知ってるわけないじゃないの」

「ほら、医務室にはいろんな人がくるでしょう? 噂でもなんでもいいから、どこかに行く予定だったとか、真偽は問わないから、とにかく聞いてない?」

「だから知らないってば。それより、どうしてそんなに焦ってるの?」

「あのね、私の研究室から、開発中の新薬が盗まれたみたいで。それで今、どうしてか私が疑われてしまって。もちろん盗むなんて真似、私はしてない」

 ミミは眉間にしわを寄せる。

「……それと博士にどう関係があるのよ」

「竜を捕らえたのはルノーさん。昨夜研究室に忍び込む私を見たって嘘ついたのも、ルノーさん。だから、彼が何かを隠しているのは確実。博士は……正直あまり関係がないのかもしれないけれど……」

「いいじゃない、あなたずっと竜の研究に携わりたいって言ってたでしょう? たとえ盗みが濡れ衣だったとしても、テキトーに謝って頭下げて、ちゃっかり研究の手伝いでもさせて貰えばいいじゃないの」

「確かに、竜研究には憧れがある。でも、生きてる竜に苦痛を与えてまで、研究をしたかったわけじゃない」

「だったら、研究者には向いていないんじゃない? 大人しくここを去ればいいのよ」

「それは出来ない」

 ミミは簡単に言ってのけるが、私にはとても難しいのだ。

 乱れた息を落ち着けるように数回深呼吸を繰り返してから、私はミミの目を見て言う。

「……あの竜、前に会ったことがあるの」

「……はあ?」

「信じてもらえないかもしれないけど……幼い頃、森の中で生きた竜に会ったことがあるの。あの竜にもう一度会いたいと思って、私は研究者の道を選んだ」

「だったら、再会出来てよかったじゃない。何を悲しむ必要があるの?」

「でも、こんな再会は望んでいない!」

 ミミが面倒くさそうにため息をついた。

「ワガママね」

「実験動物は、新薬開発のために使われる子たちなんか特に、最後は殺されてしまう。けど、それまでは最適な飼育環境で過ごすことが許される。私が担当している幻獣だって、徹底してバランスの良い食事と清潔で快適な環境を与えてる。でも、あの捕らえられた竜は、全然違う。すでにボロボロ、いきなり瀕死じゃない!」

「博士なら、絶対に今の状況を許さないと思う。竜研究を担ってきたからこそ、私のこの思いは分かってもらえると思う。だから、博士を――」

 プッと吹き出したのは、ミミ。

「ティナ、あなたって本当に、ばかね」

「……ミミ?」

「あなた、博士のこと何も知らないのね」

「それ、どういう――」

 どういう意味?

「私は教えないわよ。自分で調べなさいよね。……もういい? いい加減、仕事に戻らなくちゃ」

 ミミの意味深な言葉に途方に暮れてしまった私は、どれくらいの間、そこで一人立ち尽くしていたのだろうか。

 何も知らない?

 彼の論文はすべて読んでる。

 でも、年齢も、誕生日も、血液型も好きな食べ物も知らない。

 確かにそうだ、何も知らない。



 私は研究棟最上階にある、所長室を訪れた。

 ノックをするも、当然ながら返事がない。なんとなくドアノブに手をかけた。もちろん期待していたわけではなかったが、回った。開いた。扉が、開いたのだ。

「博士、失礼します……」

 誰もいないことを確認してから、私は所長室へ入った。

 大きなソファとコーヒーテーブル、その奥に博士の執務机。壁面には本がびっしり。博士のことを調べに来たが、何から手をつけていいのか、迷ってしまう。

 そんな時、ふと思い出したのは、ルルイエ幻獣研究所史のことだった。

 以前ミミに博士の年齢を訊ねた際、ルルイエ幻獣研究所創設以来のフロイデンベルク家の当主やその功績について、まとめられた書籍があると言っていたような気がする。あれは確か、地下書庫の奥に保存されているという話だったが……。

地下書庫の奥といえばたしか、鍵が設けられていて、その鍵は唯一ヴィル博士だけが保管していたはず。

「あれを探そう」

 とりあえずの目標は、その本だ。その前に、地下書庫への鍵。

 長いソファを迂回して、博士の執務机の前に立つ。再度周囲を確認してから、一番上の引き出しをそっと引っ張った。

 ……これでは確実に泥棒だ。コックス室長たちに盗みを疑われても無理はないな、と自嘲しながら、なおも私は引き出しを漁った。

 一段目、なし。

 二段目、なし。

 三段目、なし。

 すべての引き出しを確認したが、なかった。

 一体博士は、鍵をどこに隠したのか……と何とは無しに机の上を見ると、ペン立ての横に置かれている古ぼけた鍵が目に入った。

「……これか」

 深読みした私がばかだったかもしれない。堂々とそこに置いてあった。

 私はそれを持ち、いそいそと博士の部屋を後にした。

 地下書庫は、研究棟ではなく博物館棟の地下に位置する。研究所敷地内にあり、万一実験の失敗などで建物が大きく破損するような事態が起こっても、被害が最小限で抑えられる場所。そんなところに作られている。

 幸か不幸か、昨日つかまった竜のことで、研究所内全体が慌ただしい。だから、私のような新人が普段は行かないようなところを歩いていたとしても、気にとめる者はいなかった。


 地下書庫自体は、鍵がなくとも入ることは可能だ。だが、私が見たいのは、その奥の奥にある、博士しか入ることを許されない、博士の個人的な秘密の場所。

 スイッチ式で一応灯りは付くようになっているが、老朽化が激しいため、小さい文字を読むほどの明るさとは言い難い。入り口付近に置いてあったランプを一つ手に取って、私は暗い階段をゆっくりと下った。

 最新の書籍などは地上階の書庫に置いてあるため、地下書庫には需要の少ない書籍ばかりが追いやられるように置いてある。幻獣が出てくる寓話だとか、蛮族に伝わる幻獣に関するしきたりとか、どちらかというと科学的ではない、民俗学的な本が並ぶ。

 それにしたってこの量を集めるのは、並大抵の熱量では出来なかったことだろう。ちょっとでも「竜」だとかの話が出てくる本は、すべてここに集められていると言っても過言ではない。

 そしてそれだけ、博士の一族は幻獣、とりわけ竜に対する興味を抱いていたということなのだろう。

 そうこうしているうちに、私は地下書庫の最深部、鍵の掛かった扉の前にたどり着いた。

 もしかしたら、博士の部屋で見つけた鍵は、ここの鍵ではなかったかもしれない。そうならば、また別の方法・別の場所で博士に関する手がかりを探すことになるだろう。


 左手に持ったランプで、鍵穴を照らし、私は願うような気持ちでところどころ錆びのついた真鍮の鍵を差し込み、そして、回した。

 カチャン。

 合っていた。この部屋の鍵だった。

 油を注したり、金具の交換をしたり、メンテナンスを長年の間怠ってきたのだろう、扉を押すと蝶番がキイイと不快な音を立てた。

 壁の付近を探ってみたが、灯りのスイッチらしきものは見つからない。ここから先は、ランプの明かりだけが頼りだ。

 博士しか入ることを許されない空間も、変わらず本で満たされていた。

 むしろ、空間としては大した広さもなく、私が両手を広げたくらいの幅の本棚が両側の壁に沿って計六つほど置いてある程度。部屋の真ん中には机が一つ置いてあり、そこにも数冊の本が無造作に積んである。部屋の容積としては小さいが、無理やりぎゅうぎゅうに本棚に詰めてあるようす。

 ためしに一冊取ってみたが、重ねられた本が崩れ、数冊がバサバサと落ちてしまった。途端に舞い上がる埃と、つられて飛び出る荒い咳。

 もしもこれらが歴史的・学術的に価値の高い本だったとしたら、今の衝撃でいくらか痛み、価値が落ちてしまったかもしれない。ランプを机の上に置いて、両手で一冊一冊拾いあげながら、破れや折れが発生していないか、ざっと確認してから本棚に戻した。


「博士……もう少し、丁寧に片付けておいてくださいよ……」

 愚痴がこぼれるのも無理はないだろう。

 気を取り直して反対側の本棚にも、ランプの光を当てた。

 こちらは、よく見たらどこかが発行した書籍ではなく、研究日誌のようだった。

 背表紙にはいつからいつまでの記録なのかが記してあり、それはここ、ルルイエ幻獣研究所設立の年のものからずっと途切れず置いてあった。

 一つ、私は手を伸ばす。今から十九年前のもの。竜を捕らえた年のものだ。

 緊張に震える指を抑えつけ、私はページを捲った。



<六五八年 四月一日>

 一頭の成体の竜に接触。赤褐色の鱗、全長約十五メートル。六の質問を試行、四つの回答を得る。

一 名前 …グライシス

二 出身地 …東の孤島

三 年齢 …一〇〇〇超、詳細不詳

四 番の有無 …有り

五 番の名前 …未回答

六 子の有無 …未回答


<六五八年 四月六日>

 当研究所職員が、竜「グライシス」に接触、麻酔銃(エトルプヒネ五〇ミリグラム)使用により捕獲。緊急措置として、第三実験室に保護。

 搬送時意識なし、のち四時間後、清明。食事及び飲み物与えるが、手を付けず。

数カ所鱗の負傷あるものの、健康状態は良好。



 竜を捕らえた当時のことについて、いくつもの論文や書籍が世に出回っている。私も読んだことがあるが、博士の研究日誌には、公にされなかったことが、いくつも書かれていた。冒頭の竜の名前にしても、そもそも言葉による問答をしたなど、どの書籍でも見たことがなかった。

 博士も竜と会話をしたことがあるんだ。だから、私が話した昔話を、疑うことなく聞いてくれたんだ。

 淡々と書かれたそれを、私は食い入るように目で追った。

 ……しかし、発見から数ヶ月で、少しずつ書かれる内容が変わっていった。



<六五八年 六月十一日>

 グライシスの野生復帰について、賛同が得られず。研究所内施設では健康状態を保ちながらの飼育が不可能であることを分かっていながら、死亡まで管理し、死後は死体を解剖に回すべきとの意見多数。

 健康状態は不良、低栄養状態。研究者としての道を選ぶべきか、同胞を守るべきか。



 あの竜は、死後、研究対象として切り刻まれ、たくさんの論文の糧となった。そして骨は骨格標本として、今も博物館に飾られている。

 博士もあの竜をもとに、たくさんの論文を書き発表した。けれど、この日誌から、苦悩している様が伝わってくる。博士は、あの竜を野生に戻そうとしていた? 研究は、望んでいたことではなかったということ? そもそも、「同胞」とは……?



<六五七年 六月二七日>

 午前三時二二分、グライシス死亡。

 最期まで「番に会いたい」と訴えるも、叶えること能わず。どれだけ寂しかったことだろう。

午前八時から解剖が開始、第一執刀を志願。夏が近く腐敗が進行する前に作業を終えるため、夜通し行ったところ、翌々日の正午に作業終了。

私はなんのために竜の研究をしているのだろうか。



 博士は、博士の家系は竜の研究に特化していた。それは「竜」という、未知の幻獣に対する興味関心によるものだと思っていた。

 しかし、現実は違っていたのかもしれない。もしくは、研究を進めるごとに、何らかの迷いが生じていったのか――

 ぎゅうぎゅうに詰められ、絶妙なバランスを保っていた本棚が、私が一冊引き抜いたことで均衡を崩してしまったのだろう、またしても数冊が雪崩のように落ちてきた。今度はさっきよりも酷く、小さい山ができてしまった。


「あちゃ〜……」

 すぐに本を拾わねば、と目を落とした時だった。

「あれ、この写真、博士だ」

 偶然開かれたページに、博士の写真が載っていた。おそらく、これがルルイエ幻獣研究所史なのだろう。そして、創設者一族について書かれた頁が偶然にも開かれたのだろう。

 すでに色あせてセピア色と化していたが、長くまっすぐな髪、きりっと上がった眉、綺麗な二重の瞳に、筋の通った鼻……今の博士そのものだった。

「博士ったら、写真に撮られるのは嫌いって言ってたくせに、ちゃっかり――」

 写真のすぐ下には、名前と生没年が書かれていた。

 名前は「ヴァイオス・フロイデンベルク」、生没年は「五八八年〜六五一年」とある。つまり、これは博士ではない。博士の……お父さん?

 そもそも、これが当代の所長であるヴィル博士だったとしたなら、これほどまでに色褪せるというのは考えられない。


 私は前のページをめくった。数枚に渡って発表した論文や簡単に生涯について書かれたあと、再び顔写真が載っていた。

 名前は「フォルカー・フロイデンベルク」となっているが、やはり博士と瓜二つ。その前も、前の前も現当主のヴィル博士と同一人物ではないかというくらい、そっくりの顔貌の写真あるいは肖像画が載っていた。

「す、すごい……服を変えただけの同一人物みたい……」

 はっとして、私はもっと昔の研究日誌を引っ張り出した。五十年前、百年前、そして二百年前のもの。全て同じ筆跡だった。文頭の「M」や「N」の字がとりわけ大きいのも、「V」の字が鋭く丸みがないのも、最後の「r」をやたら伸ばして書くのも、全てに共通する癖だ。

 パズルのピースが嵌まるように。

 割れたガラスが、再び一枚のガラスに戻るように。

 頭の中で、いろんな言葉・いろんな出来事が蘇った。

 アルコールもレーズンもチョコレートも、食べられないと言ったこと。

 やたらと竜の生態に詳しかったこと。番の話も擬態の話も、論文では見かけたことなどなかったけれど、自分のことなのであれば、知っていて当然だ。

 実は自分は竜なのだと言ったこと。その後すぐに「冗談だ」と言ったけれど、あれはきっと、冗談なんかじゃなかったのだ。

 博士は、あの時、子供の頃、私が会った竜だったんだ。

 この研究所史での歴代の所長の顔が同じなのも、研究日誌の筆跡が同じなのも、博士の正体が不老不死と言われている竜ならば全て辻褄が合う。

 そして、今、第三実験室に捕らえられているのは、博士だ!



 研究所に竜が現れた、とルノーさんは言っていた。

 違う。

 正確には、研究所内のどこかに博士を呼び出して、開発中の新薬「エリクサー」を使ったのだ。それで、所長は擬態を強制的に解除させられ、竜の姿に戻ってしまった。

そして、麻酔を打たれ、あの暗く湿っぽい第三実験室に捕らえられてしまったのだ。

「た、助けなきゃ!」

 鳥肌が立った。

 足が震えた。

 でも、決意だけは固かった。

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